第9話 知られざる忠誠、仮面の陰に咲く
昼下がりの陽が、石畳を柔らかく照らしていた。風は穏やかで、遠くからは鳥のさえずりが聞こえる。
郊外の訓練場──町の喧騒から離れたその静かな場所に、金色の髪が陽を弾いた。
リディアは黙って立っていた。両の拳を握りしめ、目の前に置かれた木製の訓練人形を睨むように見つめている。
彼女の動きに、周囲の空気が微かに震えた。
「……もう一度、仮面の人の動きを思い出して……」
息を吸い、膝を曲げ、踏み込む。
無駄のない動き。全身に巡らせた魔力を掌に収束させ、人形の胴に拳を突き出す。
一瞬で、木が軋む音が響き、表面に浅いひびが走った。だが、リディアの顔に浮かんだのは、納得のいかぬ不満の色。
「違う……彼のはもっと……鋭かった。もっと、一瞬だった……!」
髪が揺れ、汗が額をつたう。小柄な体に秘めた熱量は、静かに燃え続けていた。
仮面の男が見せたあの強さ。それは恐ろしいものではなく、ただ圧倒的で、どこまでも信じたくなる“正義”の形だった。
「私も……ちゃんと、役に立てるように……」
誰に聞かせるでもない、決意の言葉だった。
そしてその頃、街の地下。
ひとつの隠れ家の中、無数の古書や魔道具が並ぶ机に向かっていたのはアレクト。無口で冷静な青年は、仮面の道化の影を独自に追っていた。
静かに書をめくる手は、ある一点で止まる。古代語で記された魔術結社の記録。
ページの端には、十三年前の火災事件に関する記述があった。
「……やはり、繋がっている」
呟き、机の上の魔導式スクリーンを操作する。そこには、過去の目撃情報や出没位置の統計がプロットされていた。
整然と並んだデータの先に浮かぶのは、ひとつの“仮説”。
──仮面の道化は、偶然に動いているわけではない。
「先読みしている?……いや、そうじゃない。これは――戦略だ」
その結論は、アレクトにとって衝撃だった。
彼自身、かつては“知”こそが正義を導くと信じていた。だが、その正義を実行する者がいる。己より遥かに無鉄砲に、そして信じがたい結果を残して。
「……だったら、私はそれを支える知になろう」
唇の端が、ほんの僅かに笑みに動いた。
夕暮れが迫る頃、街の酒場の裏路地に佇む男の姿があった。
フードを目深に被り、手には小さな手帳。彼はリック、元情報屋。今では“仮面の道化”に密かに協力する陰の諜報役だ。
「……また増えてるな、支援要請」
帳面の中に記された依頼の数々。
救われた者たちが、密かに寄せた感謝や支援の品、情報。それらはすべて、仮面の道化の元に集まることなく、彼の知らぬまま、忠誠の証となっていた。
「本人は気づいてないだろうけどな……あんなヤツでも、誰かの希望になっちまったってことだ」
リックは煙草を口にくわえるも、火はつけなかった。
どこか物憂げに、しかし確かに誇らしげな眼差しで、帳面を懐にしまう。
「正義のヒーローさんよ、今夜はどこで暴れてくれるんだか……こっちはちゃんと、後片付けしといてやるよ」
その夜、仮面の男は街の高台にいた。
ひとり、屋根の上でアップルパイをかじる。隣に誰もいないのが、彼にとっての普通だった。
ただ静かに夜風が吹き抜け、彼の外套の裾をさらう。
「……なんか、最近……やたらと片付きすぎてないか?」
仮面の下で眉がひそめられる。
いくつもの事件が、まるで道筋が引かれたように次々と解決している。
気配が消える前に敵が浮上し、拠点は先回りで発見され、何もかもが“うまくいきすぎている”。
「……いや、気のせいか……」
彼はパイの最後の一切れを口に放り込んだ。だがその背後──夜空を見上げる仮面の男を、どこかの屋根の影から誰かが見守っていた。
仮面の正義。その姿に、自らのすべてを賭ける者たち。
だが、本人はまだ知らない。
自分の後ろに、どれだけ多くの“背中”が連なっているのかを。
信頼も、誓いも、忠義も、想いも──
全ては仮面の男の知らぬところで、着実に積み重ねられていた。
それはやがて、彼が抱える“本当の戦い”に繋がっていくことになる。
そして、夜は更ける。
路地の影には、未だ動き出す気配を見せぬ何者かの影。
仮面の男が知らぬまま、世界は静かに、次の火種を孕んでいた。
▲
黄昏時の廃塔は、街の喧騒とは無縁だった。
かつては貴族の別荘として建てられたというその建物は、今では誰も寄りつかない廃墟となり、冷たい石壁の中で小さな会議が開かれていた。
「……このままでは、また仮面に出し抜かれる」
部屋に響くのは、鋭い女の声。
銀灰色の髪に仮面を半ば外した女、コードネーム『ティレシア』。組織の幹部の一人で、冷徹な策士として恐れられている。
彼女の前には数人の影が並ぶ。皆それぞれ異なる仮面をつけており、雰囲気は重く、空気は張り詰めていた。
その中で、ひときわ場違いな存在がいた。
「……え、俺? また俺のせい?」
「当然だろう、ノワール。お前が“例の文書”をカフェに置き忘れてきたせいで、支部の位置が完全に割れたんだ」
「いやでもあれ、裏返してたし……しかも表紙に『禁・閲覧注意』って書いといたじゃん? 普通読まなくない?」
「読むわ、余計に」
ノワールと呼ばれた青年は、漆黒の仮面を斜めにかけ、長い袖をひらひらと振りながら座椅子にぐでっと沈んでいた。明らかに緊張感のないその姿に、他の構成員は皆、冷ややかな視線を向けている。
「……我々が十三年かけて進めてきた計画が、君のせいで随分と加速してしまったのは確かだ。ある意味、功労者ではあるな」
皮肉混じりに言ったのは『司書』と呼ばれる老人。
仮面の下から覗く眼光は鋭く、その手には常に古びた魔導書がある。
「だが“奴”が動き出した以上、我々の方針も変えねばならぬ。予言の文言を覚えているな?」
『十三年の月が満ちるとき、正義の影が再び笑う』。
「……全ては、あの仮面の男を起点に動き出した。あの日、彼が“火の城”で生き延びたことから……」
「待って。え? あの道化って、十三年前のあれ……?」
ノワールが目を見開くと、全員の視線が彼に集中する。
「今更か」
「えぇ……そうだったの……? なんか、昼間はパン屋の屋根で寝てるし、意外と庶民派っていうか……」
「見た目に惑わされるな。奴の動きには“理”がある。我々の拠点を狙い撃ちしているのは偶然ではない」
「いやでも、パンは好きそうだった」
無視された。
ティレシアは再び口を開いた。
「これより、作戦を第二段階に移行する。“遺された仮面”を回収せよ」
室内が静まり返る。
“遺された仮面”──十三年前、儀式に使われた魔道具のひとつ。仮面の男が偶然手にしたあの品こそが、計画の鍵だった。
「奴が持つあの仮面……我々が“造ったもの”だとは、まだ気づいていないはずだ」
「つーか、なんであんな市で売ってたの?」
「……誰かが手放したか、流出したのだろう。管理が甘かったのは、当時の失態だ」
全員が一瞬だけノワールを見た。
「いや、俺じゃないってば!」
その夜、敵組織のひとつの部隊が密かに動き出す。
目的は仮面の回収。そして、その背後にある『十三年前の大火』の真相を隠すための口封じだった。
ティレシアは外套を羽織りながら、誰にも聞こえぬように呟いた。
「仮面の正義など、偽物に過ぎない。本物の“選ばれし者”こそが、世界を正す」
彼女の目には、冷たい決意が宿っていた。
だがその頃、仮面の男は路地裏で悩んでいた。
「……今夜も静かだな。なんか、最近やたらスムーズすぎるような……」
手にはアップルパイ。横には誰もいない。完全に無自覚なまま、敵の焦燥と緊迫をよそに、今日もひとり平和に街を歩いていた。
何も知らない仮面の道化。
だが、彼の手にある仮面こそが、十三年前に消えた“鍵”。
世界を巻き込む真実の開幕は、既に始まっていた。
崩れていく計画、暴かれていく陰謀、そして──1人のおっちょこちょいが引き起こす、大混乱の予兆。
戦いは、まだ静かに。だが確実に、熱を帯び始めていた。