雪の降る町
投稿第一作です。感想、ポイント。よろしければお願いいたします。
雪の降る町
猛烈な吹雪。その中を光は重々しい足取りで歩く。ふと、何故だかわからないが、光の頭の中に胃液のイメージが音もなく現れ吹雪と結びついた時、光は自分の服に降り積もる雪を見て得体のしれない震えに襲われた。詰まらない考えはやめろとすぐに頭を振ったが、辺りを見回してみても周囲には物言わぬ木々、雪しかなく、自分の足跡は雪の胃に消化される。
激しく寒く、体は痛い。空を見上げてみてもただただ暗く淀んでいるだけで、希望は微塵も感じられない。光は、体に積もった雪の重みや極度の体温の低下から少しずつ歩けなくなっていた。転んで木に掴まって起き上がり一歩一歩進む。方向感覚も失われていたが、こんなところで死ぬわけにはいかないという一心で光は歩き続けていた。そしてついに光は偶然にも開けた土地に出たのだった。
大きな児童公園程の広さの土地。右手には全く木々がなく、空の黒に覆われていて今自分が切立った場所にいることが分かる。一面木は伐採されて、その代わりに等間隔で丸く小さな氷塊が、大きなそれの上に乗ったオブジェクト――吹雪による視界不良で光には明確にそれが何かを確認することが出来なかったが――恐らく雪だるまが手前に点在している。
不気味だ、と光は思った。光は低下する思考力を働かせて考える。ここは何か名の知れた場所に違いない。この雪だるまにしろ、木の伐採のされ方も自然の技じゃなくて人工の技だからだ。光は右手に進んだ。自分の位置を確認する為だった。そして自分が山の中腹ぐらいにまで登ってきていたことが分かった。視界不良でもある程度の高低差が感じられた。雪と雪の隙間、黒いキャンバスに、芸術的とも形容できる光の点が浮かび上がっており、それが家の明かりだと気付いたからだ。
光は、自分の横一列にも雪だるまが並んでいることに気づいた。明らかにそれらは町を見下ろしていた。光の住む山に囲まれた街を。それ以上は読み取れない。
次第に光にとって、その空間は恐怖よりも神聖さの色合いを強め、自分が侵してはならぬ禁忌を破ろうとする愚か者であるかのように思われた。光はその考えを非合理として頭から追い払う。それをバネにして一歩踏み出した時、雪は光の思った以上に深く、光は足を取られた。何度力を全身に込めてみても起き上がれない。もう起き上がるだけの力は残されていないようだった。
顔を傾けて雪に耳を当てた。言葉にできぬ静かで厳粛な音がした。静かに頭の中に響き渡る。刹那耐えがたき眠気に襲われ光は眼を閉じた。
「おい、起きろ!」
光は、顔への衝撃と共にすぐにやってきた冷たさを感じて、ゆっくりと目を覚ました。手で顔を拭うと水だと分かった。
「ようやく起きたか。ったく。って何、俺の事睨んでんだよ。起こしてやったんだから感謝くらいしろよ」
光に水を掛けたあげく態度が大きい女。髪は黒く、後ろで結われ、顔は目鼻立ちがはっきりしている。美人だ。ダッフルコートを羽織り、全身に雪がついている以上、彼女は外で作業していたに違いない。右手にはシャベルが、左手には光の顔にかけた水の入っていたバケツが握られている。それらを彼女は壁に投げ捨て、椅子が壊れてしまうんではないかという勢いで座る。一つ一つ音が大きく、光は震えていた。明確な彼女の不機嫌さに。彼女は机を乱暴な手つきで漁り、中に酒が残っていた酒瓶を見つけると口をつけて呷った。
その間に光は、自分が吹雪に見舞われてついに気を失ってしまったことを思い出していた。死も覚悟していた。だが今自分は生きている。それは誰か自分の身を助けてくれた人間がいるからに違いない。
光はもう一度目の前の女を見つめた。酒を飲みながら、所在無さげにシャベルの柄を握ってクルクルと掌の中で転がしている。
あのシャベルで雪かきしていた時に自分を見つけて介抱してくれたのだろう。態度は粗暴で人を助けるなんて考えられないが、助けた人間は彼女以外有り得ない。
光はベッドの上で居住まいを正してから
「私を助けて下さってありがとうございます。何とお礼して良いのやら……」
光は膝の前の枕に頭がつくくらい深く頭を下げた。
光の急な態度の変り様に女は困惑したようで、酒瓶を口から離すと机の上に置いた。今度はそっと静かに。
「おぉ……。感謝しろとは言ったがそんなに頭を下げる必要はねぇよ。別に助けたくて助けたわけじゃねぇからよ」
女は、頬をポリポリと掻いて視線を首ごと窓の外へと移した。彼女は顔が上気し、光に礼を言われて照れているように見えた。それは酒を多く飲んだからに過ぎない。彼女が醸し出す艶やかな女らしさがその証左だ。ただ外の吹雪を見つめる目だけは、見ている方が切なくなる悲しさを湛えていた。
それは一瞬捉えられただけで、彼女は次の瞬間にはもう明るさを取り戻していた。
「そう言えばお前の名前を聞いていなかったな」
女の唐突な調子の良さに光は我に返った。確かにあの悲しき双眸を光は確認した。女には何かあるに違いない、と考えていたがひとまず彼女が自分の命の恩人である以上、踏み込んで根掘り葉掘り尋ねることは失礼だと思い、どうすることもできず長考に耽っていたのだった。
「私の名前は光と言います。貴方は?」
「美樹だ。美しいの美に樹木の樹だ。ま、気軽に美樹さんとでも呼んでくれ」
美樹と名乗った女は、机の上、酒瓶のちょうど隣に置いてあった煙草の箱を手に取ると中から一本取り出して口に咥えた。マッチで火をつけて煙草を燻らせる。すぐに部屋中に臭気が充満した。
光自身は煙草の存在自体は嫌いだったが、不思議なことに煙の臭いは全く嫌いでなくむしろ好きな方だった。光が物言わず喫煙にも不快な顔を示さなかったので、美樹は一本煙草を差し出すと
「お前も吸うか?」
と何でもない様に勧めてきた。
「吸いませんよ。さすがに未成年ですし」
断って、光は物憂げに外を見た。吹雪は強まる一方で、時折窓がガタガタと揺れた。
「良いね。その顔。なかなか格好良い。体はまだ大きくない癖に大人の顔するじゃん」
コロコロと美樹は陽気に笑うと一つしゃっくりした。美人が台無しだと光は思った。美樹は机の上の別の酒に口をつけ始めた。まだ彼女は飲むのか、と内心あきれつつ外の様子を見て、今日はもう一泊するしかないと思った。光が今日ここに泊まってよいかと尋ねると、美樹は酒瓶を空になるまで飲み切ってから黙って頷いて見せた。
少し気分が落ち着いてくると、光は改めて自分が今いる部屋の中を見回した。物が多少散らかっているとはいえ、女性の部屋にしては随分とさっぱりしているというのが第一印象だった。一〇畳程の広さの部屋にベッド、椅子それから机しかない。白い壁を触ると木目独特の滑らかさを感じる。建物全体が木で出来ているのだ。天井から下りている傘つき電燈も朧気な光を床に落としており、部屋を奥ゆかしき和の空間として演出することに成功している。質素ゆえの美か。
「光、煙草は無理でも酒くらいは強くあれよ。こういうのは慣れだぜ?」
美樹は、この部屋の雰囲気を破壊する程の大きな声で叫び、それから一人で訳もなく笑った。光は直感的にこの人間は自分には合わないと感じた。お互いの距離感を考えずに、事もなく身近な人間であるかのように振舞う人種。
人間ではない。人種だ。
自分は合理というレンズでカメラを構えて生きている人間だ。ファインダーは狭いが安定している。絶対だ。そこに収まらない物には体がよじれるような不快感を覚える。
美樹はそれから何度も光に酒を勧めたが、光は全て断った。美樹も次第に酒を勧めなくなりやがて飲むのもやめた。それから光と美樹はいくつか言葉のやり取りをした。どれも絶妙な塩梅でたわいもない質問であり、光は特に思考せずに答えた。例えばどうして敬語を使うのか、だった。光はその質問に対しては素っ気なく昔からの癖ですとだけ返した。すぐに会話は途切れた。光は少し酒を飲んでみてもよかったのかもしれないと思った。美樹程とはいかなくても、陽気になれば会話ももう少し弾んだかもしれないと考えたからである。光は強く歯噛みした。大腿の下の布団を端の部分だけそっと光は握りしめた。その時も光は前歯を強く噛み合わせた。その様子を見た美樹は怪訝そうな表情を浮かべたが、光がすぐにそれに気付いてやめたので、美樹も視線をさまよわせた。
「……そういえばさ。お前、何でこんなところまで来たんだよ?」
美樹の問いかけに、光は我を取り戻しすぐに嫌悪感に苛まれた。一人の時に色々と考え、自己の深淵にはまりこむ瞬間が光は好きではない。それは最近覚えたばかりのマスターベーションに良く似ている。自分のフレームに収められないもやもやとした、でも絶対逃れることのできない幽霊のような存在。
「……魔が差したんですよ」
頭を軽く振って、小指で目頭を掻く。本当の所自分でもなぜ来たのかはわからない。これだ、という理由は無い。
見れば美樹はまた酒を呷り始めていた。既に顔が赤いのにこれ以上飲ませるのは危険だと光は考えた。
「美樹さん。さすがにもうお酒は控えておいた方が……」
「うるせぇ。お前魔が差したって。そんな軽い気持ちでこんなところに来て馬鹿じゃねぇのか?」
光は突然の美樹の剣幕に震えた。
「お前、軽い気持ちでこんなところに来て」
美樹はそう言いかけて途中でやめた。一本目の煙草は既に吸い終わっていて、二本目を取り出してマッチで火を点けた。美樹はまた窓の外を見つめた。時折口に挟まる煙草が、美樹が口を動かすために上下に揺れる。
美樹のテンションの激しい変化に光は辟易する一方で、自分にも非があることを認めた。雪山で遭難し、死にかけた人間が「魔が差した」などと言ったら誰でも怒りたくなる。それが自分を助けた人間ならなおさらだ。
光は居た堪れなくなって、ただ外の吹雪が一刻でも早く静まることを願った。何も言わず、ただじっと下を見つめて。
美樹が光の隣に突然腰かけて来たのは、彼女が二本目の煙草を吸い終わった後だった。彼女は何と言うこともなく移動してきた。彼女は光の体に自分の身を寄せるとその首に腕を回した。それは初めて感じる女特有の柔らかさだった。酒が放つ以上の妖しき女子の匂いもそれに追い打ちをかけた。
「おんやぁ。どうしたのかなぁ?お酒飲んでもいないのに顔が真っ赤だなぁ?」
美樹は更に光に密着する。美樹の体は、光が今迄学校で見て来た女子のそれとは違い、大きく、優しく、何より余裕が感じられる包容力があり、光は無性に心惹かれるものを感じないではいられなかった。
美樹が何も言葉を発さずただ光を見続けているのも意地が悪い、と光は思った。酒飲みとはこうも厄介なものなのか。
しかし、光は寄せてきた美樹の肩に手を掛け、美樹の目を見つめながらゆっくりと自分の体から引き離した。
「……すいません」
美樹は驚いた顔をした。眼が、どうして?という言葉を代弁していた。
「すいません」
光は何も言わない。いや、言えなかった。美樹の考えもわからないし、自分の考えもまとまっていない。ただこういうのはいけない、と思った。
「俺の体に魅力がねぇか?」
美樹の目はすうっと細められている。口は少し曲げられている。
「そういうわけじゃないです。ただ美樹さんは私に何をしようとしました?」
この女性はやはり何か奇妙だ。この人の態度の変化や表情の変わり様には純粋な人間のそれを超えた、見た人を慄然とさせる何かがある。本当は彼女が何をしようとしたかは光にも解っていた。ただ聞いておかなければ体が持たなかった。
美樹は返答の代わりにゆったりと淫靡な笑みを見せた。まるで分っているだろうに、とでも言う様だ。
「その……べつに美樹さんに魅力が無いという事じゃないんです。ただえと、その……私たちは今日会ったばかりで明日には別れる一夜の縁です。それなのにそういう行為をする、しかも酔った末にっていうのは人としてどうなのかと。それに……」
「それに……何だよ?」
「それに……こう言ったら私のことを変な奴だとお思いになるかもしれませんが……」
「良いから言ってみろ」
「私は誰かと交わることにとんと感興を誘われないのです」
言い終わったとき、光の中でストンと何かが落ちた気がしてこちらが本当の理由だなと思った。
光の予想に反して、美樹は光の告白に何の反応も示さなかった。光の緊張は最高潮に達した。時折彼女は眼を瞑って眉間に皺を寄せた。光は窓の方に体を向けた。ちょうど鏡に自分の顔が映る。何とも間の抜けた顔だった。間近に迫った死に震える患者のようなそれ。
次に光が美樹に顔を向けたとき、美樹は自分の口に咥えていた煙草を光の半開きの口にねじ込んだ。そして立ち上がる。
「ゲホ、ゲホ。ペッ。な、何するんですか?」
光は胸を押さえながら煙草を吐き捨てた。
「けっ、なーにが私は人と付き合うのに感興が誘われないだ。ガキの癖にませた言葉づかいしやがって」
美樹は、先ほどまで座っていた椅子に戻ると新しい煙草に手を付けた。一瞬彼女は光に背を向けた。肩越しに一瞬だけ見せた表情はどことなく穏やかに見えた。美樹への疑いは消える。
「美樹さんはそういえば私のことをガキだとおっしゃりましたが、私はもう一四なんです。訂正して頂けませんか」
「そうやってむきになっちゃうところがガキなんだよ」
美樹は大口を開けて欠伸をした。彼女の光を軽くあしらう様子は光を更に反論させた。
「美樹さんだってまだ全然若いじゃないですか。それに乱暴なことばっかり言って子供みたいですよ」
光は言い切ると布団の上に寝転がった。そうして顔だけ横に傾けて美樹を見つめた。
「お前、それ本気で言っているのかよ」
「はい」
光は何のためらいもなく頷く。彼は複雑に考えない。自信はあった。
美樹は嘆息する。
「俺だって色々と今日まで経験してきてらあ。確かに若造にしか見えねぇかもしれないけどそこらの爺さんには経験で負けはしねぇ。むしろ心はもう死に際に弱音を吐く婆さんと変わらないかもな」
美樹はそれ以上何も答えようともしなかった。彼女の醸し出す雰囲気が如実にそれを物語っていた。光も沈黙せざるを得ない。
「それよかさっきは魔がさしてここに来たって言うけど何かそれなりな理由があるんじゃねぇの?」
もう何本目かわからない煙草を口にして、マッチの箱にマッチをこすりつけながら美樹はそう尋ねた。
「本当に魔がさしたんですよ」
光は部屋の中に充満した煙草の煙の臭気に少し嫌悪感を示すようになった。しかし相変わらず外は吹雪が強く、窓を開けて換気するわけにもいかない。
「確かに気まぐれではないですけど」
「気まぐれじゃねぇことくらいはわかる。もしこんな場所まで気まぐれで来るやつがいたとしたらそれは狂人だ。まともに俺たちは話し合えていねぇよ」
美樹の声音には焦燥が感じられた。なかなかマッチに火がつかないからだ。何度マッチを擦っても掠れた音しか出ない。
「俺の話ばっかさっきから聞こうとしやがってたまにはお前の話もしろよ。別に構わねぇだろ」
結局マッチの火はつかずじまいで、彼女はマッチ箱を挙句の果てに地面に投げ出した。
光はそれをそっと取り上げると側面に塗付された赤燐を指で撫でる。ザラリとした感触がする。光はゆっくりとそれに合わせて言葉を紡ぐ。
「私の話なんてつまらないですよ。きっと美樹さんを退屈させる」
「そんなことはねぇ。退屈するような人生なんてあるもんかよ。聞かせてくれ」
美樹の視線が光の手の中のマッチ箱に注がれる。光は箱の中からマッチを取り出し、一回擦って火が点けば、話そうと不意に考え付いた。光はマッチを取り出し擦った。小気味よい音を立てて、点火した。光はそのままマッチを美樹の口元に持っていく。
彼は話を始めた。
この町では、冬になるといたるところで雪だるまが作られる。その理由は諸説あるが、一番有力なのは、山を越えてこのあたりの地域に移り住んだ先祖たちが、厳しい吹雪の下で行われた山越えで亡くなった仲間たちを偲んで作ったことが次第に慣習化したという説だ。町中の人家で、家族総出で玄関前に雪だるまが作られ、来年も家族が平穏に一年過ごせる様雪だるまの前には酒などのお供え物が置かれ祀られる。そうやって神格化された雪だるまは、町中全ての人から敬服され丁重に扱われる。因みに夏あたりに溶けて無くなることは「昇天」と呼ばれる。雪だるまが神の元に逝き、町の人達の自分に対する細やかな世話を神に報告し礼として彼等への保護を求めるというのだ。
その日は、そんな雪だるま作りを考慮し学校が指定した休日の翌日だった。授業も休み時間のクラスメイトの話題も雪だるまのことで持ち切りだった。
そんな中光は机に頬杖をついて窓の外の光景を眺めていた。空一杯に蓋をした黒い雲の隙間から、煮沸の泡のように雪が地面へ吹き零れる。換気のために少し開けられた窓の隙間を通って時折、風が淡雪を運んでくる。その冷たさは、教室内に焚かれたストーブの室内を膜のように覆うゆるやかな放射熱に当てられ、奇怪な形の滲みと帰した。
雪なんてこんな無力なものだ。それから作られた雪だるまも同様。いくら伝統とはいえこんなものに崇敬の念を払わなくてはいけないなんて非合理的だ。光は休み時間教室内の生徒を睨みつけながらそう思った。
光がそのように憤る原因は、今日の国語の授業にあった。授業は、最近県の大きなコンクールに出して賞を獲得したK君の小説を、I先生が朗読し感想を班ごとに話し合うというものだった。その小説のあらすじは、クラスで孤立していた男子中学生が心優しき喋る雪だるまに出会い、少しずつ周りの人たちと打ち解けていく過程を描いたものだった。I先生は気に入ったセリフを感情をこめて何度も読んで見せた。
「孤独はこの世の中で最も忌むべき、悲しむべき救いようのない病気なんだ」
I先生とはそのセリフの朗読中に何度も目が合った。非常な自信家で生徒間の友情を重んじるI先生は、目をうっすらと細め口を軽くすぼめる。まるで今にもこれはお前に対する箴言なんだとでも言いそうな表情だ。他の生徒からの視線も痛いほど感じた。遠巻きから恐る恐ると言った感じだ。光が視線のした方向に目を向けると、何人かがさっと顔を逸らしたのを感じた。
本当ならば怒鳴り散らしたい。だがそれこそ非合理なことだ。ここはこちらがぐっとこらえ、冷静に対処しよう。光は、すくっと席を立ちあがると教室の外へと向かった。
「先生、すいません。体調があまり良くないので保健室へ行ってきます」
先生の反応を無視して、光は廊下を保健室の方向に向かって歩き出した。
教室内が騒然とするのがすぐにわかった。それが少し心地良いと感じた。復讐の様にも思われた。
「ちょっと待ってよ。光君!」
しかし後ろの方で閉めたはずの扉が開く音がして、光は後ろを振り返った。そこには小説を書いたK君が気まずそうに立っていた。
「どうして君が私に謝るんですか?」
我ながら嫌な質問だ、と光は思った。現にK君は、顔面蒼白にこそならないが僅かに口元が痙攣している。
「か、勘違いしないでくれ。あの主人公のモデルは僕なんだ。決して君じゃあない」
何とも苦しい言い訳のように聞こえたが、実際、このK君はクラスで仲間外れにされていたので通らなくもない言い訳だった。
光はじっとK君の顔を見つめた。確かにいじめられそうな、覇気のない顔だ。
「先生とかクラスの皆が勝手にやってることであって、僕は関係ないんだよ……」
「そんなことわかっています」
光の刺すような鋭い視線を向けられて、K君は罰の悪そうに顔を横に逸らした。
「それに確かに私はクラスで誰とも特に親交がありません。ですが別に私は気にしていません。困ってもいません」
光はそう言い切ってその場を立ち去ろうとした。もう話すこともないし彼も話せないと判断したからだ。しかし、K君はゆっくりと先を歩いていた光の背中に言葉を漏らした。
「……僕は……僕はひとりぼっちが怖いよ。君みたいに格好つけて、自分の感じる怖さを表に出すことなく平然となんてしていられないよ」
光は立ち止まった。そしてK君の方を振り返るとその顔を睨みつけた。
「おい、君。その言いぐさじゃあ、まるで私が笑い者のようじゃあないですか」
「僕は間違ったことは言ってない。一人ぼっちな奴はこの世界じゃあいらないやつなんだ」
K君の物言いは頑固だと光は感じた。我儘極まりない幼い振る舞いだとも。最も光の嫌うことだった。
「何を言うかと思えば一言めには、この世界は、ですか。世界という言葉を軽々しく使って知ったような口を利くのは、下らない三文小説の中だけにしてくださいよ」
周囲の空気が巨大な怪物と化して光に襲いかかると、光の全身に絡みつき繊細な感覚と熱を奪っていった。光はゆっくりと自分が言い過ぎてしまったことに気づいていた。幸い二人の立っている位置が教室から距離があったおかげで教師が教室から出てくる気配は無かった。役目を終えた怪物はそのまま壁にかかっていた時計の中に吸い込まれ、二人の間に時間の感覚が取り戻されていった。
「……昔、婆ちゃんが僕に言ってくれたんだ。この土地の神様は孤独な人が大嫌いなんだって。昔、孤独な人は大抵他の村人との共同祭祀に六すっぽ顔を出さず神様も尊敬しなかったから。自分ひとりで生きていける、神様なんて存在しないってなっちゃうから」
そう言うK君の顔は真剣だった。光はさすがに二度目は茶化すことなく真面目に返した。
「雪だるまだとか。孤独な人間が嫌いな土地神だとか。本当にこの土地は奇妙な話が多いですね」
光はそう言って肩をすくめて見せた。それ以上は何も言えない。光は真面目だった。嘘偽りのない気持ちだ。
それが伝わったのかK君も真剣な顔を崩さず、口を開く。
「今は科学万能の時代で、神様なんて存在しないって周りの人は皆言う。でも僕は信じ恐れているんだ。一人ぼっちは、いらないやつで神様に嫌われてやがて世界から消されるんだって」
「なぜそう思うんです?ただ貴方の御婆様がお語りなられた、孤独を戒める寓話に過ぎないと思うんですが」
光は昔読んだセルバンテスのドンキ・ホーテを思い出す。K君はまさにその主人公だ。主人公にとっての風車がK君にとっての伝え聞いた話なのだ。
「実際にそう感じるんだ。どこへ行っても一人。一日一日を一人で作る。それだって中途半端だ。僕の周りにはどうやら他の生命も生きているらしくて、彼らは時折無遠慮に手を僕の目の前にずぶりと差し込んではかき混ぜてくる」
光は戸惑いを覚えた。他の生命体という、無機質な呼び方を反芻して光は奇妙な快感を感じてしまったからだ。
人がいて。自分もその一部で。感情があって。表情があって。そんな誰も言葉にしない当たり前のことが、光には確かに当たり前に感じられなかった
何度も道の途中で立ち止まっては後ろを振り返るように、光は自分の確実性を確認した。大勢の人間が集う場に放り込まれると特にそうせざるを得ないので、今K君が言ったように感じる自分がいることを光はすでに気づいていた。だが今日まで誰にも明かさないでいたのだった。
光は制服の上から自分の胸を強く抑えた。何かが溢れだしそうだった。
「別に同情とか、そういう論理の中の次元の話をしている訳じゃないんだ。僕がしたいのはある意味で忠告だ。君はこのままだと消えて無くなる。世界にぺしゃんこに潰されて」
その時のK君の顔はこの世のものとは思えない程禍々しかった。目は一層落ち窪み、血色の悪さは増し、顔全体が骸骨の上に肉と皮膚で覆われているものであるように感じられる。K君の声が軽く耳を通り過ぎ、人間のトーンではないように感じられた。
「ねぇ。光君はあそこに見える山を知っているかい?」
不意にK君は後方、窓の外を指さして言った。光がそちらに目を向けると、町を囲む山の中でも一際高い山がある。あそこは良くこの町に来た観光客が登る山で、他の山と違って明らかに木が伐採されて道が整備されている。
「し、知っていますけれどそれが何でしょうか?」
「光君、どうしたの。クラスでいつも黙ってばかりで感情もなさそうなのに。震えているなんておかしいよ?」
光は、おかしいのは君の方だという言葉を必死に呑み込んだ。光は、太ももをあらんかぎりの力を込めてつねって震えを少しずつ押さえながら、声だけでも平生さを取り戻させた。
「あの山なら知っていますがどうしたんですか?」
「あそこの山に今夜行ってみて欲しいんだ」
「はい⁉」
「僕の婆ちゃんが言ってたんだ。今夜あたり、最もあの山が孤独な者を食う時期だって」
光は良くわからなくなった。単なる荒唐無稽な話だ。でも完全に否定することも今の光には出来ない。彼は窓の外の空をまた見た。少し前から降り出した雪は少しずつ勢いを強めているようだった。風も同時に強まり、傘を前に差して何とか飛ばされないようにして歩いている人たちの姿が見受けられる。
廊下はとても寒く、教室のストーブの火が燃える音と芳ばしい匂いに包まれたい、と光は思った。
「とにかくあの山に行ってみて。危険だと思ったら帰ってきていいから。何も起こらなかったら明日から僕のことを馬鹿にしていいし、僕ももう君に話しかけないよ」
K君は、それだけ言うと光が何か言うより前に元の教室に戻っていった。すぐに、先生から「どうしたんだ?」と聞かれたK君が「なんでもないです。ただ光君の体調が心配になって」と明るい声で答えるのが教室から聞こえた。
光はこの教室の扉は同じ世界の中で次元を分ける摩訶不思議なものなのか、と扉をまじまじと見つめて考えた。次の瞬間には、私も彼に毒され過ぎましたね、と頭を振って保健室へと道を急いだ。
「それでお前さんはこんな所へ来た、と」
「はいそうです」
「はいそうですじゃねぇ。馬鹿野郎!」
美樹は光の頭を拳固で殴った。彼女は本気で怒っているように見えた。うねるような熱が殴られた部分から一向に引かなかった。光自身にも怒られて当然だという思いがあり彼は粛々と反省した。
「つか、断ればよかったじゃねぇか。何で断らなかった?」
光の痛みが治まった頃美樹は口を開く。しかし光は一向に顔を上げようとしない。両膝の僅かな隙間を見つめ発条の切れた人形の様に動かない。
「おい、何で答えない?」
「……私は愚かなことをしました。だから私は反省しなければいけません。私が口を開く権利も、私を許し反省の姿勢を崩していいという命令を下す権利も全て美樹さん、貴方にあります」
光は、そう発言している間もその姿勢を寸分たりとも崩すことはない。
「お前って奴は……馬鹿に真面目なんだな」
彼女の声にもう怒りは込められていないようだった。それでも光は顔を上げなかった。光はゆっくりと目を閉じた。馬鹿真面目と言う言葉が生み出した灰汁をそっと掬い取る。
昔から馬鹿真面目な性格だった。子供でありながら、誰々には抗する権利があるとか誰々にはこうする義務があってと、どこかしこでも口にしていた。同級生はそんな光をよくからかった。合理非合理、義務権利でしか物事を判断できない。光自身も成長していくにつれて自分のそんな性格を嫌った。世の中は合理非合理だけじゃ割り切れないことだらけだとわかったからだ。授業では年齢の高い先生が一番偉く、部活では先輩が一番偉い。どれだけ若いやつの方がよくできたとしても。
だがこの性格を変えることはできなかった。
それは光が怠惰だったからではない。光は彼なりに、人に話を合わせたり、空気を読む、先輩を無条件に敬うと色々努力してきた。
だが結局皆光に言うことは同じだった。
――馬鹿真面目だ。あいつは。
光が思う誠意は周囲全ての人の不快だった。
社会科の授業で学習した黒人差別で、黒人が受けた苦しみが、教科書の説明から脊髄反射的に光の全身を襲った。その衝撃は主に彼胸、さらに言えば心を強く横殴りした。
すると光の目からは涙が溢れた。
どうにもならない。いつそうなったのかもわからない。原因なんてもちろんわからない。
そのうちこう考えるようになった。自分を生んだ神様は何故だかわからないが自分を嫌いになってこんなことをしたのだ。だから自分は不幸な存在。
この当時自分なりに必死に考えた頭をひねって生み出した言説は、全く非合理で荒唐無稽に聞こえるが、確かに当時の自分の心を慰めた。不幸な自分と言う他の全ての人間との明確な差異。その差異ゆえに自分のこの現実は使命なんだとする思い込み。神という巨大な存在と繋がっているという奇妙な安心感。これらはある時期まで親友だったがいつの間にか消えていた。しかしとりわけ悲しむことはなかった。その頃には一人で生きることは、口の中で転がすビー玉の様になっていた。ふとしたことで人間の体は熱くなる。そんなときに火照りを冷ますように、体中を転がりまわり、ふわっとした快感を与える。それは確かに言葉にする前に忽然と姿を消す。光自身別に誰にもそのことを言おうとは思わなかったし言うべきでないと考えていた。自分が良くて芸術家気質、悪くて狂人と見なされるのが嫌だったからだ。
これで終わりだ。光はゆっくりと目を開くと、眩しい電燈の光が差し込み視界がぼやける。
相変わらず吹雪は強く、窓がガタガタと音をたてる。
「俺に言われてもお前は嬉しくないかもしれねぇが、俺はお前みたいな馬鹿真面目野郎全然嫌いじゃないぜ」
光の視界がはっきりしだした時美樹はそう呟いた。豪快な彼女らしくないか細い声で。
光は聞き逃さなかった。思わず顔を上げて目の前の美樹の瞳を見返す。彼女は驚くと、さっと視線をあらぬ方向に逸らす。
「美樹さん。今、私みたいな馬鹿真面目野郎嫌いじゃないって言いましたよね?」
「えっ、あっ? 言った……っけかな?」
「言いました。絶対に言いました。私、耳は悪くないです」
今、光は体が熱くなるのを感じた。だがあの体からゆっくりと熱を奪っていくビー玉は出てこなかった。その理由はわからない。
ただ別に出て来て欲しいと思わない自分がいることに光は気づいた。
「まぁ、そのなんだ。言ったかもしれねぇけどよ。お前そういうのは女性に失礼だぜ」
「女性に対して失礼?何故です。ただ私は
自分の聞き取った言葉が正しいかどうか確かめただけではないですか?」
光は本当に訳が分からなかった。礼を失うと書いて失礼。ただ人に聞き返すことのどこに礼を失うことがあろうか。そう考えて光は自分の意見は間違っていないという自信を手にした。それは表情にありありと表れ美樹を嘆息させた。
「いや、変なこと言って悪かった。お前はそういうやつだったな。んで何?俺は確かにお前の馬鹿真面目さが嫌いじゃねぇが、それがどうしたっていうんだ?」
美樹の言葉を聞いたとき、光は、やっぱりだと思う。ビー玉が火照った体を冷ますときに与えてくれる緩い快感よりもずっと良い肌触りの快感に包まれている。それは言葉にならない。美樹の質問に光は答えたかった。自分から切り出しておきながら何と言えば良いのかわからなかったのだ。
思いつく言葉はおおよそどれも会話の返答として合理的なものばかり。だがどれも光には違和感がした。やはりこの体を包み込む気持ちよさについて言及しなければいけないのか。それが何であるか本当は光もわかっていた。だが言葉は論理的であるべきだ。感情と言う非合理なものを言葉で言及すべきじゃない。光は逡巡した。美樹は光を急かさなかった。やがて光は口を開く。
「美樹さん。私は貴方の言葉がとても……嬉しかったです。今私は形容しがたい暖かさに包まれていて」
それから光は自分の中に渦巻いていた感触を、途切れ途切れになりながらも描いて見せようとした。時に手振り身振りを使い、描いては消すことを繰り返した。美樹はその間一度も茶化すことなく真剣な顔で光の話に耳を傾けた。光はそのまま自分の今日までの話を彼女にしていた。自分が小さなころから合理、非合理で全ての物事を判断しようとして周囲から煙たがられた事。話しながら光は壁に何度ももたれては眼を閉じた。外の強い吹雪で小刻みに揺れる壁の振動が背中に伝わって頭の中がかき混ぜられる。次の瞬間には光の頭の中で自分が写った写真が取り出される。
なぜこんなことを話す気になったのでしょう?光は会話の最中にふとそう思った。昔大変に親交を深めた友人同士はお互いの秘匿すべき過去さえも腹を割って打ち明けあい共有する。そういう友人をもてと先生が言っていたことがありました。私はたとえそんな友人が出来たとしても自分は、それがどんな良い思い出であっても話すまいと考えていました。
結局友達もできず良い思い出も出来なかった。だけど今自分は今日会ったばかりの人に洗いざらい自分の全てを話している。
光は床に転がっていた二個のビー玉を見つけてそっと美樹に気づかれないように手に取った。
冷たい。
だから自分の体はとても熱い。
それがわかって光はぎゅっと手の中でビー玉を握り締めた。だが冷たさは快感ではなくただ手慰みにしかならなかった。諦めて光はビー玉をよく考えずにそっとポケットに入れる。
光が話を終える。長い沈黙が続く。美樹は煙草を口に咥えて虚空を見つめる。少ししてから彼女は口を開いた。彼女の頬からはもう赤みが消えていた。
「お前の過去はわかった。それを踏まえた上で一つ質問させてもらうぜ。お前もし今から雪だるまになれるとしたらどうする?」
光は言葉に詰まった。美樹の顔を見つめた。
「これはふざけた質問じゃねぇ。真剣だ。神様に誓ったって良い」
「……美樹さんが真面目なのはわかりますが、突然そんな質問されたところで話がぶっ飛び過ぎてて」
とその時だった。ピーと甲高い音が外から聞こえてきた。それは中々止まない。ずっとずっと。やがて鳴りやむとシュパーと何かが吐き出されるような音がした。
「何ですか。今の音は?」
光は気が動転していた。ここは山中深く。本来やって来られるのは人か動物だけである。。にもかかわらず今の音は何だろうか?特定こそできないが一つだけ言えるのは、今の音は自然とは全く調和しておらず、そんな音が出せるのは唯一人間が生み出した機械に他ならないということである。
光は、思考を整理しながらも美樹が忌々しげに舌打ちしたのを見逃さなかった。
「美樹さん。これはどういうことですか?」
先程とは一転して落ち着きのない美樹の表情。舌打ち。美樹が関与していることは明白だった。
しかし美樹は微妙な表情を浮かべて黙り込んだままだった。それがとても嫌な感じを光の中に起こす。
外でまた先程の音がした。それは確実に光を急かしてしまう。
「ねぇ、答えてください。美樹さん。これが貴方の秘密ですか?だとしたら話してください。私は私の全てを話しました。私はそれがどんな事でも驚きません。受け入れます。ちょうど美樹さんが私を受け入れてくれたように」
その言葉は光の精一杯だった。美樹が何を思っているのかわからなくて。どんな言葉をかければいいのかもわからなくて。それでもビー玉を握り締めることなく口を開いた。
美樹ははっとした顔をしてから唇を強く噛み締めた。自分の言葉がなお彼女を傷つける結果となって、光は自分を責めた。
「すいません。余計なことを言って。たかだか今日会ったばかりなのに馴れ馴れし過ぎましたよね。ハハハ」
「やめてくれ、違うんだ。これは違う。お前が悪いんじゃない。むしろこれは俺が悪いんだ。全て。何もかもが」
「美樹さん!今、今何が起きているんですか。ゆっくりと落ち着いて話してください。今度は私が美樹さんの話を聞く番です」
光がそう言い終えたとき、外で三度目の耳障りな機械音がした。光は窓のカーテンを閉めるとベッドに座り込んだ。梃子でも動かないという意思表示を光は美樹にしたのだった。
美樹はその様子を見て部屋中をちらちらと見回した。が、それから嘆息すると悲壮な面持ちで光の隣に座った。今度はしっかりと光の顔を見据えた。
「光、今から俺はすげぇ悲しいことを言うが聞いてくれ。お前は死ななくちゃいけないんだ」
あれだけ美樹に対して啖呵を切っておきながら、美樹の発言に光は最初彼女が何を言っているのかわからなくなった。すぐに美樹の心配するような視線に気づいて光は何とか冷静になろうとした。
「と、とりあえず私が死ぬというのはどういうことなのか一から説明してもらえませんか」
「死ぬというのは、お前さんは雪だるまになるんだ」
光はすぐに先程美樹が自分にしてきた、雪だるまになりたいかという質問を思い出した。
少しずつ少しずつ自分の中がおかしくなっていくのを光は感じた。それは絡み合った糸の様だ。一つずつ出来るところから解さねば。
「あのその。美樹さんは結局何者なんですか?」
「お前結構ドストレートな質問するなぁ」
「あっ、すいません。そうですよね……」
やはりまだ頭の中が整理できてない。とはいえこれは間抜けすぎる気もするが。
「まぁ、少しくらい抜けている方が人間らしくて良いぜ。ハハハ」
美樹は優しく笑ってくれて光は落ち着いた。まるで母親の様だと光は今思った。美樹はすぐに表情を真面目なものに変えて、それから言った。
「まずここはただの家屋じゃねぇんだ。駅長室なんだ」
「駅長室、ですか?」
「あぁ、俺は駅長。ここは山の中の不思議な駅なんだよ」
光が美樹の全身を眺めまわすと、美樹は確かに見てくれは駅長っぽくねぇけどなと付け足して笑って見せた。でも今度の笑いは心からの笑いじゃないことは光にもすぐにわかった。
「じゃああの外からした機械音は……」
今度は、美樹は何も言わない。ただ入口の方を無言で見つめるだけだ。光は立ち上がると恐る恐る扉に近づいて開けた。
猛烈な吹雪が一挙に襲ってきて、光は眼を開けられない。段々と慣れてくると奇妙な機械音の正体が何なのかわかった。
空、雪。寒さ。地面。息。灰色が暴力的に辺りを呑み込んでいた。しかしそれはその灰色を更に暴力的に破壊し、霞ませた。
黒い車体。雪を纏いながらも突き出た煙突から濛々と煙が吐き出される。
蒸気機関車だった。それは本当に暴力的で、光の頭の中で湧いていた様々な疑問を根こそぎ奪い去って、煙突の中に吸い込んでしまった。
山の中なのに本当にこんなSLが存在するなんて。奥に向かってどこまでも車両が続いているが、吹雪が巻き上がって出来た幕で、途中から覆い隠されている。
光は部屋の中に戻ると美樹に抱きついた。体が震えていた。寒いからじゃない。ただ怖かったのだ。美樹はそんな光の背中を優しく撫でた。
「すいません。本当に私は情けないやつです」
光は落ち着くと美樹から離れて謝った。
「気にすんな。あれは大人の誰が見たって怖ぇよ。ましてお前はまだ中学生だろ?怖くて当然だよ。それよりも俺にまだ抱き着いてなくていいのか?お前の安心した顔、ご主人様に撫でられて喜ぶ子犬みてぇで可愛いぜ」
美樹がからかったので、光は恥ずかしくて美樹の顔をまともに見られなかった。
「結局この施設は一種の病院なんだよ。安楽死専門のな」
美樹は自嘲気味に呟いた。その表情は随分と疲れ切ったもので光は美樹が一瞬死に際の老婆のように見えた。光は同時に考えた。あの浴びるように飲んでいた酒は彼女が今見せている苦悩に満ちた表情の化粧だったと。
とはいえ今見せている表情が彼女の本質かと言うとそんな気もしない。そんな気もしないというよりはそうであって欲しくないと光は願った。そんな光をよそに美樹は続けた。
「ここに来るやつは決まっているんだ。孤独な奴。各々に勝手な理由があってここまで導かれるようにしてやってくる」
「じゃあ私以外にも今迄ここに何人もの人が来たんですか?」
「あぁ。たくさんな。今日のお前みたいに吹雪の中こんなところまで来てぶっ倒れて、俺に介抱されて俺は話を聞いてやるのさ。そいつらの可哀想な今日までの人生をな」
言い切って美樹は更に罰の悪そうな顔をした。光も理解していた。
あれだけ自分が必死に自分の人生の話をしていたのを彼女は真剣な顔をして聞いてくれていた。でもそれは彼女が最初から自分がするとわかっていて聞いたもので。自分自身この病院の患者の一人で。そもそも光が自分の人生を話した気持ちも美樹に親しみを覚えたからではないかもしれなくて。光はそれ以上の思考をやめた。既に美樹に対しての何かが冷めている自分がいてこれ以上悪いことを考えれば頭の中で美樹に自分が何をしでかすかわからなかったからだ。
光は体中から血の気が引いていくのを感じた。とても寒くて、心の中の怒りもあいまって肌を必要以上に強くこすった。ベッドから立ち上がると美樹が腰かけていた椅子に座った。
「それで?み……貴方は私みたいな孤独な人間を殺してきたんですよね?」
光の冷めた声を聞いて一瞬美樹は寂しそうな顔をした。光の体は更に熱くなった。ポケットの中のビー玉を握り締めた。良い悪いで言えばこの熱こそ悪い熱だ。絶対に下げなきゃいけない。頭の中で自分のことを嫌いじゃないと言ってくれた美樹の顔が思いだされるや否や、ガラスが割れるように粉々に砕け散った。ポケットの中で光の手は握力を徐々に失っていき、やがてビー玉は手放された。
「そうですか。わかりました。貴方は孤独な人間を嘲笑していたんですね。だから体を近づけて誘惑したんです。それでもしそれに乗って束の間の快楽に耽ればこれ以上面白い見世物はないでしょう。誰にも見られなかった奴が初めて認めて貰えて。人と人とが触れ合う温かさを存分に味わう。涙が出るほど嬉しいはずでしょう。でも貴方からすりゃ面白いでしょうね!役立たずな、孤独な奴が自分がこれから死ぬことも知らず喜んでんですから。そりゃ滑稽ですよ」
光は怒りで叫んでいる間胸がはじけそうなほど痛かった。孤独な人たちは何より、自分があまりに不憫に思えた。
美樹は何も答えない。ただ下を見つめている。それが更に光の怒りを買った。
「答えてくださいよ。私の言っていることが全てなんでしょ?貴方は本当に本当に最低の人間だ!」
汽笛の音、車体から蒸気が噴出する音の感覚が段々と短くなっていた。恐らくあの汽車は死への輸送車だ。あれに乗ればこの世界から消えるのだ。嫌だ。こんな酷い騙され方で死ぬなんて余りに惨めすぎる。
「……本当は皆が皆楽しく生きていければいいんだけどな。世の中そうはいかない。必ず誰からも忌まれるような汚れ役が必要なのさ」
美樹はそう言って、ようやく光を宥めるように見返した。
「俺はさ、この世界が無性に好きなんだ。
色んな人間がいて。皆それぞれ別々のことを考えていて。集まっては別れるを瞬間瞬間で繰り返す。さながらビー玉を光の下で見るみたいに綺麗だ。そう思わねぇか」
「私にはよくわかりませんし、そもそもそんな御託は聞きたくないです」
光の拒絶を無視して美樹は続ける。
「それでな。俺は美しい目、ビー玉みたいに綺麗な目が欲しいなって思うんだ。もう他は駄目だからさ。この体は色んな男に触れさせてやった。そしてそういう男は皆自分からこの世界からドロップアウトする。自分からだぜ?俺がお前は死ぬんだって言ったって誰も怖がりはしない。皆むしろ皆俺だけでも見送ることに、感謝するくらいだ」
美樹の目元は次第に翳った。彼女の顔の骨格がはっきりと見えた。光は息を呑む。ポケットの中を探ってビー玉を握り締めた。
「なぁ?光。俺は確かに人を騙して殺して最低の野郎かもしれない。だけど孤独ってのは恐ろしい病気なんだ。世界で最も恐ろしい。
手遅れになれば人間じゃなくなる。膿だ。誰かが温もりの施しを与えれば死ぬことさえも怖くなくなる。そんなのは施しになっちまってる時点で何の価値もねぇのにだ」
美樹の話を聞いて光はK君の言葉を思い出した。
孤独をこじらせれば世界に押しつぶされてぺしゃんこになって消える。
動こうと思ってもぺしゃんこに押しつぶされて。苦しくて助けてほしくても誰も助けてくれなくて。そこに美樹が現れて優しさを施す。彼等は泣いて喜び自ら死を選ぶ。
「あの汽車に乗って膿はどこかに消えちまう。俺にもわからない、誰も知らないどこかへ」
ぺしゃんこになって消える。消える。消える。消える。消える。消える。消える、
光の頭の中で何度も消えるというフレーズが繰り返された。自分がここで死ぬことの合理とか非合理とか、そんなことはもう光にとってはどうでも良かった。今、この最後の場所で全ての名も無き孤独者はどんな気持ちだったんだろう?そんな疑問がゆっくりと浮上した。苦しみ悶えても誰も見ない。教室の隅で。会社の隅で。光の当たらないいろんなところの隅っこで。誰からも、頭上の空からも見放されて。一人で闇の中で苦しむんだ。
それ以上の想像は光の心が耐えられなかった。どうしても一人の人間が世界の隅で苦しむという最低の絵画の中で、人間の顔に自分のそれがあったのだ。
光はまたむせび泣いていた。そんな光に近寄ると美樹は自分の胸の中に光の顔をうずめさせた。光は拒絶しなかった。いや、出来なかった。拒絶するだけの無かったからだ。美樹の胸はとても柔らかくて心に滲みる温かさだった。光は美樹の背中に手を回すと強く抱きしめた。
光は、服の背中の部分が強く握られ美樹の顔が押し付けられた肩口がじわじわと広がるように濡れていくのを感じた。
「ごめんな……ごめんなぁ。光ゥ」
美樹の声は小さく震えていた。光は慈しむ様に美樹の背中を擦った。もう光の中から美樹に対する怒りは消え去っていた。ここに来る前、倒れて意識を失う前に見たあの無数の雪だるま。あれは全て美樹が、自分が見送った孤独な者たちに対する手向けとして、罪滅ぼしとして、何より自分だけは絶対に忘れないという証に違いない。それならばこの吹雪の強い中外で雪かきをもって彼女が作業をしていたことも。粗暴な彼女が、時折同じ人間とは思えない程に寂しそうな表情を覗かせたのも。今こうして自分のしてきたことを懺悔したことにも。全てに説明がつく。
「美樹さん。先程は怒ってごめんなさい。でも今もう一度言わせてください。貴方は一人じゃないんです。一人で苦しみを背負わなくていいんです。もう体も心も傷つけないでください。美樹さんは眼だけじゃなくて体も心も綺麗なんですから」
孤独の重症患者を見ることだってとても苦しい。女性である美樹さんが好きでもない男を慰める為だけに体を貸すことも苦しい。彼らを死に追いやることで自分を責めてしまい、苦しい。三重苦を彼女はたった一人で背負い、誰にも話せなかったんだ。
彼女はこの病院の医者じゃなくて最大の患者だったんだ。
ひとしきり泣いて涙が枯れると今度は二人とも笑い出した、ベッドに体を投げ出して何度もお互いの顔を見合わせて笑い転げた。何がおかしいのかはわからない。ただ光にとってこんなに笑ったのは初めてで、初めてのという瞬間だけがもつ甘美な充足感に包まれた。そのまま光は瞑目した。普段出さない感情を出し過ぎたので光自身大変疲弊していた。
「すいません。美樹さん。もう眠くて眠くて。耐えられそうにないです」
汽車はまだ外で自分が来るのを、腹を空かせた猛獣よろしく今か今かと待ち続けているのだろう。光はここにきてどうすれば良いかわからなくなっていた。
ここに立て籠もるか、大人しく死を選ぶか。
どっちも「今」の自分にとっては最低の選択肢だ。とはいえ正直どうにもならない。だから、この眠りの心地よい誘いに身を任せて考えるのを先延ばしにした。美樹は光の体に掛布団を掛けなおすと枕元に座って優しく頭を撫でた。
「光、大好きだぜ。お前に会えて本当に良かった。お前のおかげで俺は今生きることの素晴らしさってやつを心から噛みしめてる」
「私もです。ありがとう。美樹さん」
光は力なく掛布団の中の黒い遠い地平の中に引き摺り込まれた。
美樹は光が寝たのを確認すると一瞬だけ表情を強ばらせた。部屋の純白にふさわしくない黒ずんだ表情だった。単なる黒ではなく雪の上を誰かが通っていった後に残った足跡のような汚さだった。少し呼吸が荒くなって一度全身が彫像のように硬直する。まるで中が満たされた容器が揺すられて、液面が振動しこぼれたりこぼれなかったりするように。
思いついたように彼女はポケットの中を漁ると、一つの透明なビー玉が出て来た。彼女はビー玉を寝ている光の額にそっと当てた。
美樹はベッドから降りて、床に片膝をたてて座った。彼女は眼を閉じて頭を垂れる。その姿は祭壇に祈りを捧げる修道女の様だ。
まもなく彼女は立ち上がるとビー玉をゆっくりと床に置いた。床でビー玉はわずかにはねた。それは転がるとベッドの下に広がる闇の中に吸い込まれ、二度と自分の力で光を浴び輝こうとはしなかった。
空はいつまでも黒いままだ、と光は教室の中から空を見上げてぼんやりと思った。いつから始まったのかはわからないが民家で目を覚ました時も空は黒かったと光は記憶している。住人によれば光は山の中腹、雪だるまの里と呼ばれる、ちょっとした山の名物スポットで倒れていたところを助けられたという。光は、礼を言って、まだ休んで良いという住人の厚意を断るとすぐに家を出て山を下り、自分の家に帰った。その時も空はずっと黒かった。
部屋の中に入り、壁面に接しているベッドに寝転がった。その間光は絡繰り人形が横倒しになったように手足をばたばたと動かした。そのことに何か意味はなかったが、こうでもしないと頭の中に注入された黒く透明な何かに押し潰されそうだった。しかしすぐに光は疲れてしまった。体は復調していなかった。
光が一度体を起こした刹那、光の中で、濁りながら透明な何かの中から色彩豊かな昨晩の時の絵が形を留めず流れていった。
感情という色のある確かさがまずそこにはあった。それが絵の大半を占め、光の呼吸は速くなった。その中には二人のシルエットがあった。一人は光自身に間違いがなかった。そしてもう一人は空白のままだった。男か女かすらわからないが光は、それは美樹さんに違いないと考えた。頭の中でその空白はいつまでも埋まらなかった。
汽笛と共に突然あのSLが現れたのだった。
一面の銀世界。地面を覆う銀。
闇。天空を覆う。黒。
SLはもう一度汽笛の声だけ上げると、ガチャリと音を立てて車輪が動き出す。周囲の景色はそれだけで生命力を失った。それは森林伐採の映像に良く似ていた。
それからSLは、目を閉じると浮かび上がる羊水のような豊潤な世界も、子宮のような、それを覆っていた濁りながら透明な硬い膜も突き破った。二人のシルエットは逃げない。いや逃げられない。
二人の力では子宮も破れないし羊水の中も動けない。
あっという間にもう一人のシルエットの前をSLは通過し姿が見えなくなった。そして最後尾が通過する頃そこは何も残ってはいなかった。
光は自分と言う人間の本性はこんなにも冷たかったのかと驚くほど淡々としていた。泣くこともなく大事な所で寝た自分への怒りも湧かなかった。
しかしそこには何も無かった。体の動作の一つ一つが光にとって明確になった。呼吸の音や腹の小刻みな揺れ動きなど。
しかしそれは何かにはならない。光は息苦しくなった。「ぺっしゃんこになる」というK君の言葉が思い出された。体が重く動けない。光は体を倒すとそっと布団に包まろうとした。布団の中は暗くねっとりとしている。羊水の重さに包まれて。子宮を蹴破る力は無い。
その時だった。光は右足の付け根のあたりに鈍い痛みを感じた。光はその痛みの場所を探ろうとしてズボンの右ポケットに手を入れた。
光の指先に何かが当たり、少し転がすとそれはジャラリと爽やかで軽い音を出した。光は呼吸が速くなるのを感じた。それを強く握ってポケットから取り出す。
岩と岩の隙間から湧き出す春の雪解け水の様に暗闇に柔らかい光が差し込み、それを照らした。
二個のビー玉。それは偶然美樹の部屋の床に転がっていたものを、光が見つけポケットに入れておいたものだった。何度も見ても触ってもそれは記憶の中のビー玉と一致する。あの夜から今日まで光の熱をずっと吸い込みながらもその輝きは失われず平然と蒼くある。
それほどの明確な強さがあればあの恐ろしいSLから美樹を守れたか。いや守れるはずがない。あのSLの前には如何なる勇士も無力だ。
だが自分は勝利したと光は思った。全てを破壊し奪い尽くすSLからこのビー玉を守ったからだ。光は何度も深呼吸を重ねてから手足を滅茶苦茶に動かして布団を跳ね飛ばした。
昼休み開始を告げるチャイムが鳴ると光は弁当そっちのけで教室を出た。外は雪が降っている。まだやむ気配は一向にない。光は玄関で靴に履きかえてから傘も差さずに校庭に出た。雪は、かなり積もっておりパウダースノーと呼べるくらいに肌理細やかでサラサラとしていた。そこに光は両腕を差し込みクレーンの様に挟んで持ち上げた。それを玄関まで持ち運んでいると
「光君。どうしたの?」
校庭には一人も学生の姿が見当たらない。雪合戦などの遊びのためには、今の外の天候はあまりに荒れ過ぎていた。もちろん玄関もドアが喚起のために開放しっぱなしになっているため風が吹き込んでいて十分寒い。光が移動したのはそれでも外よりは幾分か温かいからだが。
何にせよそのような状況下で光に声を掛けるのは一人しかいなかった。
「どうしたと言われても今からある物を作るんですよ」
K君だった。彼は学生服の上に白いダッフルコートを着ていた。光は温かそうで良いな、と一瞬思ったがすぐに作業の方に取り掛かった。地面に置いた雪から手のひらサイズの雪玉をまず作った。それが完成すると今度は地面の余った雪の上に転がして、ミニ雪玉転がしのような要領で作業を進めた。
隣で座りこんだK君の視線を光はずっと感じていたが特に何も言わなかった。
「ねぇ、大体やるべきこと分かったし僕も混ぜてもらって良いかな?」
K君は恐る恐るといった、元から細かった声音が更にか細くなって光に尋ねた。光はそんなK君を一瞥することもなく素っ気なく答えた。
「はい、どうぞ」
「え、いいの?」
「別にかまいませんよ」
K君はかなり驚いた様子でその場で少し固まっていた。光はそれを横目にちらりと確認する。頭の中で、前に一度会ったときにK君が見せたおどおどしながらも鋭く感性豊かな言葉の武器を持つ不敵な顔を思い出し、軽い優越感に浸る。それは束の間だ。光は作業を続けながら自分も変わったと思う。体の中がじんわりと熱くなってゆっくりと手の中の雪玉を崩さないように優しく握りしめる。K君も途中から光の隣に座って雪玉を作る。こちらはとても丁寧で慈しむような手つきだった。新たな生命を自分が育むことに純粋な喜びを隠せないように。自分の体の一部を大切にすることで自分全体を慈しむ様に。
こうして出来上がった二つの雪塊。それを光とK君は立って見下ろしている。二人の間に言葉は無い。途中で昼休み終了を告げるチャイムが鳴ったが二人は全く気にも留めなかった。誰もいない廊下。遠くの教室、二階、三階の教室の喧騒は意味のない雑音として疾走し階段を駆け抜けて、二人の間を荒馬の様に通り抜けていく。二度目のチャイムが鳴った時荒馬はゆっくりと目を閉じて冷たい廊下に吸い込まれるように横たわる。
「光君、君は変わったね」
まずK君が言葉を放つ。その場に座り込んで光を見上げて。
「うん。変わりました。おかげさまで」
光は床の上の余った雪を手慰みに指で掬い取り、掌全体に広げる。掌を、広がった氷の薄い層が覆う。光はそれをじっと見つめる。あの時踏みしめた雪山の雪。体が底冷えするような冷気。言葉を発しない木々。映像がゆらゆらと陽炎の様に立ち上がる。それは束の間泡沫となって消える。光は焦る。掌の雪面に光は空いた手の人差し指と中指を人の足に見立てて走らせた。足跡がつく。それで終わり。光はいてもたってもいられない気分になった。それを抑えたのはK君だった。
「光君。君は変わった。確実に。僕の目から見てそれは保証するよ」
そう言ってK君は光の掌の雪を優しく手で掬うと目の前の雪塊の僅かに歪な部分の修復に充てた。
手の感覚は無い。じりじりと痺れている。
光は、K君が光は変わった以上の何物も光に尋ねてこないことに安堵した。例えばあの山で何があったのだとか。光は絶対に誰にも喋らないつもりだった。あの山の事は一生頭の中に留めておく。そうする価値のある時間だ。
二人で一方の雪塊を持ち上げると、慎重にもう一つの方の上に載せた。
それから息つく暇もなく、K君の言われた手順通りに雪だるまの体、顔と指定された材料を使って作っていった。こうしなければ雪だるまに命は吹き込まれないらしい。
そうした伝統に光が文句ひとつ言わず従う姿勢もK君には感動的だったようだ。K君の光に指示する声はどこか弾んでいたし、時折本当に変わったなぁと嬉しそうに呟いた。
そうして最後に目だけ残った。大仏鋳造の最後が仏像の開眼で締めくくられるのと同じことだ。
光は雪だるまの目のあたりを慎重に策定した。何度も穴をあける前に躊躇い選定しなおすことを繰り返したが、やがて一点に定め穴を開ける。光は眼球をポケットから取り出した。
「綺麗なビー玉だな」
それは美樹の部屋で拾った二つのビー玉だった。それを手放すのは光にとっては大変惜しかったが、それでも光はこのビー玉、この綺麗な青い眼を雪だるまに与えた。
二つのビー玉が眼になって、雪だるまが本当に生命が吹き込まれて今にも呼吸しだすように光には感じられた。
「光君、最後に名前を決めてあげよう」
「名前?」
K君は頷いた。彼の説明によれば、通常は、家庭で作られているものなので悪戯で破壊される心配はないが、こうして学校で作られたまま無名で放置されると誰かに破壊される恐れがあるということだった。
「どんな名前にする?」
K君はポケットからマジックと紙の横長の切れ端を取り出した。
「美樹で」
「ミキ?」
「そう美樹」
「随分と愛らしい名前だなぁ。本当に祖先なの?」
K君は不思議そうな様子で紙に『美喜』と書いた。光は一瞬『喜』ではなく『樹』だと指摘しそうになった。しかしマジックで書いた以上消せず、上から塗り潰して訂正でもしたら安っぽくなってしまう。その上『美喜』も悪くないと思った。神様みたいだし、美樹が美しく喜んでくれれば良いな、と思った。
K君は書き上げるとそれを雪だるまの前に置いた。そして雪だるまの前に彼は膝をついた。
「美喜様、美喜様。いつもこの町を守ってくれてありがとうございます。これからも空の上から私たちを見守ってください」
その時、光の中で何かが弾けて、彼の頬を涙が伝った。一陣の風が、涙を拭うように彼の頬に吹き付けた。