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溺れる蛇  作者: サニー
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 美術系の専門学校を卒業して、博多駅の近くにある小さな広告代理店に就職した俺は、通勤の便利がいい繁華街にアパートを借り、蛇に出くわすような暮らしとは縁が切れた。


「希望はデザイナー?」

 大手の広告代理店の就職試験を全敗し「地場の中小企業にだっていい会社はたくさんあるから」と学校の就職担当に勧められて受けた面接で、今の会社の常務は、俺の履歴書を眺めながら気のない口ぶりで聞いてきた。


「うちの会社は、実務重視でね。顧客のニーズをちゃんと理解するという意味で、まず三年は営業をやってもらう。率直に言えば、芸術家タイプみたいな人材はいらないんです。お客様の要求通りの仕事ができるかどうか。それができたら改めて希望のポストに異動するというシステムになってるのでね」


 あの時の常務の話は、半分が事実で、半分が嘘だと俺は思っている。まず芸術家はいらないというのは本当だった。TVや新聞、雑誌のCMといった、センスやアイデアが要求される大口の仕事は、すべて大手の代理店が押さえていた。だからうちみたいな小さな代理店の仕事は小口の広告の営業だけで、芸術家どころかデザイナー自体必要なかった。社長と事務員のおばさんを除けば、営業の社員が四人、旧式のパソコンが二台あるだけの会社で、五年経った今も俺は広告の営業に走り回っていた。


「広告に払うようなお金あるんだったら、仕入れに回さなきゃなんないんだよ」

 馴染みの居酒屋の店主の表情は渋い。これまでにも付き合いで二、三度広告を貰ったことのある店に顔を出してみたが、反応は悪かった。不況と飲酒運転厳罰化の影響で、飲食業のダメージは大きく、資金力のない小さな店がどこも青息吐息なのは広告業界も同じだ。俺の会社にしたってこの三年間、賞与は大幅にカットされている。

「何、これ?」

 先日、同居している香奈に、夏の賞与の明細を見せた時の彼女の吐き捨てるような口調が、俺の耳にこびりついていた。


 中学で同級だった香奈とは成人式の時に再会した。西通りのアパレルの店で働いているという彼女は、一重だった目がくっきりとした二重瞼になり、プロポーションも抜群で、昔とは別人のように変貌していた。その時俺は就職が決まったことに舞い上がっていて、酒の酔いも手伝って、自分の将来を思い切り誇張してしゃべったような気がする。

「広告デザイナーかぁ。ステキ!」

 潤んだ目で俺を見つめる香奈の視線が身震いするくらい心地よかった。俺たちは、半年ほど付き合ってから一緒に暮らし始めた。


 最初の一年は、将来結婚することを考えていた。しかし、現実には俺も香奈も、売り上げに追われ、客に頭を下げ続ける日々の連続で、そこから先に進もうとするときめきや情熱を失っていったのだと思う。そしてどちらの口からも「結婚」という言葉がでなくなって気づけば三年近くが過ぎていた。


―― 終わりだな。もう……

 したたりおちる汗をぬぐいながら、俺は昨夜の香奈との口論を思い出す。あまりの売り上げの不振に、社長は今週俺たち営業社員に都心から離れた地区でのローラー作戦を申し渡した。周辺の住宅地の中にある小さな会社や店への飛び込み営業だ。しかもガソリン代がかさむので、車を使わず、バスや電車で目的地に行くように指示された。目まいがするほどの暑さの中、俺たちは目に付く限りの個人商店を一軒づつ営業して回った。

 

 アパートに帰ると香奈の姿はなかった。九時を少し回って帰ってきた彼女は、ほか弁の袋を下げていた。俺は何の成果もなく、またもや社長に罵倒されて終わった一日に疲れ果てていて、むっつりっしたまま缶ビールを飲み、豚カツ弁当を食べた。香奈もほとんどしゃべらなかった。陰気な食事が終わって俺が「明日着るカッター出しといて」というと、風呂場のほうから「今日洗濯してない」という返事が返ってきた。「一日中歩き回って汗だくなんだよ」「ないものはないんだから、仕方ないじゃない。いるなら自分で洗ったら」俺は思わずカッとして立ち上がり、風呂場から出てきた香奈と鉢合わせた。香奈は据わった目で俺を見ると、ぷいっと顔をそらした。


「結婚するんじゃないのか。俺たち」

 

 その言葉は、本当ならこんな場面で、こんな気持ちで口にするべきものではなかったのだ。しまったと思ったが、後のまつりだった。


「だから、何よ。じゃあ聞くけど、あなたにとって結婚ってなあに?自分だけが経済的な責任を負わなくてもいいようにバリバリ働く女で、しかも家に帰ったらお風呂が沸いててご飯ができてて、いつも洗いたてのシャツにアイロンがかかってて、お金払わずに好きな時にセックスできて。そんなのただのいいとこ取りだと思わないわけ。私、そんな都合のいい女になるつもりないから」

 

 お互いに心の奥に抱え持っていた泥の塊のようなものを吐き出したあの瞬間に、それまでか細い息でかろうじてふくらませ続けてきたシャボン玉は、あとかたもなく弾け飛んで消えた。

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