第4話 笑う影は、仮面を偽る
空気が張り詰めている。
まるで、見えない糸が街中を這い回り、誰かの手で静かに巻き取られているような――そんな不気味な静寂が、第四地区を包んでいた。
仮面の道化、エレボスは屋根の上に立ち、視線を旧貴族街の廃屋へと向けていた。
「……また、臭うな」
魔の匂い。血と煙と、そして嘘。
この街の腐った裏側を知る者にしか嗅ぎ取れない、偽善の仮面に塗れた悪の気配だ。かつて幾度となく嗅いだその匂いが、再び鼻腔を刺す。
エレボスの足元には、一枚の白紙が落ちていた。誰かが風に乗せて運んだのか、あるいは意図的に置かれたのか――
彼はそれを拾い上げ、表情を動かさぬまま仮面越しに目を通す。
そこには、子どもの拙い筆跡でこう記されていた。
「助けて、道化さま。仮面のひとが、お姉ちゃんを連れてった。あの笑い方、あなたとおんなじだった」
エレボスの胸が、僅かに波打つ。
模倣犯。あるいは、まったく別の『仮面』。だが、重要なのはその真偽ではない。
誰かが、彼の名を騙って人を傷つけた――その事実だけで、彼の行動に十分な理由となる。
次の瞬間、エレボスは黒外套を翻し、廃屋へと跳躍した。
屋根瓦を蹴り、壁の窪みを駆け、闇の中を音もなく滑る。獣のような静けさで、しかし人間離れした速さで、彼は廃墟の入り口へと辿り着く。
そして、扉に手をかける前に、微かに感じた――魔力の痕跡。
結界。だが稚拙だ。外部からの侵入を防ぐというより、内側の“何か”を閉じ込めている印象すらある。
「子どもを誘拐し、見せかけの聖域を作る……安っぽい『宗教』の真似事か」
エレボスは結界に触れると、指先に魔力を集中させ、静かに“解いた”。
無詠唱。微細な魔力操作。まるで空気の流れを変えるような繊細さで、誰にも気づかれることなく、彼は封印を解除して中へと潜り込んでいく。
屋敷の中は異様な静けさに満ちていた。
壁には偽の聖句が刻まれ、天井からは仮面を模したおぞましい装飾がぶら下がっている。赤い布が垂れ、蝋燭の炎が歪な影を作っていた。
そして、部屋の奥――祭壇のような場所に、子どもが一人、拘束されていた。
痩せた腕。怯えきった瞳。言葉も出せぬほどに震えながら、彼女は誰かを見つめている。
その視線の先に、ひとりの男が立っていた。
白の仮面。道化のような笑みを湛えた造形。だが、エレボスのものとは違う。どこか粗悪で、滑稽にすら見える――まるで、誰かが彼を真似ようとして失敗したような、不気味な模倣だった。
「……『本物』か」
男が言う。声は低く、だが感情がない。興味本位の言葉。
「ようこそ、仮面の騎士。君が来ることは、わかっていたよ。なにせ……」
その時、壁の裏に隠れていた魔法陣が激しく脈動し、空間が歪む。
転移陣。
(――罠か)
だが、遅い。
エレボスは瞬時に地を蹴り、空間を魔力で引き裂くようにして強引に転移を中断。男の腕を掴み、仮面を砕かんと拳を振り上げる。
だが――
その拳が届く直前、男の身体が、砂のように崩れた。
魔法で作られた『人形』。
まやかしだった。
仮面の道化は、拳を振り下ろしたまま、歯を噛み締める。
「――これは、宣戦布告か」
そして、その足元に、また一枚の紙が落ちていた。
『今度は、君の“正義”を試させてもらう。次は、第二地区。仮面の道化よ――裁きたまえ』
血文字で書かれた挑発。
背後で、子どもが静かに泣き出す。
彼女の拘束を解き、静かに抱き上げながら、エレボスは呟いた。
「……遊びのつもりか、クズが」
そして、屋敷を出た時には、彼の影はすでに次の狩場へ向かっていた。
――第二地区。彼がかつて生まれ、そしてすべてを失った場所。
過去の傷が、今また呼び起こされようとしていた。
闇が深まるほどに、静寂が耳を刺す。
(……何かが狂い始めている。だが、まだ形にはなっていない)
仮面の奥で目を細め、エレボスは第二地区の屋根を見下ろす。月明かりがぼんやりと照らす古びた通りは、どこか肌に馴染まない。
(事件は起こる前に止める。それが俺のやり方だ)
風が黒外套を揺らし、彼の姿は路地裏の影と同化していた。無音のまま、獣のような気配を抑えて動く姿はまさに闇の住人。
(模倣犯……か。誰かが俺の仮面を被り、悪意をもって“正義”を騙っている。ならば俺は、その影を狩る者でなければならない)
だがその刹那、背後で――
「うわあああああああ!? ま、また落ちたぁーッ!!」
屋根の上、影の中からドンガラガッシャーンという派手な音とともに、謎の物体がエレボスのすぐ横に転がり落ちた。
(……)
ちらりと見ると、例の金髪の少女が、簀巻きにされた状態で転がっている。
「お、おのれこの縄……! また結びやがったなオッサンども!!」
口の端に藁くずをくわえたまま、もぞもぞともがくその姿は、どう見ても真面目な“追跡者”には見えない。というか、縄で縛られてる時点でお察しだ。
(……この町の警戒度が上がったのは、俺の動きが読まれすぎているせいか。だが、まさかこの子まで真似をしようとするとは)
「エレボスぅ〜〜〜〜!? 見てる!? 私、絶対追いつくからね! ……ぴ、ぴぴっ、ピース!」
なぜか簀巻きのまま親指を立ててきた。すぐ後ろの屋根の陰では、仲間の一人――灰髪の老戦士・バルクが煙草をくわえながらため息をついている。
「あのガキ、また抜け出しやがって……ったく。手間が増えるだけだ」
その手には、少女を引きずり戻すための長いフック付き縄が用意されていた。
(あれか。あれも“俺が引き寄せた闇”というやつか)
仮面の下で、エレボスは神妙な面持ちで頷いた。
(誰かが模倣犯を名乗るということは、それだけ俺の存在が人々に刻まれているという証。これは警告だ。――俺の正義が、まだ試されている)
その足元では、さっきまで縛られていた少女がいつの間にか縄をほどき、こっそり彼のマントの裾を引っ張っている。
「なあねえ、エレボス、今日の夜ご飯って何食べる予定? 私、差し入れしたいんだけど!」
(……試されている)
「もしかして断食中!? あっ、修行的なやつ!? すっごいストイックだね!」
(この世界に正義があるなら、誰かがそれを選び、示さねばならない。例えどれだけ孤独でも――)
「ねえ聞いてる!? トガってば! あ、呼び方間違えた! でも仮面の下、イケメンだったよね絶対! 絶対でしょ!? むしろ外して見せて! ちらっとでも!」
横で叫ぶ少女を、陰からの仲間が静かに引きずっていった。呻き声と布の擦れる音が、闇に吸い込まれていく。
(……孤独でも)
風が鳴った。
エレボスは静かに立ち上がる。
(事件の臭いがする。これは始まりにすぎない。模倣犯が現れたなら、そいつはきっと“何か”を始める)
すぐ背後の家屋の中では、さきほど引き戻された少女が「ぎゃあああああ!!」「まだ心が折れてないもん!」などと絶叫しており、仲間たちはそれを黙々と無表情で鍛え直していた。
「おい、次は目隠しして屋根飛ばせ」
「承知した」
「なお、夕飯抜きだ」
トレーニングという名の尋問が、静かに進行していた。
(……俺はひとりだ)
そう呟いた仮面の男の足音だけが、夜の路地に消えていく。
(……たぶん)
夜の闇が、まるで絹のように街を包み込んでいる。
灯火の途絶えた第二地区の裏通り。しんと静まり返った石畳を、仮面の男は音もなく歩いていた。
(……俺はひとりだ)
孤高の影。誰にも名を告げず、正義を掲げ、罪を狩る仮面の道化――トガ。
その背に流れるのは、決意と覚悟、そして“選ばれた者”としての使命感。
(孤独だからこそ、動ける。誰かのために、汚れ役を引き受ける。それが……俺の選んだ道だ)
と、屋根の上からぴしりと音がして瓦が一枚滑り落ちた。
「──あ、ちょ、バルクさん、今踏んだでしょ!? ぜったい踏んだでしょ!? 私の髪ぃぃ!」
「うるせえ。動くから引っかかるんだ」
(……たぶん)
振り返らずに、エレボスはそのまま歩を進めた。影の中、後方の屋根の上では、仮面の道化を“密かに見守る”はずの仲間たちが、明らかに堂々と後を追っている。
「追尾ルート、予測通り。先回りして第六通りへ配置します」
黒衣の少女――リディアの無感情な報告が、風に紛れて届く。彼女はすでに先読みして移動しており、路地裏の角から仮面の男を監視していた。
その報告を受け、街灯の影に潜む別の仲間――長身の男が短く答える。
「念のため、第三防衛線も張っておけ。奴はよく斜めに跳ぶ」
(……たぶん、俺はひとりのはずだ)
エレボスは静かに空を見上げた。
雲が流れ、月が顔を出す。仮面に照り返す銀の光は、どこか哀愁を帯びている。
(だが、誰も気づかずともいい。ただ、罪を裁く手がひとつあればいい。人々は、仮面を見上げて笑えばいい)
その瞬間、どこからともなく甘い香りが漂ってきた。
「おでん、出来立て〜〜〜〜〜!」
木箱を背負ったリディアが、猫のようにひょっこり路地から現れた。
「今夜は特製! 練り物と大根たっぷり! あ、仮面じゃ食べられない? 仮面外す? ねえ? 仮面外s」
ひゅるり、と背後から投げられた縄が少女を拘束し、瞬時に闇の中へと引きずり戻した。
「任務中に出前すんなッつったろうが!!」
闇に響く、バルクの怒声。
「だってぇ〜! 夜は冷えるし〜! 彼、体冷えやすそうじゃん? あんな露出少ないのに、すごく冷えてそうっていうか〜!」
べしっ!と何かの音がし、少女の声が止まった。
(……俺はひとりだ。たぶん)
どこか悲しげに呟きながら、仮面の男は歩を止めた。
そこは、少し前まで貴族たちの“秘密の遊び場”として知られていた屋敷の裏路地。
だが今、その門は完全に封鎖され、屋敷は焼け落ちたまま再建の気配もない。犯罪者が裁かれた後の、無人の骸骨のような空間。
(静かすぎる……)
その異様さに、彼はわずかに目を細める。
ぴちゃり、と音がした。
石畳に落ちたそれは、水ではない。粘性を持つ、暗い色の液体。
(……血だ)
その直後、遠くから鐘の音が鳴った。二度、三度。
その合間に、かすかに笑い声が混じっていた。
「──あは。楽しかったよ、道化さん」
誰かが囁いた。
すぐに仲間の声が耳元へ届く。
「トガ、異常音を感知。おそらく他の“模倣犯”だ。第一区から逸脱した動きが記録された」
「姿は?」
「仮面を被っていた。道化風の意匠で、左腕に焼印あり。詳細はまだ不明」
エレボスはゆっくりと顔を上げる。
(俺の……偽物?)
その目に、いつしか本物の孤独が灯った。
(冗談じゃない。道化はひとりでいい。ひとりでなければ意味がない)
その背後で、再びバルクが叫んだ。
「おい誰だ、さっきの“特製おでん”って札に俺の名前書いたのは!! しかも『本日の試食係』ってなんだ!!」
「うふふ、善意です♪」
「善意じゃねええええええ!!」
混沌とした夜の街。
だがその中心に立つ仮面の男は、確かに感じていた。かつてない“模倣”の悪意を。
それは単なる真似ではなく――何かを始めようとする意思だった。
(もう一度、闇が揺れる)
(“道化の顔”をした何かが、この街に牙を剥こうとしている)
そして今日もまた、仮面の男は独り、闇の中へと消えていく。
(……たぶん)