第二十節*カールと旅立ち
失恋して、目を真っ赤に腫らせた従弟は芋虫のように首を縦に振った。
あんぐりと口を開いてたっぷりと一拍。テオドールの大声が狭い家に響き渡る。
「えええッ? ちょ、ちょっと待てよお前っ! 魔国って、え、働いてた? えっ、何だよそれ。何でお前が魔国で? いや、っていうか戻るって本気かよッ!」
予想外の成り行きにテオは思わず身を乗り出し、丸く縮こまった芋虫に顔を近づける。
カールはあまりの喧しさにやや眉をひそめて言った。
「テオ兄、あんまり大声で話さないでよ…。一応、秘密にしてるんだから……」
「え、ああ…いや、そういう話じゃないだろう? 外聞はともかく、お前本気なのか?」
「本気だよ。だからソフィアと……話をつけてきたんだ。父さんにも話して、この収穫祭が終わったら家を出ることにしたんだよ」
「おいおい、何がどうなってんだよ…」
カールの真剣な視線を受け、テオは気が抜けたかのように椅子へ座り込んだ。冗談でないことは分かったが、それにしても突然のことで理解が追いつかない。いくら貧しくとも出稼ぎで魔国へ行くという話は聞かない。獲物が魔物の支配下を逃れて久しいが、それでも交流ができるところまで関係は改善されていないのだ。
従兄の反応に少し頬を膨らませながら芋虫は茶を啜った。テオはその態度にまた呆れかえり、確認するかのようにハルトヴィンの方を見た。
「おじさん、本当にいいんですか? これで…」
せっかくカールが戻ってきたのに。
テオはそう言いかけて止めた。
突然の失踪からやっとの思いで連れ帰ったことは、ハルトヴィンだってよく分かっているはずだ。数日前、帰宅したカールを力一杯抱きしめていたのをテオも見ている。
けれどもハルトヴィンの表情は不思議なほど穏やかだった。
「……少しこいつの話を聞いてみてやってくれ、テオくん。俺は、止められないよ」
そしてその声には、寂しさと誇らしさが滲んでいるようだった。
『洗濯屋と魔王様』 第二章
突拍子もない従弟の願いに声を荒げたテオドールだったが、ハルトヴィンに言われてやっと静かになった。聞きたいことがあれこれと浮かぶ脳内を押さえて、向かいの顔を覗く。依然、目は腫れたままだがカールはきちんと座り直していた。
真っ直ぐな従弟の目に、テオは何と切り出せば良いのか言葉に詰まった。
テオにとってカールは本物の弟だった。小さい頃からずっと見てきた、一番の親友でもあった。やや年が離れているがよく二人で遊んだものだ。ハルトヴィンの姉に当たる自分の母親と一緒に、ベーア家を訪れるのが幼い頃の楽しみだった。
そして勇者として独り立ちしてからも、ここには何度も立ち寄っていた。旅をする身となり根無し草になった自分の、実家とも言える場所だった。
この家はずっと変わらずにいてくれるのだと、どこかでそう願っていた。
「話、最初っから聞かせてくれよ…。いきなり魔国って言われても、全然頭がついていかねーわ」
「…うん。最初はテオも知ってると思うけど。俺がヴフトさんに連れていかれたところからで……」
テオが落ち着いて問いかけると、口べたな従弟は順に説明を始めた。
作り話にも聞こえるカールの話をテオとハルトヴィンは黙って聞いた。カールを攫った本人が魔国の王で、その魔王が直々に召し上げを宣言し、遂に叶ったという。魔国で出会った魔物たちは誰も彼もが優しくて、ヒト族を受け入れたという。
国交すらない国で異例にも程がある。話だけ聞けば夢物語だと笑われる内容だが、それが実際に起きたのだとカールは主張した。
「……言いたいことは色々あるんだけど、お前、本当に働いてたの?」
一通り話を聞いた後、テオはやはりまだ渋い顔をしていた。不思議な衣裳部屋の話だとか、伸び縮みする布だとか、崖から落ちた話だとか、突っ込みたいところはたくさんある。だが何より、獲物が魔物と対等に扱われたのかというところが気になった。
世界中を旅しているテオドールでも、そういった話は耳にしない。
今、街の教会で習うヒト族の歴史には植民地や奴隷といった話が含まれている。その暗く重い時代をかつての英雄たちが打ち砕き、ヒトは王国を樹立できた。だが科学の力で魔国の脅威をはね除けたとはいえ、魔物と獲物が対等になったわけではない。ヒトは団結すれば魔物に抵抗できるようになったが、一対一ではやはり勝ち目がないのだ。
魔物ばかりの国でカールが本当に職を得られたのか疑わしかった。
「最初は違ったけど、でもテオが来る少し前に正式な洗濯係になったんだよ! 部屋もあるし、食堂も使えるし、ちゃんと給金だって出てるんだから」
「給金ねぇ……」
「凄い厚遇だって、シュピッツさんも言ってた!」
「世話になったっていう鼠のおっさんか…」
何の証拠も持ち合わせない中で、カールは必死に魔国での待遇を説明した。その今一つ現実味のない話を聞いて、テオは右に左に頭を傾ける。
結局、本人が「働いていた」と言うのであればそれを信じる他なかった。
そしてカールはそこに戻りたいと言うのだ。
「ここだって立派な洗濯屋なのに、そのヴフトって魔王のところがいいのか?」
「……魔国がいい…。この店は好きだし、この国も大好きだよ? でも、でもここにいたら知らずに終わることがいっぱいある気がして…」
「そりゃあな。王国と魔国じゃ違うものがいっぱいあるだろうよ」
「………うん…だから、俺はそれが見たいんだ」
テオの問い詰めに少したじろぎながら、それでもカールははっきりと答えた。
新しい世界が見たい。
自分の知らなかった世界が、今偶然、こちらに手を差し伸べてきている。
カールはその手を握り返さずにはいられなかった。
「一人の洗濯屋として、俺はここじゃなくて、魔国で見識を広げたいんだよ」
曲がらない強い眼差しにテオの方が視線を逸らした。
もう一人の傍聴人の意見が気になった。
「それで、おじさんはカールの頼みを聞くってわけなんですね?」
「うん、まあ、そういうわけさ。そんなに睨まないでくれよ、テオくん。おじさんの昔話聞いたことがあるだろ?」
「解放間もない頃に世界中を旅してた、でしょ」
「そうそう。まだ王国も安定していなかった時代だ。食べる物も着る物も少なくってね。少しでもまともな恰好でいようと洗濯の仕方を工夫したのが最初だった。いつの間にか洗うことの方が目的になって、生まれ故郷を捨てて旅に出たのさ。今のカールの気持ちを否定することは、昔の俺を否定することにもなる。俺にそれはできないよ」
ハルトヴィンは困ったように皺を寄せながら、だが口元は僅かに笑っていた。息子が離れていくことの寂しさと、自ら独り立ちしていく頼もしさを感じたのだ。また、新しい世界を求めて歩き出すその姿は、若い頃の自分に重なった。送り出す先が些か不安だが、彼はカールを一層自分の息子だと感じていた。
ベーア親子を前にテオは状況がひっくり返らないことを悟った。
「ほんっと、親子揃って洗濯馬鹿ですよね」
「ふはは! 褒め言葉だろう? 姉さんに似てきたね、テオくん」
「王国でさえ旅したことのない奴がいきなり魔国なんですから、おじさんもう少し危機感持ってくださいよっ!」
「だからテオくんに頼んでいるんじゃないか」
「あー、もおーッ!」
テオはぼさぼさの真っ赤な毛を掻きむしり、どうするべきかを考えた。
自分が引き受けても、引き受けなくても、カールは国を出る。目と鼻の先にある隣国にしか行ったことのない男が、国が見えなくなる所まで行くという。この辺りは比較的安全な地域だが、田畑もない所まで行くとなれば話は別だ。目の前にいる毛布の虫がちゃんと魔国まで行けるのか疑わしくて仕方がない。
ならば答えは決まっていた。
テオは自分の荷物から使い込んだ地図を取り出し、テーブルの上に広げた。
「ここヴァルトから、北のゲファールに向かいましょう。ここはまだ開拓中の街だから物資を運ぶ商人が多くいます。その荷馬車を上手いこと捕まえれば、比較的楽に行けます。ゲファールから森に入れば人目にもつかなくなるでしょう。ここからゲファールまで……一人分とは言え魔物と関わりますから、代金このぐらいでどうですか?」
地図をなぞりながら二人に旅路をざっと説明し、テオは最後に六本指を立てた。行程を明らかにして金額を提示する。勇者として仕事を引き受けることにしたのだ。
ハルトヴィンはテオの指をじっと見つめてから太い人差し指で一本を半分に折った。
「今夜の夕飯もはずむから、ここは半分まけてくれないか?」
「五と四十」
「三十五」
「…三十五……分かりました。五と三十五で引き受けます」
「ありがとう!」
手短な商談が成立し、ハルトヴィンはテオの手を握った。財布から銀貨を五枚、銅貨を三十五枚出して勇者へ確かに渡す。
テオは手早くそれを確認して仕舞うと、さっそく立ち上がってカールに言った。
「よし、じゃあ今から支度するぞ! 荷物確認するから早く着替えてこい」
「ありがとうテオ兄!」
「服とか靴とか、動きやすいやつ用意しろよ。作業で履いてる長靴は駄目だからな」
指示を受けたカールがどたばたと二階へ上がっていく。テオも部屋の隅で自分の荷物を広げ、所持品を検めた。足りない物があれば買いに出る必要がある。春とは言え、旅で野宿をするにはまだ寒い。
「ありがとう、テオくん。本当にありがとう」
「……一度連れ帰ったんです。やっぱり寂しくなったら、俺がまた連れ戻しますよ。ただし、次は今回の倍もらいますけどね!」
「ふははっ、倍はつらいなあ。風の噂も届きそうにない所で寂しいけど、我慢するよ」
ハルトヴィンはそう笑って残りの茶を飲み干した。
結局、テオはカールを連れて買い出しに出掛け、準備が整った頃には日が暮れていた。夕飯はハルトヴィンが予告した通り、普段よりやや豪勢だった。
マルクスとニナには、カールがテオと一緒に旅に出ると伝えられた。明確な行き先はない。旅の中で新天地を見つけると適当にぼかされた。先日のこともあるので、全てを話すのは時が経ってからハルトヴィンに任せることになった。
行き先を知りながらカールの門出を祝ったのは、ハルトヴィンとアリス、そしてテオドールの三人だけだった。
「酷いや兄さん! せっかく戻ってこれたのに、こんなに直ぐ出て行くなんて!」
「そうよ。しばらくいて、それからでも良かったじゃない!」
「ごめんね二人とも。でも、テオ兄に頼むには今しかなかったからさ…」
「ううう、やだよおー! 俺も行くー!」
「マルクス落ち着いて。ニナと一緒に店を頼むよ」
「無責任だわ、カール兄さん! 私とマルクス兄さんじゃ、足したってカール兄さんの足元にも及ばないのに」
「そんなことないよ。二人ともよくやってるし、父さんと母さんもいるんだから」
「兄さんのばかあーッ!」
少しぶ厚めの肉を頬張ったり、いつもより柔らかいパンを味わったりしながら、カールは両側から散々恨み言を聞かされた。ここ数日のうちで一番賑やかな食卓だった。
マルクスもニナも、出て行って欲しくないと目一杯引き留めたが、二人とも兄が一途なことは十分知っていた。何を言っても明日旅立つのだと分かっていた。だから憎たらしくも羽振りの良い夕食を口にしながら、止めどなく恨み言を告げたのだ。
痛いほどの泣き言を耳にカールはたくさん二人を抱きしめた。
「大好きだよ、二人とも。大好きだ」
カールはそう言って可愛い弟妹たちの額にキスをした。
***
翌朝、収穫祭が終わり街はいつもの日常を取り戻していた。パン屋は朝早くから開き、共同井戸が混雑し、商人の馬車が大通りを行き来する。洗濯屋ベーアも通常営業で朝から店を開くはずだった。だがこの日は午前休業の札を掛け、ベーア一家は城門付近に集まっていた。周りには収穫祭を終えて旅立つ行商人も多くいて、それぞれに別れを惜しむ場面が見られた。
テオに見繕われ、すっかり旅人姿になったカールも家族と最後の抱擁を交わした。マルクスは昨日のカールのように目を腫らせ、ぎゅっと力強く兄を抱きしめた。ニナもやや目元を赤くし、兄を抱きしめてから名残惜しそうに頬へキスをした。両親は何も言わずただ強く息子を抱きしめてくれた。
次の仕事へ向かうジークを先に見送り、続いてカールとテオも出発することにした。家族に手を振りながら、馬車や団体の合間を縫って外へと向かう。旅立つ人々は皆、活気に溢れ大きな流れを作っていた。その端にカールたちも加わる。
いつも遠くに眺めていた城門が頭上高々と聳え立つ。門を出てもしばらくは農地でヴァルト・シュタットの領土が続く。しかしこの門をくぐればそこは《外》の世界だ。
カールは故郷を惜しむように一度立ち止まった。青い空を城門が二つに区切っている。大きく開かれた扉の両側には王室の旗が靡いていた。一度目の出国では門をくぐらなかったが、今度は自分の足で、自らの意志でもってこの門を出て行く。その事実に少し胸が熱くなっていた。
「カールっ!」
胸いっぱいに故郷を覚えて外へ出ようかというときだった。がやがやとした人混みの中を、真っ直ぐに響いてくる声があった。カールがまさかと思って振り向くと、そこには長い髪を振り乱して駆けつけるソフィアの姿があった。
「ああ、間に合った! カールっ! 良かったわ、カール!」
「ソフィア! どうしてここに?」
「だって、収穫祭が終わったら出るって、あなた言ってたじゃない。それで今朝お店に行ったら休業になってたし、……久しぶりに城門まで走ってきたわ」
「そんな、俺は、これから…」
息を切らせながら話すソフィアに対し、カールはどうにも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。自分が彼女を不幸にしたと言えば尊大な表現だが、しかし確かに彼女を幸せから一歩遠ざけたのだ。会いたい気持ちはあれど、それを言い出せる立場ではないと思っていた。
だからソフィアが会いに来てくれたことが、何とも信じられないでいた。
「俺は素直に喜んでいいのかな、ソフィア。君にまた会えるなんて」
「喜んでくれなくっちゃ困るわ、カール。突然のことで、私すっごく急いだんだから」
困惑するカールを見てソフィアは笑った。蜂蜜色の大きな瞳が優しく弧を描き、ふくよかな唇がにっこりとつり上がる。カールが大好きな彼女の笑顔だった。
ソフィアはポケットから何かを取り出すと、カールの襟元を開いてそれを巻き付けた。それは何色もの刺繍糸で編まれた平たい組み紐の首飾りだった。
「えっ? ソフィア、これは?」
「お守りよ。健康と、仕事運。大切でしょう?」
「ははは…そうだね。ありがとう。まさか君にも見送ってもらえるなんて。嬉しいよ。本当に。とても」
「私はあなたが思っている以上に強いのよ、カール。あなたが前へ進むなら、私だって前へ進むわ。どこへ行っても石けんの香りがするあなたでいてね。さよなら、カール」
「…ありがとう。君もずっとその素敵な笑顔でいてね、ソフィア。首飾り大切にするよ。さようなら。ありがとう」
滲みかける視界を堪えながら、二人は励まし合うように抱き合った。両腕いっぱいに抱いた温もりを、未練を残さないようぱっと断ち切る。
カールは笑顔で歩き出し、ソフィアは笑顔で見送った。
人の流れに紛れてカールとテオは門を出た。
実りが刈り取られた後の、広い大地と区切れのない空が広がっていた。旅人が進む道は途中で南と北とに分かれている。南へ下れば隣国のシュトラント、或いはその先にあるピオニールや西の大陸へと続いていく。北へ上がれば今ある王国の末端、アインザームとゲファールの街がある。
多くの旅人や一座は南へと曲がり、たくさんの荷馬車を連れた商人たちは北へ進んだ。ヴァルトより北側はあまり治安が良くない。だから北へ上がるのは商魂逞しい商売人ばかりなのだ。
カールはテオに遅れないよう、ぴたりと隣について歩いた。しばらく行くと国境を表す小さな垣根が見え、いよいよヴァルト・シュタットの端であることを示した。テオはそれを気に留めることなく通り抜け、カールも歩みを止めずに通り抜けた。
国の外に農地はない。見渡す限りの荒野である。
二人はその荒れた道を北へと進んでいった。