十話
(どうしよう。顔上げづらい・・・)
クリーム色したリノリウムの床をきょろきょろと見回しながら、千菜はどのタイミングで顔を上げようか考えていた。天使の階段を見たほぼ勢いで病院に来て、先輩に会って安心したとたん力が抜けてしまった。ガラにもなく涙が滲んでしまったことで恥ずかしくなって顔を伏せたものの、今度は上げるタイミングを逃したようだ。
(先輩きっと困ってるよね~。突然お見舞いに来た後輩がしゃがみこんで泣き出しちゃったら・・・。うわぁ、絶対困ってるって!)
きょろきょろと床を見回してもどうにもならないのは十分分かっている。分かっているが、先輩の顔を見るのもなんとなく気恥ずかしい。けれども困らせるなんて本意ではない。
「吉野?」
心配そうな声をかけられて、黙っているわけにはいかないだろう。
「・・・はい」
「大丈夫か?」
「はい。・・・あの、」
「何だ?」
「もう顔を上げてもいいでしょうか?」
とたんに、ぶっ、っと吹き出す音がした。クツクツ、と笑う声がして千菜は思わず顔を上げ、ぽかんと口を開けてしまった。
(先輩が笑ってる!え、何で!?わたし?私のせい!??)
「先輩!笑うなんてひどいです!あたし何かしましたか?」
勢いに任せて立ち上がり古賀に詰め寄るも、古賀は千菜を片手でさえぎり反対方向を向きながら更に笑っている。
「先輩!」
千菜がへそを曲げそうになったことに気がついたのか、「悪い悪い」と謝りながらもこちらを向いた古賀の口元はくいっと上がり目元は楽しそうに細められていた。その表情に千菜の胸がどきりとする。
(その顔反則だってば!あぁもう、なんかもう、・・・好きだなぁ)
千菜が顔を真っ赤にしたままキッと睨み付ければ、古賀はもう一度「悪い」と謝罪の言葉を告げた。
「いいですよ。トクベツに許してあげます」
「ああ。悪かったな。・・・心配かけて悪かったな」
「本当ですよ。でもサッカーできるなら良かったです。それだけが心配で」
「お前は俺がサッカーできるかどうかだけを心配してきたのか?」
「もちろんです」
それを聞いた古賀はなんとも奇妙に顔を歪めた。次いではぁ、と大きなため息をこぼしうな垂れてしまう。だが---
「だって先輩がサッカーできなくなったら死んじゃうじゃないですか」
おもわず見つめた千菜の顔は予想外に真剣で、古賀は口をはさめなかった。
「あたし知ってます。先輩がどんなにサッカーが好きで、どんなにサッカーに夢中で、どんなにサッカーに真剣か。先輩を知ってから何度も思い知らされました。先輩の9割はサッカーでできています。そんな先輩がサッカーができなくなってしまったら、きっと死んでしまうのと同じです」
「吉野・・・」
「だから先輩が生きていて嬉しいのはもちろんんですけど、サッカーができるのも本当に嬉しいんです。・・・ほっとしすぎて変なとこ見せちゃいましたけど」
視線を逸らしながら少しだけ頬を染めて呟いた言葉は照れ隠しのようで、古賀の心にほんわかした何かを運んできた。
「心配かけて悪かったな。それに、見舞いに来てくれてありがとう」
「・・・はい」
ふと見れば棚の上にある時計がもうすぐ8時を示す時間になろうとしていた。千菜はいまだに持ったままのお見舞いの紙袋を思い出し、慌てて古賀に差し出した。
「あ、すみません。これお見舞いです。どこに置けばいいですか?」
「あぁ、悪いが上の棚に置いてもらえるか。まだうまく動けなくてな」
「はい、大丈夫です」
「ちょっとすみません」と断りながら古賀の枕の上の方にお見舞いを仕舞う。背伸びをしないと届かずに「よっ」っと声が出てしまったのはご愛嬌だろう。
(そうだ、これも渡さないと)
お見舞いはもう一つあった。というよりもこちらが本命なのだが。受け取ってもらえるかどうか一瞬不安になるが、もうここまで来てしまったのだからと思い切る。『女は度胸』---千菜の座右の銘の一つである。
「先輩、あの、これもお見舞いなんですけど、受け取ってもらえますか?」
おずおずと差し出されたのはそっけないA4サイズの茶封筒。「開けてもいいか?」と視線で問う古賀に千菜はコクリと頷いた。丁寧に中から出されたのは、2Lサイズの数枚の写真だった。
「お見舞い、というにはお粗末なんですけど、今日、教室から見た景色があんまりきれいだったので先輩にも見てもらいたくなって」
ペラリ、と一枚一枚めくられた写真は雨上がりの空、雲の切れ間から地上に光が降り注いでいた。
「『天使の階段』っていうんですよ。本物はもっとキレイでした。だから、早く治して学校に来てくださいね」
「・・・あぁ、ありがとな」
言いたかったのはただこれだけ。『早く元気になって、学校に来てください』
---先輩に会えないのは寂しいです。
とはさすがに千菜も恥ずかしくて言えなかった。時計の針は12をほんの少し過ぎていて慌ててカバンを肩にかけた。
「じゃあ、先輩、帰りますね。遅くまですみません」
「いや、見舞いありがとう。家はここから近いのか?誰か迎えでも?」
「自転車だしすぐなので大丈夫ですよ」
「わかった、気をつけて帰れよ」
「はーい、あ、・・・また来てもいいですか?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます。じゃあまた。先輩、お大事に」
にこにこと足取りも軽く嬉しそうに出て行く千菜を見送ると、古賀は部屋が急に静かになった気がして思わず耳をすました。同室の入院患者が立てる生活音だけが耳に届き、その差異になんとなく寂しさを覚えて手に持ったままの写真に目を向けた。そこに写るのは『天使の階段』。
もう一度写真を見返して封筒の中に入れると古賀はそっと引き出しに仕舞ったのだった。
その口元が堪えられない微笑を湛えていたことを知るものは本人ばかりであった。




