第十八節*カールと家族
「アンタが近くにいて良かった。喧嘩相手だけじゃなく、うちのまで三人も殴り飛ばされたんだ。まったく、大した弟さんだよ」
「本当に申し訳ありませんでした…」
「今回は収穫祭に免じて釈放するけど、普段なら石牢行きなんだからね?」
「はい。本当に、すみません…。よく言って聞かせます……」
収穫祭初日の夜。帰りがけの大通りで、カールは憲兵に取り押さえられる弟を見つけた。初めは聞き覚えのある声にまさかと思ったが、野次馬を掻き分け見たそこには確かにマルクスの姿があった。
カールは慌てて憲兵に掛け合い、一緒に詰め所まで行ったのである。
憲兵の話によると、マルクスは全く見知らぬ青年たちと喧嘩をしたらしかった。状況は一対多数。当然マルクスは顔や腕に傷を作っていたが、相手の青年たちもかなり凸凹になったと言う。
当の本人はカールの姿を見てから一言も口を利かず、黙ったままだった。
それは詰め所から帰され、家に着くまでずっと続いた。
「マルクスっ! あなた何があったの? 酷い怪我っ。早く手当をしなくちゃ」
「……ん」
帰宅すると直ぐにアリスがマルクスの様子に驚いて中へ引っ張っていった。カールはその後ろ姿を見送って静かに扉を閉めた。二階から下りてきた父と出会い、すっかり冷め切った土産を渡す。
「騒がしいな。何かあったのか?」
「うん。ちょっとね…」
どう説明すれば良いのか分からず、カールは曖昧に語尾を濁した。
『洗濯屋と魔王様』 第二章
母にありったけ手当をされ、マルクスの腕は見事に包帯でぐるぐる巻きになった。顔や脚にもたくさんのガーゼが当てられ、掠り傷には軟膏が厚く塗られた。マルクスは手当をする間中質問攻めにあったが、始終視線をうろうろさせて黙っていた。
そのうちニーナが帰宅し、テオたちも戻った。皆マルクスを見るとぎょっとしたが、気を遣ってさっさと別の部屋へ行ってくれた。
たくさんあった暖炉の薪が少しずつ灰になって崩れていく。
相変わらず口をつぐんだままのマルクスを前に、カールとハルトヴィンだけが残った。
暖炉の火と、心許ないロウソクの灯りが三人を照らす。窓から染み入る夜気がやけに肌寒く感じられた。
ぱちり、ぱきり、と静かに薪が弾ける。
我慢比べのような静寂が続いた。
ハルトヴィンは顔の右側で細く編んだ三本の三つ編みを時折揺らし、マルクスの言葉をひたすらに待った。彼はこの家で一番辛抱強く、頑なで、真っ直ぐな男だった。その性格を受け継いだカールもまた、一度決めたらテコでも動かない男である。
時間が経てば経つほどマルクスの分が悪くなった。
「……ご、ごめんなさい…」
暖炉の薪がすっかり白くなった頃、遂にマルクスの心が折れた。ぽつりと零れた言葉に反応し、ハルトヴィンが直ぐに切り返す。
「何がごめんなさい、なんだ? 俺たちはまだ喧嘩の理由を聞いていない。お前は何か悪いことをしたのか?」
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ淡々と事実を問う声が部屋に響いた。マルクスはその声を聞いて少し体を縮こまらせ、それから慎重に言葉を選びながら話し出した。
「屋台で、友達とメシを食っていたら……、話し声が聞こえてきたんだ。最初はよく聞こえなかったし、別に聞くつもりもなかったんだけど。でも、あいつら酒を飲んでいたみたいで。だんだん声がでかくなってきて。それで、何を話していたのかが分かって。大声で、その……」
「その?」
「に、兄さんが生きて帰ってこれたのは、魔物、の……手下になっ、たからだ、って…」「えっ?」
俯きながら話すマルクスの言葉にカールが驚いた。同時にハルトヴィンも目を丸くする。カールの生還が国中の噂になっていることは知っていた。それでテオとジークにも演舞に参加という大役が回ってきたのだ。けれどもまさか、そんな話になっていただなんて。いつの間に巨大な尾ひれ背びれが付いたのか。
マルクスはぎゅっと唇を噛みしめ、涙を溜めた顔を上げて二人に訴えた。
「あいつらっ、兄さんが魔物に攫われたのに無事だなんておかしいって、そう言って好き勝手に喋りまくってたんだっ! 酒に酔っ払って馬鹿みたいに大声で! 俺の兄さんがそんなことするわけないだろうっ? 兄さんは、テオ兄たちが一生懸命探してくれて、それでやっと帰って来れたんだッ! それなのにっ、あいつらはそれがおかしいって。そんな事あるわけがないって。臭い息を吐きながら兄さんのことを侮辱したんだっ!」
堰を切ったように言葉が溢れかえり、マルクスは怒りにまかせて机を叩いた。目からは大粒の涙がぼろぼろと零れテーブルクロスに淡いシミを作った。
「兄さんはっ…、俺の兄さんは、そんな人じゃ、ないっ……」
表しきれない悔しさが体全体から溢れていた。
一度流れ出した涙は止まらず、彼はわあわあと声を上げて泣いた。
ハルトヴィンは息子を強く抱きしめ「ありがとう」と一言、勇敢な戦士を讃えた。
燃え尽きた薪がぽそりと落ちるように、泣き疲れたマルクスは静かに眠りに落ちた。
体が麻痺したようで、冷気が頬を刺してもカールは動けずにいた。マルクスが聞いた話は、一体どれほど広がっているのだろうか? もしかすると店に来てくれた客の中にも、自分のことをそんな風に見ている人がいたのだろうか?
彼は故郷で以前と変わらぬ日常に戻ったつもりだった。以前と同じように接しているつもりだった。しかし、カールを見る人々の目は以前とは違っていた。
それがマルクスの喧嘩の原因だった。
ハルトヴィンがマルクスをベッドへ運んで戻ってきても、カールはまだ椅子に座ったままだった。
「今夜はもう薪がない。風邪をひくぞ、カール」
放心した息子に毛布をかけながらハルトヴィンはそう言った。その言葉にカールは僅かに反応し、「うん」と短く答えた。ゆっくりと立ち上がり、自分の部屋へ向かう。
けれどもその足は直ぐに止まってしまった。
「俺、マルクスに辛い思いをさせちゃったね…」
ぽそりと弱々しい声が闇に零れた。
それを聞いたハルトヴィンは大きくため息をつき、自分とほぼ同じ背丈の息子を強く抱きしめた。
「確かにそうかもしれない。でも、お前が帰ってこない事のほうがずっと辛かった。あいつはいつもお前の後を付いて回っていたからな。テオくんに捜索を依頼するまで、ずっと自分が探しに行くんだって言い張ってたんだぞ? お前が無事に帰ってきてくれたことを、マルクスは誰よりも喜んでいるよ」
「でも、俺が戻らなければマルクスが喧嘩をすることはなかった。それに……」
「それに?」
「…俺は……、また、マルクスを悲しませることになる…」
大きく優しい父の体にしがみつきながらカールは罪悪感を滲ませた。その言葉の意味を分かりかねて、ハルトヴィンが怪訝そうな顔をする。
短くなったロウソクの炎がカールの表情を影濃く照らした。
「収穫祭が終わったら家を出ようと思うんだ」
それはまるで提案するかのような口調で、しかし、決定事項を告げる言葉だった。
ハルトヴィンはマルクスのとき以上に驚き、直ぐに言葉を返した。
「出るって、お前は帰ってきたばかりじゃないか。結婚するとか、店を持つとか、そういうことなら分かるが。お前の言う出る、って言うのは一体何だ? 一部の人間の言葉を真に受けて余所へ行くというのなら、俺は絶対に許さんぞ。お前は俺の息子だ。この家の家族だ。お前だけに悲しい思いをさせるものか」
そう言ってつなぎ止めるようにカールの肩を掴んだ。カールはその、手の甲まで毛がある肉厚の手に自分の手を添えた。父親ほど毛深くはないが、彼の手もまた丸みを帯びた太い指をしていた。
どちらの手も日々の水仕事で細かな傷が絶えない。
闇を含んだカールの瞳は凪いだ海のようだった。
「ありがとう、父さん。でも、俺が出て行くのはマルクスの話を聞いたからじゃないよ。それよりも前に決めていたんだ。働きたい場所ができたんだ。街の噂話は半分合っている。俺がテオ兄に見つかるまで元気でいられたのは魔国で働いていたからなんだ。俺を攫ったのは魔国の王様だったんだよ。まあ働くって言っても最初はいろいろあって。本当に働き出したのはつい最近なんだけど。……俺は、魔国のお城で働きたいんだ」
「魔国の、城……? お前、魔物のところに行くつもりなのかっ?」
二階にいる家族に聞こえないように声を潜めて、しかし押さえきれない驚きでハルトヴィンは語気を荒げた。肩に置かれていた優しい手が下ってぐっと手首を掴んだ。またあのときのように消えてしまいそうな息子を父は必死で捕まえていた。
「あの魔物に攫われて、一体何があったんだ? ヒトを奴隷にした魔物はいても、ヒトと共存した魔物はいない! 二十を超える王国が建った今も、魔物たちが脅威であることに変わりない。そんなところに、お前をっ……」
ハルトヴィンの言葉はもっともだった。それが世界の《常識》であり、カールもずっと信じてきた現実だった。けれどもその現実はカールが出会った事実によって覆ったのだ。教会で教えられていることだけが世界の全てではなかった。
カールは自分と同じ仕事に誇りを持っている父の手を握り返して言った。
「俺、魔国で洗濯をしたんだ。服がきれいになったことをみんな喜んでくれたんだよ」
「………」
「ここでも向こうでも、きれいになった洗濯物を喜んでくれる笑顔は変わらなかった。ヴフトさん…、俺を攫ったあの人もそうだった。俺が洗った服を見て、すごくすごく喜んでくれた。俺は自分の新しい居場所を見つけたんだよ、父さん」
魔国での洗濯を思い返しながらカールはそう言った。拭き洗いをしたスーツ、仕上げに魔法の粉をかけてもらったヴフトの衣裳、初めて見た不思議なズボン《袴》。そのどの洗濯の後にも、きれいになった服を喜ぶ持ち主の顔があった。
カールはそれら一つ一つを思い出し、その興奮を父に伝えた。
「洗濯屋ベーアの技術は魔物だって笑顔にさせるんだ! 俺はこの技術を、新しい場所でもっともっと磨いていきたい。ヴフトさんのいる魔国ならそれが出来るんだよ!」
それは紛れもなく大発見だった。分かり合えない、近づいてはならないと教えられていた相手と、同じ喜びを共有できたのだから。そしてこの喜びは、同じ職人である父にも分かってもらえると信じていた。
実際、ハルトヴィンは立派に育った息子を嬉しく思った。職人としての喜びや目標を持ったカールを頼もしく思った。彼も若い頃、技術を求めて世界を旅したことがある。故郷を出て多くの国を巡り、見識を広めたからこそ今があった。旅の途中で妻のアリスとも出会い、カールが生まれてからこの地に住み着いたのだ。
新しい世界と技術とを求めて旅立とうとする息子を、彼は止めることができなかった。
ただ、カールは間違いなく自分の息子であると、そう感じただけだった。
「……前代未聞だな。そのうちこんな田舎町だけじゃなくて、世界中で噂になるぞ。ヒト族が、魔物の国で働くなんて。王国しか見てこなかった俺よりも、もっと広い世界が見られそうだな」
「父さん…」
「とりあえず、今はまだみんなに黙っておこう。マルクスのこともあるし、折角の収穫祭だ。今は祭を楽しんで、それから上手い手を考えよう。また攫われたなんて噂されるのも御免だしな。修行に出るとかそういう事にして、今度は門から出て行くと良い」
「うん。俺もその方が良いと思う」
皺に沿ってハルトヴィンの顔がにっと笑う。
二人の話はそこで終わり、それぞれに二階の部屋へと上がっていった。
***
翌日、マルクスはハルトヴィンの言いつけで一日留守番となった。父の言い渡しにマルクスは少しむっとした表情をしたが、大人しくそれに従った。テオとジークはいよいよ明日に控えた演舞の最終合わせに出掛け、ニーナは母と一緒に街へ出た。
休業中の店には特に洗う物もない。預かり物はどれも持ち主を待つばかりでマルクスは暇そうに暖炉の番をしていた。ときどきカールが声を掛けてみるが、昨日の今日でどうも素っ気ない。父は普段使いっぱなしのアイロンストーブを掃除していた。
昼食を終えて午後になっても、マルクスは机の上にふて腐れたままだった。
「なあ、マルクス。お前いつまでそうしてるつもりだ?」
「……」
「マールークースー。俺だって暇なんだ。話し相手にぐらいなってくれよ」
「………」
「もう。意地っ張りだなあ」
視線を合わせようにもふいっとそっぽを向いてしまう弟にカールは痺れを切らした。上からのし掛かるように彼を捕まえると、ぐりぐりと額を擦りつける。流石に反応せざるを得なくなったマルクスは兄をぐっと押しのけ、不満そうに睨みつけた。
「何なんだよ! 兄さんも外に行ってくればいいだろっ?」
「やだよ。お前けっこう派手にやらかしたし。用がないから今日は行かない」
「は、派手って……。そんな滅茶苦茶やってないし…」
「いいや、やったね。俺のために殴った青年たちをナシにしても、憲兵を三人もやった」
「それは成り行きで…」
「まったく。お前はうちで一番腕っ節が強くて困るよ」
兄の言葉に返しきれなくなったマルクスはしどろもどろと小さくなった。そこをすかさずカールが捕まえ、ぐっと体の向きを変えさせる。すると、やっと目の周りが少し腫れぼったくなった弟と視線が合わさった。
まだ少し眉間に皺を寄せる弟がカールにはとても可愛く思えた。
それと同時に弟の勇敢さが心に染みて、誇らしさの余りに笑みが零れた。
「……兄さん、何で笑ってるの」
「いい弟だなあと思って」
「…からかってるでしょ?」
ふふ、とはぐらかしたカールにマルクスは頬を膨らませた。けれどもう、その声を聞いていると大好きな兄を無視することも馬鹿らしくなって、マルクスはむくれつつも降参して抱きついた。
その後はお茶を飲みながら喧嘩の様子を喋ったり、昨日見てきた祭の様子を話し合ったりした。ほどなくニーナたちが戻り、平和でのんびりとした時間が流れる。
夕方には騒動を聞きつけたソフィアが見舞いに来てくれて、一緒に夕飯を食べた。明日は収穫祭の目玉、大演舞会が行われる三日目だ。テオたちが出ることもあって、会話は大いに弾んだ。
夕食後、カールはソフィアを家まで送っていった。
長い祭の夜もそろそろ灯りが消え、代わりに高い夜空に星々が輝いている。
「長いこと引き留めちゃってごめんね」
「ううん。楽しかったわ。マルクスくんも、大怪我じゃなくて良かった」
「ありがとう。…ああ、家の人たち、みんな寝ちゃってるみたいだね」
彼女の家に着くと、ソフィアの父が建てた立派な二階建てはどの窓も暗く寝静まっていた。カールはやはり遅くなり過ぎたと反省し、彼女に申し訳なく思った。
だがソフィアはその言葉を聞いてそっと首を横に振ってみせた。
「……違うのよ。今日は弟たちしかいなくって。明日の舞台準備のために父は大工仲間と泊まりなの。母もその手伝い。……だから、暗くて当たり前なのよ…」
白い息がふわりと夜に溶け込んでいく。ソフィアは暗い家の窓を見つめながら、しかし近づこうとはしなかった。カールも別れを切り出さない彼女を前に、道中ずっと繋いでいた手を離すのが惜しくなる。
握り合う手だけが熱っぽい。
カールはすんなりと気の利いた言葉を言えるような男ではなかった。
夜風の冷たさに後押しされて、やっと口を開いたのだ。
「…今夜は、帰ってこないの?」
「うん」
「明日、みんなで演舞を見に行くって約束したから、日が昇るまでいられないけど…」
「知ってるわ。ずっと聞いてたもの」
まどろっこしい、けれども必要な間が二人の距離を近づける。
カールをちらりと見上げたソフィアの瞳が後一歩と先を促した。
「……少しだけ、俺も長居していいかな?」
「もちろん」
やっと出たその言葉にソフィアはぎゅっと抱きついた。
彼女の体温を抱きしめて、カールの中に甘酸っぱい気持ちが広がる。
冷えたベッドに潜り込んだ二人は、朝日が昇る少し手前までゆっくりと眠った。