第十七節*カールとマルクス
眩しい光が部屋いっぱいに差し込み、カールは久しぶりに朝日で目を覚ました。昨夜遅くまで起きていたせいで少し眠たかったが、人々はもう動き出している。カールも店を手伝うべく、急いで支度をした。
殺風景な机の上には小さな貝殻と丸い石。その二つだけが昨日までの出来事を裏付けていた。故郷に戻ってしまった今、再び魔国と繋がるための唯一の鍵である。
カールはつるりとしたその石を貝殻の手前に置いた。
一度、通信に使ってしまったこの魔法石はもう使えないらしい。新しい物と交換するから机の上に出しておくように、とヴフトに言われていた。無事に取り替えられれば、石は貝殻の奥へ置き換えられているはずだ。
「これで良し、と」
いつ交換されるかは分からないが、昨夜もいつの間にか使いの魔物はやって来た。これもきっと知らない間に置き換わっているに違いない。カールはそれを心待ちに、久しぶりの店番に出ていった。
『洗濯屋と魔王様』 第二章
森の街ヴァルト・シュタット。ヒト族が二十三番目に建国した比較的若いこの国は、農業の盛んな地域だった。街は森と山とを背に、海に向かって裾野を広げた形をしている。その城外に広がる一面の穀倉地帯は少し離れた岸辺の隣国付近まで続いていた。
山から下りてくる風がやや暖かくなってくる春。越冬した麦は一斉に穂を膨らませ、農夫たちが総出で収穫作業に取りかかる。自分の農地は勿論、早く終われば人手が足りないところへも手伝いに出る。もたもたしていると春が過ぎて夏が来てしまう。この辺りでは麦の後に牧草を育て、牛や羊を放す家が多かった。
それに春の仕事が終われば年に一度の収穫祭が待っている。
この祭は穀物の実りを国全体で祝い、王が国民の働きを労う大切な行事だ。国王自らが開会の儀を執り行い、丸五日間の盛大な祭が開催される。国からは新しい小麦で作られたパンが国民に振る舞われ、街には屋台が立ち並ぶ。見世物小屋や大道芸といった旅芸人も大勢やって来きて、ヴァルト・シュタットが一番活気付く時期だった。
そして、祭の目玉は三日目に行われる大演舞会だ。これは王室と国民とが同じ物を楽しむ唯一の行事で、城の近くに設置される舞台の上、身分を問わずさまざまな舞いが披露される。一糸乱れぬ衛兵たちの行軍演舞、甲冑姿が美しい騎士団の騎馬演舞。また街の演劇場で活躍する踊り子たちや、旅の一座による演舞などもある。いずれも【言葉を用いない】という決まりの下、槍や剣などを使った技が見られた。
そんな国を挙げての盛大な行事を前に街は何かと忙しかった。大人も子供も祭の準備に追われ、ついつい家には汚れ物が溜まっていく。近所で寄り集まって一気に洗濯をすることが多かったが、出し物の準備に勤しむ人々はその時間さえも惜しかった。
だが、洗濯物をまとめて店に預け、後で取りに行くぐらいなら簡単だ。洗濯屋ベーアが出来てからは、そう言ってこの時期だけは家の洗い物を全て持ってくる人が増えていた。ゆえに収穫祭が近くなると、洗濯屋は繁忙期を迎えるのである。
「こんにちは、ベーアさん。今年もしばらくの間、よろしく頼むわね」
「ベーアさん! ちょっと多いんだけど、また頼むよ! あ、そうそう、息子さんが無事だったそうじゃないか。いやあ、良かった。良かった」
「よお、ハルトヴィン! カールくんが帰ってきたって? 奇跡だな! これ、ちょっと早いがみんなで食べてくれよ。本当に良かったな!」
この国唯一の洗濯屋は、朝から大量の洗濯物を抱えた人々で溢れていた。中には早速カールの生還を祝いに来てくれた常連たちもいて、店内はいつも以上に賑わっている。そんな彼らに顔を見せるため、カールは朝からカウンターに出ずっぱりだった。母と一緒に荷物の受け取りをしているものの、呼び止められては礼を言い、語りかけられては笑顔を返す。触った洗濯物の数よりも、客と交わした握手の方が断然多かった。
父ハルトヴィンも作業部屋の扉を開け放ち、呼ばれれば直ぐに店の奥から顔を出してきた。お陰で仕事は多いのに、作業は遅々として進んでいない。
カールが魔物の下から助け出されたという話は、それだけ噂になっていたのだ。
その奇跡の青年を一目見ようと、店の外には野次馬もちらほら見える。
もう一方の注目の的、勇者のテオとジークは次の仕事を探しに街へ出ていた。
賑やかな店の表とは打って変わり、裏庭は洗濯物で溢れ弟妹が唸っていた。普段なら父か兄がいて、大量の仕事も上手く回してくれるはずだった。だが二人を客に取られてしまい、いつもの倍はある仕事が今はマルクスとニーナに任されている。湯を沸かし、洗濯物の具合を見、竿に干して乾いた順から取り込んでいく。その一連の動作を止めることなく繰り返していくことは、なかなかに難しかった。
「ねえ、マルクス兄さん。この汚れ落ちないんだけど、どうすればいいの…?」
「えっ? 待ってよ。こっちを干さないとシワになっちまう」
「そんなこと言ったって、私だってまだ洗い物がいっぱいあるのよっ? それぐらい早く干しちゃってよ!」
「無茶言うな! 俺の腕は二本しかないんだよっ!」
二人は足りない知識を寄せ合わせながら、どうにかこうにか捌いていく。
有り難いことに日差しは多く、風も吹いていて絶好の洗濯日和だった。
しかし洗濯物は次々と運ばれてきて切りがない。開店と同時にやって来た大量のそれは、昼過ぎになってもまだ終わらなかった。
「マルクス、ニーナ、交代するから昼食を食べておいで」
そんな中やっと店の表から裏に回ってきたカールが顔を出した。まだタライに手を突っ込んでいたマルクスは、その姿を見てほっと一息つく。ニーナも乾いた洗濯物を取り込みながら、嬉しそうに声を上げた。
「カール兄さん! もう表にいなくて大丈夫なの?」
「うん。表は落ち着いてきたし、午後はこっちを手伝うよ。大変だっただろう?」
「大変なんてもんじゃないよ! 兄さんいなくてほんと忙しかったんだから!」
「ごめん、ごめん。ほら早く上がりな」
文句を垂れるマルクスを宥め、カールが二人と交代する。
庭いっぱいにはためく洗濯物を前に、彼は大きく深呼吸をした。
「んー……はあっ、いい天気。日のあるうちに残りを洗っちゃわないと」
やっと洗濯ができることを喜びながらカールはぐっと袖を捲る。洗濯物の具合を見極めながら、それぞれの家が混ざらないようにタライを使い分けていく。どの家にも似たような衣類があるから、よくよく注意しなければならない。
馴染みの道具で行う久しぶりの大仕事に、カールは自然と笑みを浮かべていた。
難しい一着を仕上げるのは胸が高鳴るが、大量を捌くのも腕が鳴る。やはり、彼にとって洗濯というものは、どう取り上げても楽しいものだった。
***
夕方、日が傾き始めると気温は徐々に下がってくる。庭中にあった洗濯物は軒下や家の中に取り込まれ、アイロンを当てられたり畳まれたりする。それは主に母アリスとマルクスの仕事だった。洗濯から一端手を引き、夕食の支度を始めるのは父ハルトヴィンとニーナである。
カールの母は彼が生まれた頃から膝が悪かったため、杖が手放せずにいた。杖があっても長く立つことは辛いようで、いつも椅子に座っている。だからベーア家の立ち仕事は、すべて父が行っていた。住み始めたばかりの頃は「奇妙だ」と近所で噂されたらしいが、ハルトヴィンは全く気にしなかった。彼はアリスからいろいろな料理を教わり、今ではその味を娘のニーナに教えている。
二人の仲の良さは人々の考えを改めさせ、街で指折りの鴛鴦夫婦と評判された。
そんな父ハルトヴィンは今日も慣れた手つきで夕食を作り、日がすっかり落ちた頃には家の中に良い香りが漂っていた。
「おじさん、ただいまー」
食事をテーブルに並べ始めると、頃合いを見計らったように扉が叩かれ、テオとジークが帰ってきた。
「お帰り。随分と遅かったじゃないか。いい話がなかったのかい?」
「いやあ……、それが。収穫祭の準備を手伝うことになったんですよ。だから、まだしばらくここに置いてもらいたいんですけど…」
「私も、よろしければお願いしたく」
家主のご機嫌を伺うようにテオが尋ねる。ジークも同じ状況のようで、真っ直ぐな目で事の是非を気にしている。
ハルトヴィンはその話を聞くと、直ぐに大きく笑ってみせた。
「ああ! そういうことか。勿論、大歓迎さ。たまにはゆっくり泊まっていくといい」
「やった! いつもありがとうございますっ!」
半ば確信していた返答を聞いて、テオの顔は直ぐに明るくなった。二人は礼を言うと食事の準備を手伝い、一家の食卓に席を連ねた。
昨日のような特別な物はないが、温かい料理が揃っていた。
「準備の仕事ってことは、舞台とか屋台の設営?」
黒っぽいライ麦の混ざったパンを囓りながら、カールが聞いた。
「おう。それにな、俺とジークで演舞もやることになったんだ! 魔国からお前を救い出した話が広がって、縁起がいいから是非やってくれってよ。そっちはタダ働きなんだけど、剣振り回すだけで宣伝になるんだから儲けもんだぜ!」
「テオ、構成は俺が考えるから、あまり予測不能な動きはするなよ」
「えーっ? お前なら大丈夫だろ?」
テオの気楽な物言いにジークの鋭い視線が反論する。
二人は何度も一緒に仕事をしてきた同業者だった。普段はそれぞれで仕事をしているが、大きな山に当たるときには連絡を取るらしい。今回のカール奪還も、一人では荷が重いと感じたテオがジークを呼んで協力を得ていた。
勇者という職業は、簡単に言うと旅の何でも屋である。基本的に一人か二人程度で行動し、依頼を受けながら世界中を旅している。農作物の刈り入れを手伝ったり、野犬から田畑を守ったり、商人の護衛をしたりとその内容は様々だ。体力と腕っ節だけが頼みの、危険を伴う仕事だった。名が売れれば高く依頼料を取ることができるが、そう簡単な道のりではない。
正直なところ、街に住む人々は彼らに仕事を頼みはするが、彼らのことをやや下に見ていた。家や財産を持たない者、流浪人、と考える人が多かった。勇者は成功すれば名誉や賞賛を得られるが、そうでなければ只の根無し草だ。その賞賛でさえ、上辺だけの薄っぺらなものがほとんどだった。
そんな勇者の二人が、国の行事に参加するというのはかなりの大抜擢だった。
「ただ振り回すだけじゃお前の言う《宣伝》にすらならないと言ってるんだ。俺だって名を売るいい機会なんだ。下手を打ったら承知しないからな」
ジークの金に縁取られた丹色の瞳がきっ、とテオを睨みつけた。テオは口にパンを含みながら、ふごふごと笑って返事をした。元より承知しているのだ。
「俺、絶対見に行くから頑張ってね。二人とも」
そんな彼らを見てカールも嬉しくなり、笑顔で声援を送った。
***
それから三日ほどが経ち、街はいよいよ収穫祭に近づいていた。準備をするのはもう後一日。明後日には街中が大きな宴に包まれる。人々の関心は奇跡の生還を遂げた青年から収穫祭へと移り、洗濯屋ベーアの仕事量もやや落ち着いてきた。店の表にいる必要がなくなったカールは嬉々として朝から洗濯作業に勤しんでいた。
楽しそうに洗濯をするカールを見て、一緒に裏庭に出たマルクスも笑顔になる。
この日はカールがいたお陰で手際よく洗濯物が片付いていた。
「やっぱ兄さんがいると違うなあ」
カールの隣で新しいタライを準備しながらマルクスがしみじみと言った。ぬるま湯に石けんを溶かし入れ、優しくかき混ぜるように洗濯物を沈めていく。
「そう? 量が多かった三日間、ニーナと上手いことやってたじゃないか」
「上手いことなんていってないよ! あいつちょっと分からないだけで聞いてくるし、お湯が足りなくなったり、竿がいっぱいになったりして大変だったんだから!」
「でもちゃんとやり遂げただろう? 十分さ」
黄ばんだシャツの首回りをカールはブラシで丁寧に擦る。
「……ううん。やっぱ兄さんがいないと駄目だよ。この店を継ぐのは兄さんだろう? 兄さんがいなかった間、父さんも母さんも本当に落ち込んでたんだ。俺じゃあ力量不足で、とても兄さんの代わりにはなれない。この店には、兄さんが必要なんだよ。だから兄さんが無事に帰ってきてくれて、本当に嬉しかった」
「マルクス…」
しゅっしゅっと軽快に続いていたブラシの音がぴたりと止まる。不意の言葉にカールは胸を突かれたような気がした。マルクスはそんな兄を真っ直ぐに見つめて、にこりと笑った。手をぬるま湯に浸けたまま、そっと額を兄の肩口に擦りつける。
「おかえり、兄さん」
弟に預けられた温もりを、カールはどうすれば良いのか分からなかった。
絞り出すように「ただいま」と答えると、それを聞いたマルクスはぱっと離れ、また洗濯の続きを始めた。カールは別の話題で空気を上書きしようと考えたが、結局何も浮かばず、黙々と作業をするしかなかった。
その結果、午前中にやって来た洗濯物たちは、昼までにすっかり干しきってしまった。
ゆっくり昼食を取った後も大した量の追加はなく、カールはやや残念に思った。それでもまだ何かないかと見回した彼の目に、テオたちの荷物が留まる。部屋の隅にこんもりと置かれた旅道具の前に洗い物が取り分けられていた。それは、テオが泊まりに来ると必ずやる「洗ってくれ」の合図である。生活上まめに洗濯をする彼らではなかったが、ここに来るといつもつ(・)い(・)で(・)を頼んでいた。根っからの洗濯好きなカールは、いつもそれを快く引き受けているのである。
今回の頼まれ物はシャツやズボン、下着の類。それに革のベストや手袋などだった。カールは一先ず布地の物をタライに突っ込み、その近くで革の手入れを始めた。準備したのはブラシやスポンジ、固形石けんなどである。
珍しい作業を始めたカールにマルクスは興味津々だった。
「兄さん、俺もそれやっていい?」
「え? じゃあお前の分も持っておいで。父さんに聞けば分かるから」
「はーい」
マルクスはそう言って返事をすると、直ぐに道具を揃えて帰ってきた。
布地の物と一緒に洗えない革製品の手入れは、ブラシで丁寧に汚れを払うことから始める。カールはジャケットをハンガーに掛け、マルクスにやり方を説明した。
「いいかい? ブラシは必ず一方向に動かすこと。毛先を少し当てるぐらいの力で、掠り傷をつけないように。縫い目のところが特に汚れている部分だから、細かく丁寧に繰り返す。……こんな感じにね」
長くぞんざいに扱われ汚れだらけのジャケットを、カールが優しく磨いてみせる。するとブラシをかけられた袖口が、いくらか色を取り戻してみせた。黒くくすんだ色合いが、一払いごとに掃き落とされていく。
マルクスはその様子を注意深く観察し、それからベストにブラシを当てた。
しゅらっしゅわっ、と丁寧な音がゆっくりと繰り返される。
最初は恐る恐るだったマルクスの手つきが段々とリズムを覚えて軽やかになる。
袖や裾の縫い目まですっかり払い終えると、それだけでもなかなかに見違えるようだった。
しかし、くすみが取れて逆に目立ってきたのは点々としたシミである。あちこちにある黒いそれは、最早いつ付いたものか分からないほどに古かった。
「兄さん、革のシミって落ちるの?」
「うーん……汚れてすぐならまだ何とかなるんだけど、これはすっかり根付いてる感じだからなあ。ちょっと薄くなる程度が限界だと思う」
「そっか…。こんなに黒いシミ、何をつけたのかな?」
「テオ兄の服だから、たぶん血だと思うよ」
「えっ? えっ!」
少し気になった汚れを間近に見ていたマルクスは、カールの言葉を聞いてさっと顔を離した。ベストの前身頃にちょこんとついていた黒点が、まさかそんな物だとは思わなかったのである。だが勇者という職業を考えると、その可能性は十分にあった。
「後でやるけど、手袋とかゲートルにも結構付いてるよ。固く絞った布で水拭きしとけって何度も言ってるんだけど。いつも結局シミにしてるんだよね。まったく」
「ええっ……、やっぱ勇者って危険な仕事なんだね…」
「お前、テオ兄に会う度、冒険談聞いてたじゃないか。何を今更」
「それはそうだけど。そんな血飛沫浴びるような状況イメージしてなかったよ……」
マルクスは黒い点を改めて眺め、げっそりとした声でそう言った。
カールはそれを笑いながら次の作業に移っていく。
タライに熱めのお湯を用意して乾いたスポンジをじゅぶっと沈める。軽く絞ってからジャケットに当てると、革がスポンジの水分を吸い取って色を濃く変えた。濡れた部分と乾いた部分の境界線を消すように、カールはどんどんジャケットを濡らしていく。そうして水分を含んだジャケットはあっという間に変色し、襟の先から裾の端までどこを見ても同じ焦げ茶色になった。
「革製品で気を付けることは一部分だけを濡らさないこと。これを洗うときには、必ず丸洗いする。そして水分は満遍なく含ませる。全体が同じ色になっていないと、乾いたときにシミをつくる原因になるからね」
「は、はいっ!」
「革が分厚い場合は水が染みにくいから、直接お湯に浸けてもいい。そのときも絶対、全体が均一に濡れるようにする。上着でも靴でも、丸ごと沈めないとシミになるから」
「はいっ」
作業をしながらカールは注意点を述べた。マルクスはその一つ一つへ真剣に返事をしていく。洗濯をしているときの兄の姿はきりりとして格好良く見えた。
ジャケットを濡らした後、カールは同じスポンジで石けんを泡立て始めた。ぐるぐると円を描きながらクリーム状の泡をたっぷりと作る。その出来上がった泡を徐にジャケットへ乗せ、汚れた部分を磨き始める。
まだ布地しか洗ったことのないマルクスは、革独特の方法に目を見開いた。
カールはシミのある部分を重点的に擦りながら、やはり全体を泡で包んでいく。焦げ茶だったジャケットの見た目が泡で覆われて黄色っぽくなった。
「石けんを付けるときも、必ず全体に付けること。革製品は部分洗いができないからちょっと大変だけど、石けんが使えないってわけじゃないんだ。それと、最後の濯ぎは石けんが残らないようにしっかりと洗い流すのが重要だよ」
スポンジを握りしめたまま、ずっと自分の作業を見ている弟にカールは少し得意気になる。ジャケットは細かい泡できれいに包まれていた。
たっぷりと擦りつけた石けんを今度は一つ残らず回収する。手のひらほどのスポンジを何度も濯ぎながら、繰り返し泡を吸い上げる。仕上げには真新しいお湯を用意して、細かい溝までしっかりと泡を取り除いた。
そうしてすっかり濯がれたジャケットは、また元の焦げ茶色に戻った。
「うん。革の洗濯はここまで。あんまりやると痛めちゃうからね。後は風通しの良い日陰で二日間ぐらい乾かして、仕上げに馬油を塗るんだよ。シミの具合も乾いてからじゃないとはっきりしないな…」
零れる水滴を布で拭き取りながらカールは少し心配そうだった。それでも袖口や裾の方にあった黒点は、見分けが付かなくなっている。明かな境目がなくなっただけでも、マルクスの目には十分汚れが落ちたように見えた。
「す、すごいね兄さんっ! あんなにハッキリしていたシミが全然分からないじゃん!俺、革の洗濯初めて見たよ! うわー、すごいっ! 俺にもちゃんとできるかなあ……」
マルクスは兄の技に興奮を覚えながら、やや弱音を口にした。だがその目は新しいことを知った喜びできらきらとしていて、怖じ気づいてはいなかった。
「ね、兄さん。均等に濡らすコツってある?」
「そうだなあ……、思いっきり濡らすといいよ。革が一番水を含んだ状態にするんだ。下がびしょびしょになってもいいから、隅々までたっぷり濡らしてごらん」
「たっぷり濡らす、か。……うん、やってみる!」
マルクスは兄に助言をもらい、早速ジャケットを濡らしにかかった。その真剣な様子を優しく見守りながらカールは残りの洗濯物に手を伸ばす。まとめて作業ができない革製品は、テオとジークの二人分だけでもかなりの時間が掛かった。
マルクスが初めての洗濯を終えた頃には、太陽は西に大きく傾いていた。
「兄さんどう? どうっ? 結構きれいになったんじゃない? これ」
「うん。上出来だよ。お疲れ様」
「へへっ……良かった。でも、俺が一つ洗ってる間に他の全部終わったんだ、兄さん」
「残りは小物ばりかだったからね」
初めての出来に喜ぶ一方で、難なく作業を終わらせている兄にマルクスは感心した。父に負けず劣らずの力量はいつだって目標であり、憧れだった。今は身長も技術も自分より大きな兄に、いつか並び立ちたいと思っている。
洗い終わった物を陰へ並べ始めたカールにマルクスはどんっと抱きついた。
「兄さんっ! ありがとうっ!」
「おっと……! マルクス、お前けっこう力あるよね…」
「へへへ、育ち盛りですから!」
一瞬ぐらついたカールが慌てて足に力を込める。手には洗ったばかりの洗濯物を持っていた。
庭を片付ける僅かな間に、あたりはすっかり夜になった。
***
城門前の広場に大きな舞台が設置され、家々の扉には小さなリースが飾られた。蔦や藁で編まれたそれには必ず一本の麦が差してある。来年もこのような収穫がありますように、と願いが込められているのだ。
洗濯屋ベーアの扉にも、農家ではないが可愛いリースが飾られた。
今日から五日間、ヴァルト・シュタットは朝も夜も忘れて賑やかになる。劇場や料理屋などは開きっぱなしになるが、その他は祭を優先して店を閉める所がほとんどだ。洗濯屋ベーアも収穫祭の間は休業する。
カールもこのときばかりは洗濯物から手を離し、彩られた街へと繰り出した。マルクスとニーナはそれぞれ友達と出かけ、カールは久しぶりに一人だった。広場でボールやリボンを巧に操る奇術を見たり、屋台で香ばしい香りの串焼きを頬張ったり。劇場の近くで顔馴染みとばったり出会うと、一緒に歌姫の美声を堪能したりもした。
空は青く、高く、澄み渡っていて何とも心地の良い時間だった。
小さい頃から何度も見てきた収穫祭の景色がやけにしみじみと心に染みた。
この故郷には、家族と大勢の古馴染みがいる。洗濯屋という実家があり、見慣れた街といろいろな思い出がある。そのたくさんの宝物を、カールは自分の夢と天秤に掛けた。
「収穫祭が終わったら、かな…」
人混みを避けた道端でホットワインを飲みながら、カールは誰に言うでもなくぽつりと呟いた。甘い湯気がふわりと立ち上り、肺の中まで酔わせてくれる。屋台には少しずつ明かりが灯って、街は一層輝きを増していった。
そろそろ夕食になりそうな物でも買って帰ろうかと思い、カールは飯屋が多い大通りに向かった。
豆のスープ、鶏肉のトマト煮込み、熱々の蒸しパン。店の軒先に仮設された屋台で、温かい料理が客を集める。或いは茹で立ての腸詰めが、ビールと一緒に売られている。カールはいろいろと目移りさせながら、芋の入ったオムレツと胡椒が香る厚切りの炙り肉を買った。
それでもう家へ帰ろうと思ったとき、近くの通りで怒鳴り声が響いてきた。どうやら何人かが言い争っているようで、剣呑な雰囲気だ。夜になると酔っ払いの喧嘩も増えてくる。カールはそういった類だろうと思ったが、しかしどうにも聞き覚えのある声が混ざっているような気がして足を向けた。
まさかと思い近づく途中で、事は殴り合いに発展し憲兵が止めに入るのが見えた。騒然とする人波を掻き分けながら、カールは何とか様子を見ようと前に出る。薄暗くなってきた視界を凝らすと、地面に取り押さえられているのはマルクスだった。少し離れたところにもやはり憲兵に捕まった別の青年たちがいた。
「えっ、え? あのっ、ちょっとすいませんっ!」
カールは料理の包みが揺れるのも構わずに、弟のところへ駆け込んだ。