余章 前
「彼女の父はテロリストです」
彼女が純人の女なら、こんな戯言はきっと信じてもらえないだろう。
けれど、彼女はゴブリンだ。
醜く、汚く、世界に嫌悪される存在。
誰にも味方されず、誰の味方も出来ない、哀れな種族。
こんなふうに生まれたことを恨んだことはある。
両親に対して理不尽な怒りを持ったこともある。
だけど、それも過去のこと。子供のころ、ちょっとばかりそう思っただけのことだ。
彼女は彼女だ。彼女は他の誰にも成れないし、他の誰も彼女には成れない。
だからこそ、現状を受け入れる必要がある。
それは、諦観にも似て。
ひどく、息が苦しくなることだろうけれど。
彼女にも、ともだちはいる。
ともだち、というのがどういうふうに分類されるものなのか、その定義にもよるけれど。
ともだちという存在が、何も臆することなく自分の気持ちをさらけ出すことが可能で、全幅の信頼を寄せうる存在、というのならば……間違いなくあれは彼女のともだちだ。
だけど、それが生命体でなくてはならない場合。
息をして、食事を摂り、肌に触れられるモノでなくてはならない場合。
あれは、ともだちではないのだろう。
晴れた午後。
薄暗い部屋。
ベッドと、机と、椅子。
散在する文庫本。食べかけのお菓子。
これが彼女の世界だった。
これが彼女の持つすべてだった。
それを彼女が不幸だと思うことはなかった。
なにせ、仕方のないことだ。彼女はゴブリンなのだから。
世間から疎まれ、世界から危険視される、その種族の娘。
彼女自身、それを認識し、またそれを良しとしていた。
そんな娘の生活も、同居者が去ってからの三ヶ月で少しだけ変化した。
娘は自らが身を置くスラム街のなかで、少しだけ過ごしやすくなった。同居者の行いが、身の回りのゴブリンたちの賞賛を浴びたのだ。
食料品店で少しだけモノを安く売ってもらえたり、Tシャツを買ったときによくわからないネックレスをおまけしてもらったり、同年代のゴブリンたちと話す機会が増えたり。
ちょっとした変化。けれど、けれど、彼女にとっては大きな変化。
だが、彼女はそれらの変化をありがたいとは思えども、素直に喜ぶことは出来なかった。
彼女の同居人の行いは、明らかな悪行だ。
春の北欧を震撼させた、大規模爆破テロ。
妖精種に扇動された哀れな子鬼。
それが彼女の父、マックだ。
彼は警察に逮捕されたが、それ以上のことを彼女は知らないし、知らなくてもいいと思っている。
己の父親のことに興味が無いわけではない。ただ、自分から情報を漁るような真似をしてまで得たい情報ではない、というだけだ。
もし何かあたらしい情報があれば、友人が教えてくれる。
「……ネイジー?」
そう、こんなふうに。
「なに」
ネイジーと呼ばれた彼女は、ベッドの上で眠たそうに目をこすりながら返事をした。
「きみのお父さん、かかっていた魔法がやっと全部解けたらしい。これから事情聴取だって、ニュースが入ったよ」
「…………そう」
机の上で明るく話す疑似妖精をよそに、ネイジーは大きくあくびをした。
「興味、ないのかい?」
「生きてるって情報は入ったんだし、それくらいは別になんとも。アメリカに移送された、とかじゃなきゃ――」
「ああ、その情報もある。非公式だけど、それなりに有力なソースだ」
「―――――」
ぴたり、と一瞬だけネイジーの動きが止まった。
「―――公式、発表じゃ、ないんでしょ」
「時間の問題じゃないかな。写真がある」
机の上に置かれた腕時計から、ホログラフィックが投影された。囚人服を着せられたゴブリンが大きなバスへ乗り込んでいく様子を映している。
それを見た彼女は、ベッドから跳ね起きて机へと走り寄った。
「ほっ、ほん、と、に……」
不鮮明なホログラフを両手で拡大し、食い入るように見入る彼女に向かって、腕時計がまた声を掛ける。
「裁判はアメリカでやるんだろうね。戸籍があったのが幸いだ。事件の全容はもう明らかになっているし、すぐ終わるんじゃないかな。ほかのゴブリンたちの裁判の内容からしても、やっぱり極刑はないだろう」
「―――――」
彼女は口を開かない。ただ、ホログラフを見つめている。
「――――うん。きっと、また会えるよ」
優しげな声が、腕時計から流れた。
―― ―― ――
「おー」
気の抜けた歓声をあげる男がひとり。
「むふー」
満足気な顔をする女がひとり。
ロンドンはウエストミンスター。西の宮殿、時計台、ビックベン、魔法学校。そう呼ばれる建物の前に、その男女は立っている。
「大きいね」
「でしょ?」
「立派だね」
「でしょ?」
「古っぽいね」
「…………でしょ」
見上げる男をよそに、女は軽くため息を吐いた。
「たまに来るくらいならいいんだけどねー。何年も過ごしてると、さすがにいろいろ不便で不便で仕方ないよう」
「そりゃ、魔法学校が便利だったらヘンじゃないか。ネットとか通ってるの?」
「さすがにネットくらいは通ってるよっ。無線の電波だって、食堂と寮はバッチリなんだから」
「うわ、便利じゃないか」
「……まあ、夜十時過ぎたら切られちゃうんだけどね。一年生の就寝時間だから」
「ああ……なるほど」
彼は納得したように頷いて、これからどうするのか、と、隣に立つ女に尋ねた。
「うん、とりあえずはアルに会いたいな」
彼女は彼にそう言って、それでいいかと彼に尋ねた。
「うん、いいよ。それがいい」
二人は笑みを交わして、建物の中へと入っていった。
彼の名前は橘修一という。
日本生まれ日本育ちの純人で、現在高校二年生。夏休みを利用して、このウエストミンスターにやってきた。
日本人らしく、特徴がないのが特徴。短く切った髪の毛は黒のまま、櫛も通さずくしゃくしゃになっている。
彼女の名前はユリアーナ・バッヘムという。
ドイツ生まれイギリス育ちの半人で、現在高校二年生。夏休みを利用して、ボーイフレンドを母校へ引き連れてきた。
エルフの血の証である長い耳をひょこひょこと動かすのが得意。純人の血が濃いのか、成長速度は純人と同程度。しかし、魔法の腕は同級生の誰よりも長けている。
彼女は短く切りそろえた金髪をふんわりさせながら、石造りの廊下をずんずん進んでいく。
「で、ユリ。アルって子はどこにいるんだ?」
余裕たっぷりに歩く彼女の背中に向かって、心細い彼は問いかけた。
「さあ」
「さ、さあって……。待ち合わせとか、してないのかよ」
「いきなり会ったほうがビックリするでしょ?」
「……サプライズ?」
「そうそう」
さっぷらーいず、と楽しげに語るユリアーナ。修一は彼女のこういう行き当たりばったりな素振りには慣れているようで、「ま、いいか」とあっさり受け入れてしまった。
「まずは寮に行ってみよっかなって。でも、この時期でもたまに講義あるし、いないかもねー」
「そっか」
気ままなユリアーナの言葉に修一はそう返事をし、視線の先をすれ違う人々の顔へと切り替えた。
エルフ。純人。ゴブリン。妖精。精霊。
日本ではめったに見にない亜人種も、ここでは当たり前のように歩いている。
「―――珍しい?」
先を行くユリアーナが、ちらりと修一のほうを振り返った。
「あ……うん。エルフなら日本でもたまに見るけど……ほら、精霊、なんてナマで見るの初めてだから」
「日本にはなっかなか居ないもんねえ、精霊。便利なのになあ」
そう言って彼女は、ふわふわと漂う光の球に手を伸ばす。球体はその手に乗るように近寄り、淡い緑の光を発した。
「へえ……綺麗だなあ」
その様子を見ていた修一は、今日何度目かの感嘆の声を上げた。それを聞いたユリアーナも、今日何度目かの満足気な顔を浮かべた。
そこに。
「ちょ、ちょうどよかったっ。そこの君、そのエレメント、逃がさないでおくれっ」
慌ただしい、男の声がやってきた。
「いやあ、ありがとう、助かったよ。知人に任せられていた精霊だったんだけどね、目を離した隙に部屋から逃げ出しちゃって。この子で三匹目だから、そろそろ本格的にお仕置きを食らうところだったんだ」
修一とユリアーナに駆け寄った男は、ドイツ訛りの英語でそう語った。
『――――修一さん。お札の効果、大丈夫ですか?』
『うん、効いてる。ありがとう、ヨセフ』
修一は見えない妖精からの念話に対して、特に驚くこともなく返答した。
彼がヨセフィーナ……ユリアーナのお付き妖精……から貰ったのは、翻訳魔法を「染み込ませた」護符だ。
『それにしても、ヘンな感じだよ。聞いているのは英語なのに、頭のなかで勝手に日本語にすり替わってる』
『魔法ですからねえ』
ヨセフィーナは姿を消したまま、くすりと笑った。
修一とヨセフィーナがそんな会話をしていると知ってか知らずか、主人たるユリアーナはドイツ訛りの青年に精霊を手渡した。
「うんうん、よく逃げちゃうよね、この子たち。あたしも十匹くらい逃がしちゃったかなあ」
「あ、やっぱりそうかい? いやほんと、参っちゃうよね」
「ねーっ。よっし、宿題やろうっ、って決めた途端、どっか行っちゃうんだもん」
「あるある。肝心なときに居ないんだよね」
ははは、と笑い合うユリアーナと青年。その自然な会話の様子から、修一には彼らが初対面のようには見えなかった。
「ええと、クラスメイト?」
修一がユリアーナにそう訊くと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「え、知らないコだけど、なんで?」
青年も彼女の言葉に同意し、頷いている。
「え……? いや……あー……フレンドリー、だなって……」
これが欧米人のコミュニケーション能力なのか……と、日本人である修一は軽いショックを受けた。ユリアーナが誰とでも仲良くなれるということはよく知っていたが、よもや欧米人が皆そうだとは。
「そうだね、まずは名前から、だよね」青年はにっこりと微笑んだ。「僕は、アルベルト・イェッセル。一年生だ。みんなからはジェシーって呼ばれてるけど、好きなように呼んでくれてかまわないよ」
「ありゃ? アルベルトならアルじゃないの?」
ユリの言葉に、アルベルトは「被るからね」と答えた。
「あ、そっか。一年なら―――」
そこで、ユリは言葉を切った。
長い廊下の向こう、アルベルトがやってきたほうをじっと見ている。
「どうかしたかい?」
「ユリ?」
不自然に口を閉ざしたユリの視線の先を、アルベルトと修一が追う。
そこには。
全速力でこちらへと走ってくる、少女が居た。
―― ―― ――
――――あの、バカ。
寮の自室へ戻った彼女は、扉を開けた瞬間そう毒づいた。
なぜなら、居るはずのクラスメイトとエレメントが、どちらとも居なくなっていたからだ。
今日は手のかかる課題が出たから、せっかく精霊を借りてきたっていうのに。きっとあのバカがまた逃がしてしまったんだろう。ここに入学してもう半年以上経っているくせに、未だに精霊一匹マトモに扱えないなんてこれだから純人は―――
と、そこまで考えたところで、彼女は思考をリセットした。最近の彼女は、こういう差別的な思想を極力無くそうと努力しているのだ。
だが、それはそれとして。
―――とりあえず、ビンタかな。
人種を問わず、彼女はポカをやらかしたバカには罰を下すべきだと判断したのだった。
そして判断を下した彼女の行動は早い。部屋を飛び出て、そこいらの生徒からクラスメイトから「精霊を追いかけている間抜けな純人」の情報をかき集めはじめた。
彼女に自覚はないだろうが。
その頬に、確かな微笑みを浮かべながら。
そうして、彼女は彼を見つけた。
女と親しげに話している彼を。
あまつさえ、その女から精霊を手渡されている彼を。
遠目でよくわからないが、女は美人に見えた。
遠目でよくわからないが、彼は楽しそうに見えた。
「――――――――」
その瞬間、彼女の理性はかき消えた。
彼女は、二百メートル先にいるバカなクラスメイトの元へ走り寄るだけの獣と化したのだ。
―― ―― ――
「ジェ―――――――」
彼は見た。
「シ――――――――」
憤怒の形相で駆け寄ってくる、
「ィィィィィィィィィ――――――ッ」
自らのクラスメイトの姿を。
(ああ―――これは、仕方ないかな)
そうして甘んじて、強烈なラリアットをその胸に受けた。
「このっ、バカッ、エレメントをッ、逃がしたっ、挙句―――」
唐突に現れた少女は、ジェシーを壁際に追いやり、その胸をぽかぽかと叩いている。
「ご、ごめん、アル。いや、ほんと、ごめん」
ジェシーは大して痛がる素振りを見せず、平謝りを続けている。
「――――その、うえに、ほかの、オンナと、いちゃいちゃ、して…………?」
そこで彼女の動きが止まった。
さっき、このジェシーと話していた女。
エルフのように見えた、金髪の美人。
あの顔。
なにか、どこかで、見たような――――
「やっほー、アル。ひっさしぶりぃ」
ジェシーと話していた女が、にこやかに手を振っている。
「うん、ていうか、なんか、アレだね」
まるで、古くからの知り合いのように話しかけてきている。
「アル、キャラ変わった?」
――――よく見れば。
かつて、毎日のように見ていた顔がそこにある。
「あ、あ、あああ…………」
動きの止まった彼女の顔が、みるみるうちに朱に染まる。
「―――――――ふ、はあ」
そんなふうに息を吐いて、エルフの少女は座り込んだ。
―― ―― ――
「いやあ、まさかあのアルが、恋人だなんて……へえー……?」
アルミリアの自室……ルームメイトは補習で不在……に、修一、ユリアーナ、アルミリア、アルベルトの四人が集まっている。さすがに四人が一堂に会するには手狭な部屋だが、彼らが落ち着いて話せるとしたらここくらいしかなかったのだ。
「私も驚いたわ。ふふ、可愛らしくなったじゃない、アルミリア」
羞恥心から黙りこくってしまったアルミリアを、旧友であるユリアーナとヨセフィーナがからかっている。修一とアルベルトはなんだか肩身が狭く、扉の傍で所在なさげに突っ立っている。
基本的に女子寮は男子禁制だが、日の昇っているうちは寮長からの許可が降りる。遠方から来たユリアーナの客人と、もはや常連となったアルベルトには二つ返事でOKが出た。
「う、うるさいっ」からかわれ続けたアルミリアがようやく口を開いた。「それを言うならユリ、貴女もでしょうっ。ホームステイ先の純人をボーイフレンドにだなんて……」
「あら、別段不思議な事でもないでしょう?」それをヨセフィーナが遮る。「ユリアーナは昔から、元気で、明るくて、人懐っこくて、なによりも“乙女”だったもの。修一さんのような魅力的な殿方と出会ってしまえば、それはもう恋に落ちてしまうしかないでしょう?」
「…………ヨセフ、どっちの味方してんの?」
浮かびながら歌うように語るヨセフィーナへ、ユリアーナが白い目を向けた。
一方のアルミリアも「むう」とだけ言って黙り込んでしまっている。
そんなふうに殺伐とした女性陣をよそに、修一がアルベルトに話しかけた。
「ええと……アルベルト、だっけ」
「うん、なにかな、シュウ」
いきなり「シュウ」と呼ばれた修一は一瞬怯んだが、できるだけ平静を装って会話を続けた。
「アルベルトは純人だろ? それなのに、よくここに入学できたね。……というか、よく魔法なんて使えるね」
「うーん、そうだね……。魔力を扱える純人っていうのはだいたい家系にエルフの血が混じってるってパターンが多いけれど、僕が魔法を使えるのは『突然変異』らしいんだ。うちは代々純人の家系だからね。ただ単に、運が良かっただけかな」
「…………そっか」
「残念そうだね、シュウ」
「まあ、ね。…………僕も少しくらい魔法が使えればさ、もっといろいろ、わかったんじゃないかなって……」
「―――ああ、なるほど」
修一の言葉を聞いたアルベルトは、深く頷いた。
彼は修一と違い、魔法が使える。しかし、その能力は魔法種であるアルミリアには到底及ばない。そばにいるアルミリアとの力の差は、曖昧な歯がゆさとなって常に彼の周りをつきまとっていた。
ひとのことを理解したいという、人間として当たり前の感情。
その「理解」の及ばぬ領域。なまじ魔法の使える彼は、だからこそその壁の厚さを知っていた。
そしてそれゆえに、修一の気持ちに共感できた。
「…………お互い、苦労するね、シュウ」
「……そうだね」
「ふうん。そんなこと気にしてたの、シューイチ」
男同士の会話に、ふらりとユリアーナが介入してきた。ヨセフィーナとアルミリアは、相変わらず口論を続けている、
「そりゃあ、まあ……」
口ごもる修一に、ユリアーナが優しく微笑みかける。
「そんなこと、シューイチが気にすることじゃないでしょ。エルフ同士でも、純人同士でも、お互いのことをカンペキに理解しようなんてそれこそ魔法を使ってもムリだもん。でもだからこそあたしは、あたしたちは楽しいの。理解できないなら想像して、不明瞭なら問いただして。そういうやりとりが、人と人とのつながりってものじゃない」
ユリアーナはそう言い切ると、そっと修一の手を取った。
「――――――あ、ありがと、う、ユリ」
顔を真っ赤にした修一は、どうにかそれだけを声に出した。
「ちょっと。なに人前でイチャついてるのよ、ユリ」
いつからかふたりの様子を見ていたアルミリアがそう吐き捨てた。そんなアルミリアに、ユリアーナは「えー?」と、軽い調子で反撃する。
「アルがそれ言う? 廊下で、大勢の学生の前で、アルベルトくんに抱きついてたアルが?」
「がっ」
ユリアーナの言葉に、またしてもアルミリアが固まる。そして。
「ああ。ユリアーナさん、それならいつものことだよ」
と、アルベルトがぽろりとこぼした。
いつも余計なことをぽろぽろ漏らすアルベルトをキッと睨んだアルミリアだったが、さっきの場面を思い出したのか、また顔を赤く染めた。
「――――――――そうだ。新入りがいるの。連れてくるわ。」
なにかを振り切るようにそう言い捨てて、アルミリアが部屋から逃げ去った。
―― ―― ――
「そ、そういえばシュウ。君、日本人だろう?」
「え、うん。そうだけど……。よくわかったね。中国人とかに間違われやすいんだけど」
「学校はいろんな国の人がいるからね。最近はすぐ見分けられるようになったんだけど……その、日本人にしては、ずいぶん英語が達者だと思ってね。僕は母が英語を話せたからなんとかなったけど、それでも苦労してね……」
「あー……そこは少し、ズルしててね」
修一はそう言って、ポケットから細長い紙切れを取り出した。
「―――護符?」
「うん。僕はよく分からないんだけど、このお札、ヨセフの魔法が『染み込んでる』らしいんだ」
「……………………」
アルベルトは修一に近寄って、手に持っている護符をしげしげと観察している。
「―――確かに。これは陣魔法じゃない。でも、詠唱魔法でもない。別のなにかだ。これは―――?」
「私の固有魔法ですよ、ジェシー」
護符を見つめ続けるアルベルトの肩に、ヨセフィーナがそっと腰掛けた。
「『翻訳』こそが私の固有魔法。その力を誰かに貸すくらい、妖精ならば造作も無いことです」
「いいのかい、僕なんかにそんなことを教えてしまっても?」
「もちろん」ヨセフィーナが笑みを浮かべた。「勉強熱心なその姿勢もそうだけれど、なによりあのアルミリアが認めた男の子ですもの。ちょっとくらい、サービスしたくもなります」
「……ああ、先輩にそう言ってもらえると、すごく嬉しいな。ありがとう、ヨセフィーナ」
「――――」
アルベルトの、真っ直ぐな笑顔。
それを受け、ヨセフィーナはつい「修一さん以上かも」と呟いた。
「え、ヨセフ、なんか呼んだ?」
「い、いいえ、なんでもありませんよ、修一さん」
―― ―― ――
数分後。
「ただいま」
と、いつもどおり……と言っても、修一は慌てふためいているところしか知らないが……のアルミリアが帰ってきた。
「えーと、ヨセフは名前くらい聞いたかもね。新入生の『トレス』よ」
アルミリアの紹介を受け、ひとりの妖精がふよふよと部屋に入ってきた。
「ど、どうもー……」
「―――三番? なんでイタリア語?」
その妖精の名前にユリアーナが首を傾げる。普通、妖精に仮の名をつけるのなら英語読みの数字を振るはずだからだ。
「名前持ちなのよ、この子」ユリの問いにアルミリアが応えた。「なんでも、卒業生の推薦があったとかで、この時期にムリヤリ入学してきたの。ほっとんど魔法使えないんだけど、変化だけは超一流、っていうヘンテコフェアリーよ」
「いやぁ、たはは……」
ふわふわと浮かぶ赤眼の妖精は、照れくさそうに頭を掻いている。
「へえ、新入生かあ」
ひとしきり説明を聞いたユリアーナは、興味津々というふうに妖精を眺め始めた。
「変化が得意……というのは、具体的にどの程度なのかしら?」
彼女の従者であるヨセフィーナも、新たな後輩に興味を示している。
「んー……見せたほうが早いわよね。この部屋の中なら別に問題ないだろうし……トレス、アレやって」
「え、ええと……はい、じゃあ」
指示を受けたトレスが地面に着地する。
小さな彼女はまるで何かに祈るように目を閉じ、手を組み、跪いた。
「――――ふう」
ためいきのようなひとこと。
その声が溢れた瞬間に、しゅるりという音を立てて、トレスの体が巨大化した。
「なっ」
「ひゃっ」
部屋に居た者が、各々驚きの声を上げる。
なにせ、さっきまで手のひらに収まりそうな大きさだった妖精が、瞬きの間に見るも麗しい人魚になっていたのだから。
「―――私は、なんでだか知らないけどね」佇む人魚を横目で見ながらアルミリアが語る。「この子、マーメイドに化けるのだけは見ての通りべらぼうに上手いのよ。エルフの私ですら、最初は妖精が化けてるって見抜けなかったくらいにね」
「……確かに。これは私達でないと、見破れないですね」
ぺたんと座り込む人魚と、それをしげしげと観察する妖精。亜人種を見ることすら稀な修一にとっては、映画のワンシーンと同じくらい珍妙な絵面だった。
「でも、どうしてわざわざ人魚に? 人間に化けたほうが何かと便利でしょう。歩けるのだし」
「あ、いや、それはそう、なんですけど……」ヨセフィーナの言葉に、トレスは口を詰まらせた。「今のところ、人間さんにはまだ、あまり上手く変化できなくて。人魚ならバッチリなんですけど」
「人魚のほうが難しいでしょうに」
「あー……それは、ええと、ひ、ひみつ……です。あ、でも、ヨセフィーナさんになら、言ってもいいのかな……?」
そう言ったきり、何か悩むようにうんうん唸りだしたトレスを見て、ヨセフィーナは「そういうことですか」と頷いた。
「ええ、なんとなくわかったわ、トレス。でも、そうだとしたら興味深い事案ね。あとでお話を聞かせてもらってもよろしいかしら?」
「も、もちろんですっ」
トレスはそう元気よく返事をすると、またしゅるりと妖精の姿に戻った。
「……あれ? それはなに?」
と、今度はユリアーナがトレスに尋ねた。
「これですか?」トレスは腕をあげた。「私の名付け親さんからのプレゼントなんです。宝物ですよ」
彼女の腕にあったのは、小さなリングだった。ふつうの人間にとっては指輪程度の大きさだが、彼女のような体の小さな妖精にとっては腕輪にちょうど良いサイズのようだ。
「……元気にしてるかなあ。もう夏だし、帰りたいなあ」
「ダメよ」トレスのふわふわした呟きに、アルミリアが素早く反応した。「一人前になるまでは帰らない、っていう約束だったでしょう」
「わ、わかってますよう。言ってみただけですっ」
その反論に構わず厳しい目を向けるアルミリアと、ぷっくりと頬を膨らませるトレス。
「…………良い師弟ですね」
その様を見たヨセフィーナが、ぽつりと呟いた。
―――自身の師のことを、思い出しながら。
―― ―― ――
「ところで、ユリ」
トレスがヨセフィーナの淹れた紅茶に口をつけた頃、ふとアルミリアが声を上げた。
「んー?」
ユリアーナは、アルベルトの手に持つカードを真剣に眺めながら返答した。彼女はいつの間にか修一、アルベルトとババ抜きを始めていた。
「わざわざ今日ここに帰ってきたってことは、出るんでしょ、あの講義」
「うん、そうだよ。やっぱ気になっちゃってね」
「言い出しっぺは、私なのだけれどね」
ユリアーナが返事をした直後に、ヨセフィーナも口を開いた。
「―――そう。確かに、ヨセフは気になって当然よね」
アルミリアはそう呟くと、ビスケットを口に放り込んだ。
彼女らが話しているのは、今日行われる特別講義のこと。「ダブリンテロにおける異種族の連携について」と題したそれは、ダブリンで起きたテロ事件の対応に関わった亜人種たちが、そのときにどう連携を取り、どうやって被害を最小限に留めたか、という講義だ。
「姉さんは出ないと思うけれど、それでもあの一件に関わった人々をひと目見ておきたい、と思って」
「大事件だしさ。他人事ってわけでもないし……それにほら、人狼さんも出るって話じゃん。見なきゃソンでしょ」
「……人狼部隊、ねえ」胡散臭そうにため息をつくアルミリア。「ほんとに来るわけないでしょ。ていうか、そもそも実在するかも怪しいじゃない。おとぎ話みたいなものでしょ、アレ」
「そうねえ。でも、姉さんの仕事に狼男さんが関わっているのだけは確かよ、アルミリア」
小さなティーカップを上品に傾けながら、ヨセフィーナが口を挟んだ。
「……根拠は」
「あの事件の当日、姉さんと連絡を取ったとき、人狼さんと同じ部屋に居たの。雇い主ではない、と姉さんは言っていたけれど、あの日あのときに同じ部屋に居たのなら、あの人狼さんは間違いなく関係者でしょう。……ええ、あのひとは間違いなく、人狼だったわ」
「妖精の眼、か」
「ええ」
アルミリアが今度は渋々納得した様子でため息をついた。その様子を見ていた修一は、首を傾げて問うた。
「……妖精の眼?」
「そうよ」修一の呟きに、アルミリアがぶっきらぼうに応える。「妖精は、一度視た相手の種族を看破できる。相手がそれこそ魔法種レベルの隠匿でも使っていない限り、一瞬で。人狼か吸血鬼か。ゴブリンかコボルトか。そのあたりのちょっと区別しづらい種族も、妖精が一目視るだけで判別がつくってワケ」
「へえ……すごいんだ、妖精って」
「そーよ。少なくともアンタの思ってる十倍はスゴイわよ」
アルミリアの辛辣な言葉に、修一は「うっ」と黙り込んだ。
「こーら。ユリを取られたからって修一さんに噛みついてはだめよ、アルミリア」それをたしなめるようにヨセフィーナが声を掛ける。
「と、取らっ……カンケーないわよ、そんなのっ」
唐突に立ち上がり、大声を上げたアルミリア。その彼女を、同じ部屋にいた全員が見上げている。
「うぁ」
どうも、自分は過剰な反応をしたらしい―――と彼女は気づいたが、それももう、後の祭りであった。