第5話 笑う仮面が、街を彷徨う
仮面を被った者が、また一人、街を歩いた。
それは主人公・トガではない。
細身の体に似合わぬ豪奢なコート、首元には古びた道化の襟巻。
何よりも、月の光を浴びて不気味に笑う――白塗りの仮面。
その男は、夜の中央広場で一人踊っていた。
人目もはばからず、奇妙なステップと共に歌い、踊り、そしてこう叫んだ。
「さあ、今宵は罪人の仮面舞踏会だぁ!」
その声が響いた瞬間、近くの屋台が爆発した。
「うおおおおお!! また屋台があああ!! あいつのせいだああああ!!」
「俺のタコ焼き返せぇぇぇ!!!」
群衆は悲鳴と怒号を上げて逃げ出し、広場は一気に地獄絵図となる。
仮面の模倣犯は、ただ笑っていた。
その報告が、リディアの耳に届いたのはそれから五分後のことだった。
「……中央広場、爆発事件。仮面の男が原因。現在、逃走中」
「顔は?」
「道化風。白塗り仮面。服装に赤い装飾、右手には銃。名前不明。声……聞き覚えありそう」
リディアは通信を遮断すると、淡々と腰の短杖を手にした。
「次は……本物の仮面の出番、ですね」
その頃、仮面の“本物”――トガことエレボスは、物陰でおにぎりを食べていた。
月明かりに照らされた古い水路の縁、物憂げな背中。片手で握るおにぎりを、静かに口へ運ぶ。
(……俺はひとりだ。誰も知らなくていい。戦いも、苦悩も、飢えも……すべて、背負う覚悟がある)
と、茂みの向こうから何かがこちらを凝視している気配がした。
「……よく噛んで食べてくださいね♪」
「!?!?!?」
リディアが、いつの間にか藪の中から顔を出していた。
彼女は仮面の背後にぬるりと現れ、保温箱から湯気立つスープを差し出す。
「お味噌汁です。おにぎりだけでは塩分過多になりますので」
続いて、さらにもう一人、石垣の上から飛び降りてきた。
「なぁ、ちょっとさ。おにぎりあるなら言えよ! それとさっきの納豆巻き、俺の分だったろ絶対!!」
バルク。彼もちゃっかり木の陰から見張っていたようだ。口には串団子をくわえたまま、手には謎のタッパー。
トガは静かに呟いた。
(……俺はひとりだ。たぶん)
「……で、偽物の件、どうする?」
リディアが訊いた。
仮面の男は、すぐに返事をしなかった。ただおにぎりの残りを噛み締めながら、月を見上げる。
「笑ってた。人を傷つけながら、楽しげに」
「笑いの模倣。あなたの“顔”を借りた別の何か……ですね」
仮面の奥の瞳が、わずかに細くなる。
(これはただの模倣じゃない。俺のやり方を、歪んだ形でなぞってる)
(このままじゃ、“仮面の道化”は……ただの狂人にされちまう)
翌日。
貴族の館の一つが焼け落ちた。
扉には血文字でこう書かれていた。
――『さあ、また一人、裁いたよ? 仮面さん』
現場は、彼がかつて裁いた汚職貴族の一族。
すでに裁かれ、監禁されていたはずの者が、“何者かの手引き”で逃げ出し、そして惨たらしく殺されたのだ。
まるで“本物の仮面”の手口を真似るように。
リディアが資料を読みながら小さく言った。
「……模倣犯が、こちらの動きを読んで動いている可能性があります」
「偽道化の計画に、誰かが加担している」
バルクも腕を組みながら眉をしかめる。
そして、仮面の男は静かに立ち上がる。
「俺の顔を被った奴が、好き勝手してる。なら……叩き潰すだけだ」
その足元に、どこからともなく現れたメモが落ちていた。
拾ってみると、そこにはこう書かれていた。
――『次は、貴族の結婚式。楽しみにしててね。仮面さん♪』
エレボスは鼻を鳴らす。
「……こんなふざけた仮面、壊してやるさ」
(……俺はひとりだ)
(……たぶん)
彼の背後では、既に仲間たちが次の行き先へ準備を整え、
さらに別の誰かが木陰から、その背中を熱く見つめていた。
「……やっぱり、あなたは一人じゃないよ。ね、トガ」
金髪の少女は、木の上で微笑む。
だが、まだ誰も彼女の存在に気づいていない――はずだった。
それは、とある貴族の結婚式の前夜。
街の広場は眩いばかりの光に包まれ、花々と装飾が路地の先まで咲き誇っていた。
貴族たちは煌びやかな衣装に身を包み、笑い声を交わしながら、明日の式の話に花を咲かせていた。
――が、その片隅に、異様な気配があった。
白塗りの仮面。赤いコート。
何も言わず、ただ群衆の中に紛れて笑う“偽りの道化”。
誰もが彼を飾り物か演出の一部と勘違いしていた。
誰もが。
一方、闇の屋根上。静かに夜を見下ろす仮面の男――トガ。
黒い外套が風に揺れ、月の光をその輪郭に宿す。
(……明日、何かが起きる)
(“あいつ”はきっと動く。そしてまた、誰かが傷つく)
(だから俺が行く。誰にも知られず。誰にも頼らず)
(……俺は、ひとりで)
と、彼の後ろで、背中にローストチキンを担いだバルクがつぶやいた。
「うおーい、重いぞこれ。なんで夜中に丸焼き持って屋根上に来なきゃいけねぇんだ」
トガが肩を震わせた。動揺している。
「……何でお前がここにいる」
「いや、むしろ何でいねぇと思った?」
「ここは俺の……戦場だぞ」
「お前の胃袋が戦場なのは知ってる。ほら、スタミナつけろ。敵は明日来るんだろ?」
そう言ってチキンをドンと置く。
トガは、ほんの一瞬だけ目を細めたが、無言でそれを受け取った。
すると今度は、風の向こうからふわりと香る花の匂い。
「夜食のバランスは大切です。油分の多い食事には、野菜のスープと……デザートに、これ」
リディアがいつの間にか現れていた。
白い布に包まれたバスケット。中には見事なフルーツタルトが揺れている。
「……お前ら、どこまで来る気だ」
「え? まだカレンとカイが後ろで食器並べてるけど?」
遠くの影から、「フォークを忘れた!」「スプーンでいいじゃん!」「あれは許されない!」と小競り合いの声が聞こえた。
(……俺はひとりだ。たぶん)
そんなやりとりの後、仮面の男たちは翌朝、貴族の式典が始まる前にすでに現地入りしていた。
表向きには“式場の警備”という名目だが、もちろん名簿にも名はない。
仮面と外套、そして果物ナイフを隠し持った“警備員”など、誰が信用するだろうか。
トガは、屋根裏の換気口から内部を監視する。
リディアは、会場近くの貴族の館に潜伏し、音声と視覚の監視を担当。
バルクは会場裏の厨房に堂々と紛れ込み、料理の皿数を監視しつつ、つまみ食いも監視。
そして、誰にも知られぬもう一人――金髪の少女が、式典にメイドのふりをして潜り込んでいた。
その視線は、ただ一人を追いかけていた。
「……見つけた、仮面の人」
彼女の手には、こっそり書き写した“仮面の男たちの活動記録”が握られていた。
だがその内容には、こう記されていた。
――『行動パターン:よく迷う』『作戦時:なぜかモグモグしている』『口癖:俺はひとりだ(※たぶん)』
少女は微笑む。
(……ひとりじゃないって、ちゃんと伝えてあげるから)
その夜、式典は無事に進行していた。
花火が打ち上がり、音楽が鳴り響く中。
新郎新婦が高台に立ち、愛の言葉を交わそうとしたその時――
突如、光が弾け、天井から“もう一人の仮面”が降り立った。
「――さあ、始めようか。真の仮面舞踏会を!」
爆発音。悲鳴。転げ落ちるテーブル。
逃げ惑う人々。まるで悪夢のような混乱。
だがその中に、一つの影が跳ね上がる。
黒の仮面、笑う仮面。
“本物”の道化――トガが、爆炎の中から現れた。
「お前の舞台じゃない。……引っ込んでろ」
偽仮面がぎょっとする。
「へぇ……本人登場ってわけ? じゃあどっちが本物か、踊りで決めようじゃない!」
歓声が上がるはずもなく、ただ沈黙と警戒だけがその場を支配した。
その陰で、通信が飛び交う。
「爆発は左手側。被害軽微。犯人は火薬仕掛けを使って入場」
「客の中に混乱工作員なし。避難は予定通り南ゲートへ誘導」
「料理は――あ、ちょっと待って今いいとこだから!」
「お前それ実況だろ!!!」
夜は更けていく。
偽りの笑いと、本物の怒りが交差する中で――
仮面の男の心だけが、今夜もまた、孤独なままだった。
(……俺は、ひとりだ)
(……たぶん)
「――踊ろうじゃないか、本物さん!」
偽仮面がマントを翻し、ド派手な煙幕を撒いた。
演出だけはやたら豪華。火花が飛び、色付きの煙が式場全体に広がる。
逃げ惑う招待客たちの叫びの中、ひときわ目立つ黒と紅の仮面が、堂々と煙の中を歩み出た。
「……うるさい演出だ。花火の数、数えきれなかったじゃないか」
仮面の下で、トガは若干キレていた。理由は地味だ。
そして次の瞬間、偽仮面が手を振ると、複数の黒衣の男たちが現れた。
それぞれ奇怪な仮面をつけ、棍棒やナイフを手にしている。
「さあ、ショータイム! 仮面劇団《夜笑う道化団》、全員登場!」
トガは沈黙したまま、ゆっくりと足を踏み出した。
「……フン。悪趣味な芝居だな」
その言葉と同時に、黒衣の男が一斉に飛びかかる――!
――が。
「ナイフの角度、下過ぎ。腰が甘いぞ」
トガの手が一閃、魔力のこもった掌打がナイフ男の腹を突き上げる。
そのまま華麗に舞うような足払い。仮面の男がまるで舞踏のように敵を捌いていく。
「う、うそ……! こっちは五人だぞ!?」
「お前らの“5”は、揃って“0”に近いな」
ドン、ドン、ガシャン――
見事な連撃で敵が地面に転がっていく。だが。
(あれ? 今のナイフ、妙に握りが甘かった……?)
その裏側。
「はーい、敵の武器は念のためすり替えておきました〜」
リディアが手帳を片手に、通信越しに報告する。
「視界の隅に入るようにチラッと私の姿を見せて、トガ様の緊張感を高める演出も成功済みです」
一方で、厨房裏のバルクが拳を振るっていた。
「ちくしょう、肉は残さず喰えって何度言えばわかる!!」
なぜか劇団員のひとりが鍋に突っ込まれている。悲鳴が上がる。
「敵戦力、調理済み! あとはメインディッシュの小僧だけだな!」
現場は無茶苦茶だったが、トガは気づかず――
「フン、これが“偽物”の限界か。面白くもない」
偽仮面が引き攣った笑顔を浮かべ、後ずさった。
「ちょ、ちょっと待て! お前ら! なにしてんの!?」
「すいません団長! あの黒仮面、想像よりも三倍強くて……!」
「おまけに裏方の仕込み全部バレてるんスよ! しかも飯うまいし!」
崩壊する士気。
偽仮面は慌ててポケットから最後の切り札――黒い水晶を取り出す。
「ならば、これで! “夢の魔水晶”よ、我に力を――」
バキィッ!!!
唐突に横から飛来したフォークが、水晶を直撃し粉砕した。
「――フォークを忘れた代償は、重いぞ」
貴族メイド姿の少女が、盛大にキメ顔で言い放っていた。
その手には、まだ熱の残るスープ皿と、山盛りフルーツタルト。
「……誰だお前」
「あなたのファンです!」
なぜか告白めいた言葉が響いた。
かくして――事件は見事に(?)解決。
偽仮面はおとなしく捕縛され、式典も翌朝に仕切り直しが行われた。
新聞には《黒仮面の英雄、結婚式場で神業の舞》《犯人、鍋の中で反省》《料理の味、星三つ》といった見出しが踊り、街は“仮面の道化”の噂でもちきりだった。
そんな喧騒から離れ、仮面の男はいつもの路地裏でひとり、夜空を見上げていた。
(……終わった。何とか、誰も傷つかずに済んだ)
(今回も……一人で、守れた)
「おーい、特製タルト、残り持ってきたぞー!」
「無断で取るのは泥棒ですよ!?」
「フォーク派とスプーン派で分かれよう!」
「待て、それは分断を生む……!」
(……俺は、ひとりだ)
(……たぶん)
黒い仮面が、月の光にほんの少しだけ、揺れた。