第14話 静謐の中で蠢くもの
夜が明けた。
灰色の空の下、仮面の道化は人気のない鐘楼の縁に腰を下ろしていた。指先で仮面の端をなぞりながら、ぼんやりと遠くを見つめている。
「……なんだろうな、昨日の奴。どうにも引っかかる」
あの倉庫にいた奇妙な影。人とは違う気配。沈黙の中でこちらを観察していた“誰か”。
だが、何も手を出してこなかった。ただ、ただ――“見ていた”。
その事実が、逆に気味が悪かった。
「ま、また明日になれば何か分かるかもな」
そう呟き、マントを翻して去っていく後ろ姿。だが、その場には気付かぬままに残された“爪痕”が、確かに存在していた。
その頃、とある貴族屋敷の一室では。
「えっ、仮面くんまたなんかやったの? えらいじゃん!」
金髪の少女リディアが、食卓の上でパンをもぐもぐしながら笑っていた。彼女の隣には老齢の管家、向かいには剣を磨いている初老の騎士、壁際には魔導の杖を構えた女が静かに座っている。
「大丈夫ですよ。あの人、毎度偶然で全部解決してますし。むしろ放っておいた方が……ほら、運の収束ってありますから」
魔導士の女、アゼリアが静かに言う。机の上には仮面の道化による“偶然の被害報告書”の束が積み上がっていた。
「被害っていうより、もう奇跡だろ、これ。壊れたの倉庫と柱一本だけなのに、闇取引全部潰れてんだぜ……」
老騎士が嘆息混じりに呟くと、リディアが明るく手を叩いた。
「いやぁ、さすが仮面くん! やっぱり運命に愛されてるよね!」
「いや、だから運命に愛されてるっていうより、巻き込まれてるだけなんじゃ……」
誰もが、まるで日常の延長として語る“仮面の道化”の活躍。
そこには焦りも緊張もなかった。
だが、その裏である古びた礼拝堂の地下。
「…………失われた“器”が目覚めの兆しを見せたと?」
重々しい声が、蝋燭の灯る石の間に響く。
そこには、ローブをまとった数人の影が集っていた。顔はフードに隠され、ただ一人を除いて、誰も言葉を発さない。
「はい。……ですが、手配した監視者が“予想外の干渉”によって接触を失いました。詳細は……例の男です。仮面の」
「また、か」
溜息混じりに呟く女の声。だがその隣にいた一人が、椅子を軋ませながらふと手を挙げる。
「あ、あのー……僕、その監視者だったんですけど、実は……ほら、あのとき見張ってた屋根、崩れちゃって、ちょっと……」
場の空気が凍りついた。
ローブの下から向けられる殺意じみた視線を感じながら、“想定外製造機”と呼ばれる彼は冷や汗を浮かべて必死に取り繕う。
「で、でも! でもですよ!? 彼がいたおかげで、倉庫の遺物は破壊されずに済んだわけで! そう、功労者! ね? ねっ?」
「……何が、どう功労者なのか、説明してみろ」
小さく呟いた声が、まるで刃のように鋭く突き刺さる。
重苦しい沈黙の中で、“想定外製造機”はうつむきながら言葉を絞り出した。
「……ごめんなさい……壊しました……全部」
その会議の数時間後。
その組織の幹部数名が、地下聖堂の外に出た時、空を見上げてひとりが言った。
「ま、奴は無自覚だからな。仮面の道化ってのは、勝手に暴れて、勝手に転んで、結果的に邪魔してくるだけだろ?」
「深刻に考える必要はないな。……本格的な儀式まではまだ時間もある」
彼らは確信していた。
仮面の男は“計画にとって、些細なノイズ”でしかない、と。
そう、“今のところ”は。
だが、誰も気づいていなかった。
すでに、重要な“鍵”の一つが、仮面の道化によって動かされていたことに。
誰にも気づかれず、誰も意図せぬままに、重大な扉が音もなく開かれ始めていたことに。
戦いの火種は、静かに、着実に。誰の意図を超えて、燃え広がっていく。
そしてその中心にいるのは、ただひとり――
街を、誰よりも無自覚に救い続ける、仮面の道化であった。
霧が濃い。
昼になっても陽は見えず、街は仄白い膜に包まれたような空気を纏っていた。いつもより少しだけ足音が響く。誰もが気付かぬうちに肩をすぼめ、目を伏せ、通りを早足で過ぎていく。
けれど、その街の空気に、誰よりも早く異変を感じ取っていた者がいた。
仮面の道化――“トガ”は、今朝もいつも通りに屋根の上を走っていた。黒と紅の装束を揺らしながら、朽ちた煙突の縁を軽々と飛び越える。
しかし彼の瞳は、明らかにいつもの無邪気さから遠ざかっていた。
「空気が……重い。昨日の影と、同じ匂いがする」
明確な証拠はない。ただ、感覚が告げている。“何かが起きている”と。
見下ろした先、広場では何やら騒ぎが起きていた。
人だかり。警吏の姿。そして――見慣れない、崩れた馬車。
その馬車には、“封印魔具運搬用”の印が刻まれていた。
警吏たちの声が交錯する。
「誰も馬車を操ってなかったのか?」
「いや、目撃者は“影のようなものが飛び去った”と……」
「まさか、あの噂の……仮面の?」
「またかよ……いや、違う! 今回はアイツじゃねぇ! ……たぶん……!」
完全に信頼されていないヒーローの影に、街の空気は微妙に歪んでいた。
そんな混乱をよそに、屋根の上からそれを見下ろす仮面の男は、重く息を吐いた。
「……違う。これは俺じゃない」
そして、再び静かに地を蹴る。
夜が訪れるまで、あと数時間。
それまでに、この違和感の正体を掴まなければならない。
なぜなら街の底では、確実に“何か”が動いていたからだ。
だがその頃、同じ街の片隅では、別の温度が流れていた。
「見てくださいよ、これ! “超高効率マナ変換式・自動煮込み鍋”!」
リディアが無邪気に机を叩きながら得意げに言う。目の前の鍋はぶくぶくと青い蒸気を吹き出していた。
「ちょっとリディア、それ何の材料使ったのよ? 魔獣の骨まで入れたらダメって言ったでしょ!」
アゼリアが素早く鍋の符術陣を停止させる。鍋はじゅうう……という音を立てて沈黙した。
「えー、でも“骨から染み出るスープは美味”って書いてあったし」
「それは鍋の話じゃなくて、魔族の拷問書でしょ!? 違うの読まないでよ!!」
部屋にはどこか懐かしい温もりが流れていた。今日も仲間たちは、どこかで仮面の男が“また何か”をやってくれると信じていた。
その信頼は、根拠に乏しく、しかし揺るぎなかった。
だが、その信頼は知らない。
今、この街に“本当に危険なもの”が入り込んでいることを。
それを知っているのは、仮面の男だけだった。
夜が来る。
霧は晴れない。
足音だけが、石畳に低く響いていた。
仮面の道化は、誰にも知られぬままに、街の奥へと歩を進めていた。
不穏な気配に導かれるように。
闇の底で、誰かの“断末魔”が、確かに待っていた。
霧は、夜になっても晴れなかった。
むしろその白さは濃くなり、街灯の灯りすら、ぼんやりとした輪郭を残して沈んでいるだけだった。浮かび上がるのは、いくつもの影。音もなく歩く人影のようでいて、しかしどれもどこか歪だった。
トガはその異様な“静寂”の中を、音も立てずに進んでいた。
魔を纏った拳を、いつでも抜けるように。
路地の壁にひびがある。瓦礫が一部、黒く焦げていた。
“焼かれた”痕跡。
だが、それは炎のそれとは異なる。“見えない何か”が、確実に通った跡。
そしてそれは、ある一つの方向へと続いていた。
「……塔に、向かっている?」
塔、街の中央部にそびえる古代の遺構。現在は貴族の資料管理区画として、表向きは厳重に管理されている。
その塔の足元で、何かが蠢いている。
同時刻。塔のさらに地下深く、閉ざされた空間で。
「……なんだ、これは……制御符が、反応しない……?」
暗がりの中で、緋のローブを纏った男が立ち尽くしていた。
その名は“グロザ”。敵組織の魔術管轄部門を担う調整師の一人。
膨大な魔力の揺れが、部屋の中心に置かれた黒檀の箱から噴き出していた。
それは“災厄の胎”と呼ばれた、組織にとって最重要の魔核。
本来、厳重な符術で封じられていたはずのその箱から、今や静かな呻きとともに、黒い靄が天井を這っていた。
グロザは制御符を重ねた。しかし、反応はない。まるで中にいる“それ”が、既にこちらの命令を理解しようとすらしていないかのように。
「ば、馬鹿な……設計通りに……なっている、はず、だろう……?」
額から汗が伝い落ちた。
その瞬間――箱が、“かすかに笑った”。
「…………」
部屋に響いたのは、確かに“笑い声”だった。
それは、制御されたものの声ではない。意思だ。明確な。
“内側から”滲み出してきた、意志。
敵本部の別室では。
「なあなあ、これさ……なんで真ん中の印、逆さについてるんだっけ?」
“想定外製造機”こと、通称シェレムが、呑気に机に置かれた結界の図面を眺めていた。
「お前が貼ったからだろ!!!」
「えー!? だってシンメトリーのほうが美しいかなって……」
「いや美学で陣は組むなッ!」
「でも、ちゃんと光ったじゃん。ヒューッて!」
その瞬間、部屋の外からドオオオン、と何かが崩れる音が響いた。
一拍置いて、壁の一部が黒く焦げ、煙が舞い込んでくる。
「……また……“制御層”から?」
呆然とする同僚たちの間に、重い沈黙が落ちた。
「……待って、これ、まさか……暴走……?」
「いや、違う……もっと質が悪い……“意思を持ち始めている”」
そう、敵側の中でも、事態の深刻さに本格的に気付き始めたのは、ごく一部に過ぎなかった。
上層部の大半は、“実験段階だ”と高を括り、
末端のほとんどは、“シェレムがまた変なことをした”程度の感覚しか持っていなかった。
だが、実際に進行しているのは、“制御不可能の兆し”だった。
それでも仮面の道化は、ただ静かにその気配を追っていた。
闇の底で蠢く“本当の災厄”に、ただ一人、気付いたまま。
そして、塔の影で。
「……ようやく、始まったか。仮面の小僧」
声がした。
その主は、誰にも気付かれず、何年も存在していなかったことにされていた、最初の失踪者。
顔を持たぬその男は、虚空に笑いかける。
「舞台は整った。あとは……お前が、“選ぶ”番だ」
事件は、今まさに“選択”の段階へと進もうとしていた。
そしてそれを知る者は、まだ仮面の男――トガただ一人である