第3話 閉ざされた庭、黄金の檻で咲く
月が満ちる。冷たい銀の光が、石畳の路地裏に淡く注ぎ、誰もが寝静まる貴族街を静寂の帳が包む。
エレボス――いや、仮面の道化が姿を消してから、二晩が過ぎた。
少女は、今日も彼の後を追っていた。
それが自分の意思であるのか、あるいは抗いがたい衝動なのか、彼女自身にも分からない。ただ胸の奥で、確かな熱が燻っている。それが彼女を、闇の中へと連れ出す。
低く呟く。「また、いない……また……」
金髪の少女――リディアは、寂れた路地の石壁に手をつき、息を整えた。昼の顔とはまるで違う、鋭く研ぎ澄まされた眼差しで周囲を見渡す。だが彼の姿は、どこにもない。影の如き存在。それでも彼女は、彼を見つけ出すと誓った。
あの仮面の奥に、何があるのか――彼女はそれを、どうしても知りたかった。
ふと、足音が止まる。背後に微かな気配を感じた瞬間、身体が宙に浮いた。否、何かに持ち上げられたのだ。首元に冷たい腕が回され、鋭い力が全身を締めつける。声を上げる間もなく、意識が急速に闇に沈んだ。
目を覚ました時、そこは地下だった。古びた煉瓦の壁、錆びた鉄格子。淡いランタンの灯りだけが、空間の輪郭をぼんやり照らしている。冷たい感触。片手が鎖に繋がれていた。
「な、なにこれ……っ」
「目が覚めたか。思ったより根性があるな、嬢ちゃん」
壁の陰から現れたのは、無骨な鎧を纏った大男だった。短く刈り込まれた黒髪、鋭い隻眼。片腕に重そうな籠手を嵌めている。
「誰……あんた……」
「名乗るほどの者じゃねえが……仮面の坊っちゃんに頼まれてな、面倒な仕事を任されちまった」
「どうして私を……」
「自分の意思で仮面を追ったんだろ? なら、力も覚悟も問われる。坊っちゃんはそういう男だ。……道化の顔はしてるが、甘くはねえ」
リディアは、拳を強く握る。逃げたいわけではなかった。だが、知らない場所で、知らない相手に拘束された恐怖と怒りが渦を巻く。
「彼のことを、知ってるの?」
「知ってるとも。命を張る価値のある男だ。そして、そんな男の傍に立ちたけりゃ――死ぬ覚悟を持てってことだ」
その言葉と同時に、大男が鎖を解いた。
「立て。今から三日三晩、お前に地獄を見せる。生き延びてみせろ、お嬢ちゃん」
訓練は過酷だった。朝も夜もなく、問答無用の模擬戦、武器の扱い、隠密行動の基礎、気配を読む訓練。飯もろくに出ず、水は冷たく、時には罠まで張られた。
「こんなもの……!」
何度も声を上げ、吐き、倒れ、膝をつきながらも、彼女は立ち上がった。あの夜、彼に手を引かれた感触。仮面越しに聞いた声。すべてが、胸を支える。
私は――あの人を知りたい。なら、見なきゃいけない。彼の見る世界を。
少女の瞳から迷いが消えていく。無力だった少女が、己の意志で立ち上がり、歯を食いしばって這い上がる。力なき者が力を得ることは、彼の正義の始まりと同じだった。
三日目の夜、リディアは再び立ち上がった。服は泥にまみれ、髪も乱れていたが、その双眸だけは澄んでいた。
「終わったな」
男が言った。
「これが終わり?」
「……いや、始まりだ」
男はにやりと笑った。
「坊っちゃんは、あんたを試せって言ってた。だが、俺があんたを見て決めた。これから先は――俺の弟子だ」
リディアは驚いたように目を瞬かせた。
「弟子……?」
「道化の傍に立ちてぇなら、戦える力だけじゃ足りねえ。死なずに生き残る術を叩き込んでやるよ、金髪のうさぎちゃん」
その夜から、少女の第二の人生が始まった。
道化の影を追い、閉ざされた庭を抜けて、黄金の檻の中で咲いた花は、やがて誰よりも強く、眩しく輝くだろう。
その時、再び彼の傍に立つその日まで――。
その日、空は珍しく雲ひとつなく澄み渡り、夜の帳すらどこか静けさよりも冷たさを孕んでいた。
リディアは、かつてないほどに体の芯まで疲弊していた。だが、同時に心のどこかが静かに燃えている。今の自分は、ただ追うだけの少女ではない。仮面の男の背中に手を伸ばすため、足を踏み出せる者だ。
「よし、起きろ」
乱暴に水をかけられ、寝藁の上で目を覚ます。訓練の四日目、だが昨日までとは違っていた。
鎧の男――ゼグと名乗ったその人物は、重々しく言った。
「今日からは“実地”だ。街に出る。……死ぬなよ」
「実地……?」
「三日で身体は作った。あとは、頭と感覚だ。どれだけ“この街”の腐臭を嗅ぎ分けられるか、試してやるよ」
与えられたのは、黒ずくめの簡素な外套と、短剣一本。通りすがりの旅人に見えなくもないが、目を凝らせばただの子供であることなど誰の目にも明らかだった。だが、ゼグは言った。
「仮面の坊っちゃんがどんな場所で歩いているか、教えてやる。夢見がちに笑ってる余裕なんざ、あるわけねぇ場所だ」
彼の導きでリディアが踏み込んだのは、表通りから遠く離れた最下層――王都の“淀み”だった。
泥の川が流れ、商家に捨てられた廃材と廃品が積み重なるような場所。人目を避ける人々、震える声で物乞う子ども、殺気を隠さぬ眼でこちらを見る男たち。
「ここが……本当に……同じ王都……?」
「そうだ。上は煌びやかでも、下はこんなもんだ」
ゼグは言った。
「坊っちゃんはな、ここの“底”で何度も人を助けてる。血塗れになっても、化け物じみた連中に牙を向いても、な」
そのとき、遠くの路地で誰かの悲鳴が上がった。女の声だ。リディアが駆け出しかけた瞬間、ゼグが腕を掴んだ。
「駄目だ。まだお前には――」
「離して!!」
少女の眼が燃えていた。過酷な訓練を経てもなお失われなかった衝動。善悪の理屈ではない、ただ助けたいという“意思”だけが、彼女の体を動かしていた。
ゼグは、しばし沈黙したまま手を放した。
「……行け。だが、死にたくなきゃ、背を向けるな」
リディアは走った。暗い路地を抜け、悲鳴の聞こえた先へ。やがて辿り着いた裏通りには、数人の男に囲まれる小さな影。痩せた女が倒れていた。
「やめなさい!!」
叫びと同時に、リディアは男の一人に飛びかかった。踏み込みと重心の崩し方――ゼグに教わった技術を、思い出すように体が動く。短剣の柄で喉元を打ち、男が呻いて崩れた。
「なんだァてめぇ……!」
「私は……」
喉が乾く。震える手を無理やり握り直し、リディアは短剣を構えた。
「私は、闇に生きる男の背を追う者……! 貴方たちみたいなのを、絶対に許さない!!」
荒唐無稽な言葉。だが、その言葉の奥にある“覚悟”は、確かに相手に伝わっていた。
「チッ……子供一人かよ。逃げるぞ!」
男たちは唾を吐き捨て、女を蹴飛ばして逃げ去った。リディアはすぐさま駆け寄り、倒れた女を抱き起こす。
「……大丈夫、ですか? 動けますか?」
「お、お嬢ちゃん……ありがとうよ……」
女の手は痩せていた。何かに追われるような、恐怖と諦めが混ざった眼をしていた。けれどその瞳に、一瞬だけ灯が宿った。
「……ほんとに、ありがとう……」
リディアは頷いた。答えるべき言葉が分からず、ただそれでも、胸の奥に静かに何かが灯るのを感じていた。
その夜、訓練場に戻ったリディアの顔に、初めて自信が浮かんでいた。
ゼグはそれを見て、腕を組んだまま言った。
「……目が変わったな。よし、お前、次は仮面の坊っちゃんに会わせてやる」
リディアの心臓が跳ねた。ずっと、追いかけていた背中。ようやく、その男の元へ辿り着けるのだ。
その夜、月は満ちた銀の輪を描き、冷たい夜風が少女の金の髪をなびかせていた。
△
夜が更けてゆく。仮面の道化は今日もまた、罪の影を追い続けていた。
どこまでも沈んだ蒼黒の夜空。月が欠け、星が雲に隠れるその静寂のなか、路地の陰に潜む一対の瞳が、彼の背を静かに見つめていた。
リディアだった。
金の髪を夜風に揺らし、フードを深く被った少女は、誰にも気づかれぬように、その足取りを一歩、また一歩と主人公の後ろに重ねていく。彼の視線の先にある危機を、誰よりも早く感じ取ろうと、耳を澄まし、心を研ぎ澄ませながら。
(……あなたは、独りじゃない)
それが、彼女の決めた役目だった。真正面から追いすがることは、彼が望まぬと知った今、彼の望む距離感で――その背に、確かに手を伸ばせる場所から支えると決めたのだ。
一方、その夜のさらに東。とある古びた時計塔の屋根の上に、別の影が佇んでいた。
男の名は――ディナス。仮面の道化が仮面を被る以前から共に在り続けた、無言の古株。目立たず、騒がず、だがその観察眼と洞察力は鋭く、主人公の行動を先回りして裏から支え続けている存在だ。
黒装束の中で、彼は静かに街の気配を探っていた。風向き、魔力の流れ、灯りの不自然な消え方。全てを観測し、異変の兆しを探る――それが彼の務め。
「……やはり、動き始めたか」
小さく呟いた声は、風に掻き消される。だがその眼差しは、確かにひとつの地点を捉えていた。
――第四地区、旧貴族街の一角。
廃墟同然となった屋敷のひとつに、不自然な数の人間が出入りしている。夜な夜な火が灯り、子どもが泣く声、女のすすり泣き、獣のうなり声すら聞こえるという噂が、数日前から浮上していた。
ディナスは確信していた。
何かが起きている。
仮面の道化が摘み取り続けた闇の根――その奥に、さらに太く、深く根を張る悪意が、静かに芽吹きつつある。あの殺人鬼が姿を消して以来、現れ始めた模倣犯たち。その中に、明らかに異質な存在が紛れている気配を、彼は感じ取っていた。
それは、殺意ではない。執着でもない。ただ――「意志」だった。
冷酷で、組織的で、計画的な『悪』の意志。
夜の底でうごめくそれが、近く、仮面の道化の前に姿を現すだろう。
そしてその時、また新たな血が流れる。
ディナスはその未来を予測し、すでにいくつかの道具と伝令を地下の協力者に回していた。主人公が辿り着く前に、最小限の情報を整えておく。それが、彼の信念だった。
一方、リディアもまた、別の場所で同じ気配に気づいていた。
夜風に混じる、焦げた木材の匂い。
廃屋の隙間から漏れる、赤黒い光。
そして、誰にも聞こえぬはずの――「祈り」の声。
子どもが、誰かに捧げるように囁いていた。
「道化さま、道化さま、お願い。あのひとを止めて。あの仮面のひとを、もう……」
リディアは、心臓がひとつ跳ねるのを感じた。
仮面の――ひと?
誰かが、仮面を被っている。道化を模して、何かをしている。だが、それは助ける者ではなく、恐れられていた。
(まさか、模倣犯……?)
そう思った瞬間、彼女の背筋を冷たい悪寒が這い上がる。
これは――ただの模倣ではない。
誰かが、意図的に『道化』を利用している。
それは、誰かを救うためではなく――何かを奪うために。
リディアは走った。仮面の男へ、言葉なく、声もなく。それでも確かに届くように、影からの叫びを、その背へと届けるために。
そして夜の中、仮面の道化は静かに顔を上げた。
何かが、蠢いている。
闇の底で、哄笑するかのような、第二の仮面が――。