第12話 嵐の前の静けさは、誤算から始まる
薄曇りの昼下がり。街は賑わっていた。
露店が軒を連ね、果物や雑貨を売る商人たちの声が飛び交い、広場の噴水では子供たちが水遊びに興じている。いつも通り、穏やかな日常——のように見えて、その裏には大小さまざまな“火種”が潜んでいた。
そんな日常の只中、仮面の男は街角の屋根に腰かけていた。
「……特に何も起きないのが、一番なんだがな。……いや、ほんとに」
そう呟きながら、手に持った干し肉パンをかじる。
が、その時だった。
ドガシャアァン!!!
数街区先で、爆発音が響いた。
「……だから言ったろうが……」
静かに立ち上がる。屋根から屋根へと軽やかに飛び移り、喧騒の中心へと向かっていく。
到着したのは錬金術師通りの裏路地。
爆発の元はどうやら、実験に失敗した若き錬金術師によるものだったらしい。
「も、申し訳ありません! 爆風が猫に反応して、そのまま……!」
「猫……?」
目を凝らすと、爆心地の中心で燃えていたのは、何やら液体を滴らせた金色の猫。否、どうやら猫に擬態していた、魔力式自動機械だった。
「……暴走個体か。しかも、魔力系統が違うな」
仮面の男は猫——もとい機械生物へと一歩近づき、無言で掌を向けた。
静電のような紫電が走り、瞬時に魔力制御の封印が展開される。
その瞬間、猫型機械はバタリと倒れ、うっすらと尻尾を振った。
「……また、勝手に収まった……?」
「いえ、今のは明確に制御されてました! す、すごい……!」
「ただ手かざしただけなんだが……」
そこから先、仮面の男の“日常”は妙に多忙だった。
盗賊団がパン屋の試作品だけを盗んだ事件では——
「……あのチーズの香り……それでか」
匂いだけで犯人のアジトを突き止め、パンごと盗賊団を捕縛。
迷子のヤギが貴族街の噴水を占拠していた事件では——
「……この鳴き声、メスか。いや、発情期か?」
鳴き声だけで個体の状態を分析、餌で釣って保護、ついでに迷い主の娘にプロポーズされた(断った)。
さらに、地下道で発見された不可思議な発光体に至っては——
「……これ、照明じゃないか。いや、だが待て……爆発するな、これ」
と呟いた数秒後に照明が爆発し、周囲の警備隊員たちから信仰対象として崇められかけた(全力で逃げた)。
一方その頃、彼の仲間たちは別の場所で、仮面の男の“実績”を記録していた。
リディアは無表情のままメモを取り、古株の仲間たちは口々に感想を述べている。
「……もはやあの人、無意識に神の領域に踏み込んでますよね」
「いや、むしろ“神の奇行種”では?」
「実際、運命改変に限りなく近い偶然の連続……仮面様の行動ログ、逆に怖いわ……」
「それで、本人は?」
「迷子の猫を追いかけて東の森に入りました。なお、猫は幻影だった模様です」
「……もう全部、仮面様で良くないですか?」
「とっくにそうなってます」
そして、夕暮れ時。
仮面の男は一人、屋根の上で空を眺めていた。
「……今日も静かだったな」
屋根の下では、助けられた人々が彼に感謝の言葉を口にしていた。
だが彼自身は、その事実をほとんど自覚していない。
「……俺はただ、喧しいのが苦手なだけだ。余計な揉め事は、少ないに越したことはない」
そう呟いて立ち上がる。
その背に、夕陽が長い影を落とした。
その姿を見つけた子供が叫ぶ。
「ねえ! さっきの、仮面の人だよ!」
「えっ!? 本物!? あれが、ヒーロー様なの!?」
「違うよ! あれは……道化の騎士様だよ!」
いつのまにか広まっていた仮面の異名に、本人は眉一つ動かさずに歩き去る。
(……俺は、ひとりだ)
その足音は、夕闇に紛れて消えていった。
だがその背中には、今日もまた——
知らぬうちに助けられた人々の、小さな笑顔が、確かに宿っていた。
街に、静かに不穏な空気が流れはじめていた。
それは、仮面の男がまた一人、謎の果物泥棒を追って裏通りで滑って転んだ頃──街の西部、旧教会跡地の地下にて、水面下で着々と進行する“何か”があった。
「報告書です、幹部様。例の“想定外製造機”が、また市内で活動した模様です」
「……また?」
声の主は、闇組織《十三椅子》の幹部の一人。黒衣に身を包んだその女は、報告書の文字を追いながら眉をひそめる。
「猫型兵器を無力化。魔導照明の暴発回避。盗賊団の捕縛。迷子ヤギの確保……最後は関係あるの?」
「いえ、ありませんが……一応、パターンとして記録しておきました」
「いや、これどこからどう見てもヒーローの実績なんだけど……。本当にこの“仮面の男”が敵なんですか?」
答えた部下の肩がぴくりと震えた。
「そ、それは……大本営の命令で、十三年前の“旧王都の大火”で消えた“あの少年”が絡んでいる可能性があるとか……」
「それ、あの『仮面の道化』伝説の話じゃない。どこまで信憑性があるのよ」
「それが、問題でして……」
地下組織に残る情報の中には、「かつて王都の一角を焼き尽くした災厄の火」と、「仮面を被った少年の影」が記録として朧げに残されていた。だが──それを今信じる者は、少なかった。
「なら、信じさせてあげましょう。実力で」
そう言って女幹部が立ち上がる。
だがその背後、まだ新人の構成員が手に持っていた水晶球が──パリンと割れた。
「あっ……!」
「ちょっ、それ“結界印”じゃ……!?」
遅かった。
地下施設の封印の一部が、音もなく解除された。
「ちょ……ちょっと待って、今、なにをしたの……!? なんで鍵付きの封印が……」
「いえあの、その、キレイだったので……つい……」
「……君、今度から“災厄マスコット”って名札つけてて」
「えっ、それ新しいあだ名ですか? ありがとうございます!」
「褒めてないからね!?」
その頃、本人はというと──
「……やっぱり、こういう道は歩くもんじゃないな」
仮面の男は、両手両足を伸ばして、樽に突っ込んだ姿で魚屋の前に転がっていた。
魚屋の老婆がため息をつきながら水をかける。
「……またあんたかい、トガの兄ちゃん。猫追ってるうちに魚に跳ねられたって、何回目さ」
「三回目です。……記録更新ですね」
「誇らしげに言わない!」
騒がしい日常に紛れ、仮面の男は立ち上がり、何食わぬ顔で路地裏へと消えていく。
その背には、既に次なる“火種”の気配が、ひっそりと──
いや、実際には結構ド派手に燃え始めていた。
そして《十三椅子》の地下にて。
かすかに開いた封印の奥、黒い影がゆらりと姿を現す。
「……時は満ちた……」
「いやまだ全然満ちてない! 戻って! 出てこないで!!」
「…………」
「え、まさか、こっちの声届いてる……!?」
そんな“予定外”の連鎖が、また一歩、仮面の男を“事件の中心”へと導いていく。
そして今日もまた、仮面の道化は、無自覚に街を救いながら歩き出す。
運命は、静かに、だが確実に蠢いていた。
その日の朝、広場の噴水前で事件が起こった。
屋台のひとつが、何者かによって魔力を吸い取られ、崩壊寸前の状態に陥ったのだ。
しかしそこに現れたのは──
「うおおおぉぉおっ!? サンドイッチ落とすとこだった!!」
奇声とともに、仮面の男・トガが路地裏から飛び出し、屋台の土台に突っ込む。
その瞬間、倒れかけた屋台の重心が逆に安定し、魔力暴走の核心を覆っていた鉄板が外れ、魔力が空へと放出された。
「……よくわからんが助かったぞ、兄ちゃん!」
「ふっ……また一人、救ってしまったか……サンドイッチを」
「サンドイッチなの!?」
騒動の中心で呆然と立ち尽くす屋台の主人を後目に、仮面の道化は満足げに立ち去った。
その背に、老婆がボソリと呟く。
「……あれが例の“仮面の騎士”だって? ただの迷走する風来坊じゃろ……」
しかし、確かに一つの危機は去った。
そしてその裏で、また一つ──敵の企みが綻びを見せはじめていた。
地下の会議室。《十三椅子》の幹部たちが集う重苦しい空気の中、ただ一人“想定外製造機”と名付けられた若手が小声で手を挙げた。
「……あの、すみません、今日の噴水前の件って、もしかして私の……」
「お前か」
全会一致だった。
「いや、違うんです! その、昨日“魔力検知装置”の位置を調整してたら、なんかすっぽ抜けて、そしたら偶然あの屋台の下に落ちて……」
「要点を言え」
「……すみません、装置が屋台の魔導炉に干渉して、暴走誘発しました」
「黙ってろって言ったよね!?」
幹部たちの誰もが頭を抱える中、報告の端に一つの名前が挙げられていた。
仮面の男。
「またしても彼が現場に……偶然とは思えんな」
「だが、奴は我らの“真の目的”を知らぬはず」
「十三年前の因縁が、ここに絡んでいるとすれば……」
「……仮面は、まだ覚えていないのか?」
かつて、十三年前。旧王都で起こった“魔力の大爆発”。
その時に姿を消した少年の一人が、今なお仮面を被って彷徨っているなど──誰が信じるというのか。
だがその少年こそ、仮面の道化。
彼の仮面の裏に封じられた記憶は、事件の核心と深く結びついていた。
一方その頃、トガはというと──
「ん? なんかこの仮面、最近ちょっと喋ってるような……?」
『……おい……お前……またサンドイッチか……』
「気のせいかな。腹減ってるせいだな、うん」
己の仮面に宿る“声”を完全にスルーしつつ、仮面の道化は再び路地裏へと姿を消す。
だがその足元には、かすかに震える魔力の痕跡。
封印されていた“過去”が、今──仮面の中から目を覚まそうとしていた。
そして、敵組織の中で進む“計画”は、ひとつの大きな局面へと差しかかる。
想定外が連鎖し、事件が次の段階へと移行する中。
仮面の道化はただひとつ、己の信じる道を突き進む──無意識のままに。
だが、その一歩が、またしても世界を救うなどとは、彼自身まだ夢にも思っていなかった。