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洗濯屋と魔王様 第二章  作者: ろんじん
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第十四節*カールとギード

「待って! ギードさんっ!」

 作業場を飛び出して行ったギードの後をカールはすぐに追いかけた。

 自分がヴフトの洗濯係になることを彼がどう思うかなんて、少しも考えたことがなかった。だってそのために連れてこられたのだから。自分がそうなることは当たり前だと思っていた。ギードの夢がヴフトの洗濯係になることだと聞いても、カールは自分の立場が彼を苦しめるとは少しも思っていなかった。

 だから全身の毛を逆立てて怒りを表した彼にカールは驚いた。

 そして駆け去った彼を追いかけなければいけないと思った。

 追いついたところで何と言うべきかは分からない。それでも、この国で初めて出来た洗濯仲間を、カールは失いたくないと感じていた。

「待ってください! ギードさん!」

 だからカールは全力で彼の後を追ったのだ。



『洗濯屋と魔王様』 第二章



 四つ足で駆ける動物は速い。二足で走るカールがどれだけ頑張っても、四つ足には敵わなかった。それでも階段や曲がり角があるせいで、ギードも全力疾走というわけにはいかず、何とかカールは後ろ姿を見失わずにいた。

 ギードは事の訴え先を探しているようで、ときどき扉の前で止まった。しかし生憎どこも不在なようで、部屋の中には入れない。代理と話している間にカールが近づいてきて、逃げるように次へ走り出す。そんなことを何回か繰り返していた。

「ギードさんっ……待って……!」

 ぜいぜいと息を切らせながらも、カールはそれにしがみついた。今話さないと、もう話せる機会は来ない。そう感じたからだ。

 一方のギードはどこへ行っても目的が果たせず苛立っていた。おまけに後ろからへろへろと怒りの原因が追ってくる。気分は落ち着くどころか一層むしゃくしゃしていた。

 何年も洗濯係を勤めた自分を差し置いて、新入りが陛下の専属になるなんて!

 ギードはここ数日にあった出来事が、すべて馬鹿馬鹿しく思えた。快く迎え入れた相手が、仲間だと思った相手が、実は敵だったのだ。自分の夢を遠ざける、最悪な最悪な相手だったのだ。

「ギ、ギードさんっ……、おねがい、待っ……て!」

 ぜはあっ、と大きく息をつきながらカールはまだギードの後を追っていた。広い城内をあちこち駆け回り、もはや今どこにいるのか分からない。それでもカールはギードを追いかけた。

 ちょうど一階の横庭に面した廊下へ行き着いたときだった。

 思いつく限りの訴え先がすべて空振りに終わり、ギードは遂に足を止めた。後ろからカールが追いかけてくるのを感じながら、彼は静かに立ち止まった。

 やっとギードが止まってくれたことを喜び、カールは力を振り絞って駆け寄った。

 薄暗い廊下は人気がなく、外は遠くのほうで訓練の声が響いていた。

 ギードは立ち止まったまま振り向かない。

 カールは彼の正面に回るのが少し恐くて、その背中側からそっと声を掛けた。

「あ、あの……ギードさん…」

 名前を呼んでみるが返事はない。

 どう言えば怒らせたり、悲しませたりせずにいられるだろうか? カールはそれがちっとも分からず言葉が続かなかった。どう話しかけても無駄なように思えた。

 それでも、何か喋らなければ、と思った。

「ギードさんっ、俺……、すみません。ギードさんの夢、聞いていたのに。でも、俺、俺ヴフトさんの服を洗うために、ここに残ったんです。ここでいろんな服を洗いたくて、残るって決めたんです。だから、だから俺っ……」

「うるさいッ! だから何だってんだ! だからって、それでオイラが納得すると思ってんのかっ? オイラはずっと努力してきたんだ! オイラたちを守ってくれる、強くてかっこいい陛下のお役に立ちたくって、それで洗濯係になったんだ! お前なんかよりずっと、ずっと陛下のことを思って努力してきたんだ! どこから攫われて来たんだか知らねえけど、いきなり出てきたお前なんかに先越されて堪るかよッ! 何で一番日の浅いお前が陛下の洗濯係になれるんだっ? ほかの奴ならまだしも……なんで! 何でよりにもよって獲物のお前がっ!」

 カールの呼びかけに怒りが爆発したギードは、カッと牙を剥きだして振り返った。握りしめた小さな拳がわなわなと震え、丸い目がさらに大きく見開いていた。ギードの思いは中途半端なものではなかった。本当に、王の洗濯係を目標に努力してきていた。それはカールも彼の研究ノートを見てよく知っていた。まだ出会って数日だったが、ギードの熱意は強く感じていた。

 それでもぶつかるときがある。

 カールとギードはそれが偶々この日だった。

「オイラは認めねえ! お前みたいな新入りが陛下の係だなんて! 帰れっ! 何が残ることに決めた、だ! 王国での知識しかないくせに! 魔国にある布だって、全然知らなかったくせに! お前なんか、王国に帰って家で洗濯してればいいだろ! オイラの邪魔をするな!」

「帰りませんっ! 俺は、ここで働きたいんです! ここでいろんな物が見たい! 知りたい! だからヴフトさんの洗濯係にだってなりたいんだ! ギードさんの夢が本気だってのは知ってます。でも、俺だって本気でここに残ったんです。絶対に帰りませんっ」

「なっ……! ちょっと気に入られたからってデカい口叩きやがって! 陛下の目に留まったからっていい気になってんじゃねーぞっ!」

「えっ、うわっ!」

 二人は上の階にまで響くほどの大声で怒鳴り合った。どちらも、それだけ譲れない気持ちがあった。

 口では埒があかないと感じたギードは、カールの腕を掴んで庭に引きずり出した。庭は屋外だが、渓谷の中なので廊下よりもやや明るい程度である。所々、手入れの行き届いた庭木が植わっているだけで、辺りに人影は見えなかった。雨と無縁なせいか、やや埃っぽい地面が煙を立てる。

 その小さな横道程度の庭で二人は向き合った。

 カールが驚き突っ立っているのに対して、ギードは拳を握った。

「お前が帰らないって言うなら、帰りたくさせてやる!」

「えっ? ま、待ってギードさん! 俺はっ…」

「うるさいッ! 気安くオイラのことを呼ぶんじゃねえっ! お前なんか大っ嫌いだ!」

 ざりっ、とギードの両手が地面を捕らえ、丸い体がカールに向かって突進してきた。それを間一髪で飛び避けたカールがどすりと地面に転がる。

 気が動転して素早く立ち上がれないカールを前に、ギードは三つの指輪をはめた。右手に一つ、左手に二つ。右の人差し指にはめた指輪がぽうっと光ると、ギードの体が倍以上の大きさに膨れ上がった。カールよりも大きくなったその拳が、勢いよく振り下ろされる。ドシンッ、という重たい音とともに地面が震えた。

 またも転がるように躱したカールは、砂まみれになりながらやっと立ち上がった。

「ギードさんっ! 俺、別にそんなつもりじゃ!」

「うるさい! うるさいっ! 魔国に住むってのはこういうことだ! いつ魔法に巻き込まれるか分からないんだ! だから帰っちまえよ! 恐い思いをするのは嫌だろうっ? ここで働くのは諦めて、お前は自分の国に帰ればいいんだ!」

 ぶおんっ、と風を切りながらギードの拳がまたカールを襲う。大振りな分、大きく空いた隙間へ飛び込むようにカールはそれを避けた。

 するとギードは体を元の大きさに戻し、今度は左手の人差し指に魔力を込めた。その瞬間、両手の中に小さな気流が生じ、それがカールに向かって投げられると鋭い突風に変化した。

 カールは大きな風の壁に避けられる場所がなく、それをまともに受けて後ろへ転がり飛んだ。顔を守った腕がカマイタチに傷つき、細い切り傷から血が滲む。自分の腕についた複数の赤い筋を見て、カールはやっとギードが本気だと分かった。

 怖がらせる、なんて程度ではない。彼は本当にカールを攻撃しているのだ。

 先ほどの大声に続き大きな騒音がして、流石にどこからか人の近づいてくる気配がした。上の階の窓からは、テディーが二人を見つけて何か叫んでいた。

 しかし当の本人たちにそれは届かない。

 カールは立ち上がって固く拳を握りしめた。逃げずに戦う姿勢を取ったのだ。ギードはそれを見ると、一層顔を歪ませて三つ目の指輪に魔力を込めた。

「まだ退かねえってんなら、容赦しねえぞ!」

「退きませんッ! 俺はここに残る! ヴフトさんの洗濯係にもなるっ!」

「生意気言いやがってっ!」

 拳を握ったままカールが距離を詰めると、ギードは両手の間に水泡を生み出しそれを投げつけた。ばしゃっと顔面に水がかかり、カールは思わず目をつぶる。しかしすぐに零れ落ちるはずの水は、意外にもカールの頭を包んで離れなかった。拭えない水の感覚に、カールは眉間に皺を寄せながら目を開ける。視界はもやもやとした水の中で、音もぐわんぐわんと響いていた。何より顔全体が水に覆われたせいで息ができない。

 剥がれない水泡を外そうと、カールは両手で必死に水を叩いた。けれども水はいくら飛び散ってもまた顔にくっつき、球の形を崩さない。

 カールは段々と息が苦しくなってきた。

「ふんっ、魔法の使えない獲物が、魔法の使える魔物に敵うと思ったのかっ? オイラだってこのぐらいはできるんだ! 魔国にいたら、もっと怖い目に遭うかもしれないんだぞ! 帰るなら今のうちだぞ!」

「んぐ、ぶぐぐぐぐっ……!」

 ギードは両手を突き出し、指輪に魔力を集中させながらそう言った。その声が聞こえたのか、カールは水中でゴボゴボと反論した。そして一歩、一歩とよろける足でギードに近づいていったのだ。

 その予想外の行動にギードは驚いた。

「な、何だよお前っ! 苦しいだろっ? こっちに来るなよ! こっちに来たって魔法は解かねえぞ!」

「ごぼっ、もごぼぼ…」

「うるさい! 来るなっ! 来るな、来るなあっ!」

「ごぼぼっ…」

 カールの顔にへばりつく水の球は、両手を前にしていなければ維持できないらしく、ギードは腕を突っ張ったままじりじりと後ろへ下がった。また魔法を使い続けることにも神経を減らされ、騒ぎを聞きつけて来た人影に気が付かなかった。

「こらあっ! 城内での魔法を使うた喧嘩は厳禁だあっ!」

「ヒッ! げ、護衛兵っ……!」

 突然の怒鳴り声にギードはびくりと飛び上がり、思わず声の方向を振り向いた。その一瞬の隙をカールは見逃さず、ギードの肩をがっしりと捕まえた。

「えっ」

 どばしゃっ!

 水の塊をくっつけたままのカールの頭突きがギードの額に炸裂する。目の前に星を見たギードは魔法が維持できず、水泡がざぱっと崩れた。そのまま痛みに耐えかねて後ろへ尻餅をつく。両手で額を押さえ、うううと低い呻き声を上げた。

 カールはやっと吸えた空気にむせ返り、咳き込みながらその場に膝を突いた。

 音を聞きつけて訓練場の方から走ってきたのはシュピッツだった。

「こらっ! お前たち何をっ……て、カールさんっ? あんさん何でこんなところにっ」

「あ、シュピッツさん……はは、ちょっと、いろいろ、あって…」

「いろいろて……説明になっとらんわ。城内で魔法を使うた喧嘩は厳禁やねんでっ? あんさんは魔法使えんけど…」

「ははは…、すみません……」

 状況の分からないシュピッツはカールを見ながら渋い顔をした。

 仕事でも訓練でも私用でも、魔法はいつでも使える。しかし城内での喧嘩に使用することだけは、固く禁じられていた。ただの殴り合いなら被害は少ないが、魔法を使えば周囲に大きな影響を及ぼしかねないからである。魔法の使えないカールには無縁な規則だと思っていたが、まさかそれに巻き込まれるとは予想していなかった。

 シュピッツに手を借りて何とか立ち上がったカールは、どう言えば良いのか分からずに頭を掻いて誤魔化した。もう事は起きた後だった。

 城の内側からシュピッツに遅れて警備兵たちも駆けつけた。城内の治安を守るのは彼らの担当である。いくらカールのことが心配でも、管轄が異なるシュピッツにはどうしようもない。せめて見つけたときの状況を説明しようと、彼はカールから離れて警備兵に近づいて行った。

 そのときだ。

「うおおおおおッ!」

 蹲っていたギードが再び右手へ魔力を込め、大きな拳を振りかざした。しかし魔力を消耗したせいか、最初のときよりも巨大化の効果が一回り小さい。けれどもシュピッツたちは少し離れた場所にいて、彼とカールの間には何の障壁もなかった。

 大きな拳がカールを襲う。

 不意の攻撃に誰もが「あっ」と驚いた。

 ドスッ!

「うぐっ!」

 その場を見ていた者たち全員が、カールがやられると思っていた。

 だが実際、地面に転がったのは魔法が解けて縮んだギードの方だった。

 カールの見た目よりも逞しい右腕が唸ったのである。

「取り押さえろ!」

 まさかの光景に警備兵たちも目を見張ったが、すぐさまギードを取り押さえる。カールはそれを見て大きく息をついた。

 そこへ更に、他の警備兵に報告を受けて法務の卿フロリアーノ・エニュレがやって来た。以前、霊樹へ視察にやって来た蝶の羽を持つ魔物だ。

「城内で騒ぎを起こしたというのは貴方たちですか? ふむ、洗濯係のギードと、そちらはカール殿ですね? 双方、地下牢へ入れなさい。そこで怪我の手当を」

 フロリアーノは二人を一瞥するとそう指示をした。それを受けた警備兵たちが直ぐに行動を取る。カールは息を切らしながらも大人しく誘導に従った。

「法務の卿様っ! カールさんは何もしとりません! 向こうが一方的にっ……」

「下がりなさい、護衛隊長。口出しは無用です。城内での魔法を使用した喧嘩は厳禁。それを破った者は誰であろうと、処遇が決まるまで全員、禁錮刑です。確かにカール殿は魔法を使えませんが、応戦していたと報告を受けています。ならば彼も同罪。少なくとも今夜一晩は地下牢で過ごしてもらいます」

「そんな……」

 カールの連行にシュピッツが食いついたが、フロリアーノはそれを取り下げきっぱりと命令を下した。城内外を合わせ、騒動が起こったときの収拾は法務の卿が最高位として取り締まる。ただの警備兵に対してなら《護衛隊長》の顔も利いたかもしれないが、卿の目に触れてはどうしようもない。

 シュピッツのそんな様子を見て、カールは小さく「すみません」と謝りながら連れて行かれた。濡れているせいか顔色が悪いように見えた。

「法務様……、あの、カールさんは…」

「そう心配せずとも分かっています。獲物種族に対して、魔物と同等に罰を下すつもりはありません。しかし牢に入ることなら、ヒトも罪を犯せばそうなります。後は陛下のご意見も聞きながら判断しますので、貴方は自分の持ち場に戻りなさい」

「……分かりました。ありがとうございます…」

 フロリアーノに静かに諭され、シュピッツは訓練場へ戻っていった。他に窓や庭木越しに覗いていた野次馬たちも、卿の命令で解散させられた。

 横庭には大きな水のシミが残っただけである。


   ***


 午後の小休止。

 朝の予定が昼食にまでずれ込んだヴフトは、昼休みを兼ねて多めに休憩を取っていた。

 そこへやって来たのがフロリアーノである。

「……以上のような騒動が起きまして、一先ず両者を地下牢に収容いたしました」

「喧嘩騒ぎ…、当事者以外に被害はあるか?」

「いいえ」

「傷の具合は?」

「ギードは額と腹部に打撲痕。カール殿は両腕に細かい切り傷。二人とも軽傷です」

「そうか…」

 甘酸っぱい花の香りがするお茶を飲んでいたヴフトはため息をついた。

 カールを攫ってきてから早二ヶ月。自分の身の回りの物を洗わせようと思って連れてきたのに、未だその願いは叶えられていなかった。重ねに重ねた会議の末、ようやくそれが実現しようとした矢先。まさか騒動を起こして禁錮されるとは!

さすがのヴフトも眉間に皺を寄せ麗しい顔を曇らせる。

とりあえず、被害が少ないのは不幸中の幸いだった。

「フロリアーノ、それで、この件はどう片を付ける?」

 褐色のすらりと伸びた指先が、不安気に白磁のティーカップをなぞった。

「はい。幸いほかへの被害がありませんので、両者しばらくの減給。ギードはそれに加えて三日の謹慎、カール殿は所属の異動を一週間先延ばしにしようかと思います」

「ありがとう。お前が今の法務の卿で良かったよ」

「いえ、わたくしはただ報告を吟味したまで。大事にならず、ほっとしております」

「そうだな」

 ヴフトはフロリアーノの意見に心底同意し、すっとハーブティーを口に含んだ。ふわりと広がる酸味が暗い気持ちを消し去ってくれる。

 一通りの報告が終わると、法務の卿は本来の仕事に戻るためドアノブに手を掛けた。

 そこへふとヴフトが声をかける。

「そういえば、巨大化したギードをカールが殴ったというのは、本当か?」

 報告の中ではさらりと流された部分だった。

「はい。丁度その瞬間はわたくしも目にしました。ギードは弱っていたので大した巨大化ではありませんでしたが、カール殿は自分よりも大きな相手に退くことなく、見事な一撃を繰り出していました」

「そうか……、驚いたな。アレはそういうことが出来る奴だと思っていなかった」

「わたくしもです」

「薄弱そうに見えて頑固だったり、強かったりするところがある。おもしろい奴だ」

「しかし、騒ぎを起こしたことは看過できません」

「分かっている。この件はお前に任せる。手間を取らせてすまないが、よろしく頼むぞ」

「承知いたしました」

 フロリアーノは改めて深く一礼し、今度こそ部屋を出ていった。


   ***


 椅子が置かれただけの小部屋。そから地下への入り口は繋がっていた。警備兵の後について見張りの間を通り抜け、狭い階段を下りていく。渓谷にある城の更に地下。そこは上と差して変わらない明るさの中で、強い静けさが広がっていた。

 コツン、コツンという靴音がいやに響き、隔離された場所だということを示す。

 警備兵は黒い牢屋の前まで来ると、そこで手当をしてからカールとギードを隣同士の檻に入れた。檻は小さな正方形で、柵になった一面を除き、残りはすべて真っ平らな壁だった。唯一の設備は一角に設けられた囲いのあるトイレだ。

 カールが大人しくその中に入ると、ガチャン、と重たい音を立てて錠がかけられる。

 檻の外側から警備兵が毛布を差し出して言った。

「処遇が決まるまではここにいてもらう。食事は決まった時間に運ぶから、大人しくしているように。布団の代わりはこれを使え」

「はい…、ありがとうございます……」

 ごわごわと毛羽立った毛布を受け取りながらカールは項垂れた。

 ギードにも同じようにごわごわの毛布が手渡される。

「念のために言っておくが、この地下牢は巨大な魔道具で、この中で魔法は使えん。ここに見張りは残らないが《監視の眼》は行き届いている。妙な真似をすればすぐに駆けつけるからな」

「………はい…」

 警備兵の言葉に不承不承、ギードは返事をした。

 またコツン、コツン、という靴音が響いてそれが遠くの方へ消えていく。

 残されたカールとギードはただ静けさの中に身を置くしかなかった。

 だが静寂というのは思いの外苦痛である。

 互いの呼吸音だけが幽かに聞こえる檻の中、カールは早々に音を上げて柵越しにギードへ話しかけた。

「あの、ギード……さん…? 俺が殴っちゃったとこ、大丈夫、ですか……?」

 カールは隣の様子を確かめたくて、柵に顔を近づけて覗きこもうとした。しかし格子の幅が狭いため、顔が出せず思うように窺えない。ギードは手前の壁にもたれかかっているのか、足先がちらりと見えるだけだった。

「思いっきり殴っちゃってすいませんでした……。俺、洗濯のときはちゃんと力加減ができるのに、それ以外はすごい不器用で。喧嘩するといつも、目一杯殴り飛ばしちゃうんですよね…」

 黙っていることが出来なくて、カールは思ったことをぽろぽろと口にし出した。ギードからの反応はなかったが、構わず訥々と続けた。

「ギードさんの夢を聞いたときに、俺、自分のことも話せば良かったんですよね。今日みたいに突然じゃなくて、もっとちゃんと話してたら、こんな事にならなかったかもしれない。俺、ギードさんにいろいろ聞いてたのに、俺のことはギードさんに何にも話してませんでした。今更ですけど、俺、ヴフトさんの洗濯物を洗うためにお城に来たんです。最初は攫われてきたから怖かったんですけど、ここにはいろんな洗濯物があるって知って。それで残ろうと思ったんです。だから俺は国に帰らないし、ヴフトさんの洗濯物も洗いたい。今の洗濯場でも珍しい物が見られるけど、ヴフトさんの衣裳にはもっともっと珍しい物があると思うんです! 俺はそれをきれいに洗って、ヴフトさんを喜ばせたい。あの人、服がきれいになるとすっごく喜ぶんですよ! もうすごく、すっごく喜んでくれて、俺まで嬉しくなるんです! あんなに喜んでくれる人、他にはいないってぐらいに。そうそう、前にスーツを一揃いだけ洗濯したときなんか朝一で感想を伝えに来てくれて…」

「だあああああっ!」

 ダンッ!

 とりとめのない長話を遮るように、柵をすり抜けた拳が床を強打した。

 それに驚いたカールは思わず口をつぐむ。どきどきしながら隣の様子を窺っていると、すぽんっと格子の間をすり抜けてギードの頭が飛び出した。

「自慢か畜生っ! お前っ、洗濯係になったばっかだってのにいつの間に陛下のお衣裳洗ってたんだよッ! オイラここに来てもう何年か経つってのに、まだ一度も洗ったことねえんだぞっ? 何だい、何だいっ? お前ばっかおいしい思いしやがって! オイラだって陛下が喜ぶ顔が見たいんだいッ! オイラだって陛下のお役に立ちたいんだいっ! オイラだって、……オイラだってお前になんか負けねえんだからな! 負けてねえんだからなッ!」

「ギードさん……」

 強く叫びながらキッと睨んでくるギードの目にはうっすらと涙が溜まっていた。

「何だよお前、ずりいじゃねえか…。陛下の専属になる前から、洗わせてもらってるとかさ……。オイラだってお城の洗濯場で一番洗濯が上手いんだぞっ? お前ばっか、ずっこいぞ! カールッ!」

「ううん……、そこはいろいろあって。説明するの苦手なんですよ、俺…」

「そんなこと知るかっ! オイラが分かるように言えっ! オイラにもお前のことを教えろっ! オイラだけ何も知らねえんじゃ、話にならねえッ!」

「そっ、そうですね……! ええっと、じゃあ最初の最初から話します!」

 ギードの勢いに押されつつ、しかし彼が口を利いてくれたことにカールはほっとした。事の経緯をちゃんと説明するために一生懸命頭の中を整理する。生真面目に悩みながら喋るカールを見て、ギードはすんっと鼻を鳴らした。

「それと……さっきは悪かった。ごめん」

 ふて腐れているような、ばつの悪いような、少し歯切れの悪い物言いだった。

 それでもギードの言葉を聞いたカールはぱあっと救われた顔をし、隣の檻へぐっと右手を差し伸ばした。

「俺のほうこそ、ごめんなさい! ギードさん!」

「…ギードでいいよ。オイラ、実は堅苦しく喋るの疲れるんだ。それで、この手は何?」

「ギード! 握手だよ、仲直りの握手! 魔国ではやったりしないの?」

 元気を取り戻したカールは手を振ってみせ、ギードが握り返してくれるのを待った。

「魔国じゃ和解するときは、ハグをしてもう攻撃しないってことを示すんだ。でも今はお互い牢屋入りでハグはできないからな。とりあえず握手で代用しておくか!」

「うんっ。ここから出たらハグもしようね、ギード」

 二人はお互いに柵の間から腕を伸ばし、ぎゅっと力強く握りしめた。

 カールの手は拳を握っていたときよりもずっと温かく、ギードの手は巨大化していたときよりも大きく感じた。


 何もやることがない檻の中、壁一枚を隔てて二人の話し声だけが響いていた。

「そういやさ、お前のパンチすごい効いたぜ。腹んとこまだちょっと痛てえもん」

「ああ……アレは従兄に教わった、俺の一撃必殺なんだ。右腕はアイロンで鍛えられてるしね」

「ふうん。カールの従兄って強いんだな」

「うん。今は勇者になって、世界中を旅してるんだ。昔からすごい強かったよ」

「勇者かあ。傭兵みたいなやつだよな? 聞いたことはあるぞ」

「えっと、勇者は一人旅で、傭兵は仲間を組んでる、って言ってた気がする」

「ふーん……そういう違いなんだ」

「ね、ギードには、従兄とか兄弟とかいる?」

「ああん? オイラは鼠系の種族だぜ? 兄弟も従兄も数えるのが大変なぐらいいるさ!」

「えっ、そんなに?」

「そうさ。まずオイラが十五人兄弟の……」

 深い深い地下牢の中、カールとギードの語らいは、飽きることなく長く長く続いた。

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