第10話 捩れた歯車と、跳ねる道化の影
戦いは、まだ静かに。だが確実に、熱を帯び始めていた。
陰で囁かれる計画の崩壊。その火種は、思わぬところにあった。
「おい……誰だ、ここの扉に“押すな”って貼ったのは」
黒ずくめの男が呻くように言った。地下通路の奥、静かな会議室。そこは本来、敵組織『暁影団』の幹部たちだけが集う重要な密談の場である。だが今夜、そこに起きたのは静寂でも密談でもなく――無様な爆裂音と、天井からの粉塵だった。
「だから言ったのに、“押すな”って書くと押されるって」
「いやいや、その張り紙をしたの、お前だろノーチェ!」
そう、爆破の原因はまたしても一人の男――組織内で“災厄の手押し式装置”と恐れられる存在。
コードネーム《ノーチェ》、別名『想定外製造機』、あるいは『反・計画性の申し子』。
「てへっ、やっちまったか?」
「てへ、じゃない。貴様が押した扉の先に、機密文書保管室があったことを、今さら忘れたとは言わせんぞ」
幹部の一人、冷徹な戦略家ティレシアが額を押さえる。彼女の完璧な作戦構築は、いつもこの男によって想定外に侵される。そしてなぜか、それが外部に情報として漏れ出していく。
事実、先ほどノーチェが持っていた一通の報告書――それは、『仮面の道化』に関する捜査資料だった。
そして、爆風とともにそれは舞い上がり、換気口を抜けて、風に乗って城下の屋根をひらひらと飛んでいった。
そしてその紙片を、路地裏で一服していた一人の男が拾い上げる。
「……おや。これはまた、面白い“風の悪戯”だな」
仮面の下で微笑むのは、トガ――いや、エレボス本人。もちろん彼は気づいていない。
それが敵の中枢から洩れた、トップシークレットの文書だとは。
一方、敵の本拠地では騒然とした空気が漂っていた。
「文書が、外に!?」
「おまえ、ちゃんと閉じたって言ったよな!?」「換気扇はおまえの担当だろ!?」
「ひ、人聞きが悪いなあ! まさかこんな風に飛ぶとは思わなかったんだよ!」
「それを“想定”するのが君の役目ではないのか! ノーチェェェ!!」
その夜――
仮面の道化は、例によって一人で路地裏を巡回しながら、手に入れた紙片に首を傾げていた。
「……こんなものを誰が? まあ、俺には関係ないか」
そう言って懐にしまい込み、再び闇へと姿を消す。
だがその背後では、確かに世界の歯車がわずかに“ズレ”を見せていた。
それもまた、誰かの“予定通り”ではない。
《暁影団》の中に潜む、もう一つの意志。
仮面の道化を知る者。かつて、十三年前の惨劇に連なる、もう一つの影。
それら全てが今、ひとりの“誤差”を通じて、音もなく動き出していた。
――次なる爆弾は、すでに腕の中に抱えている。
ノーチェ本人が、知らぬうちに。
戦場は整いつつある。
だが仮面の男は、今日もいつも通り、仲間の気配にすら気づかず、軽くジャンプしながら路地を駆けていた。
「……今日も平和だな。たぶん」
仮面の道化は、懐にしまった紙片の内容を、特に深く読み解くでもなく、適当に眺めていた。
「……“黒月計画”? やれやれ、ネーミングが中二っぽいな」
路地の奥にある廃工房の屋根に腰を下ろし、薄い笑いを漏らす。
だがその言葉とは裏腹に、仮面の下の眼差しはどこか憂いを帯びていた。
夜の街には、確かに悪が潜んでいる。
救える人間もいれば、どうしようもないものもある。
その全てに対して、エレボスは“仮面”を被りながら殴って対処してきた。
正直に言えば――
(そろそろ、この街の悪も絶滅したかと思ったんだが)
今夜も異常はなかった。誰も襲われていないし、闇の取引もなかった。
代わりに、どこかの屋根の上で焼き魚の匂いがしている程度だった。
(……腹、減ったな)
そんな独り言が漏れた瞬間、屋根の向こうからふわりと、焼き魚が一尾だけ舞ってきた。
反射的に手でキャッチする。
「…………誰だ?」
木の陰。動きの気配。だが視認できない。おそらく、仲間の誰かだろう。例によって、見えない場所から支援している。
(本当に、俺は一人なのか?)
そんな疑念が一瞬だけ浮かんだが、彼は首を振って否定した。
(いや、気のせいだ)
そう言って魚にかぶりつく。味は普通だった。
──その頃、別の場所。
「……仮面の道化が“黒月計画”の概要を手に入れた可能性?」
リディアが唇を噛み、屋敷の奥で緊急連絡を受けていた。
彼女は今も正体を明かさぬまま、影の情報網を駆使してエレボスの行動を見守っていた。
「大丈夫、あの人は気づかない。……いや、たぶん、気づいてない」
書類の中に、敵の本拠地に関する暗号情報が含まれていることなど、エレボスは興味すら示していないのだ。
(なんて恐ろしい……ある意味、敵にとって最も厄介な存在だわ……)
事実、リディアの横では数人の仲間が深く頷いていた。
「情報があっても使わずに、正解にたどり着く……」
「行動が無意識に的確すぎて、予測不能すぎる」
「なんなんだあの人は……」
──さらに別の場所。
「情報が漏れたって? まさかノーチェのせいで?」
敵幹部の一人が、頭を抱えていた。
その傍らで、当のノーチェは嬉しそうにアイスキャンディを食べていた。
「だってさあ、換気口があんなに吸い込むなんて思わないじゃん」
「おまえの“想定外”って言葉は、もはや哲学レベルだな……」
そう言いながらも、敵の幹部たちは焦っていた。
『黒月計画』とは、十三年前に頓挫したはずの“ある儀式”の復活計画であり――
それは、かつてエレボスのすべてを奪った事件に繋がっていた。
だが、最も重要な情報を持つ幹部“クロト”だけが未だ姿を見せず、計画の全容は誰も把握していない。
……少なくとも、そう信じていた。
「うぇっ!? あ、これ……クロトさんの手書きメモじゃない?」
ノーチェがカバンの中から、何気なく紙を取り出した。
そこには、《儀式の座標》と《発動の刻限》が丁寧に、しかも可愛らしい丸文字で書かれていた。
「な、なぜお前がそれを!? クロト様の私室に勝手に入ったのか!?」
「いや、なんかこの前、冷蔵庫の中でアイス探してたら、落ちてたんだよね。拾っといた」
その場に居た者たちは、しばらく言葉を失った。
一方、仮面の道化はその頃――
「……あれ? この紙、裏に何か……暗号?」
少しだけ興味を持ち始めていた。
戦いの火種は、思わぬ形で一歩ずつ燃え広がっていく。
仮面の男が無意識に世界を救いながら。
それでも戦いの火種は、思わぬ形で一歩ずつ燃え広がっていく。
仮面の男が無意識に世界を救いながら。
だが、本人はそんな大事にはまったく気づいていない。
今、彼の関心はただ一つ――
「この魚……なんか、うまいな……」
焼き魚をかじりながら、屋根の上で空を見上げていた。
夜の空は雲に覆われ、月は隠れている。
けれど、その向こうに何かがある気がして、彼は目を細めた。
(……十三年前も、こんな夜だった気がする)
ほんの一瞬だけ、視界の奥に閃く記憶。
――瓦礫の中に落ちていた金の髪飾り。
――泣きながら叫ぶ少年の声。
――そして、その手にあった、歪な仮面。
(蚤の市で買ったと思ってたけど……ほんとか?)
手元の仮面をそっと見やる。
どこか、呼ばれたような気がした。
けれど、その思考は数秒で霧散する。
「まあ、いっか」
本人が一切の因縁に鈍感であることもまた、この世界が平和である理由なのかもしれない。
──その頃、影のアジト。
「で、仮面様が拾った紙の解析、どうなった?」
リディアが机に手をついて詰め寄ると、後方の情報屋が小さくうなずいた。
「座標コード、解読完了。間違いなく“月喰いの祠”ですね」
「……あの封印場所が再び狙われてるってこと?」
「ええ、十三年前に封じられた“禁忌の魔導因子”が……」
「仮面様は?」
「魚食べてます。たぶん今、二匹目です」
「…………相変わらず、世界に優しいな、あの人」
情報が錯綜する中でも、仮面の男は自然体を崩さない。
その“揺るがなさ”が、逆に仲間の不安を打ち消していくのだから不思議だ。
「よし、私たちは裏から動く。彼の進行に合わせて、全て先回りして準備を整えておくわ」
「了解、リディア様」
──そして、敵サイド。
「……こほん。では、我らが“黒月計画”の進捗を報告してもらおうか」
荘厳な玉座の前、立ち並ぶ黒装束の幹部たち。
しかし、どこかピリついた空気が漂っている。
「で、ノーチェ。君は今週、何をしていた?」
「えーと……あの、冷蔵庫整理して、あと……ベランダでプランターに水やって……」
「計画は?」
「……あっ」
幹部たちが頭を抱える。
それでも、なぜか彼女の手には計画図の最新版が握られていた。
「いや、それそれ! それだよノーチェ! なぜ持ってるんだそれを!」
「なんか道に落ちてた。あとちょっと落書きしてみたら、思いのほか正しい経路が浮かんできて……えへ」
「おまえ、いっそ味方になってくれ……」
誰かが呟いた。
しかし、ノーチェはくるくると無邪気に笑っていた。
「だってさー、仮面の人、かっこいいじゃん。無意識で全部ぶち壊すの、ズルいよね!」
その言葉に、幹部たちは震え上がった。
(やばい……“想定外製造機”が、もはや“裏切りフラグ製造機”になってる……!)
だが、彼らが気づく前に、運命の歯車はすでに回り始めていた。
そしてその中心には――
焼き魚三匹目に挑もうとする、仮面の道化の姿があった。
平和そうな日常と、深く暗い陰謀が、静かに重なり始めている。
「……魚、四匹目はさすがに食べすぎか」
仮面の男――トガは、手に持っていた串をじっと見つめた。
香ばしい煙が夜風に流れ、どこかの屋台から拝借したそれは、炭火の温もりを残したまま静かに冷めていく。
腹は満たされた。
あとは、そう――
「……そろそろ、どこかで悪いやつらが動き出す頃かな」
と、そんなことをぽつりと呟いた、その瞬間。
頭上、カラスの群れがざわめき、空を覆うように舞い散った。
「……え、うそでしょ?」
そんな彼の目の前に、バサリと落ちてきたのは――黒い手紙。
異様に厚く、蝋封されたその封筒には、どこか見覚えのある印章が刻まれていた。
(見覚え……? いや、こんなの見たこと……)
――十三年前。焼け跡の床に落ちていた、焦げた紙切れの端。
そこにも、同じ印があった。
「まさか、あの時の?」
本能的に、何かが繋がる気がした。
一方その頃、影の拠点では――
「トガ様に手紙が届いた?」
「ええ、カラスが運んできたようです。しかも、十三年前の事件に関係がある可能性が……」
「……あの時と同じタイミング、同じ印章。意図的にやってるとしたら、挑発よね」
リディアは眉間に皺を寄せながら、机上の地図を睨みつけた。
「禁忌の因子、“黒月石”を再び目覚めさせるには、あの祭壇を……くっ、まさか、今夜──!」
「リディア様! 敵の動きに合わせて“偽装の霧”が解除され始めています!」
「よし、全員配置につかせて。仮面様は……まだ、串焼き食べてる?」
「いえ、たぶん気配に気づいて動き始めました」
「ほんとに……なんなのよ、あの人……!」
信頼という名の怒りに近い尊敬が、彼女の口から漏れる。
──その頃、敵拠点。
「ノーチェ、今週の進捗は?」
「えっとー……祭壇掃除して、あと転んだ拍子に隠し扉開けちゃって、それが黒月石の保管庫に繋がってて……」
「おまえ、もはや進捗じゃなくて事故だろ!!」
「え、でもちゃんと見つけたし? ね? えらい?」
「もう何が“想定外製造機”なのか、わからん……」
幹部たちは再び沈黙した。
しかし、一人が呟く。
「だが、これで計画は早まる。黒月石の封印が崩れれば、十三年前の力が、再び――」
「ってことは、仮面のやつが来るな」
「ああ。……奴が動けば、歴史がまた変わる」
そして、仮面の道化は――
現在、巨大な鐘楼の屋根の上。
手紙を手に、うっすらと顔を歪めていた。
「これ……読めねぇな……。文字、古代語か?」
内容がまったく理解できない。
だが、なぜか紙を握る手だけは、自然と震えていた。
遠く、闇の中から響いてくる鈍い鼓動のような気配。
十三年前、全てを奪った“何か”が、また蠢き始めている。
「……よくわかんねぇけど、動くか」
その足が踏み出されるたび、仲間たちは彼の行動を先読みし、動き始める。
敵は敵で、仮面の存在を前に焦燥を募らせていた。
だが、誰もが知らない。
この一連の混沌の裏で、数名の見習い工作員がうっかり書類を取り違え、重要情報が敵から味方に“誤配達”されていることを。
原因はもちろん、あの“想定外製造機”。
「うーん、やっぱ字が読めないのって、敵も同じなんだねー。仲間意識わいちゃうなー」
と、ノーチェは敵味方の区別も曖昧な笑みを浮かべていた。
戦いの熱は、ますます高まっていく。
だが、その中心にいる仮面の男は、ただ静かに、少しだけ風上の方向を見て呟いた。
「次の屋台、あっちかな……」
そう――
彼が動くたび、世界はまた少し、救われていくのだった。