第15話 灰色の霧は告げていた
街の空は、今日もどんよりとした灰色に染まっていた。
朝日すら届かず、昼も夜も曖昧なまま時間だけが流れる。市民は慣れた様子で店を開け、商人は値切られながらも品を並べる。衛兵の足音が石畳を打ち、子どもたちはその間を縫って走り回っている。
何も変わらない――そんな空気の中に、確かに違和があった。
誰もが「いつも通りだ」と思いながら、どこかで立ち止まり、背後を振り返ってしまう感覚。喉の奥に絡むような不快感、皮膚をなぞる何かの存在。それがどこから来ているのか、わかる者はまだ少ない。
その頃、仮面の道化は、塔の外壁を這うようにして動いていた。
無言で、軽やかに。風と同化するように、誰にも気づかれず移動する。
目的地は、南の防壁近くにある貴族の倉庫街。
ここ最近、特定の時間にだけ強い魔力の反応が生じている。その痕跡は誰かが“塗り替えた”ように意図的で、しかも魔術体系が既存のどれとも一致しない。
貴族ではない。傭兵でもない。魔法士でもない。何者かが“新しい魔法”を使っている。
その気配を追いながら、トガは考える。
いや、感じている。
これは、ただの魔法ではない。もっと根源的な“何か”だ。土台を穿つような、世界の裏側をこじ開けるような力。
と、その時。
隣の倉庫から盛大な物音が響いた。
鈍い金属音、誰かの悲鳴、そして派手にひっくり返る木箱の音。
トガはため息をつく。
……またか。
案の定、そこにいたのは“想定外製造機”こと、セロだった。
彼は魔力の検出器らしき物体に絡まりながら、なぜか倉庫の天井からぶら下がっていた。
「あーっ! トガさん!? いやトガ師匠!? 見て見て! この機械、間違って自分の足に反応して巻き取られたんだけど、つまり僕の足って魔力の塊ってことじゃない? 天才!?」
「……その機械、上下逆だ。あとお前が巻き取られたのはたぶん靴紐」
「なるほど!」
セロは満面の笑みで宙ぶらりんのままうなずいた。
「ところで師匠、さっきそこの路地で“変な赤い光”見たんだけど、あれって観光用? それとも災厄?」
「後者だ。帰れ」
「はーい!」
セロは自身の装置に再び絡まりながら、なぜか倉庫の壁を突き破って出て行った。
その騒動をよそに、トガは再び屋根の上に戻る。
足元に落ちていた魔術紙の端が、微かに震えていた。
間違いない。何かが地下で“動いている”。
この街の下にあるもの。忘れ去られた“地層”のように積み重なった魔術の残骸と、埋もれた古い技術。そのどこかに、今、目を覚ましかけている“それ”がある。
その頃、敵側では別の問題が発生していた。
指令を下していた中級幹部たちの一人、ヴェストが首をひねっていた。
「なぁ、この“霧制御機”……本当に起動してるのか?」
「報告書では“たぶん問題ない”とのことです」
「“たぶん”ってなんだよ!? なんで誰も確証を持ってないんだ!?」
「セロ氏が一部構築に関わっていたようで――」
「アイツかぁあああ!」
ヴェストは頭を抱えた。
設計図に“しっくりくるのでこのままでOK!”などという意味不明な手書きメモが添えられていたことを、彼はまだ知らない。
さらに別の区画では、敵の中核に近い者たちが集まっていた。
だがその空気は思いのほか緩い。
「ところで、今の作戦ってどうなってるんだっけ」
「えーと……“自然に任せる”じゃなかった?」
「ざっくりすぎない!?」
各人の認識が微妙にズレていた。
統制は取れていない。それでも彼らの背後には、確かに何かが控えている。
深く、巨大で、目覚めかけている“意思”が。
そしてそれは、仮面の男の存在に、ほんの少しだけ反応し始めていた。
静かな熱が、目に見えぬまま街全体に広がり始めていた。
夕暮れの空が、鈍色から墨に変わりつつあった。
仮面の道化は、屋根の縁に腰掛けていた。手には、小さく千切れた『魔術紙片』が握られている。それは僅かながらも『未知の魔力構成』を帯びており、従来の魔術体系とは一線を画すものだった。
風が吹き抜ける。紙片が微かに唸り、音を立てて震える。
「地下か……あるいは、もっと深い層か」
この街の下には、幾つもの“隠された層”が存在していた。古代の魔術文明が築いた『封印都市』、王家が存在を隠し続けた『魔力蓄積炉』、そして近年になって都市拡張の際に封鎖された『実験遺構』。
そのいずれかに、あの魔力の根が繋がっている――それは、確信に近い勘だった。
だがそれがどこかはまだ掴めない。
「トガ」
ふいに、耳慣れた声が後方から届いた。
振り返ると、闇に紛れるように佇む人物がひとり。黒装束に身を包んだ、無口な協力者だった。仮面をつけることなく現れる彼女は、いつも主人公の影の一歩先を歩いているような不思議な存在だった。
「新しい報告よ。南地区で“霧”の発生源が局所的に観測されたわ。霧の濃度は通常の三倍、しかも魔術感知の類が反応しない。つまり――“自然”ではない」
「……『霧制御装置』か」
「たぶんね。でも、制御してるってより、暴走してるように見えた」
その言葉に、仮面の奥の眼が細められる。
暴走。つまり“想定外”。
その頃、敵の本拠地にほど近い暗室では、主導的立場にあるはずの男が、顔を青ざめさせていた。
「なぜだ……なぜここまで拡大している……!」
彼の名はクラウス。組織内では“参謀”として知られ、緻密な計画と分析で幾多の非合法作戦を成功させてきた。
彼が組み上げた作戦の中核にあったのは、『霧制御による都市支配』。
本来は、濃度と範囲を調整しながら、市民の“感覚”を鈍らせ、外部への通報を遮断する目的だった。だが、現在の『霧』は違う。範囲が拡がりすぎ、濃度が濃すぎ、そもそも操作に対する“応答”がない。
「もしかして……誰かが、装置に干渉したのか?」
思い当たる人物は、ただひとり。
クラウスは震える手で報告書を開いた。
そこに記された名前は――『セロ・アルティン』。
「やつか……! “想定外製造機”がまた……!」
一方、セロはというと。
「ふーんふーんふん~♪」
鼻歌交じりに、何かを作っていた。
目の前にあるのは、以前破損した『霧制御機』の試作モデル。だが今や、原型を留めぬ謎の構造物と化している。
「やっぱりね! 自己修復機能を持たせることで霧が自発的に進化していくんだよ! これが“霧の自律思考型生命体化”ってやつ! あ、名前は『しもべくん』にしよう!」
彼が無邪気に語るその構想は、もはや誰にも理解不能だった。
セロの工作場は、日々“何か”を生み出し続けている。善悪の判断などどこ吹く風、ただひたすらに“面白そうだから”という理由で。
そしてその副産物が、今、街全体を覆う“異変”の中心にあることを、彼だけが知らない。
翌朝。
市街のあちこちで『局所的霧障害』による混乱が報告され始めた。
迷子、通信障害、魔力の乱反射による小規模暴発。だが、被害はまだ小さい。
仲間たちは、それを“いつものちょっとした事件”として受け止めていた。
「また何か変なものが発動したんでしょ」
「まあ大丈夫でしょ。トガがいるし」
「それより今日の昼食、煮込みか焼きかどっちがいい?」
彼らは、まだ知らなかった。
この“霧”が、どこから来たのかも。それが何を引き起こすのかも。
その中心に、仮面の男の足跡が残されていくことも。
『運命』という名の熱は、静かに、だが確実に街の奥へと染み込んでいた。
雨が降り出したのは、ちょうど日が沈みきった頃だった。
ざらり、と重い雨粒が石畳を濡らしていく。空気は一気に冷え、街全体がしんと静まり返った。だが、その静けさは決して安らぎのものではなく、何か得体の知れないものを孕んでいた。
仮面の男は、屋根から地上へと降り立つと、そっと手を伸ばして雨を受け止めた。
水滴に混じる、微かな“違和感”。
「……『魔力汚染』が始まっている」
それは濁った魔力が水分に混じり、自然の浄化を拒む異常の兆しだった。まるで都市そのものが、徐々に“毒”を吸い込んでいるように。
トガは何も言わずに歩き出す。
行く先は、今朝報告を受けた『霧の定着地点』。魔力が異常なほど凝縮し、空間そのものが歪みかけている場所――南東区の旧給水塔跡地。
夜の闇の中、彼の背を雨が叩いていた。
一方、都市の中心区では、“想定外製造機”セロが、ずぶ濡れになりながら呑気に作業を続けていた。
「ねぇ、しもべくん、雨が痛いんだけど……これ、成功ってことだよね?」
彼の足元には、歪んだ形状の制御機構が鎮座している。それはすでに自我めいた動きを見せ始めており、わずかに“霧”を発していた。
「ふふふ……今度のしもべくんは、自己複製型! さらに、霧を吸って成長するんだよ! 可愛いでしょ!」
周囲の誰も止める者はいなかった。なぜなら、誰もその深刻さを理解していなかったからだ。
セロは満足げに頷きながら、何気なく隣のレバーを引いた。
カチン。
ごく軽い音と共に、都市の南側に広がる地下魔力水脈に直接繋がる制御系統が起動した。
それが、どれほど危険なことかも知らずに。
同じ頃、旧市街地では、魔術研究機関の一部局が慌ただしく動き出していた。
「報告します! 大気中の魔力濃度が過去五年で最大値を記録! これは自然発生とは考えられません!」
「原因は?」
「未確定です! ただし、都市南部に偏りが見られます。中心に近づくほど、魔力が“揺れて”います。まるで……心臓の鼓動のように」
「……何かが“生きている”とでも?」
研究主任は、背筋に冷たいものが走るのを感じながら、部下の報告に頷くしかなかった。
「このまま濃度が上昇し続ければ……人間の精神構造にまで影響が及びます」
「それって……まさか」
「はい、“幻視”や“感情誘導”が現れはじめます。つまり、“支配”の前兆です」
だが、そんな重大な警告も、上層部ではさして問題視されなかった。
「例の仮面の男がいるのだろう? 彼に任せておけば問題あるまい」
「どうせまた偶然なんとかしてくれるわよ」
「それより次の晩餐会のメニューを決めよう」
誰もが『あの男がいるから大丈夫』という、希望と依存が入り混じった幻想に縋っていた。
その夜、仮面の道化は、誰にも知られぬまま旧給水塔の扉を開けた。
中は、濃い霧に包まれていた。視界はほぼゼロ。地面には微細な魔力粒子が漂い、まるで生き物のように蠢いている。
彼はゆっくりと歩を進める。
一歩、また一歩と。
まるで世界が彼に向かって、牙を剥いてくるような静かな圧力の中――
それでも、彼の足は止まらなかった。
誰も知らぬところで、誰も信じていない中で、ただひとり。仮面の男は今日もまた、自らの正義を果たすべく歩いている。
そしてその足音こそが、運命を動かし、世界の歯車を狂わせていく。
だが彼はまだ、知らない。
この霧の奥に待つ『存在』の名も、その“目覚め”が、すでに始まっていることも――。