第十九節*カールとソフィア
この日は一段と晴れていた。高く澄んだ空には雲一つなく、その分、気温は低かった。だがその肌寒い中、街の人々は早朝から広場に集まり場所取りをしていた。布を敷く者、紐を張る者。まだ開演には時間があるというのに大賑わいである。
明け方にそっと自宅へ戻ったカールも、そのまま着替えだけを済ませて広場に向かっていた。舞台と城との間は椅子が並べられた有料席で、大商人や議員などが陣取っている。また城に向かって右手は出演者たちの待機場所で観客は立ち入ることができない。従って舞台の左手と後ろ側が一般の席だった。カールはその一角に小さいボロを広げ、家族五人分の場所を確保した。
ボロ布の上、毛布にくるまって白い息を吐いていると、朝食を片手にテオとジークがやって来た。トウモロコシのスープで体を温め黒いパンを囓る。食べ終わると直ぐに、二人は出演者の待機場所へと移動した。従兄を晴れ舞台へと見送り、カールはまたじっと場所取りに努めた。
太陽の暖かさで徐々に気温が上がってきた頃、家のみんながやって来た。その頃になると広場は端から端まで人でいっぱいになっていた。人の合間を縫って菓子や茶の物売りが歩き始め、ここぞとばかりに小銭をかき集めている。
舞台の中央に一人の喇叭吹きが登場すると、人々の視線が集まった。プワァーン、と冷たい空気を駆け抜けるようにファンファーレが鳴り響く。大演舞会が始まった。
『洗濯屋と魔王様』 第二章
「第三組、ブルーメ演劇場より歌姫と踊り子の演舞!」
舞台の中央、城に向かって長いドレスを身につけた歌姫が立ち、ハープのような澄んだ声で歌い出す。その周りを三人の踊り子が、長い薄布をふわりひらりと揺らしながら舞い踊る。豊作を祝い、大地の恵みに感謝を述べる詩が朗々と歌われ、観客は誰しもがうっとりとした。
大演舞会は毎年一組目と二組目、そして最後の組が王室の騎士であると決まっている。一組目の騎馬演舞は、二人の騎士が馬に乗って登場し槍を合わせた。狭い舞台上で鋭い切っ先が、雄々しい白馬が、衝突寸前の間合いですれ違う。時折キィンッと刃先が共鳴し、コーンッと柄のぶつかる音がした。
最初の演舞に選ばれるということは、つまり騎馬隊のトップということである。王室に仕える騎士のうち、騎馬隊は最も有力で憧れの的であった。その勇ましさ、頼もしさ、美しさを、民衆はこうして年に一度目の当たりにするのである。
騎馬隊に続く二組目は、歩兵隊による武器演舞だ。剣と槍を得意とする六名が選抜され、一対一、二対一、五対一と様々な形式で技を披露する。刃先がきらきらと日の光を照り返し、金属音を響かせながら戦士が舞う。鍛錬の成果を見せようと、演者は格段の思いを込めて技を奮った。
この土地が切り開かれてから数十年。最初の頃は魔物からの妨害も多くあったと聞くが、今ではすっかりヒト族のものとなった。かつては一線で戦っていた騎士たちも、王室の警護が主な仕事となって久しい。依然、市民の憧れの的ではあるが、外敵から国を守っていた頃と比べれば、その活躍の場は減った。そんな彼らにとってもこの演舞会は大切な晴れ舞台であり、選ばれた騎士たちは栄誉を胸に技を振るっていた。
三組目からは市民や旅芸人たちの舞台となり、見慣れた顔も多くなる。ブルーメ演劇場は街で一、二を争う人気の劇場だ。この日は歌姫と踊り子が観客を魅了したが、男の歌い手や劇の内容も良いと評判の一座である。四組目、五組目と他の劇場からもそれぞれ趣向を凝らした演舞が披露され、広場は拍手で包まれた。
旅の一座や団体に属さない個人の演者も加わり、演舞会は盛況に続いていく。そして昼の頃合いになると一端、休憩が入った。物売りたちは品を肉の入った焼き飯や、具がたっぷりと詰まった揚げパンに持ち替えて、観客たちの間を練り歩く。広場全体が飯屋の軒先状態で、腹を空かさずにいられる者はいなかった。
しばらくするとまた喇叭が響き、演舞が再開された。民衆は口の中にまだ美味い飯を頬張りながら、再び舞台に注目する。この年、騎士団に入ったばかりの新兵による演舞が行われ、初々しくも凛々しい姿が拍手を呼んだ。
残りの組も少なくなってきたところで、ベーア一家は一層、前のめりになった。
演舞はテオとジークの番である。
「第四十七組、二人の勇者による演舞です! 今、国中で話題の、魔物に攫われた青年を見事救い出した両名による技をご覧下さい!」
紹介文が読み上げられ、広場が大きく沸き立った。噂は既に国の隅々まで行き渡っていて、誰もが好奇の眼で舞台を見上げたのだ。
舞台には一振りの大きな剣を持ったテオと、長い金属製の杖を持ったジークが登った。二人とも演舞のために着飾っていて、騎士に負けないぐらいの雄姿である。特にテオはいつもぼさぼさな長髪をきれいに編み込み、見違える程かっこよかった。毛皮や飾り紐があしらわれた衣裳も、二人によく似合っていた。
剣の重さを感じさせない軽やかな動き、時折鳴り響く乾いた衝突音。舞台の端まで使い切る大立ち回りが群衆を圧倒する。テオが躱した杖に飛び乗り、その勢いで空高く宙返りを決めると、観客からは大きな歓声が上がった。カールもそれを見て声を上げ、従兄の活躍を嬉しそうに眺める。
そのときふと、カールは近くから見られているような気がした。舞台の二人を追うようなフリをして顔を動かしてみると、視界の端にそれらしき人影が映った。よくよく気を尖らせてみれば、その視線は一つばかりではない。
国中で噂になっている人物は舞台にいる二人の勇者だけではない。
もう一人の、攫われた青年もそうである。
この演舞を見ている最中にカールに気付いた人がいて、更にその視線によって彼がそうであると気付いた人たちがいた。
じわじわと不躾な視線がカールに集まる。
カールは舞台に一生懸命集中し、そちらを見ないようにした。別に見たところで何ともないだろうが、見たいとは思わなかった。そんなつまらない視線よりも、従兄の一世一代の晴れ舞台を目に焼き付けたいと思ったのだ。
ジークが扱う仕込み杖の先から鎖が飛び出すとまた歓声が上がった。鎖が見事に宙を舞い、再び杖に戻ったところで喝采が沸く。最後に舞台中央で二人が渾身の一撃をぴたりと寸前で止め、勇ましく華々しい演舞は終了した。
騎士の整った技とも、芸人の見せかけの技とも違う実践の技に、観客は魅了された。さまざまな歓声が飛び交い、二人が舞台を降りた後もそれはしばらく響き続けた。
「第四十八組、旅の一座ブレーメルによる演舞です!」
少し間を置いてから次の演者が登場し、観客たちの意識は新しい舞台に移っていった。カールへの視線もそれ以降はなくなって民衆の視線は再び舞台だけに集まった。
***
大演舞会の終了は午後四時である。最後に衛兵たちの行軍演舞が披露され、王室への忠誠を誓う口上で締めくくられた。観客たちは冷めやらぬ興奮を伴って飯屋や酒場に入っていく者が多い。向こうもこの時間を心得ていて、どの店もいい香りを漂わせて人人を待っていた。
ベーア一家もテオとジークと合流し、この日の祝杯を挙げに出た。ハルトヴィン顔馴染みの飯屋で個室をもらう。ヒト族とほぼ見た目が変わらないテオはともかく、鱗肌に覆われた亜竜族のジークはこの国では目立った。
こんがりと焼き目のついた肉料理、食欲をそそる香りの魚料理。エールやジュースも運ばれて、所狭しとテーブルに並べられる。その格段豪華な様子を見てカールもテオも驚き、思わずハルトヴィンを見た。
「おじさん、こんなにいいんですかっ?」
「そうだよ父さん。ちょっと見栄張りすぎなんじゃ……」
最後に小麦粉だけで作った白パンまでもが用意され、二人は財布の心配をした。
「はっはっは、大丈夫だよ。別に無理はしていない。うちの店だってそれなりに儲かっているんだからな? 年に一度の今日ぐらい、贅沢したって問題ない。それに今回はテオくんとジークくんの出演祝いも兼ねている。美味い飯で打ち上げといこうじゃないか」
「おじさん……!」
「ハルトヴィンさん、ありがとうございます」
主催の粋な計らいに二人の勇者は心から礼を述べた。
一通りが揃ったところで、ハルトヴィンがジョッキを掲げて祝杯の合図を取る。
「こんな豪勢なこと、もう当分ないからな? 皆、しっかり楽しんでくれ。春の実りと、テオとジークくんの見事な演舞と、カールの新しい門出に、乾杯っ!」
「かんぱーいっ」
「かんぱ~……あ、えっ、えええッ?」
景気の良い声に合わせて一同はグラスを付き合わせた。だがそのガチャン、という軽快な音から数拍おいて「おや?」という顔になる。最初に気付いたのはマルクスで、持っていたジュースのグラスを机に叩きつけ慌てて父を見た。
「とっ、父さん! 今、兄さんの門出って……!」
ハルトヴィンは既に口いっぱいにエールを味わっていて、それをたっぷりと堪能してからマルクスを見た。隣で母アリスも落ち着いた様子で赤ワインを楽しんでいる。
彼ら二人を除いて、他全員は驚いた顔をしていた。
「言葉のとおりさ。そんなに驚くものでもないだろう? カールはもう二十一だぞ? 十八、九で自立する者が多いのに、むしろ今まで引き留めすぎたぐらいだ。この収穫祭が終わったら、カールはうちを出る」
「歳は確かにそうだけど! でも、いきなりじゃないか!」
「そうよ! カール兄さん戻ってきたばっかりなのに…」
父からの突然の発表に弟妹たちは食いついた。つい先日、行方知れずからやっと戻った兄だというのに。たった数日でまたいなくなってしまうのは、どうしても寂しかった。
「っていうか、何でお前まで驚いた顔してんだよ、カール」
「え? いや、だってここで言うとは思っていなかったから…」
「どこか当てがあるのか?」
「えーっと……」
突然の発表にカールも面を喰らう。父に事情を話したのも、家族への説明を任せたのも自分ではあるが、まだ全然心の準備が出来ていなかった。
家を出る、と言っても行き先をはっきり言えないカールはジークからの質問に言葉が詰まった。何と答えればいいものか、ぱっと機転が利かない頭を恨む。ジョッキを両手で持ったまま視線で助けを乞うと、息子の代わりに父が答えた。
「西の方に工業国が集まっているだろう? アリスの故郷もある、西の大陸だ。そちらの方へ行って修行をするのさ」
「そうそうそう! ここを出て、新しい場所で、いろんな事を経験したいんだっ!」
「ふーん……西かあ。こっからだと海沿いに進んで、ウンベカントの港からネーエ行きの船に乗るってところか」
「随分と長旅になるな。一人で大丈夫なのか? カール」
具体的な話を聞いて少し信用したのか、テオとジークはそれぞれ料理に手をつけた。ニンニクの香りが漂う熱々のオリーブオイル煮は、ぷりぷりの海老と揚げ芋が入っている。焦げ目がついた羊の骨付き肉は囓ると香辛料の風味と肉の美味さが口に広がった。
ハルトヴィンが言う西の大陸とは、カールたちが住んでいる東の大陸の反対側にあるもう一つの陸地である。東と西は一応陸続きなのだが、繋がっているのは北のほんの一部だけで、ほぼ別大陸であった。昔はもっと幅広く繋がっていたという話もあるが、今は海を渡らなければ東西を行き来出来ない。
東大陸にある大きな港町がウンベカント・ラントで、そこから一番近い西大陸の国がネーエ・シュタットである。
旅の中で当然西側にも行ったことがあるテオとジークは、現在地からの旅路を思い描き、あれやこれやと会話を膨らませた。
「ここからだと、ウンベカントの港も結構遠いよな。雪山を越えられたら一直線なんだけど、ヒトにあの山は越えられねぇし」
「商船の下働きになると隣のシュトラントからずっと船で行けるんじゃないか? 旅をするには資金も必要だし悪くない」
「そうだな! それならウンベカントに行くまでに西への渡り賃も稼げる! ……ああ、それにしてもカールがここを離れるとはな。俺はてっきりソフィアさんと結婚して二号店でも出すんだと思ってたよ」
「えっ?」
カールはほろほろに煮込まれた牛肉を口の手前で零した。
「テッ、テオ兄っ!」
「だってよ、俺たまにしかここに寄らねぇけど、ソフィアさんずっと独りだろ? そんでいっつも隣にお前がいてさ。あんな優しい人がいるってのに」
「う、それは…」
「話したのかよ?」
「まだ……」
テオに気がかりだったところを突かれ、カールは思わず視線を逸らした。前回は突然のことだったが、今回は自分の意志で出て行くのだ。恋人のソフィアに黙って行くことはできない。どう説明するかはともかく、きちんと話す必要性を感じていた。
「ちゃんと言うよ。言う。だから今その話はなし」
「ほ~う、カールも言うようになったな」
「からかわないでってば」
香草の入ったスープを啜りながら、テオがまだ悪戯っぽくカールを見やる。その視線に皺を寄せて、カールは今度こそ牛肉を口へ放り込んだ。
マルクスとニナはまだ何か言いたそうだったが、周りがぱくぱくと御馳走を食べるのにつられて自分たちも手が伸びる。皮がぱりぱりに焼かれた鶏肉も、カボチャと豆のサラダも、家ではお目にかかれない豪華さだった。一口食べるとその美味しさに食が進み、意見や質問が口から出てこなくなる。食べて飲んでを繰り返すうちに、話題は演舞の内容や収穫祭の様子に移っていった。
これもハルトヴィンの計らいだったのか、そのままカールの話は御馳走に飲まれ、拍子抜けするほどあっさりと終わってしまった。
***
翌朝、カールは珍しく作業に向かない服を着た。丈の短い靴に、綿のパンツと長袖のシャツ。その上に重ねたベストは手持ちの中で一番上等な物だ。いつもはほったらかしの後ろ毛もやや整えて、精一杯の男前を作った。
今日はソフィアと収穫祭に出掛ける約束だった。
「おっ、珍しいな。お前が着飾るなんて」
「テオ兄だって昨日はすごかったでしょ! 今日は外行かないの?」
「んー……今はいいや」
カールがすっかり身支度を整えた頃、テオがゆっくりと起きてきた。昨日のきれいな身なりはどこへやら、真っ赤な長髪はまたぼさぼさに戻っている。服も寝間着のままで、あのときの美丈夫な演者とは似ても似つかない。
まだ少し眠たそうな従兄を置いてカールはドアノブに手を掛けた。
「カール」
出る寸前、真面目な声が彼を引き留めた。
自分よりも背の低い従兄が壁にもたれつつ真剣な顔をしていた。
「昨日の話、おじさんがああ言ったんだ。ここを出るのは本当なんだろう? ソフィアさんにちゃんと話して来いよ」
「……うん。ありがとう」
「ほんと洗濯馬鹿だよなー、お前」
「父さんの子だからね」
虚を突かれてカールは一瞬どきりとしたが、直ぐに落ち着いて返事をした。テオなりに気遣ってくれているのだ。大事なときになかなかはっきり言えないカールの性格を、彼はよく知っていた。
街は昨日の大演舞会を終えて収穫祭の終わりを漂わせていた。
前の二日は皆こぞって街へ繰り出すが、後の二日は買い物だけをして家で過ごす人が多い。店や劇場などは相変わらずやっているが、全体的にやや空く感じになる。それはそれで寂しい気もするが、のんびりと歩くには丁度良かった。
カールが約束の場所で待っているとほどなくソフィアがやって来た。彼女はロングスカートに丈の短いコートを合わせ、普段は括っているだけの長い髪を編み込んでいた。
ソフィアと出掛けるのは随分久しぶりだった。
「ごめんなさい、カール。待ったかしら?」
「ううん、大丈夫。今日は…髪を編んでいるんだね。とても似合っている」
「ありがとう。あなたもかっこいいわ」
大きな瞳をにっこりと歪ませてソフィアは笑った。
蜂蜜色の目が今日は一段と甘く思える。
カールは幾分照れながら彼女の手を取って、ゆっくりと歩き出した。まだ午前中で人通りも少ない。二人は昨日の演舞についてぽつぽつと喋りながら街を歩いた。転々と店を見ているうちに劇場へ辿り着き、そこで芝居を見た。
収穫祭に合わせて演じられた内容は、勇敢な青年が田畑を荒らすイノシシを打ち倒し女神に捧げる話であった。女神は巨躯の怪物を仕留めた智恵と勇気を讃え、大地に豊穣をもたらす。青年とイノシシとの戦いは手に汗握る迫力があり、女神からの祝福の賛歌はうっとりするほど美しかった。
役者の一挙手一投足にカールが目を見張る傍らで、ソフィアも表情を大きく変えて驚いたり、笑ったりしていた。カールは途中からそちらの方に釘付けになってしまって、後半はあまり舞台を見ていなかった。
観劇の後はまた露店や屋台を回りながら食べ歩き、祭の雰囲気をたっぷりと味わった。途中できれいな髪飾りを見つけ、カールはソフィアにそれを贈った。それから広場で大道芸を見たりカフェで休んだりしながら、日がな一日を楽しく過ごした。夕食は予約していた店で煮込み料理を食べて体を温めた。
どこへ行っても、何を見ても、何を食べても、隣で笑うソフィアが眩しくて、カールはずっと今日であって欲しいと思った。
けれども太陽は沈み夜がやってくる。
夜が明ければ、その次にやってくるのは今日でなく明日だった。
「もっと一日が長ければいいのに……」
辺りはすっかり暗くなり、二人はソフィアの家のすぐ傍まで行っていた。けれどもカールはそこで足を止め、離し難い彼女の手をそっと握りしめた。肉厚の、もっちりとした温かい手だった。
ソフィアもその声を聞いて足を止め、カールを見上げた。ゆるい三つ編みの中で、昼間にもらった髪飾りが揺れた。
「本当に。ずっと今日が続いてくれれば素敵だわ」
暗闇の中に白い吐息を浮かばせながらソフィアが言った。カールはそれを聞いてますます胸が苦しくなり、彼女に一歩近づいた。
不意に自分の鼓動が大きく感じられた。
「ソフィア……、君に、話があるんだけど。聞いてくれる?」
緊張で途切れそうになる声を精一杯絞り出す。
カールの雰囲気を読み取って、ソフィアは小さく「ええ」と答えてくれた。
「今日は、本当に楽しかった。君と一緒にいると、どんなことでもとてもとても楽しく感じられる。俺は……君のことが本当に好きだ…」
「私もカールのことが大好きよ」
「うん。今までも、俺がいなかった間も、ずっと想っていてくれて嬉しかった」
ソフィアは辿々しいカールの言葉を一言ずつしっかりと受け止めてくれた。まだ迷いがちな台詞の、その先を期待していた。
淡い月の光が二人の姿を映し出す。
海の色をしたカールの瞳と、大地の色をしたソフィアの瞳がそっと触れ合った。
「愛しているよ、ソフィア。俺はこの収穫祭が終わったら国を出る。一緒に付いてきてくれないか?」
「私も愛しているわ、カール! ……でも、出るってどこへ行くの? 洗濯屋の二号店を出すの? 隣のシュトラントか、その先のピオニールのあたり?」
「ううん。もっと遠く……たぶん遠くだ」
「たぶんって、どういうことなの?」
二人は互いに強く手を握り合った。
影のせいで分かりにくいカールの表情をソフィアが心配そうに覗く。
カールは結婚するのに十分な歳だったし、彼女もまたそういう話が来る年頃だった。実を言えば、既にいくつか話はあった。
それでもソフィアはカールを待っていたのである。
「ソフィア、俺と一緒に魔国に来てくれないか?」
「えっ……?」
一瞬、二人の時間が止まった。
驚きで目を見開いたソフィアは困惑していた。
長年付き合ってきた相手が魔物に攫われたかと思えば、今度は帰って来られたにも関わらず、また魔物の地へ行くと言い出したのだ。彼女にはカールが何を言っているのか理解できなかった。
ただ一つ、彼女が見て取れたのは、カールは既に決めているということだった。
「どうして…? 噂のようにあなたは魔物の配下になってしまったの? どうしてそんなことを言うのよ、カール! 私っ、あなたとなら、あなたとならどこへでも行けると思ってた! でも私が思っていたのはヒトの国だわっ! 魔国は、魔物が住むところでしょう? ヒトの住む国ですらない……私たちなんかあっという間に殺されてしまうわ!」
「それは誤解だよソフィア! 魔物でも優しい人たちがいるんだ! きれい好きな魔王様もいる! だから俺は、そこで洗濯屋としての腕を磨きたいんだ! 俺がまだ知らない服や洗い方に、あそこに行けば出会えるんだ! お願いだよソフィア、俺と一緒にっ…」
「無理よ、カール!」
もう一歩近づこうとしたカールの体をソフィアは両手で押し返した。
楽しかった一日が夜気で一気に冷やされて体に染みる。カールは泣きそうになった。けれども泣くことは出来なかった。なぜなら彼が泣くよりも先に、蜂蜜色の瞳が大粒の涙を零していたからだ。
「どうして、どうしてなのよっ? やっと、一緒になれると思ったのに! あなたはそうやって一人で決めてしまう! 私は洗濯をするあなたが好きだわ、カール! でもあなたの夢に付き合って、魔物の国へは行けないっ! だって、私は……私は、あなたと普通に幸せになりたかった…。普通に家庭を持って、子供を育てて、あなたと一緒に年を取っていきたかった……。だから、そんな所までは付いていけないの…。私にだって、私にだって夢があるのよ………。魔物の国まで付いてなんて行けない……」
ぽろぽろと幾筋もの涙が頬を零れていった。
垂れ下がった眉が、濡れた瞳が、震える唇が、彼女の悲しみを表していた。
ソフィアは拳を握ってカールの胸を叩いた。その弱々しい衝撃がカールを襲い、彼に泣くことを踏み留まらせた。今ここで泣く資格はないと思わせた。
魔国に戻ると決めたときから薄々予感はしていた。けれどもカールは都合の良い期待を捨てきれなかったし、夢を諦めることもできなかった。もしかしたらと、心のどこかで願っていた。
自分勝手だと責められてもカールは弁明ができなかった。
彼女を想う気持ちまで天秤にかけたのは、事実だった。
「ソフィア、ごめん、ソフィア……。君を愛している。愛していたんだ」
「私だってあなたが好きだったわカール! 一緒になりたかった!」
「でも、俺は行くよ…」
「ええ」
「君は幸せになって」
「……なるわ。あなたじゃない、誰かと…」
ソフィアはそこまで答えるとわっと声を上げて泣き出し、カールの胸にしがみついた。カールはそれ以上かける言葉がなく、ただじっと泣くのを堪えて抱きしめた。
彼女はカールの腕の中で一頻り涙を流し終えると無言のまま身を引いた。最後に残った指先が、名残惜しそうにやや留まったが、それもするりと解けてしまった。
月の光が照らす蜂蜜色の瞳をカールはきれいだと思った。
「さようなら」
そう言って振り返ったソフィアの頭には髪飾りがきらめいていた。
***
収穫祭の最終日。商店では駆け込みといわんばかりに値引きが始まる。この頃になると目玉商品はほとんど消え、代わりに残り物をまとめた安売り品が軒先に並ぶ。他の時期に買うよりも日用品が安く買えたりするので、これを目当てに訪れる旅人も多い。
ベーア家でも何か掘り出し物がないかと、アリスが弟妹を伴って買い物に出ていた。ジークは次の仕事が決まったらしくその打ち合わせに出掛けた。居間に残ったのはハルトヴィンとテオの二人で、そこにこの日一番の寝坊助、カールが起きてきた。
寝間着姿に毛布を羽織っただけのカールの両眼は見事に腫れていた。
「おはよう…」
「おー、おー、ウサギみたいになっちまって」
「おはよう、カール。服くらい着替えたらどうだ?」
「……後で着替える…」
カールは手短にそう答えてどさりと自分の席に着いた。いつもは束ねている後ろ髪がまばらなままで、それが項垂れるように首に掛かっている。気が抜けたようにずずずと頭が下がっていって、カールはテーブルに突っ伏した。
テオはその正面に座り物珍しそうにカールを見た。
「ま、国を出る男に付いてきてくれる女はそういないよな」
「………」
「でもソフィアさんなら、って思ってたんだけど。やっぱ駄目だったか」
「……違う…」
「ん?」
「ソフィアじゃなくて、俺が……」
想像で喋りだした従兄に対して、カールは丸まりながらもごもごと反論した。けれども声が小さすぎてテオはそれを聞き取れない。聞き返しても無駄だと分かると、テオは蓑虫のようなカールを突っついて遊んだ。
そのうちにハルトヴィンがスープを温め、テーブルに置いた。カールはのそりと体を起こすとそれをちびちびと食べた。
始終しょげた様子の息子を見てため息をつき、ハルトヴィンも席に着く。彼は薬缶から三人分の茶を注ぐと、それを一口飲んでから話を始めた。
「カール、お前が家を出ることについてだが。テオくんに途中まで付いていってもらおうと思う」
「付いてくる……? 途中って、どこまで…?」
「森の方でも、海の方でも構わない。この国が見えなくなる辺りまでだ」
「おじさん立っての頼みだ。何なら西の大陸まで送り届けてやってもいいぜ!」
「だいたいお前、一体どうやって向こうへ戻るつもりなんだ? 魔国の位置は分かっているのか?」
「そうだ。出る前に、行き先の位置はしっかりと……って、え?」
「通信用の道具があるから、それで連絡をしたら何とかなると思う…」
「魔法の道具か! 後で見せてくれ」
「いいよ」
「ちょっ、ちょおーっと待ったッ! 待った、待った!」
ハルトヴィンの頼みでカールの旅立ちに付き合う予定だったテオは、二人の会話を聞きながらおかしさを感じた。おかしいどころか、妙な単語を聞いた気がした。それなのに淡々と続けられる会話の腰を折り、堪らず立ち上がる。
芋虫状態のカールは相変わらずの赤い眼で、ハルトヴィンはどうしたという表情でテオを見た。
「おじさん、今、魔国って言った?」
「ああ、そうなんだよテオくん。どうやらこいつ、向こうで働いていたらしいんだ。だから魔国に戻るんだと」
「魔国って、魔物が住んでいる、あの?」
「その魔国だ」
ハルトヴィンの言葉を聞き返した後、テオはカールを振り向いた。スープを飲んでいくらか起き上がったカールが、ただこくりと頷く。
一拍間を置いて、テオドールの馬鹿デカイ声が家に響いた。