黒猫貴品店第一話【不思議なナイフ】
本作はELEMENT冬号2017・想像の翼に参加した作品です。
本作中に登場する「黒猫貴品店」は葵生りん様の「瓶詰めの人魚」に登場するお店を許可を頂き使用させていただきました。
「……」
手が震えた。
送られて来た書類の内容に愕然とした。心がギシリと軋みながら黒い底なしの沼に沈んでいく。汚泥に溺れ、濡れながらも俺の瞳は渇いたままだった。心が逃げるように家の外を走る車の音を聞いていた。
暗い部屋にデスクライト。
紙から浮かび上がる文字は無言に同じ内容を俺に伝え続ける。
「……」
俺はうなだれながら、やっとの想いで何グラムにも満たない数枚の紙を支えなければならなかった。
何度も同じ文面を目で追うが頭に入ってこない。心が理解をしてくれない。
意味のない記号の、意味のない羅列が記された意味のない書類。
そうあってくれと祈る。これが夢であってくれとただ祈る……。
☆
牧村誠二。
それが俺の名前。年齢は三十三。どこにでもいるようなごく普通の会社員さ。
社内恋愛で付き合い始めた二つ上の美奈子と二年の交際を経て五年前に結婚。きっかけは彼女の妊娠だった。
いわゆるデキちゃった結婚って奴だ。
なんてことはない、最近はそういうの多いだろ?
最初は自分でも少し抵抗があったし、周りでも色んなことを言う奴がいたけど、今ではいいきっかけになったと思っている。
その時の美奈子のお腹にいた子が、今では五歳になる愛実。美奈子に似て色白で二重、少し大人しすぎるのが気になっていたが女の子だし、こんなものかと思っていた。俺の子とは思えないくらい頭のいい子で、笑った顔が美奈子に似て可愛いんだ。
まあ、なんていうかな、俺は幸せだったんだ。
生活に不自由しない程度の仕事と収入、そして愛する妻に可愛い娘。
娘の笑った顔を見ながら、これが「幸せ」かって思ってしまうほどにな。
家族とか嫁さんとか、子どもとか、本当に不思議なもんさ。美奈子や愛実の顔を見ていると体のどこからか力が湧いてくるような感じがするんだ。自分の体なのに独身の時とはまるで別物。つまらない仕事ですら輝いて見えるよ。
俺は結婚を機に辞めたタバコを口にくわえ、百円ライターのやすりをジリジリと動かした。久しぶりの煙草の匂いは、火もつけていないのに鼻から飛び込んでスゥと脳を冷やした気がした。
ああ、でも……そんなにうまくいかないのが人生かもな、幸せっていうのは意外に脆い。絶妙なバランスで立っていたトランプタワーのみたいなもんかもな。
重大な出来事っていうのは、その出来事の大きさに比例して静かにはじまったりするものだろ?
嵐の前とか戦争の前とか、ケンカの前とか、バーゲンセールの開店前とかさ、みんな一気に行こうと息をひそめている。
始まって、大事になった時にはじめてその重大さや騒ぎを知るもんだ。
本当は騒ぎになる前からその原因はおきている。嵐が来る前に雨雲は出ているし、戦争の前には情報戦をやっている、殴り合う前に駆け引きはあるし、バーゲンの前には……ごめん、バーゲンはよくわかんないや。
ただ、俺が言いたいのはそういうこと。すでに起きていたんだ。愛実の体の中で、何かが起きていた。
「お嬢さんの病状は……」
医者の先生の声がどこか遠くで聞こえる気がした。エアコンの温度設定を間違えたのかと思うほどヒヤリとした部屋で、言われた言葉のほとんどが耳からこぼれてしまっていたよ。目の前にいるはずなのに、てんで耳に届かない。頭に入ってこないんだ。こんなに心が震えているのに。
「余命は半年……」
「……」
「半年!? まだ五歳の子ですよ! 半年って、そんなことありますか!?」
美奈子は診察室の大人げなく取り乱し、怒っているんだか泣きそうなんだかわからない震えた声で叫んでいた。
★
俺は仕事の休みのたびに色々な病院や専門家の先生をめぐり、愛実の病気を治してくれる人いないかと探し歩いた。
少しでも可能性があるなら、どんな治療法でも、どんな薬でも、どんなに金がかかっても構わない。
そう思いながら懸命に手だてを探した。
だけど、どこに行っても答えは同じ。首は横に振られるだけ。愛実が助かるという道を示してくれる人は現れない。俺と美奈子は絶望の淵に立たされた。
そんなある日、会社からの帰り道でのことだった。俺はいつものようにスマホで愛実の病気の情報を調べながら歩いていた。ふと気がつくと、俺はいつも歩かない道に立っていたんだ。
夢中になって曲がる路地を間違えたのか、それとも歩く方向を間違えたのか、とにかく見知らぬ通りにいた。
ちょうど空が気温を下げ始めるぐらいの時間帯。振り向くとポツリポツリと通りの店に明かりがついていく。そのなかの一軒の店が目に飛び込んできた。
『黒猫貴品店』
アンティークショップか? と思うような独特な雰囲気のある店だった。店先には妙に人目を引くエメラルド色の瞳をした黒い猫が俺のことを見つめていた。その見透かすような瞳に引き込まれ、俺のいつの間にか店の中に立っていた。
普段はこんな店に興味を覚えることすらないのに、自分でも不思議な感覚だった。
頭の中で「早く家に帰らないと……」という声がしている。これは俺の声か? 俺の意志か? 俺の足は一向に外へ向いていかない。店の中へ、中へと向かおうとする。それにつれて、頭の声は遠ざかっていく。声は小さくなり、囁き声よりもさらに小さい。俺は夢の中を歩くように店内を歩いた。
店の中には色々なものが売っていた。正直ここが何屋なのか判断がつきかねた。「瓶詰めの人魚」と商品札に書かれた小瓶が売っていたが、その瓶の中には水しか入っていない。
そんなものがあるかと思えば、美しい宝石のような炎が揺れるランタンや精緻に織り込まれた年代物の絨毯、タイトルがない皮張りの重厚な本。そんな如何にも値の張りそうな商品ばかりかと思えば、クイズ番組で解答者が押すスイッチのような装置や特価品として洒落たメガネなんかも売っている。
俺が「とっても貴重な薬草全書」というタイトルの本を手に取った時だった。
「いらっしゃい!」と店の奥から突然声を掛けられ俺は驚いて手にしていた本を落としそうになった。
俺に声をかけたのは漆黒のドレスに、漆黒の髪、漆黒の瞳、透き通るような白い肌が印象的な美少女だった。
店員さんかな……?
鈴を転がしたような愛らしい声、彼女が傍に来ると甘いグレープフルーツのような香りがした。
「ゆっくり見て行ってよ! うちの商品はどれもオススメの品ばかりだよ。この勇者になれる本とか誰でもできる秘薬百科とか、あ、この極光なんか採れたてだよ、彼女へのプレゼントにもオススメ!」
店の中には漆黒の彼女と黒い猫しかいない。どうやら彼女がこの店の店主のようだ。
漆黒の店主は次々と商品を紹介してくれたが、天然なのか、それとも商売下手なのかよくわからない。
だいたい、オーロラが採れたてって何だよ……。
俺が少し呆れていると漆黒の店主は「にゃはは」と笑い「あ、でも、今のお兄さんに必要ないかな? こっちの方がいいかしら?」と言って、彼女は店の別コーナーに案内してくれた。
彼女の勢いに押されつつ、俺は彼女のあとをついていく。
この子、いくつくらいなんだろうか? 愛実はこの子の歳くらいまで生きることはできなのか……。
「はい、こちらの商品です!」
「……ナイフ?」
それは包丁ではなく、まぎれもないナイフ。サバイバルナイフのようなゴツゴツしたものではなく、持ち手の所にも装飾の施されたダマスカス鋼のナイフだった。
ナイフなんか必要ない。
キャンプに行くわけでも山登りをするわけでもないし、ナイフ収集家でもないのだから。
だけど……。
「このナイフは黒猫貴品店の特別製。どう? 今のお兄さんにぴったりの商品だと思うけど?」
「……ああ、うん」
漆黒の店主は白い手を広げて特別製のナイフの説明をしてくれる。
俺は、まるで夢の中にいるみたいにその話を聞いていたんだ。
☆
このナイフにはルールがある。
1・ナイフの中に名前が書かれた紙を入れた状態で人を刺した場合、紙に書かれた名前の人物に刺された人物の命が分け与えられる。
2・それは食物や動物など、人間以外のものでは適用されない。
3・このナイフの柄に名前の書かれた紙が入っていれば、ナイフ使用者がいなくても上記ルールは適用される。
4・このナイフに使用期限はなく。ナイフが破壊されないかぎり効果を有する。
5・このナイフは本来のナイフとしての使用方法でもお使いいただけます。
家に帰ってきた時にはすっかり遅くなっていた。黒猫貴品店を出たあと、俺はすっかり道に迷ってしまったのだ。
それほど田舎でもないはずなのに、人通りは少なく、車も走っていない。ボンヤリと明かりがともる街並みをただ歩き、見覚えのある道まで出るまでにしばらくかかってしまった。
家に帰って来ると愛実と美奈子はすっかり寝てしまっていた。俺達は寝室に愛実、美奈子、俺の順で三人が並んで眠る。
愛実の状態が崩れた時にすぐに対応できるように明かりも完全には消していない。
俺は死んだように表情もなく眠る愛実の顔色を確認してから、買って来たナイフを持って自分の部屋に籠もった。
「……」
自分でもどうしてこんなナイフを買ってきたのかわからない。ただ美奈子には言わない方がいいだろう。俺は自分の部屋でそのナイフを箱から出し、説明書をもう一度読みつつ、鈍く光るナイフを手に取った。ダマスカス鋼の妖しげな模様。美術品かと思うような装飾が施された持ち手を握るとしっとり濡れたような冷たさがじわりと手の体温を奪い、ゆっくりと手に馴染んでいく。
ジョーク商品にしては、あまりに精巧でとてもおもちゃとは思えない。
説明書にある通り、ナイフの持ち手の所が開く仕組みになっており、なかに専用の小さな紙が入っている。どうやらそこに名前を書くようだ。
もし、このナイフが本物なら……。
心の中で淡い期待がむくむくと膨らんでいく。
何を馬鹿なことを? そんなものがあるはずがない。
一方で冷静なもう一人の俺が冷めたような声で言った。
もし、このナイフが本物ならば、愛実の病気を……
現実を見るんだ。そんなことが起きるわけがない。
もう時間が迫っている。愛実の余命は、もう半年を切っている!
他に手だてを探すべきじゃないのか? 今この瞬間にも!
どこを探せって言うんだ! これ以上! どこを!?
「……もし、このナイフが……」
もし、このナイフが本物ならば、愛実の病気を、命を長らえさせることができるかもしれない。
俺の耳元でもう一人の俺が叫び続けている。そんな話を聞いたことがあるか? そんな奇跡みたいなことが起きるなんて?
もちろんない。
聞いたことも、見たこともない。
でも、聞いたことも見たこともないようなことが、どうして次の瞬間に起きないと言えるだろう?
周りにいる同じ歳くらいの子どもたちの中で愛実だけが病気に倒れ、余命を宣告されている。どうして 愛実だけが?
だったら、もしかしたら……奇跡だって、愛実にだけ起きるかもしれない。
それが妖しげな店の妖しげな商品だとしても、可能性があるならばやらないよりはいい。俺は、そのナイフの中に納められていた専用の紙に愛実の名前を書いた。
「よし、あとは……」
このナイフが本当に効果があるのかを試さなくてはいけない。
ルール2によれば、植物や動物で効果がないらしい。人間に命を分けるのは、人間でなくてはいけないということだろう。
俺はしばらく考えた結果、まずは自分を刺すことにした。
もちろんこれは実験だ。
致命傷になるほど刺すわけじゃない。
それで効果が出るかどうかはわからないが、はじめの実験としてはいいだろう。
俺はナイフを右手で掴むとその刃先を自分の左手の甲に当てる。
鋭く尖った先端が皮膚を押していく。
少しだけ……。
「くっ……」
尖った刃先は皮膚を破り、ナイフの先端が赤く濡れた。その瞬間、左手からスゥーと力が抜けていくような独特な感覚に見舞われた。俺は慌ててナイフを抜く。
「……!?」
刺したのは左手の甲だったにも関わらず、左肘辺りまで力が入らない。その上、まるで腕全体を水にでもつけていたかのように冷え切っていた。
もしかして、今のが命を分けたってことか?
しばらくして体温と感覚が戻り始めて、やっと俺は落ち着きを取り戻すことができた。
「そうだ、愛実!」
俺は慌てて自分の部屋を飛び出し、愛実が寝ている部屋へと急いだ。
あれだけの感覚があったってことは何かが起きているはずだ。それが愛実に影響していれば……。
寝室で眠る愛実の寝顔を覗き込むとその顔は先ほどよりも穏やかで赤みが差しているように見えた。心なしか、呼吸もゆっくりと深くなっているような気がする。
……効果があった?
効果があってほしい、そんな気持ちがそう見せている?
「いや、違う……そんなんじゃない」
俺は隣の部屋から僅かに差し込む光に照らされた愛実の顔色を何度も確認した。
俺の命が愛実に行ったんだ。
今の愛実は明らかにいつもと違う!
だとしたら、これで、愛実を助けることができるんじゃないか?
もう頭の奥でもう一人が語り掛けて来ることはなかった。
それから俺は毎日ナイフで自分の手を刺し、足を刺した。同じ場所は何度も差すことができない。このナイフで刺した場所は不思議なほど治りがよくないからだ。
しかし、その甲斐もあってか、愛実は日を追うごとに元気を取り戻していった。
手を刺した次の日には顔色がよくなり、気分がいいと言った。
俺が自分を刺し始めて五回目を終えた時には食欲が出た。
十回目を越えると、家の中であれば元気に動き回れるようになるほど回復を見せていた。
今までは横になっているだけでも苦しそうにしていたのに。
ただ、俺の体は日を追うごとに力を失っていくようだった。感じたことがないほどの空腹感と睡魔に襲われ、どうしようもないほど気怠い感覚はいくら休息をとっても解消することができなかった。
「あなた、大丈夫……? 最近何だか様子が変よ」
「うん? ああ、そうかな?」
心配そうに俺のことを見る美奈子にぼんやりとした頭で曖昧に応えた。
ナイフを始めて使った時から一カ月が経っても、あのナイフのことを美奈子には言えないでいた。確かな効果があることはすでにわかっている。でも、もし美奈子が俺と同じ選択をした場合、美奈子は同じように自分を刺し、切るだろう。そんなことをすれば、夫婦ともに倒れてしまう。
「最近、愛実の調子がいいの。余命があと半年もないなんて嘘みたい」
美奈子が嬉しそうに笑った。
ああ……。あと半年のはずがない。きっと、愛実の状態はよくなっている。
よくなっていないはずがない。
「次の病院の日は俺もいくよ」
「本当? でも仕事は?」
「ああ、その日は休みをもらっておく。愛実の体のことが気になるんだ」
疲労感が蔓のように手足に絡み、首を絞めている。だが、結果が伴えば問題はない。病院の診断結果はきっと変わっているはずだ。
定期検診。
希望を胸に、愛実をつれて病院へと足を運んだ。病院の先生は元気になった愛実に驚きを隠せないでいた。
当然だ。愛実は快方に向かっているのだから。
しかし、それからされた検査の結果は、以前と変わらないもんだった。
そう愛実の余命に変化はなかったのだ。
★
俺は気力を失った。
愛実の顔色はよくなったし、以前よりも食欲は出た。元気に動き回ることができる。しかし、愛実の体内で起きている異常事態は変わらなかったのだ。
余命はあと四カ月。
俺の命が愛実に分けられていたんじゃないのか? 効果はあったはずなのに……
俺の思い込みだったのか?
いや、違う。
「足りないんだ」
愛実の病気は、命を失うかどうかという重大なもの。毎日、俺が少しづつ命を分けたところで、焼け石に水。状況は根本的に好転していかない。
もっと、大量の命がいる。
人一人分の命を救う命の量……それは人一人分。
例えば、誰かをこのナイフで殺せば……。
自分の考えに胸の奥がキュンと突き上げられるような感覚を覚えた。
「そんなこと……」
人一人を救うために一人を犠牲にするなんて、しかも、殺すなんて……。
愛実のため……?
愛実のためだとしても……。
見知らぬ誰かを殺せば、愛実は助かり、俺の幸せは守られる……?
そんなバカな! そんなことをできっこない!
愛実を救えるかもしれないのに? このまま見殺しにするのか? 愛実がいなくなっても、それでもいいのか?
いいわけがない。いいわけがない……。
俺はその夜、あのナイフを片手に街へと出た。
☆
美奈子が妊娠したって聞いても、本当のことを言って父親になるって自覚が起きなかったんだ。
でも、だんだん大きくなっていく彼女のお腹を見て、俺は焦りや恐怖にも似たものに心を縛られた。どうしたらいいのかわからなくなった。
何かが起こる……とんでもない何かが。いよいよ出産間近になってくるともう居ても立ってもいられない。
陣痛に顔を歪める彼女を分娩室に見送りながら、わけもわからず祈った。
普段は神さまなんて信じていないし、地元の神社の前だって正月ぐらいにしか手を合わせになんかいかない俺が、それこそ心の底から祈ったんだ。
それから数時間後。俺は、あいつの声を始めて聞いた。
今でも、耳に残っている。子どもの泣き声であれほど安堵したことはない。
看護師が俺にすぐに抱かせてくれたっけ。驚くほど温かくて、柔らかくて、あんな小さな胸が、しっかり動いて息をしているんだ。
あいつを自分の胸に抱いた時、それまで迫っていた恐怖心も焦りもすべて吹き飛んでしまった。
俺は父親になった……この子の父親に。
そう思ったんだ……。
俺は自宅の庭で手にした書類を火にくべた。何枚もある書類はじっくりと炎を吸い込んではじわりと溶けるように黒く揺れる。
「……」
俺は街を歩いた。何日も。でも、誰かを殺すなんてことはできなかった。
誰でもいい、そう思っていたとしてもできるものでもない。
その人にも俺と同じように愛実のような存在がいるかもしれない。その人が誰かの愛実なのかもしれない。
そう考えると手が動かなかった。
情けない話だが、俺は誰かを殺してまで自分の子を助けてやることができなかったんだ。
タバコを取り出し、少し迷いながら焚き火をタバコの先に移す。それをくわえて一度だけ喫った。
久しぶりにタバコでクラクラする。
俺はそれを焚き火の中に投げ捨てると、燃えきるのを確認しないまま立ち上がった。
俺はあいつが生まれた時に決めたんだ。あいつの父親になるって、あいつのために何でもしてやろうって……。
このまま行けば愛実は死んでしまう。それは確実だ。そのかわりに少しづつ俺の命を差し出しても、この未来を変えることはできない。
未来を変えるためには決意が必要だ。
今まで持っていた疑念も捨てて、乗り越えていかなくては決心が鈍る。
そして、今、俺は決意した。あの炎の中に過去は捨てて来たのだ。
俺は一息つき、家に入ろうと玄関のドアを開けた。すると、ちょうど美奈子がそこに立っていた。
「ああ、美奈子。愛実の様子はどうだい……?」
「……」
「……?」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。体から力が抜ける。俺は自分の腹を見た。
奇妙な光景だった。俺の腹からあのナイフが木の幹から別れた枝みたいに生えていた。そしてそのナイフは美奈子の手と繋がっていたんだ。
「美奈……」
ナイフは急速に命を奪う。
視界が狭まり、立っていることができず俺は膝から崩れ落ちた。
俺の頬に冷えた玄関の床が押し当たっている。倒れ込む俺を支えるものは何もない。
意識が薄れていく中で俺は遠ざかる美奈子の声が聞こえたような気がした。
「やっぱり血が繋がっていないっていうのはダメなのかしらね……子どものために本気になれないんだもの」
★
半ば灰になった書類が風に運ばれ舞い上がる。半身を失ったそれは風に乗り、フワリフワリと行き場を求めて飛んでいく。
ふと、その紙はとある店先で昼寝をしていたエメラルド色の黒猫の頭の上に落ち着いた。
猫はそれに気づかず開店間近の店内へと足を進めていく。
すると、黒いドレスを着た店主が、頭に焦げた紙を乗せた黒猫を目にして微笑み、その紙とともに黒猫を抱き上げた。
「DNA鑑定書? そんなものが無くても君はうちの子だろう?」
店主は焼けた鑑定書を外の風に流し、猫を抱いたまま店の灯りをともすために店の奥へと入って行った。
おわり
本作に登場する黒猫貴品店は葵生りん様の「瓶詰めの人魚」に登場するお店です。
「瓶詰めの人魚」は一組のカップルに起きた不思議な出来事を描く物語です。恋人との破局とともに彼が手にしたのは不思議な小瓶の中に入った可愛らしい人魚。この人魚は彼に何をもたらすのか?
人魚と関わることで、別れた彼女の真相を知ることができるのか?
「瓶詰めの人魚」是非ご覧ください!