第1話 笑う道化は、夜に現る
王都アラストリア――その名は美しき繁栄の象徴であると同時に、腐敗と虚飾に満ちた泥濘でもある。昼の顔は絢爛たる貴族の楽園。だが夜の帳が降りれば、そこに潜むのは法の届かぬ闇の顔だった。
貴族街の裏通り。瓦屋根が連なる高台の上に、黒衣の影が一人、月明かりに照らされていた。しなやかに、音もなく跳ねるその姿は、まるで夜に溶ける幻のようだった。
男は仮面をつけていた。白地に黒の滑稽な笑顔を浮かべる、道化の面。その下の素顔は誰にも知られていない。
彼の名は「トガ」。
いつから現れ、どこから来たのかもわからぬその義賊は、民の間で“道化の騎士”と呼ばれていた。
だが、彼自身にとってはただの通り名に過ぎない。彼にとって重要なのは、正しさなどではない。ただ、果たさねばならない復讐がある。それだけだ。
今宵、狙うはスカロ侯爵――名門貴族の家に連なる者でありながら、裏では密輸、人買い、拷問、殺し、あらゆる闇に手を染めた男。その名は表の顔では人道の騎士と称えられているが、実際には多くの人間が彼の私腹のために切り捨てられてきた。
法は届かない。貴族階級に属する限り、どれほどの悪行を重ねても“内部処理”で済まされる。
だからこそ、トガは仮面を被った。
屋敷の上層にあるドーム型の天窓から、静かに身を滑らせて内部へ潜入する。張り巡らされた魔術感知結界も、体内に練り込んだ抑制魔術で無力化できる。
床に音を立てず着地し、広間の天井を仰ぎ見た。
その先には、金と赤を基調にした華美な大広間。壁には猟犬に追われる鹿の剥製、飾られた宝剣、金貨を積んだ鉢。
そしてその中心に、高笑いを響かせるスカロ侯爵と取り巻きたちの姿があった。
「明日の表彰式では、孤児院に五百枚の金貨を寄付することになっておるのだよ。ふはははっ、貴族らしく寛大だろう? もちろん、裏の帳簿ではその倍額が“消えて”いるがな!」
取り巻きたちが嘲るように笑う。
この空間に漂う空気は、血の匂いと脂の臭いが混ざったような、吐き気を催す悪意そのものだった。
トガは天井の梁に身を伏せたまま、それを見下ろす。視線は冷たい。だがその仮面は、始終笑ったままだ。
(あの男は……まだ何人もの命を、自らの贅沢のために消費し続けている……)
かすかに、拳を握る音が鳴った。
魔力が皮膚の下で静かに脈打ち始める。トガは内なる力を制御しながら、そっと梁を歩いて中央へ移動した。
――そして、音もなく宙を舞う。
長く黒いマントが風に揺れる。仮面の道化が、突如として宴の只中に舞い降りた。
驚愕と混乱の悲鳴が上がる。
だがその中心で、トガはゆっくりと顔を上げた。
「――今宵の戯れ、終幕の時だ。罪深き者よ、笑うがいい。闇に裁かれる前に、せめて己の滑稽さに気づいて」
誰もが一瞬、言葉を失った。
だが、次の瞬間には衛兵たちが武器を構えて殺到してくる。
「無礼者が! 貴様、何者だ!」
刃が振るわれる。だが、トガはすでに動いていた。
滑るように回避し、最初の一人の喉元を魔力を込めた拳で打ち抜く。音はなく、ただその男は目を見開いたまま昏倒した。
次の一人の剣を肘で逸らし、肋骨の間に手刀を打ち込む。
音もなく、滑らかに、しかし確実に殺意が流れる。だが、殺してはいない。意識だけを奪って沈黙させる、それが彼の流儀だった。
五人、六人、八人――あっという間に、広間の護衛は沈黙した。
ただ一人、仮面の道化だけが、静かに笑って立っている。
「な、なんだこいつは……! 化け物か……!?」
スカロ侯爵の声が裏返る。震えた手で椅子から立ち上がるが、その足はわなわなと揺れていた。
トガは一歩、ゆっくりと近づいた。
「スカロ侯爵。貴殿の数々の罪状、すでに多くの証言と痕跡をもって確認済み。だが……この国の法は貴族の外套を優先する」
仮面の奥の瞳が、怒りに染まる。
「ゆえに――裁くは我が手。道化の名のもとに、偽りの高座より引き摺り下ろしてやろう」
その言葉と同時に、スカロは逃げ出そうとした。だがその背を追って、トガの魔力が放たれる。
――拳が炸裂する。
鉄の扉が風に吹かれた紙のように吹き飛び、スカロの体が壁に叩きつけられた。
悲鳴とともに血が舞い、仮面の道化が歩み寄る。
「い、命だけは……わしには、まだ……!」
「命は取らぬ。ただ、あんたの“高貴な肩書”を剥ぎ取るだけだ」
その夜のうちに、侯爵の隠し倉庫と秘密書類、そして奴隷の名簿が街中にばらまかれた。
翌朝、スカロ侯爵は貴族議会によって“名誉剥奪”処分を受け、永遠に表の舞台から姿を消した。
朝焼けが王都を照らす頃、街のいたるところで紙束がばらまかれていた。
それは侯爵家の犯罪を暴露する詳細な記録と、奴隷売買の名簿、そして裏金の帳簿コピーだった。
誰が何を言うよりも前に、証拠が先に人々の目に触れた。
新聞売りの少年は、紙の山を抱えて叫ぶ。
「大変だぁ! スカロ侯爵が黒幕だったって! これ見てくれよ! 本物の印章があるんだ!」
民衆はざわめき、憤り、そして喝采した。
腐った権力が、ついに倒された――その事実が、王都の空気に新たな熱をもたらしていた。
一方、王城では、騎士団と議会が緊急の会議を開いていた。だが彼らの口にしたのは犯罪の是非よりも、「誰がやったのか」だった。
「この件……一夜にしてすべての情報を暴き、本人を沈黙させ、証拠を民にばら撒いた……ただの義賊の仕業で済む話ではない」
「奴には――名があるらしい。“道化の騎士”、またの名を“仮面の処刑人”とも」
「はっ、なんとも芝居がかった……だが、それが民衆の心を掴むのだろうな」
貴族たちは苦い顔をしていた。
彼らにとって一番の問題は、「スカロの悪行」ではなく、「民衆が英雄を求めてしまったこと」だった。
---
トガ――本名を持たぬその青年は、事件の翌朝、貴族街の裏路地にひっそりと佇んでいた。
外した仮面を懐に仕舞い、変装を解いた彼は、まるで普通の浮浪者のようにしか見えなかった。
路地裏の壁に寄りかかり、買ったばかりのリンゴをかじりながら、ぽつりとつぶやく。
「……また、手加減を忘れた」
昨夜の戦い。護衛の一人を思いのほか強く殴ってしまったらしい。目の焦点が戻ってなかった。少し心配だった。
(……ちゃんと、回復魔法をかけておいたが……後で謝りに行った方がいいか)
彼の脳裏には、自身が“冷酷な処刑人”としてではなく、“迷惑はかけたくない近所の人”のような思考がある。
だが、その裏腹に街の空気は異様な熱を帯び始めていた。
広場では、一人の老婆が口にした。
「あの仮面の人は、昔、私の息子が殺されたときも……犯人を裁いてくれたのよ。誰にも言わずにね」
それを聞いた少年が言う。
「俺も見たぜ! 真夜中に屋根の上走ってた! カッコよかったんだ!」
言葉は尾ひれをつけて膨らみ、やがてある“像”を作り始める。
「彼はどんな傷も癒せる治癒魔法を使うそうだ」
「いや、神の使いだ。悪しき者だけに罰を下す」
「え? トガ様って空も飛べるらしいぜ?」
――どこから出たんだ、その話。
トガ本人は、裏路地でリンゴの芯をゴミ箱に放りながら、くしゃみをした。
「……変な風でもひいたか」
知らぬ間に、彼の“伝説”が街中に根を張っていく。
彼の心には、まだ誰も知らない目的がある。ただ、たった一つの“仇”を見つけ出し、己の手で裁くこと。
そのためだけに、仮面を被って夜を駆ける。
なのに――
「トガ様、今朝もどうかご無事でありますように……」
「母さん、毎晩祈ってるの。道化様の加護を――って」
彼は神でも英雄でもない。ただの男だ。
それでも、仮面の下の彼に向けられる祈りは、日ごとに増えていった。
王都ファルザーンの外縁に位置する『煙の谷』――そこは、貴族たちの目が届かぬ貧民窟だった。煤と煙に燻された建物が軒を連ね、昼なお暗い霧が地を這うその場所は、公式には『存在しない区画』として地図から削除されている。
そこに暮らす者たちは、名前を捨てた者、故郷を失った者、あるいは逃げてきた者。法の保護を求めるには遅すぎた者たちだった。
今宵、その谷に異変が起きていた。
遠くからでも分かるほどの火の手が、ぼんやりと黒煙の壁を照らしていた。
――ゴウッ、と、空気を裂くような爆発音。
それは、貧民窟でひっそりと稼働していた『闇工房』の爆破だった。
火薬ではない、禁呪触媒を用いた魔力反応による爆破。簡易ながら規模の大きな爆裂術式だ。
炎の向こうに立っていたのは、ただ一人。道化の仮面をつけ、黒の外套を翻す男――『トガ』だった。
彼の背後では、工房の屋根が吹き飛び、破片が空を舞っていた。
地に伏した者たちが呻き声をあげる。武器を手にした『魔術密売人』たちが、半壊した工房の中から這い出てきた。
「な、なんだ、こいつ……どこから入ったッ!?」
「こ、こいつ……“道化”だ! あの、仮面の処刑人だぞッ!!」
トガは一歩、踏み出す。地面を削るように靴音が響く。
そして、静かに右拳を掲げた。
魔力が収束し、拳の周囲に闇の靄が渦を巻く。それは爆発でも熱でもない。ただ、全ての力を一点に収束させた――『破壊の質量』だった。
闇に染まった拳が、一閃。
空気を割るように、密売人の一人が壁まで吹き飛ばされる。壁が沈み、土埃が巻き上がる。魔術結界を張っていたはずの防具すら貫かれていた。
「お前たちは、死者を弄んだ」
トガの声は低く、そしてどこか――悲しかった。
この密売組織が扱っていたのは、魔術触媒の中でも最も禁じられたもの――『死体から抽出される魂素』だった。
墓を暴き、行き倒れを拾い、無惨に解体し、魂の残滓を抽出して、それを凝縮し密売していた。
貴族たちは見て見ぬふりをした。いや、むしろそれを買い支えていた。
だが、トガは――『仮面の道化』は、それを許さなかった。
「死者は眠るべきだ。道化は眠りを乱す者を許さない」
第二の男が逃げ出そうとする。が、すぐにトガが手を翳した。
その掌から、静かに魔法陣が浮かび上がる。
文字列を要さぬ無詠唱の陣、それが『罠』のように地面へと投影され、男の足元が黒く染まる。
瞬間、闇の杭が地から伸び、逃げ足を貫いた。
「ぎ、ぎゃあああああッ!!」
「お前たちが囚えた魂と同じだ。地の底で叫ぶがいい」
トガはそのまま、密売人を一人ずつ潰していく。
彼の拳は一切の慈悲なく、心臓を外して狙うような正確さで、急所だけを破壊していく。
だが――その様子を、遠巻きに見ていた人々は震えていた。
「……見たか、あれが“仮面の道化”だ」
「誰かが言っていた。“神の裁き”だって……」
「いや、あれはもう“人”じゃない……あんな闇を纏って……」
誰もが息を呑む中、トガは静かに、魔術装置の残骸を拾い上げる。
そこには、貴族名の印章と、城の外郭部から発注された痕跡が残っていた。
「……やはり、背後に貴族がいるか」
トガはそれを懐に収めると、燃え落ちる工房を背に、闇に紛れて去っていく。
その背中に、誰かが言った。
「……ありがとう、仮面の道化様……」
その言葉に、トガは立ち止まる。
振り向かないまま、ぽつりと呟いた。
「俺は……ただ、怒ってるだけだ」
そして彼は、夜に消えた。
その日以降、『煙の谷』での密売は、完全に途絶えた。
誰が、なぜ、どのように止めたのか。正確な記録は、どこにも残されていない。
ただ、民の間ではこう語り継がれる。
『夜、仮面の道化が現れたとき――闇が、闇を喰らい尽くした』と。
……に呟いた。
「“煙の谷”の夜は……いつもより煙たすぎる」
彼の足元で、地に伏していた男が震えながら呻く。目は怯え、息は乱れている。
「ま、待て……話せば、分かる。俺たちはただ……命令された通りに……!」
「命令? 誰の命令だ?」
問いかけながら、トガは男の前にしゃがみ込む。その仮面は微笑みを浮かべたままだが、声には冷たい棘が宿っていた。
「名を言えば、お前の命が助かると思うな」
「ひっ……ひいっ……!」
魔術密売人は、泣きながら後ずさる。その視線の先、トガの拳が淡く赤黒い魔力に染まっていた。皮膚の下で脈打つそれは、怒りの波を孕んでいる。
――バシュッ、と、音を立てて空気が震える。
トガは地を蹴り、一瞬で距離を詰める。男の背後に回り、その肩を押さえつけると、手のひらを喉元に添えた。
「“死なせない程度”の痛みって、どれくらいだと思う?」
「や、やめ――ぎゃああああああっ!!」
鈍く、骨の軋む音。魔力の打撃は、あくまで意識を刈り取るためのもの。喉を潰さず、気道を確保したまま男は意識を失い、ぐったりと崩れ落ちた。
工房の残党たちは、すでに恐怖で足を止めていた。魔法を使う間も与えられず、一人、また一人と叩き伏せられていく仲間たちを見て、もはや戦う気力すら残っていなかった。
「ば、化け物だ……! こいつに敵うわけがない……!」
「こんな奴、兵隊でも、騎士団でも、止められるはずがねぇ!」
誰かが叫び、逃げ出そうとした。だが、その足元に――重く、鋭く、風を裂いて落ちてきたのは、仮面の男の蹴りだった。
地面に叩きつけられた逃亡者を前に、トガは再び立ち上がる。ゆっくりと、全員に顔を向けた。いや――正確には、仮面の“笑み”を、見せつけるように首を巡らせた。
「――ここは終わりだ。お前たちの“居場所”は、今宵限りで焼き払われる」
次の瞬間、工房の内部――密かに設置していた火薬類や、魔術触媒が連鎖反応を起こし、爆発が走る。逃げ場を失った残党たちは、叫び声をあげて崩れ落ちた。
火の粉が舞い、黒煙が空へ昇る。
仮面の道化は、その炎の中に佇みながら、誰にも聞こえないように囁いた。
「……一歩ずつだ。全部終わらせるまで、あと、十三人」
彼が追う“真の仇”へと繋がる道。それは、闇に巣食う者たちをひとつひとつ潰すことから始まっている。
黒い外套を翻し、トガは崩れた瓦礫の上を静かに歩き去った。誰もその背を追う者はいない。もはや、追う者はいなかった。
---
その翌日――
王都では、またしても『仮面の義賊』に関する騒ぎが広がっていた。
「聞いたか? “煙の谷”の闇工房が吹っ飛んだって話……」
「うん。あれ、仮面の道化がやったんだろ? 誰も死んでないってさ」
「マジかよ……あんな連中を、殺さずに黙らせたって?」
噂はすでに“神話”の領域に片足を突っ込んでいた。
そして――ある者は本気で信じていた。
「トガ様は神の化身に違いないわ。私、昨日の夜、夢でお告げを受けたの」
「俺も! 夢の中でリンゴをくれた!」
「それ……たぶん、ただの夢だろ」
---
一方その頃、王都の貴族街。
路地裏の片隅で、ぼろ布を被った男が腰を下ろしていた。手には焼いたパンと小さな紙袋――中にはリンゴ。
「……あの少年、ちゃんと火薬から離れてたな。偉い偉い」
トガはひとりごち、パンをかじる。魔力の余波で小さな傷を負った腕に、そっと回復魔法をかける。
(“あいつ”の手が、また動き出してる。今度こそ、尻尾を掴まないと)
彼の脳裏には、未だ裁けていない“影”の姿があった。
“奴”の名は、まだこの物語の中に登場していない。
だが、トガは確かに知っている。すべてを奪った“仇”の名を――そして、それを裁く日が遠くないことも。