第21話 伝説のおにぎり、具はまだ謎
彼の一言が、またもや一国の食文化を塗り替えることになるなど、
本人だけが最後まで気づいていなかった。
というより、エレボスはすでに次の悩みごとに心を支配されていた。
「……パン、もう一枚頼んでいいのかな」
料理大会の審査というより、豪華な昼食タイムとしか思っていない。隣の伝説級審査員が五千年の歴史をもつ魔界風リゾットの感想を長々と語っている最中、エレボスはクロワッサンの層の間にバターがどの程度挟まっているかを指先で押して確認していた。
「おぉ……このしっとり感、やば……」
ぽつりと漏らしたその声を聞いたスタッフが、目の色を変えて厨房に走った。
「緊急連絡、クロワッサン担当班! “やば”をいただきました! 審査結果、超高評価の可能性あり!」
「“しっとり感”……つまり湿度か!? 魔界等級の保湿魔法をかけ直せ!」
厨房内は、もはや戦場。火花と蒸気と指令が飛び交う中、エレボス本人はバターの香りに顔をほころばせていた。
「このパン、もちっとしてて……あ、蜂蜜もあるのか……いいなあ……」
そのあまりに庶民的な、平和の塊のようなリアクションが、会場中の魂を震わせた。
「彼は……“料理の深層”に触れておられるのだ……!」
「いや、食事とは“命”……その真理に至った者の佇まいだ……!」
ざわつく観客席に、またひとつの都市伝説が誕生した。
《エレボス様、パンを見つめるだけで栄養摂取説》
《“あっつ!”の一言で体温調節できる高位魔術師》
《バター香る神託》
噂は尾ひれ背びれどころか、手足翼触手までつけて全国へと広がり、
結果、地方都市の小学校では「エレボス式食事瞑想」なる謎の健康授業が始まり、
王都では“エレボスパン”という名の謎のスピリチュアルベーカリーが開店する始末。
一方その頃、エレボスはまだパンをかじっていた。
「これ、おかわりできるかな」
その素朴な疑問に応えるように、山のようなパンがワゴンで運ばれてくる。スタッフが慌てて両手で祈るように言った。
「ご安心ください、全種類取り揃えてございます! どれも“エレボス様仕様”に魔改造済みです!」
「いや、普通のがいいけど……」
しかしその“普通”の定義がすでに国際基準を超えてしまっているため、出てくるのはマナパン(食べると魔力が回復する)、ドラゴン酵母パン(焼くたびにうなる)、さらには“この世にひとつしか存在しない謎の黒パン(美味)”まで混じっていた。
「これ何パン?」
「“神々の試練を超えた者にだけ与えられる第三の主食”と呼ばれております!」
「……おれ、ただ腹減ってただけなんだけどな……」
もはや彼の食欲がそのまま伝説を生んでいた。
その日の午後。王宮には新たな依頼書が届いていた。
『至急:エレボス様による、料理界のバランス調整案件』
“王国料理審議会の意向により、食の神殿にて『至高の昼食』を共に召し上がっていただきたく……。”
見事な封蝋で閉じられたその文面を、執務机の隅で軽くつまんだエレボスは、
わずかに眉をひそめた。
「……おにぎりでいいんだけどなあ」
その何気ない一言が、世界に新たな波紋を広げていた。
王国の高官たちは青ざめ、食の神殿の長老たちは膝を震わせ、何より“神殿厨房直属のおにぎり部隊”が緊急招集された。
「エレボス様が……おにぎりを欲しておられる……!」
「現代においておにぎりが試練の対象と化す日が来ようとは……!」
その日、王都の全米問屋が品切れを起こし、各地の神社仏閣では「米の供え物、今だけ三倍キャンペーン」が始まった。
エレボス自身は、いたって静かに、台所で炊飯器の蓋を開けていた。
「おっ、炊きたて……あっつ……」
その“あっつ”のひと声が、数キロ離れた魔法探知機に異常波形として記録されたことを、彼は知らない。
「うん、手で握るにはちょっと熱いな……でもまあ、気合で……あちちち……」
不器用な手つきでおにぎりを握りながら、ふと冷蔵庫を開ける。
「具……何がいいかな……梅干し、昆布、ツナマヨ……」
その時点で、神殿の具研究班が極度の緊張に襲われていた。
「来るぞ……! “真の具”が試される時代が……!」
「まさかツナマヨで神判が下るなんて、先祖代々誰も予測できなかった……!」
その裏で、すでに“エレボス様おにぎり具適正試験”なる謎イベントが開催され、全国からおにぎり職人が集まりはじめていた。
出展された具は実に奇抜で、例えば――
・“心を落ち着かせるヨモギ漬け幻獣のささみ”
・“食べた瞬間だけ母の味がする涙型イクラ”
・“次元のすき間からすくったおでんの汁”
エレボスはというと、キッチンで自作の「昆布入り塩むすび」をひと口頬張り、
「やっぱ……これだよな」
と頷いていた。
それを窓から双眼鏡で見ていた学者が叫ぶ。
「“これだよな”確認ッ! 記録、刻印、聖典登録!」
「よし、今年の信仰指針に盛り込め!」
こうして“おにぎりの原点回帰”が国の方針として制定され、翌年には「第1回エレボス杯おにぎり選手権」が国営行事として開催されることになる。
だがそのころ、エレボスは玄関のチャイムに応対していた。
「……はい?」
「お騒がせします! “食の神殿”よりお迎えに上がりました! 本日の昼食依頼です!」
「えっ、また?」
「エレボス様の“おにぎりひと口”によって、我々の神託が完成する予定です!」
「……いや、さっき食べちゃったけど……」
その瞬間、神殿使者はひざから崩れ落ちた。
「なん……と……既に終わっていた……!?」
またしても、国中が震撼する予言成就。
エレボスはというと、頭をぽりぽりとかきながら、
「やっぱり、ふつうがいちばんってことで」
と呟き、残った塩むすびを片手に、テレビをつけていた。
チャンネルには――
《速報:エレボス様の“おにぎりはふつうがいちばん”発言により、各国で外交方針変更》
《農林省、エレボス基準の“ふつう”とは何かについて説明不能とコメント》
それでも彼はただ、のんびりテレビを眺めながら、次の昼食のことを考えていた。
「明日は味噌汁もつけようかな……」
だがその味噌汁が、再び国際会議を揺るがすなど、彼はこれっぽっちも予想していなかった。
「やっぱり、味噌汁ってさ。なんか落ち着くんだよねぇ」
エレボスがそう呟いただけで、王都の時の鐘がなぜか三度鳴った。まだ昼前なのに。
それは偶然なのか、はたまた彼の何気ない一言が、時空すらも軽くねじ曲げたのか――誰にも分からなかった。
しかしその発言は、即座に全世界へリアルタイムで配信されていた。
“Ereboss Live Ch.(エレボスのごはん実況チャンネル)”登録者数4億人突破のその瞬間だった。
「味噌汁……!? エレボス様が次に求められるのは味噌汁です!」
味噌汁一杯で三つの王国が外交危機に陥った翌日、エレボスはようやく朝の静寂を取り戻していた。誰もが彼の「次の一言」を待ち構えていたが、当の本人はというと、縁側でぼんやりと空を見上げていた。
「やっぱり……納豆もいいよね」
――瞬間、鳥が落ちた。
遥か南方、納豆を食さぬ文化圏に激震が走り、某国では“粘り気とは何か”を巡る哲学論争が巻き起こった。
だが、エレボスはもう気づいていた。
「……俺、あんまり喋んない方が良くない?」
その一言が、ついに世界のバランスを戻した。
各国は“沈黙こそが最上の叡智”という新たな信仰に移行し、味噌汁省も粛々と解散。エレボスの発言をリアルタイムで解析する部署も、ついに人員を全員サウナ部に異動させるに至った。
「そろそろ旅でもするかな。今度は、こう……静かなとこがいいな。魚とかが、ぴちぴちしてないところ」
誰に向けるでもなくそう呟くと、彼はひとり歩き出した。荷物も地図もない。あるのは、本人も気づいていない“世界の方向性をねじ曲げる力”だけだった。
後日談によると、その旅先で彼が「柿ピーって、すごくね?」と言ったせいで、某大陸の通貨単位が“ピーナッ”になったそうだが、それはまた別の話。
エレボスの物語は、ひっそりと――そして世界中のどこかで静かに、大きく続いていくのだった。
――完。
「緊急だ、食神庁を通して各味噌生産組合に警戒通達を! 赤味噌派と白味噌派の抗争を再燃させるわけにはいかない!」
――その頃、エレボスはというと、冷蔵庫の野菜室を開けながら、きのこか豆腐かで小一時間ほど悩んでいた。
「いやでも、わかめもいいなあ……」
この迷いが、まさか世界経済に“ワカメショック”を引き起こすとは、さすがの本人も予測不能である。
翌朝の新聞には大見出しが踊っていた。
【エレボス様、きのこか豆腐かで揺れる】
【わかめ市場、前代未聞の高騰!】
【味噌生産国首脳会議、緊急招集へ!】
――だが、当のエレボスはそんなことにはまるで気づいていない。
彼は木のお椀に味噌をときながら、
「こっちの赤味噌も試してみようかな……いや、昨日の白味噌も美味しかったし……うーん……」
などと真剣に悩んでいた。
彼にとってのこの“選択”は、ただの家庭の朝ごはんの延長であり、国家的な分岐点ではない。
ところがその頃、王都の議事堂では――
「エレボス様が“悩んでいる”だと!? すなわち“選ばれていない側”は切り捨てられるという意味ではないのか!?」
「いかん、白味噌産地の代表が倒れた! 医療班を! 医療味噌班も呼べ!」
「どっちかが選ばれた瞬間、敗者側が新宗教を作りかねない!」
既に“味噌の分派宗教”がいくつか誕生しており、
そのひとつ『赤味噌正統派エレボシズム』では、日々味噌を練る修行が義務付けられていた。
だが、そんな世情もつゆ知らず、エレボスはやっと味噌汁を完成させ、
「……ん、うまい!」
と、満足そうに一口すする。
その一言が、またもや何百万人の宗教的確信に火をつけた。
「エレボス様が言った! “うまい”と……! ついに“至高の味噌汁”が見つかったのだ!」
「記録しろ! 湯の温度! 湯量! 味噌の種類! 具材の並び順まで! この“再現”こそ我らの使命……!」
……だが本人は、その後ふらりとテーブルを離れ、朝刊をめくりながらこう呟いていた。
「次は……焼き魚でも食べようかな」
こうして、新たな“魚介類教義戦争”の火ぶたが切って落とされたのである。
と、言う訳で自分が何を書いているのか分からなくなったので終わりです。
読んでくださった皆さんには感謝の念が絶えません。
少しでもクスッと来た場面があれば幸いです。




