九話
県立XX病院、503号室前。一人の女子高生がうろうろと扉の前を行ったり来たり。扉に手を掛けようとしてピタリと止まり更に行ったり来たり。
時刻は間もなく7時半。あともう30分もすれば面会時間は終わってしまう。
ナースセンターからその場所は丸見えで、今日の当番の看護士はそれを微笑ましそうに見ていた。先日その部屋に入院した患者は交通事故にあった男子高校生。強豪サッカー部の副キャプテンで少々無愛想なところはあるものの礼儀正しいし、すっきりとした顔立ちに引き締まった身体は見た目も悪くない。もてそうだな、と思っていたら案の定今日になって一人の女子高生がお見舞いに来たようだった。
あの制服は近くの県立高校のもので、男子高校生と同じ学校だろう。『憧れの先輩』かなぁ。なんかいいなぁ。がんばれよ。なんて自分の高校生時代を思い出しながら、看護士は後輩になる少女を温かく見守ることにした。
---すぅーはぁー
大きく深呼吸をして、大きく打つ心臓をなだめた。目の前には薄グレーの扉。扉の脇には大部屋らしく入院患者の名前が書かれていて、『古賀匡尚』の文字が千菜の目に飛び込んでくる。雨上がりの『天使の階段』を見ながら色々と吹っ切れたのだが、少々勢いで来てしまった感はぬぐえない。ここにきて躊躇してしまうのは恋する乙女、だからだろうか。似合わないなぁ、と思いつつけれどももう戻ることなんて考えられない。
(よし、行くぞ!)
気合いを入れて、えいや!っと横開きの扉を開けた。手前の両脇のベッドはカーテンが開いていて、右側のベッドには中年のおじさんが、左側のベッドにはおじいさんがそれぞれ雑誌を読んだりテレビを見たりしていた。雑誌を見ているおじさんと目が合い、ペコリと頭を下げれば人懐っこそうに笑みが返ってきて少しだけ緊張がほぐれる。
だが、目標はこの先にある。
左奥のベッドは空いているが、右奥のベッドは半分だけカーテンが閉まっていて、向こう側を窺い知ることができない。けれども『古賀匡尚』の名前がある以上、彼のベッドは右奥ということになる。思わず回れ右したくなる足を叱咤して、千菜は一歩一歩近づいていった。
そろりとカーテンの向こうを覗き込んで、ドキリと大きく胸がなる。
枕もとの明りをともし起こした背もたれに寄りかかりながら、古賀はじっとテレビの画面を見ていた。イヤホンで聞いているため音はしないが、どうやら欧州サッカーの試合のようだ。観るのが好きだとはいえサッカーに詳しくない千菜にはそれがどこの国のものなのかまでは分からなかった。それがなんとなく寂しいと思う。
どう声をかけようか、ぼんやりと考えていると古賀の方が千菜に気がついた。少しだけ目を見張って驚いた様子がいつもの古賀と違って、珍しいものを見れたな、と嬉しくなると同時に緊張もほぐれた。
おかげで自然ににっこりと笑うことができた。
「こんばんは、先輩。突然すみません。お見舞いに来ました」
お菓子の紙袋を持ち上げて見せると、古賀は少しだけ慌ててイヤホンをむしり取った。「ありがとう」とお見舞いの品を受け取りながら、未だに動揺の色が見て取れる。それに気づかない振りをして、千菜は明るく声をかける。
「本当、びっくりしましたよ。古賀先輩が事故なんて。具合はどうなんですか?」
「あぁ、手術はうまくいったから1ヶ月ほどでほぼ動けるようになるらしい」
「そうなんですか。よかったですね」
「そうだな。腕もきれいに折れたらしく、若いし繋がるのも早いだろうと言われている」
視線を向けたのは白い三角巾で吊られた古賀の左腕。けれども千菜にはもうひとつ気になるところがあった。
「あの・・・」
躊躇いがちに千菜が視線を向ける先を察して、古賀は千菜がどうしてわざわざ見舞いに来たのか気がついた。
「大丈夫だ。足は捻挫だけだから、安静にしていればすぐに治る」
「本当ですか?またサッカーできます?」
「あぁ」
「よかったぁ」
ほぅ、と大きく息をつくとどっと力が抜けてしまい、思わずしゃがみこんでしまう。「吉野!?」とぎょっとしたような古賀の声がしたが千菜は顔を上げられず、安堵のあまりにじみ出てくる涙を抑えられなかった。
「本当に、よかった・・・」
こぼれた言葉が涙で震えているのに気がついたのか、古賀は「ありがとう」と小さな声で応えた。