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黒猫貴品店第三話【運命眼鏡】

 私は冷めた夕食を並べたテーブルの前で、ジッと息を殺すように浅い呼吸を何度も繰り返していた。高鳴る胸を懸命に抑えつつ、彼の帰りを待つ。

 彼の帰りは遅い。

 いつの頃からか帰りが遅くなった。

 以前はその理由を聞いていたが、ここ最近はすっかり聞かなくなったせいか、どうして帰りが遅いのかその理由はわからない。

 別にどんな理由だろうと、帰りが遅かろうと普段だったら構わない。

 でも、今日は違う。

 こんなにも直樹の帰りを待ち望んだのなんていつぶりだろう?

 ぼんやりとした記憶の中で、この家がまだ自分たちの匂いでなかった二年前のことを思い出した。片隅にしまわれていたカビの生えた記憶は瞬く間に視界から消えていく。 

「ただいま……」

 直樹の声。

「おかえり!」

 私は声が震えそうになるのをこらえながら、もう一度深呼吸をした。

 部屋に直樹が入って来る。

 私はまっすぐに彼の指と私の指の間に目を向けた。

「……!」

 ない……。

 赤い糸はない。

 私のかけた眼鏡を通して視えるその赤い糸は、二人を繋ぐことなく別のところに向かっていっている。

「あ、ゴメン、夕食は外で食べてきちゃったんだ……」

「……うん」

 不思議と私の心に悲しみや戸惑いはなかった。

 そう、これは私の予想通り……。

「ごめん、ちょっと出て来る」

 私は帰ってきた直樹を置いて、家を飛び出した。直樹の声は追ってこなかった。

 いや、もう聞こえていなかったのかもしれない。

 赤い糸、赤い糸!

 私はどうしても確認しておかなくてはいけない。

 私の赤い糸の行き先は誰なのか?

 私と赤い糸で結ばれている可能性があるのは……!

 私がエレベーターで一階まで下りて、マンションの外に出ると、向かいの棟に帰る彼の後ろ姿を見つけた。

 川城雄大。

 私の親友、紀子の旦那。

 私は遠く離れたところから、彼の指を見た。

 赤い糸。

 彼の指にも赤い糸が結ばれている。

 その糸の先は……?

「やっぱり……」

 そう、彼の糸の先は私。彼の小指と私の小指は赤い糸で結ばれていたのだ。


   ☆ 


 テレビの朝番組が芸能人のどうでもいい不倫騒動をいかにも重大事件でも起きたかのようなに取り上げている。

 直樹はすでにネクタイを締め、コーヒーを片手に新聞に視線を落としていた。

 私が焼いた目玉焼きに目も向けないで、毎日毎日そんなに面白い記事でもあるの?

 私は彼の向かい腰かけ、自分用に淹れたコーヒーに口をつける。

 苦い。濃く入れ過ぎた……。 

 テレビでは芸能ニュースが終わると、それまでの雰囲気が嘘のように明るい調子で今日の天気を伝えてはじめた。

 今日は暑くなるんだ……。

 天気予報の晴れマークと表示された気温にげんなりしていると、いつ新聞の魅力から解放されたのか、直樹は新聞を脇において、湯気の上らなくなったトーストにマーガリンをザリザリと厚く塗ると、特に味わう様子もなくサクリとかじる。

 食事というよりまるで作業。

 パンとコーヒーが喉を通る音と天気予報。

 無言の朝食。

 もしかして、目の前に私がいることに気が付いていないんじゃない?

 わざわざ起きて、パンを焼いて、コーヒーを淹れてやったっていうのに、気づいていない? そんなのある?

 ハイテンションなCMが唯一の救い。テレビの音がなかったら息が詰まる。

 直樹はトーストを食べ終わると一言「いってくる」と言って席を立つ。一日の貴重な会話の機会がこれで終わった。

 私はため息をついて残された目玉焼きにフォークを突き立てる。薄い白い膜が裂かれ、割れ目からドロリとした半熟の黄身が溢れると白身を濡らした。

 上田梨恵。それが私の名前。

 二年前、上田直樹と結婚をして、今年で二十七歳になる。

 私は直樹がテーブルに残していった食器を置き去りにしてそのままにして席を立ち、視線を遮るようにかけられたレースのカーテンの隙間から外を見た。窓から見下ろした駅に続くその道にすでに直樹の姿はない。

 私は過ちを犯した。

 失敗をしたんだ。

 いつの時からかポッカリと胸に空いた空洞が、身体中のすべての気力を飲み込んでいってしまう。直樹はもうこの空洞を埋めてはくれない。

直樹と出逢ったのは高校生の頃。

 クラスが一緒で彼が男子バスケ部で、私がバレー部。同じ体育館で練習するから話をする機会も多かった。

 恋人になったのは、たまたま同じ大学に進学した二年生になってからのこと。

 もっとも私にはその時に別の恋人がいた。

 そのもう一人が川城雄大。

 大学で知り合って、私の方からすぐに声をかけた。

 雄大のことは、正直言って見た目が好み。私の一目惚れに近い。

 付き合ってみると気配りができて、優しくて、浮気なんかもしない、とにかくまじめな奴。話なんか少し退屈な時もあったけど、雄大が私にとっての本命だった。

 直樹には言い寄られたから仕方なく適当に付き合っていたけど、こっちとは完全に遊び。

 直樹は一緒にいて楽しい奴。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 一回のりでキスしてやったら、それから恋人気どりで余計に暑苦しく付きまとうようになった。

 あの頃の直樹は「頭おかしいんじゃない?」って、いうくらい私に熱を上げていたし、私のためにという理由だけで何でもしてくれた。

 雄大がダメな時の時間潰し担当の相手だ。

 本当によくやるなと思ったけど、いくら直樹が頑張っても、逆立ちしても、雄大がいたら直樹が私の中で一番になることはない。

 大学で親しくなった紀子が「そういうことはやめた方がいい」とか言っていたけど、私は便利な直樹を切ることができなかった。

 とはいえ、私だってある程度のところで直樹と縁を切って、雄大だけにしようって思っていた。

 私と雄大はうまくやっていし、雄大と直樹は二人で男同士の友情を育んでいた。

 まあ、もし、バレたとしてもいくらでも言い訳なんかつくることができる。

 直樹に強引に誘われた、とか言って、涙の一つも零せばいいのだから。

 でも、ある時、私と雄大は些細なことでケンカをしたんだ。

 本当に大したことのない理由だった。

 原因は紀子だ。雄大が紀子と楽しそうに話しをしているのを見て、イライラして私の方から突っかかった。

 二人が何もないことは知っていた。紀子は人の男に手を出すような女じゃないし、何よりそんな魅力もない女だ。

 その時のケンカは激しかった。付き合ってあんなに言い合いになったのは初めて。特別悪くもないのに、彼は私に謝ったけど、私は許さなかった。

 私は腹の虫が納まらなくって、思い知らせてやるために、彼と距離をおくことにした。

もちろん、戻ることが前提で。

 私という存在がいなくなったことを彼はどう思う?

 私は雄大と距離をおいて、直樹と一緒に遊び歩きながら心を弾ませていた。

 大切なものだってなくならないと、それが本当に大切なものだって理解できないでしょう? こうして会っていない間に、きっと彼の中で私はそれまで以上に重要な存在になっているはずだから。

 でも、この一件が二人の関係を変えてしまうことに私は気づいていなかった。

 私は窓辺に立ち、視線を降ろす。ここからなら、向かいの棟の外廊下が見える。こちらから見下ろす形でそのドアは見えた。

 ドアが開くと、スーツ姿の男性が姿を現した。それに遅れて出て来るのは男を見送る女の姿。

 川城雄大。そして、彼を見送るのは私の親友の紀子だ。今は川城を名乗っている。

 私と雄大がケンカをする前から、私との関係を紀子に相談していたらしい。私との距離が出来てから二人は急接近したと聞いた。

 当時の私は二人の関係に全く気が付かなかった。紀子に雄大を盗られたということを。

 私が気がついた時にはすでにあとの祭り。二人の間に付け入る隙は微塵もなかった。

 その事実を知った私は自分の部屋で狂ったように一人喚き散らし、関係のない直樹にも当たり散らした。

 雄大は私のもののはずだったのに! 

 誰かのものになるなんてことあるはずがないのに!

 しかし、私のそんな想いとは裏腹に、大学を卒業しても二人の交際は順調につづき、そして結婚。

 私は憔悴した。

 手首を切って血を垂れ流して死に向かうような、いつでも止めることのできる希望のあるようなものじゃない。ギロチンで一度に首を落されたような絶望的な気分がした。

 皮肉なことに私と直樹との関係はそれ以降も続き、彼からプロポーズされ今に至る。

 自分でも理解していた。

 もうどうでもいいという感情が背中を押していたことを。

 そんな感情が直樹でいいという理由をいくつも作り上げた。

 直樹は私に夢中だし、私に尽くしてくれる。雄大ではない、ということだけが問題だが、別に悪い選択じゃない。

 しかし、結婚して間もなく直樹の私への熱は冷めていった。

 今は夫婦という肩書だけがある同居人に過ぎない。

 私は過ちを犯した。

 直樹との結婚。

 それが私の過ちだ。

 会話もなく、休日に一緒にでかけることもない。私に触れることもなく、その指はスマホの画面を撫で、目は画面の向こうの誰かに向けられている。一人買い物袋を抱えて歩く私の視界の隅で、雄大が紀子の荷物を手から受け取っているのを見かけるたびに、胸が締め付けられる。

 私の隣に直樹はいない。

 たぶん私が今死んだとしても、直樹は涙の一つも流さないだろう。

 それが今の二人の関係だ。

「……」

 窓から差し込む光が強くなった。

 今日はよく晴れている。

 こんな日はどこかに出かけないと損だ。

 私は部屋の床の見えている部分を渡り歩き、朝食が置き去りのテーブルを横切り、自分の部屋へと足を向ける。

 少しばかり溜まった洗濯物の横を通り過ぎ、外に出る準備を整える。

 この家は息が詰まる。

 まとまらないゴミも、積み重なった食器も洗濯物も片づける気を失させる。

 これを片づけるには気分転換が必要だ。

 どこに行くとか、目的とかは別にない。私は適当に駅に向かって歩きだす。

 ちょうど最寄りの駅から大学に向かう大学生の波に逆らうように私は駅前通りを抜けようとした。

 今日は少し違うところを通ってみようか? 

 ふとそんなことを想い、いつもは入ったことのない通りに私は足を向ける。

 かと言って、何があるわけでもない。街並みなどどこに行っても似たようなものだ。

 個人経営の昔ながらの喫茶店や自家焙煎のコーヒー豆の専門店、こじんまりとした画廊、本が詰まれて壁のようになった薄暗い古書店、老舗っぽい和菓子屋。

 あれほど表の通りは大学生やら人で溢れていたのに、こちらの通りは人もまばら。

 和菓子屋では、黒髪に黒いドレスを着たゴスロリのなりそこないみたいな小柄な女がガラスケースの前で、うんうん言いながら何やら悩んでいる。

「肉球最中のぉ……くろにゃんこ……ううん、やっぱり、とらにゃんこにしようかな」

 なんかその格好で最中とか合わなくない?

 そんなことを想いながら私が目を上げると、和菓子屋の隣の店の黒い鉄製の看板が目に入った。

 鉄製の厚いプレートに、文字が型抜きされ「黒猫貴品店」と書かれている。最後の文字の「店」の後ろで猫が腰かけているシルエットがなんか可愛い。そこは和菓子屋のとなりにあるにはあまりも不釣り合いな、雰囲気のある洋風のアンティークショップに見えた。

 アンティークなんかに興味はないけど、この店の雰囲気はなぜか惹かれる。

 ちょっと入ってみようかな……。まあ、買う気はないんだけど……

 私がドアを開けると、ドアにつけられていた三日月の中に猫が隠れるデザインをしたドアベルがカランと鳴った。その途端、私は別世界に入ったような気がした。

 甘いムスクのような香りがフワリと私の鼻腔に飛び込み、スルリと肩の力が抜けて、頭の奥が痺れていく。

 なんだろう、なんの香り? ムスクみたいな?

 店内はランプのような暖色系の柔らかな光が包みこみ、見たこともない商品を少し幻想的に浮かび上がらせている。

 ルビー色の煌びやかな炎を宿すランタン。アラビアンナイトに出て来る空飛ぶ絨毯を思わせ織物。不思議の国のウサギが懐に忍ばせていそうな金の懐中時計。人魚の絵が描かれた少し不気味な朱色のロウソク。

 そんな如何にもな商品ばかりかと思えば、「瓶詰めの人魚」と商品札に書かれたどうみてもただの空瓶なども売られている。

 あれって、どんな人が買うんだろう?

 入口から少し奥に入ると天井まである本棚が並べられた書籍コーナー。古めかしい本から見たことのない装丁の本まで色々と揃っているが、どれも一冊ずつしか置かれていない。置かれている本のタイトルも「とっても貴重な薬草全書」「誰でもできる秘薬百科」などやはり少し妖しいものが多い。

 その左手奥には年代物の木製のカウンター。さすがアンティークショップと言ったところか、レトロなレジが置かれ、そのすぐ横で毛並のいい黒猫が「ルナティックプリンセス~穢れなき聖女と姫神子の神託~」というハードカバーの本を枕に昼寝をしていた。

 って言うか、店内で猫が堂々と昼寝しているなんて! 

「あ、お客さん?」

「えっ?」

 スピスピ鼻を鳴らしながら昼寝をする黒猫の写真をスマホで取ろうとしていると、カランと店のドアが開いた。

 見れば、外で最中を買っていたあの黒い女だった。

 漆黒の髪と瞳、黒いドレス。その黒さとは対照的な透き通るような白磁のような肌。おうして正面から見れば、女の私から見ても、間違いなく美少女だと断言できるほどの美少女だ。

 こんな子がここの店主? それともアルバイト? 

「いらっしゃいませ! どうぞ、ゆっくり見て行ってくださいね!」

「え、ええ……」

 あまりに明るい笑顔に私は呆気にとられる。このお店と彼女の雰囲気に対しての彼女の接客は何だかギャップを感じてしまう。

 彼女はパタパタ店内を小走りに走ると持っていた紙袋をカウンターの後ろにしまい、またパタパタと戻って来た。人懐っこい子猫のように私の前で両手を広げた。

「うちは色々な商品が揃っているんですよ! お姉さんにピッタリの商品も見つかるかもしれないですよ!」

「う、うん……」

 身振り手振りの大きい黒い彼女は、頼んでもいないのに商品を説明し始める。

 うわぁ、なんていうか面倒くさそうな店員だなぁ。

「この極光なんて今朝採れたてピチピチなの! 少し暗くした部屋に飾ったらロマンチックな雰囲気を楽しめるよ! ディナーの時にワイン片手に、なんて素敵かも!」

 無邪気な上に、元気いっぱい……はあ、こういうの疲れる……っていうか? 呼吸してる? 説明が途切れないんだけど?

 私は時計をしていないのをわかっていて腕時計を見る素振りをした。

 すると黒い彼女は急に何かを察したように言葉を切ると、不思議な光を放つ奇妙なインテリアグッズをコトリと棚に戻す。

 お、今がチャンス!

「あのっ……」

「そうだ、お姉さんにオススメできる商品があったのを思い出した!」

「えっ?」

「これこれ! この眼鏡なんかお姉さんにピッタリだと思う!」

 そう言って彼女は「人気商品!」とポップの書かれた棚から細い黒縁の眼鏡を私に差し出した。

「め、眼鏡……? いや、別に私、目は悪くないんだけど……」

 それともおしゃれアイテムとして? いわゆる伊達眼鏡的なもの? それにしたって趣味じゃない。

 黒い彼女に薦められたから、一先ず手にはとってみるものの、そこはやはり眼鏡は眼鏡……せめてサングラスならまだわかるけど。

 そう思いながら、私はレンズを覗き込み店の外などに目を向けてみた。

 レンズに色がつているわけじゃないし、度が入っているわけでもない。本当にただガラス越しに見ているのと変わらない……。

「……うん?」

 なにあれ?

 店の外を歩いていく通行人たち全員が赤い糸を引きずって歩いている。

 角で一人露店を出しているスーツ姿の冴えない売り子さんにも、通りを歩いていく両方とも女の子みたいに見える大学生カップルも、不愛想な顔をしたサラリーマン風の男とその男に子犬のようについていく小柄な女の小指にも赤い糸が見える。

 不思議なことに眼鏡を離すとそれは見えなくなる。

「……?」

 なにこれ?

「赤い糸……?」

 赤い糸って? 

「その眼鏡は運命眼鏡。当店の人気商品!」

「運命? じゃあ、この赤い糸って……」

 あの運命の……? 

 結婚相手と結ばれているってやつ?

 いやいや……。まさか、そんな……。

 黒い彼女は大きな瞳を輝かせて、ニッコリと笑う。

 私は、はっとして自分の左小指を見てみた。すると、やはり私の小指にも赤い糸が結ばれている。私はその糸を掴もうとしたが、見えるだけでどうしても掴むことができない。

「糸を掴むことはできないよ? 眼鏡を通して視えているだけなんだから」

「そう、見たいね……」

 触れることはできないが、手を動かせば糸もしっかり動く。

 なにこれ? 本物? 本物の赤い糸?

「もし本物なら……?」

 もし本物なら、私の運命の相手とこの糸が繋がっているってこと? もし運命の相手が本当に直樹なのだとしたら、この糸の先には直樹がいるってこと?

「……」

 私は眼鏡を握りしめた。

 確かめたい。私の運命の相手を。運命の相手が直樹なのかを確かめたい!

「この眼鏡ください!」


   ★


 私は雄大との赤い糸の繋がりを確認したあと、何食わぬ顔で家へと戻った。直樹の部屋のから零れる音を背に、一人熱の飛んだ味のない夕食を口に運ぶ。

 私は確信した。

 私達夫婦の会話が少なくなり、休日も一緒に過ごすこともなくなった原因。二人の関係が冷め、毎日がつまらなくて、退屈で、息苦しい原因。

 私が幸せじゃないのは……

 それは私が運命の相手とは違う人間と結婚をしてしまったからだ。

 私の居場所はここじゃない。

 私がいるべき場所は雄大のところだ。

 この家が息苦しいのも、幸せを感じることができないのもすべてが間違いだったから。

 こんなところにいて頑張れるはずがない。

 私はざわざわと寒気のようなものを感じて鳥肌が立っていた。

 ここにいちゃいけない。

 早く何とかしないと!

 私は直樹と結婚をしている。

 雄大は紀子と結婚をしている。

 今も雄大たちとは交流があるが、向うの二人の仲が悪いようには見えない。

 でも、雄大の運命の相手は私なんだ! 私の運命の相手が雄大であるように!

 今の状況を変えなくてはいけない。

 ほとんど手付かずのまま夕食を残し、私は箸をおいた。

 黒猫貴品店で眼鏡を買ってから三日間。

 私は焦燥感と期待に押し流されるように何も手につかない日々を送っていた。

 どうすれば、ここを捨てていくことができるのか、今はそれが大事だ。

 行く先は雄大のところ。行く場所はもう決まっている。他の所では私は幸せになることはないのだから。

 どうすればいい? 

 説得する? いっそのこと、この眼鏡を雄大に見せる? もし信じてくれなかったら?

 私が行動を起こしたとしても、雄大が受け入れてくれなければ仕方がない。

 私は直樹が会社に行くとすぐに家を出るようになっていた。

 家にジッとしていることができない。いや、この家以外であればどこにいてもいい。とにかく家を出たかった。

 この眼鏡を買ったあの店……黒猫貴品店にもう一度行ってみようか? 

 こんな妖しくて不思議なものを売っているのだから、もしかしたら他にも不思議なものを売っているかもしれない。

 例えば……惚れ薬の作り方を書いた本とか? もしくは気持ちに切り替えることができるスイッチとか? 夫婦関係を破綻させることができる呪いの……

「あそこの五差路ってね、昔から出会いがしらに人がぶつかることで知られてるの。だけど、それだけじゃなくて、恋が芽生えるとも言われてるのよ」

「恋が?」

向かいから歩いてくる少年野球チームを引き連れた女子高生二人と老人一人の一団に私は思わず道を譲る。

 ガキがガキを連れて恋バナ? そんな都市伝説みたいな話で恋が叶うわけ……

「そ。それで、実は私もあそこでぶつかっちゃって、体が入れ替わっちゃったことがあったのよっ」

「……」

 ……えっ? 

 今なんて言った?

 私は思わず振り返った。

 体が入れ替わっちゃったことがあった?

 そう言ったのは女子高生のうちの一人。

 私は足を止め、彼らの背中を見た。

 女子高生の言うことだ。どれほど信用できるかもわからない。

 けれど……。

 私は常に持ち歩くようになっていた運命眼鏡を再びかけた。

 赤い糸が見える。

 こんな不思議なものがあるんだ。もしかしたら……?

 もし、本当に体が入れ替わるのだとすれば? もし、本当に体が入れ替わるのだとしたら……!

 私は彼らのあとを追っていた。 

 池田屋の五差路はこの辺りでは見通しの悪い交差点として有名だ。道幅がまちまちで歩く場所が限られた道の狭さに視線の高さを越える塀、逆光になる道を歩いていれば、咄嗟と時に避けることはできない。複雑な道の構造が人を吸い込むように人を衝突させる魔の五差路、それがこの五差路だ。

 聞こえてくる彼らの話によれば、五差路で衝突した三人がすでに入れ替わっているとのことだった。老人は女子高生、女子高生は野球少年、そして野球少年は老人になっているという。過去に入れ替わりを経験した女子高生のみどりという子の提案で、これから再度衝突して元の身体に戻るらしい。

 三人がそれぞれの路地に立ち、一斉に走り始める。

 あと3メートル、

 2メートル、

 1メートル、

 50センチ

「……!」

 次の瞬間歓声が上がった。

 確かに入れ替わった!

 女子高生の人格と思しき心が老人の中に、老人は少年に、少年は女子高生になった。

 いや、それだけじゃない!

 衝突の瞬間にそれぞれの赤い糸にも変化があった。心が入れ替わるのと同時に赤い糸も身体から身体へ移動した。

 こんなことが起きるなんて。もし、こんなことが起きるなら……。

 体が入れ替わるだけ、心が入れ替わるだけじゃない、入れ替わった時に赤い糸もついてくる。それってつまり……

「例えば、例えばだけど……、私と紀子が入れ替われば……」

 赤い糸は……!


   ☆

 運命の相手……それはお互いが幸せになるために結ばれることを約束された関係だと思う。

 紀子はこの五差路のことを知っているのだろうか? この五差路で起きる現象を紀子は知っているだろうか?

 問題はそれだけ。

 問題が起きてしまった時の対処法を相手が知っているかどうか……たったそれだけ。

 私は紀子にメールを打ち、久しぶりに会ってランチでもしようと誘い出した。

 待ち合わせ場所は、池田屋前……。

 ここで紀子と衝突して、私は彼女と入れ替わる。私は紀子になり、紀子は私になる。

 問題は紀子がこの五差路のことを知っているかどうかだ。例え入れ替わったとしても、彼女が五差路に秘密があると知っていれば、すぐに元に戻ろうと言い出すに違いない。

 そうなれば私の計画はそこまで。

「そろそろ時間ね……」

 紀子はグズだが律儀な性格だ。時間に遅れることは余程のことがないかぎりない。

 遠目に紀子の姿が見えた。

 私は立ち上がると、五差路の陰に息を潜め、走り出すために深呼吸をした。

 

   ★


 計画は成功した。

 紀子は私に、私は紀子になった。

 どうしてこうなってしまったのか原因はわからない。おちついて元に戻る方法を二人で考えよう。

 混乱する紀子は、私の意見にうなづいた。

 私は泣きそうな顔をする元私の貌を見ながら内心でほくそ笑んだ。

 自分がハメられていることに少しも気がついていない。

 紀子はこの出来事が偶然起きたことだと思っている。相変わらずの天然っぷりで状況を受け入れていたけど、あれはちゃんと理解していないわね。

 私は紀子の家の鏡の前で自分の成果に酔いしれていた。

 身体つきとか、髪型とか、服装とか、全然好みじゃないけど……ふふ、そんなことは我慢してあげる。

 だってこれからは雄大と暮らすことができるのだから!

 私は私が一緒にいるべき本当の相手とこれから過ごすことができるのだから!

 私は拳を握りしめ、その場で小躍りした。

 今頃、本物の紀子は直樹の帰りを待っていることだろう。ふふ、まあ、別にあっちのことはもうどうでもいい。

「ただいま」

「あっ、おかえり!」

 私は帰ってきた雄大を上機嫌で出迎えた。

 私の人生はここから始まるのだから。

 出迎えた私に彼は優しく微笑んだ。

 雄大は昔と何も変わっていなかった。やっぱり直樹とは全然違う。

 優しいし、気配りができて、私の話をまじめに聞いてくれる。相変わらず雄大の話は退屈な時もあるけど、それでもかまわない。

 気になるのは私のことを紀子と呼ぶこと。当たり前だけど、この家は紀子のもので溢れている。でも、それだって時間の問題だ。少しずつ変えていってしまえばいい。

「最近、味付けを変えた?」

 それは私が紀子になって三日目のことだった。私は雄大の言葉にドキリとした。

「ええ、気になった?」

「ううん、別にそんなことないよ」

 雄大は何も言わず私の作った料理を口に運んでいる。

 何その反応。美味しくないってこと?

 昔は私が作ったのを、美味しいって言って食べてたクセに……いいわ、すぐに私の味に慣れるでしょう?

 私は紀子としての生活に満足していた。本物の紀子からは何度も「直樹さんの好きなもの教えて」とか「家ではどんな会話をしたらいい?」とか「早く元に戻れるといいね」みたいなメールが入って来たりしていたけど、私は適当にあしらって出来るだけ関わらないことにした。

 向こうは向うで入れ替わったことがばれないように必死なんだと思うけど、私としては戻る気はない。

 もう少し落ち着いたら、雄大に引っ越ししようとお願いしてみよう。

 この土地さえ離れれば、間違っても池田屋の五差路を使うことはできないのだから。


 ☆


 私が紀子になってから三カ月。

 雄大の帰りが遅くなり、私は自分の作った冷めた料理の前で待つことが多くなっていた。

 夫婦の会話も徐々に減り、休日にどこに行こうとか、会社でこんなことがあったとか、そんな話もしなくなった。

 寝室こそ同じだが、以前のような関係ではなくなっていることは明らかだった。

 今朝も用意した朝食も取らずに、雄大は出社してしまった。今日だけじゃない。ここのところこんなことが続いている。

 私は、紀子が選んだのだろう趣味の悪い皿に盛った朝食を前に、コーヒーを淹れたマグカップを両手で包み込む。

 コーヒーの温かさと冷えた手の温度が混ざり合いを急速に熱いコーヒーを冷ましていく。

 違和感。

 なにか変だ。

 何かの取返しのつかない病気がいつの間にか進行していくみたいな嫌な感じ。スポンジみたいに、小さな穴がいくつもいくつも空いてようだ。

 テレビの音がこの部屋の音のすべて。

 テンションの高いCMと目まぐるしく変わる映像が停滞しそうな私の気持ちを引っ張っていっていく。

 形は保っているけど、スカスカで中身がない。この小さな空洞がやがて一つの大きな空洞になっていくような気配に吐き気にも似た感覚にとらわれる。

 息苦しい……

 その言葉が口から出そうになって慌てて口を押えた。

「……ううん、そんなことない」

 そんなはずがない。

 だって、私は、自分の運命の相手と一緒になったのだから。赤い糸だって、私と雄大をしっかり繋いでいる。それは間違いがない。

 でも、現状は……

 いえ、もしかしたら、これは一時のもの? 雄大と一緒いるから、この程度で済んでいる? もし直樹とだったら……?

 直樹とだったら、こんな風じゃない。もっとひどかったに違いない。

 もっと私の空洞は大きくなって、取り返しがつかないことになっていたに違いない。

 私の人生がめちゃくちゃにされていたに違いない。

 最初の頃こそ、紀子からメールが来ていたが、最近は来なくなっていた。きっと、あちらは私よりもひどい状況に違いない。

 私は窓辺に立って、駅へと続く道を見下ろした。そろそろ直樹が出社するはずだ。

 どんな顔でいつも家を出ていたのか見てやろう。そんな好奇心がムクリ顔を出す。

 きっと今も無表情で、きっと今も無言でトボトボと覇気なく会社に向かうに違いない。

 そんなことを思っていると、出社する直樹らしき男性の姿が見えた。

 ふん、やっぱり……

 冴えない後ろ姿。

 間違いないあれは直樹だ。

 すると、その男性に駆け寄る女性の姿。それは私の姿をした紀子だった。

 紀子は忘れ物を直樹に届けたらしい。その場で立ち止まって何か話をしている。

 直樹は紀子に笑顔を向け、親しげに触れあう。

「……!」

 私にはあんな顔を見せたことなんてないのに! 

 胸の奥でグシャリと何かに握りつぶされたみたいだった。

 私は握りしめていたカーテンを離し、思わず外に飛び出した。

 あれは、あれは、本当に直樹?

 あれは本当に紀子?

 私は直樹が歩いていく後ろ姿をもう一度確認した。

 間違いない。間違いなく、あれは直樹だ。

 私が見たのは間違いなく、直樹と紀子だった。紀子はすでに家の中に戻ってしまっていた。私の足は上田梨恵の家に向かおうとしたが、何とか踏みとどまった。

「そんなはずない……」

 幸せそうに見えただけ。たぶんそう。特別なことなんて起きるわけがない。

 私は自分にそう言い聞かせた。

 それからというもの私は二人の姿を観察するようになった。

 一緒に外を歩き、カフェでお茶をして、二人で買い物をする……。直樹が荷物を持ち、紀子の隣を歩いている姿をよく目にするようになった。

 直樹と紀子が寄り添いながら歩いている。

 いや違う。直樹の隣を歩いている身体は元は私の身体だ。

 私は、雄大が朝家を出るたびの上機嫌に出社する直樹の姿を見るようになっていた。

 毎日、毎日が同じよう。

 紀子と直樹。

 私と雄大。

 毎日、毎日が変化もなく過ぎていく。

「……」

 こんなはずない。

 これじゃあ何も変わっていない。

 これは何かの間違いだ。

 ここが私を幸せにしてくれるんじゃないの? 直樹は紀子を私だと思っている、だったら直樹は私を幸せにできる?

 どうして紀子なの?

 私は入れ替わって初めて、私の方から紀子にメールを送った。

『もしかしたら、元に戻る方法が見つかったかもしれない。池田屋の五差路に来て……』

 返信はすぐにあった。

 私たちは予定を合わせ、再び池田屋の五差路で会うことにした。

 私はあの時と同じように五差路の一角で紀子を待った。

 私は、どうしたいの? 池田屋の五差路に呼び出したりして。

 もし、紀子と再び身体を入れ替えてしまったら、たぶん……もう二度とこんな風になることはできない。

 私は直樹のところに帰り、紀子は雄大のところに帰ることになる。

 雄大は私の運命の人……でも、今は……直樹のところに戻れば……? 

「梨恵ぇ!」

 身体とは違う名前を呼ばれ、私はハッとした。顔を上げれば、私を見つけた紀子が手を振っている。

 私も思わず手を振って応えた。

 私はまだ答えが出せないでいた。私はどうするべきなのか? 私は雄大のもとにいるべきなのか、直樹のところに帰るべきなのか?

「紀子!」

 紀子が交差点に入ったその時だった。五差路の死角から車が飛び出し、紀子の身体を飲み込んだ。

 急ブレーキの音と弾けたような耳障りな音が混じり私の身体は硬い地面に投げ出された。

「……うそ?」

 紀子は車にはねられた。

 仰向けに倒れたままピクリとも動かない。

 血がアスファルトを濡らしていく。

 赤いそれは時間とともに不気味に私の身体から這い出て来る。

「しっかりしろ!」

「大丈夫か!」

 そんな声を聞きながら、私は止まりかけた思考で必死に叫んでいた。

「救急車を呼んで! 早く!」

 私の身体が! 私の身体が死んじゃう!


   ★


「梨恵ぇ……梨恵ぇ……!」

 嗚咽。

 上田梨恵の身体は助からなかった。川城紀子は私の本当の身体とともに死んだ。

 身体にはそれほど損傷はなかったが、頭を強く打っていたことが原因となった。

 上田梨恵の葬儀の中、喪主である憔悴しきった直樹は棺桶の前で泣き崩れた。

 ……直樹。

 私が死んで、直樹が……あの直樹があんなに泣き崩れるなんて……。

 私は戻る場所を失った。

 私は本当の身体を失い、直樹のところに戻る方法も失った。

 それから数年。

 私は雄大との関係が冷めていくのを止めることができず、ただ茫然と日々を過ごしている。

 私は運命の相手と……

「にゃは!」

 ……!?

ハッとして私は気が付くとあのアンティークショップの店の中で運命眼鏡を握りしめていた。

 エアコンが聞いているはずなのに体中に汗が噴き出していた。

「あれ? この眼鏡?」

 私は手にしていた黒い眼鏡をまじまじと見つめた。「運命眼鏡」……この眼鏡を通してみれば、普段は見ることのできない赤い糸が見える……?

 私、夢でも見てた? そうだ、眼鏡をかけてみようとしていたんだ……

 ゴクリ。と喉が鳴った。

 不思議と手が震えながら、私がその眼鏡をかけようと、黒いドレスを着たこの店の店員がひょいと眼鏡を取り上げる。

「にゃは! お姉さんにはこの眼鏡は必要ないみたいね」

「……えっ?」

 ズキッ! と急に痛みを感じ、私は頭を手で押さえた。手で触れた部分に何やら古傷のようなものがある。こんなところをケガしたことなどなかったはずなのに。

 まるで、事故にでも遭わなければ……?

「……? ね、ねえ、この眼鏡って赤い糸が……?」

「この眼鏡は運命眼鏡って言うオシャレ眼鏡。かけると印象が変わって、恋愛運アップ間違いなし!」

 そう言って黒い彼女は運命を眼鏡かけてニコッと笑う。

「でも、お姉さんには似合わないみたい」

「そ、そうよね!」

 私はゾクリとして逃げ出すようにその店を出たのだった。

 しばらく歩き、私は自分の来た道を振り返った。

 運命……。


   ☆彡


 カウンターの上で昼寝をしていた黒猫はふさふっさのしっぽをゆったり揺らし、大きなエメラルドのような瞳を黒い店主に向ける。

「えっ、売らなくてよかったのかって? 大丈夫、あの人また来るわ」

 黒い店主は手にしていた眼鏡を黒猫にかけてやると、穏やか声で言った。

「だって人間は間違いを繰り返すものでしょう? それとも今回は気が付けるかしら? 幸せが運命まかせのものなのかって」

カランと店のドアベルが鳴った。

「すみません、そこにある限定商品の幸福スイッチください!」

 若いサラリーマン風の男性客に黒い店主は愛想よく「にゃは」と笑って手を打った。

「毎度あり!」


黒猫貴品店内の商品棚に並ぶ「瓶詰めの人魚」《http://ncode.syosetu.com/n3198dd/》は葵生りんさんの作品タイトルを使用させていただきました。


黒猫貴品店内で猫が枕にしていた本「ルナティックプリンセス~穢れなき聖女と姫神子の神託~」《http://ncode.syosetu.com/n7640cn/》は葵生りんさんの作品タイトルを使用させていただきました。


本作中に登場する「池田屋の五差路」はmarronさんの作品「どっしーんピヨピヨで変身したら」《http://ncode.syosetu.com/n4812dj/14/》に登場するものを使用させていただきました。

 本作中最後に登場します「幸福スイッチ」《http://ncode.syosetu.com/n1719dx/10/》はELEMENT2017春号の黒猫貴品店商品になります。


 ご協力ありがとうございました。

 未読の方は是非こちらの作品もお楽しみください。 

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