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洗濯屋と魔王様 第二章  作者: ろんじん
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第十五節*カールと魔国の人々

 しんと静まりかえった空間に、カツン、カツンと靴音が響く。それは徐々に近づいてきて、檻の前でぴたりと止まった。

「二人とも出なさい。フロリアーノ様が処遇を決定なされた。裁きの間へ行く」

 指の先まで意識を張った警備兵がぴしゃりと言う。

 ガチャリと錠が外され、カールは一晩ぶりに檻の外へ出た。案内の兵を先頭に、昨日下った階段を今度は上っていく。それからややあって、ギードも後をついてきているようだった。

 再び椅子だけの小部屋を抜け、そのすぐ脇にある部屋に入れられた。

 室内は簡素な造りで、奥には段が二つ設けられていた。部屋の中央、床の上にカールとギードは立たされた。それを見張るように警備兵がやや後ろで構える。二人の前方、一段目には低い柵がついていて、こちらとの境界線を露わにしていた。そこには机に構えた書記官と、書類を持って立つ裁判員がいた。そして二段目、一番上は一つの席になっているらしく、紅い複眼で二人を見つめる裁判官フロリアーノの姿があった。

「おはようございます。二人とも、一晩経って少しは落ち着きましたか?」

 警備兵に挟まれ小さくなっている二人を見て、フロリアーノは優しい口調で始めた。当事者と係の者だけの簡易的な裁判である。

 フロリアーノから指示を受け、裁判員が粛々と書面の内容を読み上げた。

「洗濯係のカール、並びにギードの両名は、昨日(さくじつ)城内において魔法を用いた騒ぎを起こしたことにより、これに並ぶ。被害状況は両名ともに軽傷。現場は水浸しになったが、大きな損害はなし。共に現行犯で取り押さえられ、一晩の禁錮刑を経過」

 あまり聞き慣れない独特の言い回しが室内に響く。否定のしようがない事実だけが述べられ、カールは大きな体を縮こまらせた。裁判員が一通り状況を説明し終えると、フロリアーノは二人に向かって異論がないことを確かめた。

 二人とも、それに対して小さく「はい」と答える。

 フロリアーノはその言葉を聞いてから、結果を申し渡した。

「洗濯係ギード、城内喧嘩の罪により三日間の自宅謹慎を命じる。また給与一割の減給一ヶ月に処す。洗濯係カール、同罪により係の異動を一時取り止め。一週間の後、改めて検討する。また給与一割の減給一ヶ月に処す」

 厳かに判決が告げられる。二人とも異論はなく、これでこの件は終了となった。係の者たちがそれぞれに退出し、ギードは家へ送られた。

「また一緒に洗濯ができるのは、ちょっと先になりそうだな。カール」

「うん。でも待ってるよ、ギード。だからこれからも宜しくね」

 二人はぎゅっとハグをし合ってから別れた。




『洗濯屋と魔王様』 第二章



 判決を聞いた朝、カールはその足で洗濯部屋に向かった。まずはグランマに事の顛末を伝え、それから仕事に戻らせてもらおうと思ったのだ。大凡のことは既にグランマも承知していたようで、話しに来たカールを優しく迎えてくれた。

 法務の卿の裁きに従い、例の件はまた改めて話すことになった。

 騒ぎについてはすっかり城中の話題に上っていたが、皆戻ってきたカールに何と言うでもなく、普通に接してくれた。喧嘩も言い争いも日常茶飯事で、今回は少し度が過ぎてしまっただけ、という感覚のようだった。それに相応の罰は既に下っている。法務の卿フロリアーノへの信頼が、余計な詮索を防いでいた。

 直ぐに穏やかな日常に戻れた気がしてカールはほっとした。

 ただ昼休みになるとアルがどこからか転げるようにやって来て、カールに飛びついた。

「カールさんっ! け、怪我っ! 怪我したって聞きましたあッ!」

「わっ、アル? ごめん、大丈夫だよ。心配かけてごめんね」

「痛いのは嫌いです……。カールさんが痛い思いをするのもイヤです……」

 カールの胸元にぎゅっと抱きついたアルは、そう言いながら頬を擦り寄せた。もふもふとした毛並みが少し湿っぽく感じる。自分のことを心底心配してくれた友人に、カールは心が温かくなった。

「俺も痛いのは嫌いだから、もうしないよ。ギードともちゃんと仲直りできたしね」

 だから大丈夫、とカールがはっきりと告げる。そのにっこりとした笑顔を見て、アルは安心して頷いた。


   ***


 それから三日後、ギードの謹慎が終わり二人は洗濯場で再会した。ギードは仲間から少し弄られつつ、また笑って作業に戻れた。久しぶりにカールとギードが揃って洗濯をし、たくさんの湯を沸かしたので作業場には湯気がもうもうと立ちこめた。その様子を見て、洗濯に湯を使ってみたい、と言い出す者も出てきた。

 いつもより少し、話し声が多い日になった。

 ギードが戻ってから更に四日が経つと、今度は二人揃ってグランマに呼ばれた。カールの方は察しが付いていたが、ギードは「何でオイラも?」と言う顔をしていた。グランマは相変わらずの巨体をもっふりと揺らして、これからのことを説明した。

「まずはギード、カールさん、この前は本当にごめんなさい。私の配慮が足りなかったばかりに、二人には辛い思いをさせてしまったわ」

 大きな頭がずずずっ、と一度下げられる。

「でも、やっぱり、カールさんには陛下の洗濯部屋へ移ってもらうわ。それが陛下のお望みなの。そしてギード、申し訳ないけれど、貴方にはこの部屋に残ってもらいますわ。ごめんなさいね…」

 グランマの大きな、少し垂れた瞳が本当に申し訳なさそうだった。けれどもギードは落ち着いてグランマを見上げた。

「グランマさんが謝ることないですよ。オイラが、まだまだってだけです。今回はカールに先を越されるけど、でもオイラの夢は変わりません。これからも、陛下の洗濯係を目指して頑張ります」

「ありがとう、ギード。そう言ってくれて嬉しいですわ。でも、今回貴方を異動させない理由は、決して貴方の腕前が低いからではありませんのよ。貴方はこの作業場一の洗濯係ですわ。それに陛下の洗濯係に相応しいだけの技術力もありますわ」

「えっ……じゃあ、どうして…?」

 てっきり技量の問題だと思っていたギードは、グランマの言葉に動揺した。褒められるのは嬉しいが、そう言われると一旦落ち着けた気持ちがまた揺らいでしまう。ギードは息を呑んでグランマの話を聞いた。

「実は、貴方に指導役をお願いしたくて……。貴方は、洗濯の技術もありますし、カールさんの技法を理解するだけの知識もありますわ。だから、それを他の洗濯係にも伝えて欲しいのですよ。そうやって、係全体の技術力を上げるために、一翼を担って欲しいと思っていたのですわ。だから、もう少し、もう一年ほど、ここでその腕を振るって欲しいんですの」

「指導、役? そんな役職はないですよね?」

「ええ。だから、本当はもっと早くお願いしたかったのだけれど、承認をいただくのに時間がかかってしまって……」

「オイラが、他のみんなに洗濯のやり方を教えるってことですか?」

「そうですわ。貴方の知識と、カールさんの知識とを合わせて、もっと素敵なお洗濯ができるようにしたいと思いますの」

「すごいっ! すごいよ、ギードッ! 俺とギードの技術が、このお城全体の洗濯技術を向上させるんだっ! 俺たちの力で、お城のみんなが気持ちよくなれるんだっ!」

 突然の話に言葉がないギードに代わって、隣にいたカールがわっと声を上げた。ギードの丸い目は殊更、真ん丸と開かれた。そして嬉しさと驚きとが混ざった表情でグランマとカールを見た後、彼はやっと言葉を発した。

「オイラが、指導役……! みんなに、いろんな洗い方を教えて、もっと洗濯係として役に立てる! オイラの技術が役に立つッ!」

 今まで請け負ったことのない大役に、ギードはカールの手を握って喜んだ。

「この話、受けてもらえるかしら?」

「もちろんっ!」

 それから数日後、カールは王の洗濯部屋に異動し、ギードは洗濯係の指導役となった。


   ***


 異動の初日。カールはいつものように朝食を済ませ洗濯部屋に向かった。そこで新しい所属長に会う約束だった。見慣れた魔物たちがちらほらと集まる中、普段は会わない人物が廊下に立っていた。それは仮部屋に隠れ住んでいたときに世話になった、家政婦のメアリーだった。

「おはようございます。カール様、……ああ、今日からはカールさん、とお呼びさせていただきますわ。王の洗濯部屋は私の管轄となります。改めて、よろしくお願いいたします。さあ、新しい作業場を案内しますので、どうぞ付いてきてください」

「は、はいっ。よろしくお願いします!」

 彼女は以前見たときと同じ、赤いドレスに白いエプロンを巻いた、薔薇のような人形だった。だが、その佇まいは初めて会ったときの優しい少女の印象から、凛とした美しい女性に変わっていた。

 ふわりと揺れる長い金髪の後を、カールは緊張しながら付いていく。

 大きな洗濯部屋があった階から一つ上がると、そこは下階よりも少し静けさの漂う階だった。朝、それぞれが持ち場へと向かう時間帯なので人通りはある。けれども今までの階とはまるで様子が違って、すれ違い様の挨拶でさえ優雅なものに思えた。

 気楽で大衆的な雰囲気だった洗濯場とは打って変わり、城内らしい空気にカールがぎくしゃくする。静々と歩いて行くメアリーの後を、同じように静かについて行くのはかなり神経がすり減った。行き違う人との会釈にも慣れず、カールはあちこちで大きく頭を振ってお辞儀をした。

 そうして短い距離をやっとの思いで着いたのが、王の洗濯部屋である。

 灰色の木に白で模様が施された可愛らしい扉には、金の取っ手がついていた。

「ここが、陛下の身の回りの物をお洗濯する洗濯部屋になります。今日は全員に集まってもらいましたので、中でご紹介いたしましょう」

「はいっ」

 メアリーが一言断ってから扉を開ける。

 カールは既に緊張でいっぱいだった。

 通された部屋はあの大きな作業部屋よりずっと小さかったが、洗濯をするには十分な広さだった。床はきれいに掃除され、棚や壁には道具が行儀良く並んでおり、室内には優しい石けんの香りが漂っていた。

「おはようございます、皆さん。こちらが今日から一緒に働く、カール・ベーアさんです。ご存じのとおり、彼はヒト族で魔力を持っておりません。必要なときには手を貸してあげてください」

「ヴァルト・シュタットから来ました。カール・ベーアですっ。どうぞ、よろしくお願いしますっ!」

 メアリーからの簡単な紹介に続き、カールはまたがばっと頭を下げて挨拶をした。彼には上等な礼儀作法などの知識がない。品の良い自己紹介はできないが、せめて誠実であろうとした。

 その初々しい姿に、まず蜜柑色のドレスを着た女性が大きく笑ってみせた。

「初めまして、カールさん。そんなに肩肘を張らなくっても大丈夫よ。この階、みんな廊下じゃ静かにしてるけど、部屋の中じゃあ結構騒いでるんだから。魔力を貸す代わりに、力仕事のときはよろしく頼むわね! アタシの名前はデイジーよ」

「はい、ありがとうございますっ」

 溌溂とした、明るい態度のデイジーにカールは少しほっとする。彼女は淡い橙色の髪を肩まで下ろし、その上半分を朱色のリボンで結んでいた。ガラス玉のような黄色い瞳がきらきらして美しい。メアリーと同じ、白いウエストエプロンを巻いていた。

 デイジーの自己紹介に続き、他の者も口を開く。

 貝の頭部、隙間から覗く大きな一つ目、ヒトに似た胴体に水管の手足。それぞれ少しずつ形の異なるスカートを履いた三人は、どうやらシェル族のようであった。

「初めまして、カールさん。やっと噂のご本人に会えて嬉しいワ! 私はラホン。シェル族にはもう会ったことがあるかしら? 近くに立つと、振り向き様に頭が当たっちゃうから気を付けてね」

 最初に喋りかけてきたのは、横に平たく黒い貝殻の女性だった。すっと切れ長に開けられた隙間から、藤色の眼が覗いている。明るさの中に上品さも感じる声だった。

 次に話したのは、ラホンの肩よりもまだ低い、扇形の殻を持った小柄な女性である。小さな殻には黒い筋が何本も弧を描いており、黒の中に濃淡を生み出して艶があった。ふわりと外側に広がったスカートが何とも愛らしい。

「私はロプよ! カールさん。こう見えて、ここ一番の古株なの。分からないことがあったら、私に何でも聞いて頂戴っ」

 そう言いながら差し出されたロプの手を、カールは優しく握って答えた。

 最後に、控え目に挨拶を始めたのは一番背の高い女性である。大きな貝殻は象牙のような色合いで、そこに茶色い筋が曲線を描いている。開けられた殻の隙間が狭く、中の瞳があまり見えない。水管の両手をきゅっと腹の前で結んでいた。

「初めまして。私は……アガシアと申します。私も、最近配属されたばかりで、やっと慣れてきたところなんです…。是非、一緒に頑張りましょう」

 一生懸命な様子に初々しさが窺える。喋るのが苦手なのかもしれないが、言葉の終わりにはやや広めに殻を開け、大きな瞳でふっと笑顔を見せてくれた。

 部屋にいたのはこの四人で全員だった。

「ここの洗濯部屋は女性だけなんですか?」

 一通りの挨拶が終わったところで、カールが何気なく質問する。大部屋の方ではどちらかと言うと男が多かった。だが今この場にいる男はカール一人だけである。

「はい。ここは洗濯物の量が少ないので、この四人が主な係です。必要なときには手伝いのテディーが来てくれます。私は他にも監督する部屋があるので、実際の作業はあまりしませんが、困ったことがあればいつでも言ってください」

「姉さんが心配しなくっても大丈夫よ! 私たちがしっかり手助けするんだから!」

「ええ、勿論っ! そして陛下を魅了したというカールさんの技術っ! ロプも習得してみせますっ」

 人数は少ないが、それぞれ外から来たカールに積極的だった。

 カールはまた一つ、実家とは異なる仕事風景を知ることができて嬉しく思っていた。場所が変われば人も変わる。人が変われば作業も変わる。新しい知識に触れることは、カールにとってとても楽しいことだった。彼は、攫われるまでは魔王の城で働くなど考えもしなかったが、魔国に残って良かったと実感していた。

「メアリーさんとデイジーさんは、姉妹なんですか?」

「ふふふ。そうよ。でも姉さんは仕事のことになると、妹相手でも容赦がないの! 怒るとけっこう怖いしね。これからいろいろ話してあげるわ。立ち話はここまでにして、座ってお話しましょう? 決めることもいっぱいあるし」

「ドロシー、雑談は後にして、仕事の説明が先ですよ」

「はい。姉さん」

 ドロシーがスカートの端を持って大袈裟に礼をすると、ラホンたちがおかしそうに笑った。それを見たメアリーも口で窘めながら、楽しそうにしている。

 カールはこれから彼女たちとどんな洗濯ができるだろうかと、期待に胸を膨らませながら席に着いた。


   ***


 部屋を移ってから数日が経った。

 カールは休みを利用して、久しぶりに青空を見上げた。タピオのいる霊樹に来たのである。以前、タピオが洗濯部屋と繋げてくれた魔方陣を通ったのだ。同じく休みだったアルと、袴の話を聞いてから「行きたい!」と言っていたギードも一緒である。

 久しぶりに来たタピオの家には、また泥のついた洗濯物が溜まっていた。それをカールはギードと一緒に洗った。初めて実物の袴を見たギードは、やはりカールが初めてそれを見たときのように、履き方が分からず頭を捻った。

「オイラ、袴を洗うのは初めてだ! 本で、タピオ様が履いてらっしゃったってことは知ってたけど、本物が見られるなんて思わなかったぞ!」

「俺は袴っていう言葉自体、ここで初めて聞いたよ。襞が多いし、紐が長いし、どうしようかと思ったんだ」

「でも、僕と力を合わせてピンピンにしたんですよね! カールさんっ!」

 先に洗ったタオルや道着がはためく中、三人は喋りながら作業をした。カールもギードも洗濯が好きなので、いくら話しても話題は尽きない。アルも、以前アイロンを手伝った話などをして楽しそうに会話混ざった。

 タピオはまた、盛りの野菜を振る舞うと言い菜園へ行っていた。


 洗い終えた洗濯物がはたはたと風に揺れる。

 霊樹の前に広がる麦だと思っていた畑は、全体が薄紫に変色して大粒の穂を付けていた。ギード曰く、ドゥンケルタールでは麦を栽培しておらず、これはエール好きなタピオが作っている麦に近い植物らしい。不思議な色合いをしているが、実った粒は麦同様に甘い香りがしてエールの材料になると言う。

 カールはその変わった実を間近に見ようと、独りあぜ道へ出て行った。

 高い高い空の上からは燦々と陽光が降ってくる。

 谷間に下りて来た風が、甘い穀物の香りを巻き上げる。

 薄紫の不思議な実はふっくらと膨らんで、そろそろ収穫時のようであった。

「んー、やっぱり外は気持ちがいいなあ」

 一頻り穂を観察した後でカールは大きく深呼吸をした。城内での生活に不自由はないが、やはり日光だけはここでなければ味わえない。遙か頭上を、一羽の鳥が飛んで行くのが見えた。故郷では日常的に目にしていたが、魔国に来てからは初めてだった。

 鳥を珍しく思うようになるなんて、と感慨に耽りながらカールはその姿を目で追った。下から見上げる鳥の姿は、楕円形の胴体に葉っぱのような翼を広げている。それが青空の中をすうっと泳いでいく。時にはぐるぐると円を描いて旋回する。

 ふと、目で追っていた鳥が真っ直ぐに高度を下げてくるのが分かった。何か獲物でも見つけたのだろうか? 鳥は高い空の上からでも地を這う鼠を見つけて捕まえる。その鋭い眼が地表で何かを見つけたのだろうか?

 カールはそんなことを考えながら何気なく空を眺めていた。

 だが。

「カールッ! 走れッ! 竜だっ!」

「え?」

 突然空を飛ぶ鳥、否、竜の羽音が地響きのように轟き、あたりの空気が振動した。

 カールとは違い木陰で日差しを避けていたギードが血相を変えて叫ぶ。

 頭上で小さく見えていた鳥は、近づくにつれ巨大な竜となった。

「竜の目はごまかせないんだっ! 早くこっちに来いッ! お前、見つかってるぞっ!」

「ええッ?」

 カールがやっとギードの言葉を理解したとき、既に周りの穂は風でびょうびょうとなぎ倒されていた。カールは必死に霊樹の方へ走ろうとしたが、強い風圧で思うように進めない。

 せっかく干した洗濯物の竿が風に煽られ、いくつか倒れてしまった。

「カール殿おっ!」

 思わぬ事態にタピオも駆けつける。

 けれどカールに助けの手が伸びるよりも僅かに早く、竜が渓谷の中へ飛び込んできた。地表と渓谷の境、竜の体が霊樹よりも下へ進入した瞬間、バリバリッという稲妻が四方に走った。

 ドゥンケルタールを上から覆っていた結界が破られたのだ。

「わっ、わあっ!」

 耳を(つんざ)く大きな音に驚き、カールは思わず腰を抜かす。地べたに這いながら恐々と頭上を見上げる。竜を間近に見るのは初めてだった。分厚い木の皮を貼り付けたような、ごつごつとした茶色い竜がそこにいた。

 竜は、その体に見合った大きさの生き物を狩ると言われている。巨木のような竜が、ちっぽけなヒト一人を狙うとは思えなかった。

 カールはもう、恐ろしくて指一本動かせなかった。

「カール!」

 誰が彼を呼んだのか。その声を聞いた瞬間、カールは自分の耳を疑った。

 聞いたことのある、だがここにはいるはずのない人の声だった。

「しっかり掴まれよ!」

「え、えっ? うわあああっ!」

 カールが判断に手間取っている間に、竜の上からしゅるりとロープが飛んできた。それがぐるぐると体に巻き付いてぐっと締まる。それから勢い良く引っ張られ、カールは自分でも驚くほど軽く宙を舞った。

「うぐっ! う、ううっ……う、えっ……?」

 飛んだ勢いでどすり、と何かにぶつかりカールが呻く。ロープで締め付けられた腰が痛み、目が回って吐き気がする。

 自分を掴んだ何かを突っぱねてみると、大きな瞳が丹色に光っていた。

「カールッ! やっと見つけた! 無事で良かった!」

「え、えっ? テオ(にい)っ?」

「本当に良かった。俺が話を聞いたときにはもう随分と時間が経ってたからな。見つからないかと思ったよ。お前、昔っから運だけはいいよな!」

「えっ、話って? 見つけたって……?」

 竜の上でカールを受け止めたのは、カールよりもやや小柄な青年だった。青年は旅人のような出で立ちで、頭に表面がちくちくした鱗のバンダナを巻いている。そのバンダナの紐で長い赤毛を無造作に束ねていた。橙色の中に丹色が輝く瞳は、目尻に縁取りがあってヒト族とは少し異なっている。

 カールが《テオ兄》と呼んだのが、その青年だった。

 テオの横にはもう一人、別の青年が乗っていた。その青年もヒトに近い体つきをしていたが、肌が緑色で鱗があった。右頬には横に伸びた古傷がある。

「テオ、近くに魔物がいる。上昇するからしっかり掴んでいろ」

「おう。任せろ!」

 緑の彼が手短にそう言うと、テオはカールをぐっと抱き寄せた。その瞬間、空中で止まっていた竜が一気に空を駆け上がる。上から降り注ぐ大気の圧力に、カールは思わず膝をついた。

「カールッ!」

 遠くの方で別の声が聞こえた。

 しかしその声の主を確かめる間もなく、竜は渓谷を抜けていく。そして再び空高く舞い上がり、雲をなぎ払うように飛び始めた。

 竜の上にいるのはカールとテオと、竜を操る彼の三人だけであった。

 飛行が安定するとテオは改めてカールを抱きしめた。

「よく無事だったなカール! 本当に良かったよ。もう安心しろ! このままヴァルト・シュタットまでひとっ飛びだ! この竜の速さなら夕方には着くぞ! 親父さんたちすっげえ心配してたんだ。お前がこんなにピンピンして帰ってきたら驚くぞ」

「ヴァルト、シュタット……俺の家に、帰るってこと…?」

「そうだよっ! みんなのところに帰れるんだ。良かったな!」

 わはは、とテオは大きく口を広げて笑った。本当に、心の底から「良かった」と思い喜んでいるのだ。

 一方のカールは肩を強く叩かれるその感覚が、どこか遠くに感じていた。《帰る》という言葉が、どこか腑に落ちないでいた。

 太陽が地平線に向かって傾いていく。

「家に、帰る……」

 そっと覗いた足下に、渓谷の割れ目はもう見えなかった。

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