第16話 霧の檻、目覚めゆくもの
雨は止んでいた。
だが空気は依然として重く、旧給水塔の内部には霧が淀み、見えないものが息を潜めているようだった。
トガは足音一つ立てず、暗い階段をゆっくりと降りていく。
「……誰かがここで“開けて”しまったな」
濃縮された魔力の匂い。古びた封印陣が半ば焼き切れ、中央の空洞に向かって霧が流れ込んでいる。
それは、まるで生き物の心臓に、血が戻っていくような光景だった。
その中心には、ひび割れた石碑が鎮座していた。
石碑に刻まれていたのは、古代魔語で記された一文。
『これより下、人の心を溶かすもの封ず』
「……悪趣味な注意書きだ」
仮面の奥で目を細めたトガは、そっと石碑に手をかざした。
すると、静かに霧が引いていき、奥に続く鉄扉が現れる。封印の魔法は既に壊れていた。誰かが意図的に、それを破壊したのだ。
「やれやれ、誰の仕業だ?」
仮面の男はそう呟くが、心当たりは一人しかいない。
あの“想定外製造機”の少年、セロ。
彼の仕掛けた“霧の吸引装置”が、ここに繋がっていたとしたら――。
一方その頃、敵側の施設では。
「おい……おい、これ、どうなってんだよ……」
研究棟の一室。配線をいじっていた技術者風の青年が、異常な数値を示す計器に顔を青ざめさせていた。
「魔力拡散速度が……予測値の七倍……!? なんでだ!?」
「いやいや、待て。これは何かのエラー……セロくん、君が触った装置ってまさか――」
「うん! あの深くて暗い穴のとこに繋いでみた! なんか心臓っぽくてカッコよかったから!」
「バカアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
「えっ、ちがう? だって『吸うと育つ』って書いてあったし」
「お前が読んだのは“封印が解ける”って意味だアアアア!!!」
研究室内は瞬く間にパニックとなり、逃げ惑うスタッフの頭上に、警報のサイレンが鳴り響いた。
だが、すでに遅かった。
地下の霧は制御を超えて膨張し、都市の魔力網に干渉し始めていた。
外部の魔術師たちはまだ事態を“技術的トラブル”として片付け、楽観視している。
「どうせまた“仮面の誰か”が処理してくれるんじゃないの?」
「なんなら、あの道化が派手に暴れて、終わらせてくれるでしょ?」
そんな噂話が、食堂や街角の屋台で軽口のように交わされていた。
誰もが、この都市の均衡が崩れつつあることに、まだ気づいていなかった。
トガは、地下深くの空間に足を踏み入れていた。
目の前に広がるのは、黒い水面のような魔力の海。
そこに浮かぶ球体は、脈動するようにゆっくりと鼓動している。
「……生きている」
誰かが、何かを眠らせていた。
だがそれは、封じるべき“災厄”ではなかった。
それは――『罪を孕む魂たち』を、飲み込み溶かして再構築する、“再起動する世界の基盤”。
トガの仮面の奥の瞳が鋭くなる。
「これ以上、誰かの『正しさ』で世界を作り直すつもりか」
その言葉に呼応するように、球体の内部から人の声に似た呻きが響いた。
トガは静かに拳を握る。
やるべきことは、すでに決まっている。
何者の意思でもなく、自分自身の“選択”として、これを止める。
「さて……また後始末の時間か」
雨音すら届かぬ地下で、仮面の道化はひとり、災厄に立ち向かっていく。
誰にも知られず。誰にも期待されず。
だが確実に、街を救うために。
そして、制御不能に陥った霧の奔流が、ゆっくりと街の表層へと滲み出し始めていた。
その輪郭すら掴めぬ“存在”を孕んだまま――。
街の北端にある広場で、ゆるやかに風向きが変わった。
それは誰にも意識されないほど微かな変化だった。だが、風に敏感な鷹商人のラグノが、最初に異変に気づいた。
「……あれ、やけに湿気てやがんな」
そう呟いた彼の肩で、鷹が小さく鳴いた。空を仰げば、いつの間にか、雲が街の輪郭をなぞるように不自然に低く垂れ込めている。
「……こりゃ雨ってだけじゃなさそうだ」
風の“重さ”が違う。魔術師でもない彼の直感が、確かな警鐘を鳴らしていた。
その頃、時計塔の上で昼寝をしていた「リディア」は、くしゃみを一つして目を覚ました。
「ん……さっきまで晴れてたのに……変な空気」
彼女は窓際に身を寄せると、眼下の通りを見下ろした。
人々は相変わらず行き交い、子どもたちは菓子を手に笑い、大人たちは急ぎ足で仕事場へ向かっている。何も変わっていないはずなのに。
ただ、空気だけが重い。
そう感じたリディアの背筋を、一筋の冷たい感覚が這った。
「まさか……また、何かが」
その予感は、正しかった。
街の地下深く、トガ――仮面の道化は、すでに“異変”の中心に立っていた。
無数の管が天井から吊られ、黒く変色した魔力を吸い上げ、どこかへと送り出している。
その魔力は、まるで毒のように冷たく、淀んでいた。
「……誰が、ここまで深く掘った?」
自問するように呟きながら、トガは濃霧の中を歩く。
そして、見つけた。
塔の中心。封印の結界が穿たれた場所に、崩れ落ちた装置と、一体の魔法生体兵器のようなものが転がっていた。
その顔には、どこか見覚えのあるマスク。
「……セロか」
壊れた装置の中から、彼がいじったであろう“改造魔力循環機”が、バチバチと火花を散らしている。
状況は、想像以上に悪い。
魔力供給のシステムが逆流し、封印が解けただけでなく、街の上層部に向けて“存在しなかった魔力”が噴出している。
これが外部に拡がれば、魔術師でもない一般人の“感情”に干渉し、思考そのものを歪めかねない。
「……感情操作型の魔力媒体。しかも、過去の“魂片”と組み合わされているとは」
これは偶然ではない。誰かが、意図的に、ここまで仕組んでいた。
だが、肝心の“誰か”が、まだ見えない。
足跡すら、消されている。
まるで、存在ごと塗り潰されたように。
「で、どうするんです? このままにしといたら、街ごと“変質”しますけど」
突然、背後から軽い声が飛んできた。
振り返ると、そこに立っていたのは、古株の仲間「グレイヴ」。いつもの軽薄な笑みを浮かべている。
「何故ここに」
「……道化の行き先を、リディアが読んだんですよ。さすがですね、あの子」
「来るなと、言ったはずだ」
「言ってましたけど、言うだけで止まるような奴らじゃないですよ、俺たち」
グレイヴは肩をすくめ、すぐ後ろから駆けてきた数人の影を示す。
「とりあえず、装置を止める手伝いくらいはさせてくださいよ。でないと、何も知らないあの子たちが“正気じゃなく”なっちゃう」
その言葉に、仮面の奥の眼差しが揺れる。
無意識に救ってきた“街”が、今まさに、じわじわと侵されていく。
それを止めるには、もはや“敵”を潰すだけでは足りない。
原因そのもの――『街に埋め込まれた罪』を、引き摺り出さなければ。
「……いいだろう。最低限の防衛線を構築したら、上層へ戻れ。それ以上は巻き込む」
「仮面のくせに、やっぱり優しいんですね、あなた」
「……違う」
トガはゆっくりと手を前に出す。
その掌には、青白い魔力が灯っていた。
「俺はただ、“誰にも期待されない者”の仕事をしているだけだ」
そして、地下の闇が再び唸るように蠢く。
仮面の道化が、その心に積もらせたものと向き合いながら。
混濁する街の感情と、滲み出した“存在しないはずの災厄”を前に――、
戦いの音が、静かに鳴り始めた。
塔の底に近づくほど、空気は沈黙を孕んでいった。
それは静寂ではない。耳の奥に貼りつくような圧迫感。
まるで、世界そのものが息を潜め、侵入者を拒んでいるかのようだった。
トガの足取りは一歩ごとに重くなる。だが迷いはなかった。
この先に待つものが“何か”を知る必要があった。
この塔に、そしてこの街に――何が埋められていたのかを。
背後で、グレイヴたちの足音が止まった。
罠の気配を感じたのか、それとも、そこに“境界”を察したのか。
「ここから先は、俺一人で行く」
トガが振り返らずに告げると、沈黙の中、グレイヴが少しだけ笑って言った。
「まったく……。またそれですか」
「お前たちの役目は終わった。上層の防衛と、住人たちの避難を頼む」
「……分かってますよ。でも、無茶しすぎんなよ」
それだけを言い残し、グレイヴたちは階段の上へと戻っていった。
その背を、トガは見送らない。自分が進むべき道だけを見据える。
深く、さらに深く。
石造りの階段は、もはや塔というよりも、何か別の“器官”のように思えた。
生き物のような感触が、足元からじわりと這い上がってくる。
そして、扉があった。
古びた、だが異様な存在感を放つ“封”の扉。
そこに刻まれた文字は、誰の言語にも属さず、それでいて直感に訴えかけてくる。
『ここに眠るは、“災厄の贄”』
開ければ、戻れない。そんな確信があった。
だが、仮面の道化は躊躇しなかった。
この街が、今も知らずに抱えている“呪い”の正体を暴くために。
扉に手をかけた瞬間、血のような感覚が指先を這った。
ギィィ……と、石が軋む音が、やけに生々しく響く。
そして、空間が歪んだ。
眼前に広がったのは、空虚そのものだった。
何もない――はずの空間に、何かがいる。
輪郭の掴めない“それ”は、霧のようであり、影のようでもある。
動かぬはずの空間の中で、たしかに脈打つ“何か”。
それが、トガを見た。
気配が変わった。
敵意でも、警戒でもない。ただ、じっとこちらを“見ている”。
「……やはり、これは“生きている”」
その瞬間、空間全体が震えた。
“それ”が吠えたのだ。音ではない、感情で。
圧倒的な“痛み”が、頭の中に流れ込む。
『喰われた』『奪われた』『記された』『繰り返された』
都市の記憶でも、個人の記憶でもない。
この“塔”そのものが刻んだ記憶。
そのすべてが、今、仮面の男に流れ込もうとしている。
この場所は、罪のアーカイブだった。
奪った魔力、利用された生命、封じた意志。
過去に積み上げられた全ての犠牲と欺瞞が、今この空間で“生き続けている”。
「これを造ったのは、誰だ……?」
だが、問いに応える声はない。
代わりに、“それ”が動いた。
ゆっくりと、流れるように、気配が膨れ上がっていく。
それは魔力ではない。悪意でもない。ただ“存在の圧”だった。
その一撃が、空間を裂いた。
トガは咄嗟に魔力を纏い、身を逸らす。
だが、何も見えない。視認できない“何か”が、空間そのものを抉ってくる。
「視覚では追えない……感覚を、殺してくる」
一瞬の躊躇が、命取りになる。
彼は即座に足を蹴り、逆方向へと跳躍した。
一撃、また一撃。
見えぬ攻撃が、空間を穿ち、塔を歪める。
だが、彼は動じなかった。
無詠唱の魔力が、その手から静かに立ち上がる。
ただの殴打に見えるその拳は、幾重にも編まれた“式”を内包している。
「見えないなら、叩き潰すまで」
トガは走った。
空間を裂く咆哮を抜け、“それ”の中心に向かって拳を突き出す。
その拳が“何か”に触れた瞬間、叫びにも似た“音”が塔中に響き渡った。
正体不明の存在が、痛みに身を捩らせる。
だが、まだ終わらない。
その中枢に刻まれていた“記憶”が、ついに反応を始めたのだ。
仮面の奥で、道化の目が細められる。
「ようやく……本丸が、顔を見せるか」
次の瞬間、“それ”が変化した。
形を持ち始める。
人のような、けれど歪な輪郭。
まるで誰かの“模倣”であるかのように。
姿を見た瞬間、トガの全身が戦慄に包まれた。
「あれは……俺、か?」
塔の深層。
封じられていたのは、罪でも災厄でもない。
『仮面の道化の模倣体』
都市の影が、自ら生み出した最悪の“英雄”の偽物。
物語は、今、誰も望まなかった“鏡写しの戦い”へと突き進もうとしていた。