第2話 月下の誓い、仮面の影を追って
「こ、こいつ、“スカロ潰し”の……! 仮面の道化だッ!」
一人が叫んだ瞬間、戦慄が空気を走った。
密売人たちの中には、この名を知らぬ者はいない。先日の一件は、地下の世界にまでも衝撃をもたらしていた。
王都の貴族を一夜にして失脚させた“仮面の処刑人”――そして、どんなに厳重な警備をも掻い潜り、証拠と共に民の心を奪った“道化の騎士”。
その本人が、今、自分たちの目の前にいる。
「……ひ、一人で俺たち全員相手にするつもりかよ!」
半狂乱の叫びと共に、魔術弾が飛ぶ。
雷撃、火炎、氷槍。様々な術が放たれた。だが――
トガは動かない。
否、動く必要がなかった。
術が彼に届く寸前、空間が歪んだ。術式の流れが寸断され、力だけが宙に放たれ消え去っていく。
「なっ……術が……!」
「空間干渉結界」――トガの纏う黒衣に刻まれた特殊術式が、術そのものを霧散させた。
そして彼は、静かに踏み出す。
足音ひとつない。ただ、影が音もなく迫ってくる。
密売人たちが恐慌をきたした。
「う、撃て! 撃ちまくれぇッ!!」
だが次の瞬間、トガの拳が地を打った。
地脈を震わせる衝撃が足元から吹き上がり、魔力が激しく放出される。
爆ぜるような重低音。周囲の空間ごと敵を叩きつける、重圧の拳――
「……地砕の魔」
言葉の終わりと同時に、工房の残骸が崩れ落ちる。
無力化された密売人たちが呻き声を上げて倒れ、煙の中に立つ道化の仮面が、静かに息を吐いた。
ひとり、またひとりと武器を手放し、恐怖に膝をつく者もいた。
トガは、沈黙の中を歩く。
「この工房で作られていた“魔導薬”は、罪なき人々の命を蝕んでいた。……それを止めるために、今夜ここに来た」
静かな声が、夜の谷に響く。
「貴様が何者だろうと、こんな真似……許されてたまるか……!」
最奥から、一人の男が現れた。
精悍な体躯に、闇工房を束ねていた男――通称“鉛の術師”。体中に刻まれた触媒紋様が、禍々しく魔力を帯びて光っている。
「貴族の犬か、道化の正義か知らんが、所詮は一人だろう。ここで終わらせてやるッ!」
その男が、周囲の死角を一気に支配するように術を解き放つ。
鉛で強化された魔術陣が空中に浮かび、地を這うように迫ってくる。その術は『重圧封殺』――一度術中に取り込まれれば、身体の自由も、魔力の流れも絶たれる。
だが――
「……遅い」
刹那、トガの姿が消えた。
「な……」
次の瞬間、男の背後に“笑う仮面”があった。
目にも止まらぬ移動。仮面の男が、宙に浮いたまま魔力を指に宿らせ、男の後頭部へ叩き込む。
バンッ、と鈍い音が響き、鉛の術師が昏倒した。
「……やりすぎたか」
ぽつりと呟き、トガはその体に簡易治癒を施す。
命は奪わない。ただ、止める。それが彼の信条だった。
貧民窟に漂っていた黒煙が、次第に晴れていく。
残された人々が、崩れた工房を見つめ、そしてトガの姿を見た。
仮面の男は、静かに身を翻し、夜の霧の中へと消えていった。
まるで幻だったかのように。
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翌朝、貧民窟の広場にて。
「本当に……仮面の人が助けてくれたんだ……」
「もう、魔導薬で倒れる子はいないよ……!」
人々の間に、かすかな希望の光が差し込んでいた。
それは確かに微かなものだったが、確実に心に残る炎だった。
そしてまた、街には新たな噂が流れる。
「“煙の谷”の工房を壊滅させたのも、あの“道化の騎士”だって」
「きっと、また悪い奴を探してるんだよ」
「神でも、王でもない。ただ一人の正義なんだ……!」
――そのすべてを、当の本人は知らない。
街の片隅、物陰でパンを頬張りながら、トガは首をひねっていた。
「……なんか最近、視線を感じるな」
風が、黒外套を軽く揺らす。
誰にも知られぬ戦い。だが、確かに誰かを救った夜。
仮面の道化は、今日も静かに、闇の中を歩いていく。
月は高く、空に満ちていた。
街の明かりが届かぬ、屋根と屋根の隙間。
苔むした石壁の影を縫うように、黒い外套の男は歩き続ける。
その足音は、まるで音という概念そのものを否定するかのように静かだった。
仮面の下で、彼は目を細める。
視線──それは確かに、感じている。
気のせいだと切り捨てるには、あまりにも濃く、執拗だった。
そしてその視線には、殺意も、敵意も──ない。
ただ、距離の測りかたを間違えた子どもが、悪戯を見つからぬように隠れているような、そんな拙さがある。
(……気づかれていないとでも思っているのか。いや、あえてそう見せている可能性もあるが……)
考えながら、彼は立ち止まる。
両脇にせり出した煉瓦の壁が、視界を細く絞っていた。
見上げれば、雨樋から雫が垂れ、月の光を弾く。
仮面の道化は、その場に背を向けて座り込む。
壁に寄りかかり、膝を立て、仮面の奥の瞳を閉じた。
姿を見せろ、とは言わなかった。
問いかけも、威嚇も、追跡もせず、ただその場に“いる”。
気配を感じていた影は──三秒、五秒、十秒と迷い、ついに決意したように姿を現した。
小さな影が、上から落ちてくる。屋根の上から、ふわりと。
それは、例の金髪の少女だった。
「やっぱり……気づいてた」
「……当然だ」
「……だよねぇ」
肩をすくめて照れたように笑う彼女に、仮面の道化は立ち上がりもしなかった。
ただ、ゆっくりと顔を向ける。
「なぜ、ついてきた」
「なんで、って……そっちこそ、どうして私のこと助けてくれたの?」
「……それは」
仮面の奥で、視線が鋭くなる。
だが彼女は、その威圧すらまるで意に介さぬように、壁にもたれて隣に座った。
「私ね、あの日──初めて、人が本気で誰かを助ける姿を見たの。
あんた、すごく強かった。怖かったけど……カッコよかった。あんなの、もう目が離せないって感じ」
「…………」
「だから、知りたくなったの。あんたが、なんであんな戦い方するのか。
何を考えてるのか。どうして、そんな仮面を被ってるのか」
仮面の道化は、微かに息を吐いた。
騒がしくなる。
それは避けねばならないことだった。
だが。
──それでも、彼女の言葉を切り捨てるには、何かが引っかかる。
たしかに彼は、孤独を選んだ。
正義の名を騙り、闇に紛れて悪を討つ存在。
誰にも知られず、理解されず、それでいいと、そう思っていた。
だが。
(……ならば、なぜこの子を突き放せない)
仮面の奥で、目を伏せた。
月明かりが石畳を照らす夜、道化の背中は静かに闇へと消えていった。
だが、彼の気配が完全に途絶えるよりも早く、ひとつの影がそのあとを追いかけようと歩み出す。
「待ってよ……ねえ、あんた……!」
金髪の少女――陽炎のように揺れる光の髪を持つその子供は、痛む足を引きずりながらも、その背を追った。
誰かに叱られようが、止められようが、そんなことはもうどうでもよかった。
あの仮面の男には、何かがある。そう思わずにはいられなかった。理屈じゃない。胸の奥をかき乱す、なにか熱い感情。正義でも、憧れでも、復讐でもない。けれど、そのどれにも似たなにかが、彼女を走らせる。
「……逃げないでよ……! ねぇ!」
しかし、その声は闇に吸い込まれ、返事はない。
少女が走るたび、靴の音が通りに響く。だがその先に、もう彼の姿はない。
もぬけの殻の路地裏。空に浮かぶ月だけが、静かに彼女を照らしていた。
「……っ!」
悔しさに唇を噛んだその時だった。
風が、鳴った。
どこかで何かが――跳ねた。
咄嗟に振り返る。だが、そこには誰もいない。
それでも、違和感だけは確かにあった。
影が――もうひとつある。
「……誰?」
そう問いかけた瞬間だった。
視界が、歪んだ。
後ろから伸びた何かが、少女の口を塞ぐ。
「っ、んんっ……!」
何が起きたのかわからない。だが、それを考える暇もなく、意識が一気に沈む。
世界が暗転する、その直前。
耳元で、小さく囁かれた。
「残念だけど、ここから先は“選ばれた者”しか入れないの。……あんたに、試す資格があるかどうか、見せてもらうわ」
女の声だった。だが、どこか冷たい響きを含んでいた。
意識が深く落ちる。
そして、次に少女が目を覚ましたとき――そこは、もう、いつもの街ではなかった。
意識が、ゆっくりと浮かび上がる。
まぶたの裏に、淡い光が差し込んでいた。けれど、それは太陽の暖かさではなかった。冷たく、青白い、まるで月の裏側にでも囚われたような光――。
「……っ、ぅ……」
重い瞼を開ける。視界に広がったのは、石造りの天井。
無骨で、冷たい。だが、ただの地下牢にしては妙に静かすぎる。
身体を起こそうとしたが、手足は縛られてはいない。ただ、異様なまでに体が重い。まるで、空気そのものが圧を持って押し付けてくるかのようだった。
石床に片手をついて、何とか上体を起こす。そこでようやく、少女は自分のいる場所を認識する。
そこは、薄暗い円形の部屋だった。
天井の高いドーム状の構造。壁にはいくつかの鉄扉が並び、中央には古びた魔法陣が刻まれている。
見知らぬ空間。けれど、それよりも先に、感じたのは――視線だった。
誰かが、見ている。
「……!」
とっさに振り向く。だが、影は見えない。
それでも確かにいる。気配だけは、強く、鋭く、重たく。
「よく起きたわね」
その声は、上から降ってきた。
見上げれば、いつの間にか天井近くの柱の上に、ひとりの女が腰を下ろしていた。
黒髪に、暗紫の衣。目元を仮面で覆ったその女は、少女を見下ろしながら、脚を組んでいた。
「誰……?」
「名乗るほどの者じゃないわ。少なくとも、今のあなたにとってはね」
意味深な答えに、眉をひそめる。
しかし、女はその表情を見ても微動だにしない。ただ、楽しげに、冷たく笑った。
「ここは“試練の部屋”。あの人に付いていきたいなら、まずは自分を証明することね。言葉じゃなく、力で」
「力……?」
「そう。魔力も、体力も、判断も……全部よ。中途半端な気持ちで踏み込むなら、ここで潰されて終わるだけ。だから、今からそれを見せてもらう」
そう言って、女は指を鳴らした。
次の瞬間、壁のひとつが軋む音を立てて開いた。
そこから、ひとつの影が、ゆっくりと姿を現す。
人ではない。それは、明らかに“造られた”何かだった。
粘土で形作られたような質感の異形の魔像。だが、内側から灯る紅い眼が、確かな殺意を告げている。
「ちょ、ちょっと待って! 本当にやるの!?」
「安心して。殺しはしない。……ただし、生き残れたら、の話だけど」
言い終えるや否や、魔像が吠えた。
低く、地の底を震わせるような唸り声。
少女は瞬時に身を翻した。
足が勝手に動いていた。逃げなければ、と。けれど、それと同時に、脳裏には別の声もあった。
――逃げてどうする。追いかけるんじゃなかったのか?
あの背を、もう一度見るために。
あの仮面の下にあるものを、この手で確かめるために。
恐怖と、渇望が、せめぎ合う。
だが。
少女は、その足を止めた。
そして、後ろを振り返る。
「……あたし、諦めないよ。たとえ、あんたがどんな奴でも……!」
恐怖に震える拳を、ぎゅっと握る。
その姿に、柱の上の女が小さく笑った。
「いい顔になってきたじゃない。……さあ、始めなさい」
その合図とともに、魔像が襲いかかる。
試練の幕が、静かに上がった。