第十六節*カールとヴフト
※呪文は読みづらいので雰囲気で流すことを推奨します※
午後の公務は兵舎の視察。日々平穏を保ってはいるが、国防意識が薄れないために定期的な視察があった。
ヴフトは黒紫のすらりとしたシャツに着替え、濃い葡萄色のベストを合わせた。体のラインに沿った美しい仕立てが、皺一つなく再現されている。少しひんやりとした生地が柔らかに肌に馴染んだ。
「…うん。見ろ、爺! この美しい仕上がりをっ! 私の美しさが一層引き立つぞっ! ああ、やっとカールが私の洗濯係になったのだな……」
「ご希望叶って何よりです。一段とお美しくあらせられます」
上機嫌で鏡を見るヴフトにフリーレンが同意する。
同じようなやりとりをここ数日繰り返していた。
「だろう? ふふっ。そうだ、一度彼の仕事ぶりも見に行かねばな。係になってからまだ顔を合わせていない」
「では、予定の調節を致しましょう」
ヴフトは一頻り鏡の前で美しさを讃えると、最後に翡翠のブローチをつけた。淡く透き通った碧の奥に、ドゥンケルタールの国章が見える一品だ。
身なりを整えると、ヴフトはフリーレンを伴って兵舎へと向かった。
バリバリッ、という轟音が渓谷の最深部にまで響いてきたのは、まさにそのときである。廊下の窓硝子が音を立てて振動し、その凄まじさを物語った。
「陛下、今のはっ?」
突然の衝撃にフリーレンの声が強張る。ヴフトもさっと表情を変え、直ぐに一番近くの窓から顔を出した。
「ハァルーフクァ クァニァダァー ヲーフ ディエユォウーバッホォウー ズェヴン」
音がした方向を睨みながらヴフトが口早に呪文を唱える。国を覆う地表が途切れたその向こう、陽の当たる場所に一頭の竜の姿が見えた。
「竜っ? なぜここに……。爺、国防隊に連絡を。私は先に向かう」
「直ぐに」
状況を確認するや否や、ヴフトは端的に指示を出し窓枠に足をかけた。靴底に魔力を集中させ、空を蹴りながら現場へと走る。
ドゥンケルタールの渓谷は、普段は結界によって外から見えないようになっていた。大きな亀裂は外敵の目に付きやすいからである。それが今、竜の体当たりによって打ち破られた。
思わぬ事態に魔国全体が緊張した。
『洗濯屋と魔王様』 第二章
日差しが渓谷の底まで強く降り注いでいた。
暗闇から太陽の下に出たヴフトは一瞬目を細めたが、彼は直ぐに目標を捕らえた。木の皮を貼り合わせたようなごつごつとした竜が上空で留まっている。その下にある畑は、収穫直前の穂が強風で煽られ地を這っていた。
竜はヴフトに背を向けていて様子がよく分からない。だが結界を回復させるには、まずこの竜を外へ追い出す必要があった。しかも、できるだけ穏便にである。外へ弾き出したとしても、怒った竜が再び突進してくれば意味がない。竜の目は万物を見抜き、竜の力は高度な魔法をもってしても抗うことが難しいからだ。
そもそも竜とは、魔物でも獲物でもない生き物である。言語をもたない動物だ。そして竜は馬や牛のように飼い慣らすことができない、嵐や雷のような避けるべき自然でもある。このような禽獣には魔物であっても手を焼いていた。
なぜ竜が飛び込んで来たのかは分からないが、一刻も早く空へ帰ってもらわなければならない。そうして結界を掛け直さなければ、実りを抱えた渓谷は大きくその姿を露わにしたままである。
「眠らせて遠くへ運ぶか…」
早急に最善を尽くすべく、ヴフトはブローチに魔力を込めた。ヴフトの右側に小さく出現した空間の穴から、彼は一冊の本を取り出した。分厚い革のカバーに皮脂の色合いが溶け込んだ、古い本である。
ヴフトは直ぐにページを捲った。だがそのとき、それまで留まっていた竜が不意に上昇を始めた。大きな翼の羽ばたき一つで、強烈な風が大地を打ち付ける。麦も雑草も、折れんばかりに地べたを這う。しかしこのまま飛び去ってくれるのならば、とヴフトは手を止め竜を目で追った。
竜は少し上昇するとくるりと向きを変えた。
その背中に、ヴフトはカールの姿を見た。
「カールッ!」
驚きが口から飛び出す。その声が本人に届いたかは分からない。竜は嵐のような暴風だけを残し、あっという間に飛び去ってしまった。
「なぜ奴が竜の背中にっ?」
手にした本を握りしめヴフトはもう一度叫んだ。
竜とは本来、小さな生き物には目もくれない。もっと大きな生き物を食べている動物だ。それなのにあの竜はカールを攫った。しかも爪で掴まずに背中に乗せていた。魔物でさえ操れない竜に乗るなんて、一体何が起きたのか。ヴフトには疑問だけが残った。
今すぐ全力で飛び立てば、あの竜に追いつけないこともない。だがヴフトはその気持ちをぐっと堪え、結界の要を担う霊樹に急いだ。
まずは露出した渓谷を隠さなければならない。
国を外敵から守ることが、王の最たる務めである。
「タピオ様っ! お力をお貸し下さい! 直ぐに結果を張り直さなくては!」
霊樹の麓にいたタピオを見つけ、ヴフトは声を上げながら駆け寄った。それにタピオも気付き、こちらも直ぐに大声で応えた。
「霊樹の様子は儂が見るっ! ヴフトよ、国境を守れっ! もう上に来ておるぞ!」
そう叫びつつ、タピオが手を振り空を指さす。甘い麦の香りに誘われて、渓谷の真上にはうぞうぞと黒い影が集まっていた。
「……チッ、盗賊の群れか。大人しく木の実でも拾っていれば良いものを…」
「結界を直すまで頼んだぞっ!」
「はいっ! お願いいたします、タピオ様ッ」
黒い点々を睨みヴフトは舌打ちをした。それはヒトのような四肢に黒い翼と鳥の嘴を持った魔物。主に夜、集落や旅人などを襲い、奪った物資で生活をする烏天狗の群れだった。当然、気性は荒く好戦的な種族である。集まった烏たちは皆、首や腰などにじゃらじゃらと装飾品を巻き付け、派手な出で立ちをしていた。その中でも一際目立つ首飾りをした男が、どうやら頭目のようである。
上から黄金色に実った畑を眺め、頭目が大きな声でがなりたてた。
「おいおい、何だよ。甘ぇ匂いがすると思ったら、こんな森の中に麦があるじゃねえか!しかも刈り取る直前だ! あれを売っぱらって酒を飲もうッ! おいっ、テメェら気合い入れてけっ! 今夜の宴がかかってるぞ!」
「おおーッ!」
男が志気を高めるように拳を突き上げると、周りの烏たちも一斉に唸り声を上げた。それぞれ手には槍や鎌などの武器を持っている。雄叫びが収まると、彼らは畑目掛けて我先にと急降下し始めた。黒い塊がつぶてのように降り注ぐ。
その喧しい遣り取りを聞きながら、ヴフトは既に本を開いていた。一気に注がれた魔力に反応し、呪文の書かれたページが茫と光る。その瞬間、ヴフトを中心に四方へ影が伸びた。一瞬にして広がった影が薄い膜となって国境を覆う。だがその程度で怯む烏天狗ではなく、彼らはそのまま渓谷の中へと侵入してきた。
先頭を行く数羽が中へ入ったのを見届けると、ヴフトは追加の呪文を唱えた。
「マッアトゥオ:烏天狗族 サヴェザッサヴェ:排除」
呪文の言い終わりと同時に鋭い魔力が大気を走る。勢いよく飛んでいた烏天狗たちの動きがぴたりと止まる。そして彼らがそのことに気付いた瞬間、烏たちは渓谷の外へと弾かれた。何度か試す者もいたが、結果は変わらない。膜の内側に入ると強い衝撃で弾き返されるのだ。
「うわっ? な、なんだぁっ? ただの防御壁じゃねーのかよあれ!」
「ぎゃーっ! 痛ぇー!」
「何だこれっ? 中に入れねーぞっ」
謎の膜に弾かれた烏たちは口々に叫んだ。しかし眼下には酒の飲み代がある。泣き言を言いつつも、そう簡単に引き下がる様子ではない。
ヴフトは空中を上へ向かって歩き、烏の群れへ近づいて行った。
その途中で国防の卿が率いる国防隊が駆けつけた。
「陛下っ! ご無事ですかっ」
一個分隊ほどを引き連れ、ハルがヴフトに向かって一直線に飛んでくる。それを見たヴフトは足を止め、険しい表情で叱責した。
「国防の第一は土地と民だっ! 私を気にする暇があったらまず国境を守れっ!」
「はッ!」
王の声で弾かれたように隊が止まり、ハルは直ぐに守備を指示した。国防隊が三人一組で国境に散り、魔法でその境目を仮に隠す。残ったハル一人がヴフトへ駆け寄り、頭上の烏たちを見やった。
「陛下、あの者たちは…」
「私が対処する。影の膜が解けた後は、お前がここを守れ」
「はっ」
翡翠の瞳が盗賊どもを睨みつける。
手短に会話を済ませ、ヴフトはまた呪文を口にした。
「ヒフキューユォ ソクーユォクァザッズェ」
爪の先まで整った指が頭目を指し示す。するとその周りに風の渦が巻き起こり、手下たちが頭目に引き寄せられていった。翼がぶつかり合い、体が重なり合い、ぎゃあぎゃあと悲鳴が上がる。そのまとまった姿は黒いヤドリギのようだった。
塊の中心で頭目が何とか抜けだそうと手下を押しのける。烏たちは最早、自分の翼で自由に飛ぶことさえ出来ていなかった。
「なんっだこれはあっ! テメェら邪魔だっ! 離れろッ!」
「む、無理ですお頭ァ~! 体が引っ張られて離れないんです~!」
「あいててっ! 誰だよワテの翼踏んだ奴ぁ~」
「身動き取れねぇっすよ。お頭ァ~」
頭目が怒りに任せて叱りつけるも、仲間からは情けない声しか上がらない。それがまた頭目の腹立たしさを倍増させた。
そうこうするうちに目の前までやって来たヴフトを見つけ、頭目は精一杯威勢を張り罵声を浴びせた。
「ちっくしょう! 一体何なんだテメェはっ! こんな魔法見たことがねえぞっ! たかが麦畑に何てことしやがるんだっ!」
「たかが麦畑ではない! 流れ者のお前たちは知らぬだろうが、ここはドゥンケルタール国の一部だ。これは国を守るための特殊な魔法。お前たちに勝ち目はない。力の差が分かったら、二度とこの土地を荒らすな!」
「どぅんけるたぁる……?」
国名にピンとこない頭目は顔を顰めて復唱した。しかし相手が国であって何だと言うのか。国など集落がちょっと大きくなっただけのものではないか。目の前にある利益をそんなことでは捨てきれない。頭目は未だ何とか麦を奪おうと暴れた。
その諦めが悪い塊を、いつの間にか国境から分離していた影の膜がふっと覆う。凸凹だった集まりが膜で丸く押し固められ、ぎゅうぎゅうに詰まる。これには流石の頭目も焦り、中で苦しそうに藻掻き出した。
「私がこの国の王、ヴフト・フォン・ドゥンケルタールだ。我が名をその胸に刻み、二度とこの国に手を出すなっ!」
ヴフトは大気を奮わせる咆吼で今一度、この地が不可侵であることを知らしめると、再び右手を前に突き出した。
「ヒフキューユォ ソクーユォクァザッズェ」
呪文の詠唱と共に手のひらに風が生まれ、それが暴風となって烏天狗の玉を吹き飛ばす。玉はいとも簡単に轟っと弾かれ、遠く森の彼方に消えていった。
外敵が消えたことを確認し、ヴフトは本を閉じて霊樹の頂に下りた。幹の天辺にはタピオがいて、両手を霊樹に当てて回復させているところであった。
「霊樹の様子はどうですか? 二代目様」
「おお、坊。結界が弾かれて少し驚いておったが、もう大丈夫じゃ。張り直すのは御主に任せるぞ」
「承知しました」
そう告げて、タピオがヴフトと位置を代わる。ヴフトは霊樹に手を添えながら、ゆっくりと願うように魔力を注いだ。
「ハァハァニァルーフ ゲェユォ コォヌーノディエヲーフ マッアモヴォラェ ダァーマッアエゥ クァヴフサヴェ ダァーマッアエゥ コォコォハァ キューヴェーコォヴフヌーォ ヴフニェー」
ヴフトが言葉を終えると霊樹の頂から光の膜がスッと走り、渓谷全体を覆った。それまで見えていた大きな亀裂が、周りと変わらぬ森の姿となって見えなくなる。霊樹の上から国土全体が隠れたことを確認し、二人の王はやっと安心した。
「ところでタピオ様。先ほどの竜、背中にカールを乗せていたような気がするのですが」
「おおっ! そうじゃ、そうじゃ! えらいことになったぞ、坊っ! なんとカール殿が竜に攫われたんじゃ!」
「……はぁ…………下でお話をお聞かせ願えますか……」
結界が戻ったところでヴフトが気になる件を尋ねると、タピオからは予想通りの答が返ってきた。見間違いであれば、という淡い期待があっさりと砕け散る。
一息ついたのも束の間、ヴフトは整った顔の中心にまた深い溝を刻んだ。
***
随分と長い間飛び続け、故郷へ辿り着いたのはテオが言った通りの夕方だった。カールは太陽が沈む海を久しぶりに見た。日が落ちたせいかやや肌寒い。城外で竜から下りて街へと入り、見慣れた門をくぐり抜け、石畳の大通りを駆け上がって細い路地へと逸れる。すれ違い様、手を引かれて走るカールの姿にあっと声を上げる者もいた。
洗濯屋ベーアはどこか明るさに欠けながら、この日も店を開けていた。
「おじさん! ハルトヴィンおじさんっ! カールだっ! カールが見つかったよッ!」
扉を弾き開けて飛び込み、テオが大声で朗報を告げる。その左手には、違わずカールの右手をぎゅっと掴んでいた。
突然の帰宅にカールも、家族も、そこに居合わせた客たちも全員が固まる。テオの声を聞きつけたカールの父、ハルトヴィンが作業場から勢いよく飛んできた。
「カールッ? 本当にカールなのかっ? 人違いとか、幽霊とかじゃないんだなっ?」
「本物のカールだよおじさん! しかもピンピンしてるんだ! こいつ、ほんと昔っから運だけはいいよな!」
口を開けたまんまのカールに代わり、テオが笑いながら答える。カールはまだ夢を見ているような気がして、状況についていけなかった。だが、ハルトヴィンが目の前までやって来て自分を強く抱きしめると、遂に帰ってきたのだと実感した。
「た、ただいま、父さん……」
「よく帰ってきた、カールッ……!」
感動の再会に誰からともなく拍手が沸き起こる。
閉店の時間にはまだ早かったが、ハルトヴィンは客に断って早々に店を閉めた。
所々軋む木の床、ぼんやりとした薄暗いランプ。石けんの包みの中にいるような室内。天板の薄いテーブルが、たくさんの料理を重そうに支えていた。カールの家は店と住居が一体化している。昼間は作業場になっている一番の広間が、朝晩は食卓の場だった。
冷える夜に備えて暖炉には薪がくべられていた。
「ああ、カール。本当にカールなのね。あなたが元気で帰って来られるなんて。夢を見ているようだわ」
「夢じゃないわ、母さん! だってカール兄さん、ここにちゃんといるもの! きっと始祖様の御加護があったのよ!」
「そうね。ニナが毎日お祈りしてくれたものね」
家族で食卓を囲む中、隣に座った母親のアリスが本当に嬉しそうにカールの手を握った。彼女はカールが攫われて以来、体調を崩してしばらく床に伏せていたらしい。気持ちが落ち着き、店に出られるようになったのはつい最近のことだと言う。そんな病み上がりの母の手は、カールの記憶よりも少し細っているように感じた。
母の代わりに食事の準備を張り切るニナは、カールより五つ年下の妹である。肩のあたりで切りそろえた髪を、耳の横だけ三つ編みに結んでいた。元から明るい性格のニナだったが、兄が帰ってきた今日は一層賑やかだった。
明るく出迎えたニナとは反対に、カールの腕をぎゅっと掴んで黙りになったのが弟のマルクスだ。彼はカールより三つ年下で、顔つきがカールによく似ていた。カールと同じ、ちくちくした芝生頭に長い後ろ髪を束ねている。やや華奢な体つきではあるが、兄と違い目元がきりりとした青年だった。
小さい頃からカールの後を追いかけていた、筋金入りの兄さんっ子である。
「マルクス兄さん、ちゃんとソフィアさんの所に言ってきたの? まだ来ないわよ?」
「言ってきた。でもソフィアさん出掛けてて、言付けにしたんだ」
「ふうん。ところでいつまでそうやってるつもり? 食事にするわよ」
「だって……、兄さんを一瞬で攫っちまうような魔物がいたんだろ? 俺、心配で…」
「大丈夫だよ! マルクス。ここには俺も、ジークもいる! 勇者が二人もいりゃあ、何とかなるって! それにちゃんとお前の兄さん、連れて帰って来ただろ? なっ?」
未だ不安そうなマルクスをテオが力強く慰めた。
テオはカールたちの従兄に当たり、小さい頃から交流があったのでテオ兄と慕われている。本名はテオドール・アクスという名前で、世界中を旅する勇者だった。テオがジークと呼んだのは、同業者のジークフリート・ヴューラーのことだ。ジークは緑色の鱗肌が特徴の亜竜族で、ヒト族と同じ獲物種族になる。勇者は賊の討伐や商人の警護などをしながら旅をするので、二人とも腕っ節には自信があった。
久しぶりに家族全員が揃って食事を囲み、ベーア一家は嬉しそうだった。固く黒っぽいパン、芋と豆のサラダ、玉シロナのスープ。奮発して買った牛肉の塊を、厚く切って分け合う。もう二度と口にすることはないと思っていた実家の味が、カールの中に染み込んでいく。
そうして食事をしていると、表の扉が勢い良く叩かれた。マルクスが見に行き、一人の大柄な女性を招き入れた。女性は酷く急いで来たのか、頭巾もエプロンもつけたまま額には汗が浮いている。けれども彼女はそれを拭うよりも先に口を開いた。
「こんばんわっ。あのっ、カールが、カールが帰ってきたって聞いて……!」
「ソフィア!」
彼女が全てを言い終わらないうちにカールはがたりと立ち上がった。向こうもそんなカールの姿を見つけ、顔から零れそうなほど大きな瞳を更に大きく開かせた。震える両手で口を押さえ、丸い目に大粒の涙が浮かぶ。
それを周りから隠すようにカールはさっと彼女を抱きしめた。
「カールッ! もう、会えないかと思った!」
「心配をかけてごめん、ソフィア。ただいま…」
彼女から零れる涙を不器用な手つきで拭う。
ソフィアはカールの恋人だった。
懐かしい人々に囲まれ、カールは改めて故郷に帰ってきたのだと実感した。食卓を囲んだみんなは、誰もが彼の帰りを喜んでいた。食事が終わってソフィアを家まで送ったときも、「また明日」と約束をして別れた。誰もがカールは国に戻ってきて、そして今まで通りの生活をするのだと信じていた。明日からまた、以前の生活に戻るのだと。
一人久しぶりの自室に入り、カールは何とも言えない気持ちでいた。家族や従兄に会えたこと、恋人にまた会えたこと。どれも嬉しいはずだった。
だがヒトの国に帰ってきてしまった。
ヴフトに連れて行かれ、紆余曲折を経て、やっと王の洗濯部屋に入ったところだったのに。故郷に帰ってきたことを心の底から喜べないカールは、どうすれば良いのか分からずにいた。
そもそも、攫われて魔国へ行き、連れられて故郷へ帰ってきた。魔国へ行ったとき、帰りたいと思っても自分では帰って来られなかった。そして今、魔国へ帰りたいと思っても、カールにはどうすることも出来ない。
固い懐かしいベッドの上で、カールは眠れずに寝返りを打っていた。窓から月明かりが差し、暗いはずの室内が嫌に明るく思えた。夜に月明かり、星明かりが見えるのも久しぶりのことだった。
「どうすればいいんだろう……」
頭まですっぽりと布団にくるまりながら、カールは誰に向けてでもなく独りごちた。目をつぶって眠りを待つが、時間ばかりが過ぎていくようだった。
月がゆっくりと角度を変えて室内を照らす。
「チュー、チュウチュウ」
「……ん?」
そんな夜更けに、どこからかカールの耳へ鼠の声が届いた。食べる物がないこんな部屋になぜ、とカールは不思議に思った。しかも鼠はしきりに鳴き続け、自分を呼んでいるようにも思えた。
カールははっと思い当たり、布団から顔を出した。
「あのっ、もしかして、ドゥンケルタールの方ですか……?」
暗い室内。鼠の姿は見えなかったが、カールが小声で呼びかけると部屋の隅からぬっと人影が現れた。目元を布で覆い、黒い装束で身を包んでいる。長く突き出た口元と、大きな耳はハツカネズミのようだった。
相手はベッドの際まで来ると、片膝をついてカールに貝殻と石を差し出した。
「陛下のご命令で参りました。貴方がカール殿ですね? こちらは通信機です。貝の口を開き、中の窪みに魔法石を填めてください。そうすれば陛下と話すことができます」
「えっ? この貝で、ですか?」
「これは遠くの者と話すための魔道具です。この特殊な魔法石に、ほんの少しだけ魔力が蓄えられております。カール殿がこれを使って発動させれば、後は陛下が状態を保ってくださるでしょう」
「な、なるほど…」
分かったような、分からないような。とにかくカールはその道具を受け取りながら頷いた。手のひらにちょこんと渡された小さな貝が、ヴフトと会話させてくれるらしい。
貝は淵のところに留め具のついた、小物入れのような物だった。パチリ、とその金具を外して蓋を開ける。中には小さな台座が一つだけあった。
「あの、ここに石を……って、あれ?」
カールがそうっと貝殻を開けている間に、魔物の姿はどこかへ消えてしまっていた。目を凝らして床を探してみても見つからない。もう行ってしまったのだろうか、と思いながら小声で礼を言うと、鼠の鳴き声がもう一度だけ聞こえて消えた。
ベッドの上で、カールは手元を月明かりに照らしながら魔法石を填めた。すると貝の中にぷわりと水泡が生まれ、それがぼんやりと薄く光った。
「……? これで合ってるのかな? ヴフトさーん、ヴフトさーん?」
丸い玉がぷわぷわと光るばかりで、何の音もしない。少し恥ずかしいような気もしながら、貝に向かって喋りかける。自然とぼそぼそとした小声になった。
カールの声で震えた水泡が一旦落ち着く。すると今度は喋りかけていないのに、水泡が自らぷるぷると震え出した。
「カールッ! お前なんだなっ? カール! 良かった。貝殻の蓋を閉じるなよ? 通信が切れてしまうから。どこか平らな所にでも置いてくれ」
「わっ、本当にヴフトさんの声がする。こっちに来ているとかじゃないんですよね?」
「私は今城にいる。これは通信用の魔道具だ。お前がこれを受け取ったということは、やはり故郷にいるのだな」
「はい……」
最初は魔道具の効果に驚いていたカールだったが、ヴフトに現状を言い当てられ直ぐに我に返った。新しい居場所となりつつあった魔国から、住み慣れた王国に帰ってきてしまったのだ。大切な人々との再会を目の前に心が揺れていた。
ヴフトはそんなカールに向かって淡々と話を持ちかけた。
「今は一人だろうな? 竜に乗った奴らに連れて行かれたと聞いたが、一体何者だ?」
「えっと、今は自分の部屋です。竜に乗っていたのは俺の従兄で、勇者のテオ兄さんと仕事仲間のジークさんです。テオ兄さんは昔からうちの家族と仲が良くて、困ったことがあると仕事を依頼していたんです。それで今回も俺の捜索を頼まれたみたいで」
「勇者? あんな職種の知り合いが二人もいたのか、お前は」
「へへ……こっちでもよく言われます。それで、ジークさんが亜竜族なんです。小さい竜と一緒にいるところは見たことがあったんですけど、まさかあんな大きい竜にも乗れたなんて。俺もびっくりして飛んでる間中、生きた心地がしなかったですよ」
「亜竜族……唯一、竜と暮らすことができると言う種族か。全く、お前は平凡なのか非凡なのか分からない奴だな。それで、その勇者たちはまだいるのか?」
「今夜はうちに泊まってます。次の仕事が決まるまで、しばらくいると思いますが」
「そうか」
ぷるぷると震える不思議な泡を通して、魔国にいるヴフトの声が届いてくる。カールはヴフトと話せたことに安心感を覚え、少し元気を取り戻した。まだ魔国との繋がりは途絶えていなかったのだ。
一通り状況を聞くと、ヴフトはしばらく黙った。特にこちらからかける言葉も見つからず、カールもつられて黙り込む。それから小さく「うむ」という声が聞こえ、再びヴフトが話しかけてきた。
「カール、直ぐに準備を整えられるか? これから私がそちらへ行く。お前はそこで待っていれば良い。お前の部屋へ直接行って、部屋から直接帰る。そうすれば勇者にも気付かれないだろう」
「えっ? く、来るって、今からですかっ? 今すぐ帰るんですかっ?」
「夜の方が都合が良い。昼間お前を連れ出せば、また騒ぎになるだろう?」
「いや、それはその……ええっと…」
ヴフトの率直な提案にカールは言葉を詰まらせた。
いつであろうと、自分がいなくなればまた家族やみんなは騒ぎ出すに違いない。また弟たちが心配し、母は寝込むかもしれない。父はテオにもう一度、奪還を依頼するかもしれない。それにきっと、ソフィアも泣かせることになるだろう。
魔国での仕事に戻りたい気持ちは強かったが、それと引き替えにまた大切な人たちを泣かせるのは嫌だった。
「ヴフトさん、あのっ……少し、少しだけ待ってもらえませんかっ?」
考えをまとめるよりも先に、カールの気持ちが口から零れた。
泡玉の向こうでヴフトが怪訝そうな声を上げた。
「待つとは、どういうことだ?」
「えっと、その、迎えには来て欲しいんですけど、……もう少し後にしてもらいたいんです。突然のことだったけど、また、家族に会えて…。みんな、俺のこと……凄く心配してました…。だから、俺が今そっちに戻ってしまったら、また、みんな心配すると思うんです。俺、またみんなに同じ心配をさせるのは嫌なんです」
「……それで? 私が待てば、お前はどうするんだ?」
ヴフトの真剣な声が低く響く。
目の前にはいないのに、カールは思わずびくりと体を震わせた。
待ってもらったその先は? 一言で駄目だと切り捨てないヴフトの言葉に、カールは考えさせられた。時間をもらって、それからどうすれば良いのか? どうしたいのか?カールは自分の気持ちの在処を懸命に考えて、それを絞り出すように話した。
「………俺、家族に話します。魔国で働くって。俺のことを心配してくれた人たちに、俺は魔国で洗濯屋を続けるから、心配しないでって、そう打ち明けます!」
「…お前、本気か?」
カールの言葉にヴフトは思わず声を裏返した。
「私が言うのも何だが、魔物と獲物は和解していない。お前がこちらで働くことを伝えたとして、それで家の者たちは納得するのか?」
「納得してくれるかどうかは分かりません。でも何も言わずに出ていって、また同じ思いをさせるのは嫌なんです! 伝えることは、ちゃんと伝えてから出ていきたいんです!俺は攫われるんじゃなくて、働きに行ったんだって知ってもらいたいんです!」
「………」
水泡の向こうでヴフトが考え込んでいるのが分かった。カールの決断は、当然のことかもしれなかったが、難しいことでもある。獲物は魔物を恐れ、その手から逃れるようにして国を創り上げたのだ。そしてそういった状況は、歴史というほど古いものではなく、今も続いていることだった。
しかし、カールはじっとヴフトの返事を待った。
自分の判断を変えるつもりはなかった。
「……カール」
しばらく経ってから、ヴフトはやっと言葉を返してきた。カールはそれを待ち望んでいたように、はいと答える。
そっと水面を揺らすような優しい声が玉から響いた。
「お前は、そちらで話をつけて、帰ってくるつもりなのだな? 家の者たちに話をした後、こちらへ戻ってくるのだな?」
「はい」
「私の洗濯係として、また働くのだな?」
「そうです! まだ、まだ入ったばかりだったのに。こんな事になってすみません…」
「その事は良い。それはお前の意志ではない。だが、時間をくれと言ったのはお前自身だ。話をつけて必ず戻ると言うのなら、私は待つ」
「必ずっ! 必ず戻りますっ! まだ魔国で洗ってみたい服がいっぱいあるんですっ! 知らないことも、見たことのない物も、だからっ……絶対に!」
ヴフトの言葉にカールは必死になって誓った。
故郷にいては決して出会うことのない、いろんなものが魔国にはあった。自分はまだその一端しか見ておらず、もっと知らない世界があるのだと感じていた。そしてその広い世界を、どうしても見たいと思った。
それには魔国で、ヴフトの下で、洗濯係として働くことが必要だった。
カールが拙い言葉で一生懸命に説得をすると、ヴフトはくつくつと笑い出した。
「ふふふっ、お前は、本当に面白い男だ。そう焦るな。お前を魔国に連れ帰って、私の洗濯係とするのに二月はかかった。今更もう少々延びたところで、どうということではない。それでお前が自ら帰ってくると言うのであれば、我慢しよう。だが、洗濯係の面面やテディーたちが心配していたからな? あまり長居するんじゃないぞ」
「えっ? あっ、そうか……あのときギードとアルも一緒だったから…」
「私以外にもお前の帰りを待っている者がいる」
「…はい……」
カールは胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。魔国にも、自分を心配して待っていてくれる人たちがいたのだ。故郷は自分が生まれ育った大切な土地だが、魔国もまた、カールにとって確かな居場所となっていた。
一先ずカールの無事はヴフトから伝えてもらえることになった。こちらでの用が済み次第、また連絡を取って迎えに来てもらう。最後に通信用の貝殻をなくさないように、と念押しをされ、カールはそっと蓋を閉じた。
窓から覗く月明かりがまだ優しく空を照らしていた。
カールは懐かしい布団にくるまりながら、すうっと眠りに吸い込まれていった。