28.いつだって、僕の胸には睡蓮の花が咲いているよ
腕輪と指輪を繋いだ鎖が、しゃらんと冷たい音を立てる。
かつてレンと過ごした部屋で、血の通わない掌に柘榴の実を乗せて口に運ぶが……何の味もしない。
レンの残した繊手に舌を這わせても、やはり旨味を感じられなかった。白い睡蓮の花のようで美しいけれど、所詮は魂の宿らない抜け殻だからかな……。
レンがいなくなってから、何を食べても味気ない。まるで砂を噛むようだ。
酒を飲んでも高揚しないし、酩酊感もない。
彼女に柔らかい笑顔で差し出された食事は全てが極上の味わいだったからこそ、落差が激しい。
──レンは僕から逃げ出した。
最後に見せた、何の感情も熱もこもらない一瞥には心を抉られた。今も深い傷となって血を流し、僕を苛み続けている。
罵られたり、蔑まれる方が遥かに良かった……。
愛されていなかったという事実をあんなにはっきり突き付けられたのに……幸福な日々の、レンの“愛してる”が、心からの笑顔が、魂の輝きが偽りだったなんて、どうしても受け入れられないんだ!!
愛し愛されていた時間が甘く満たされていたからこそ、失った後の渇望は酷いもので、僕は離宮で一人、深く懊悩する。
今すぐにでもレンを問い詰め、直接確かめてやりたかったけど……手掛かりは何一つ見つかっていない。
いや、よんしんば見つけても、迂闊に連れ戻すことは出来ないだろう。
運ばせた真実の鏡に触れてレンに思いを馳せる。
水中に浮かぶ彼女の姿が、艶やかな笑みが脳裏に焼き付いて離れない。
あの時、レンは僕にもわかるよう宣言し、水神もそれを了承していた。
儀式以降、辺境での水の奪い合いはぴたりと無くなっている。
あれほど頻発していた水害も鳴りを潜め、アシオーに命じた工事の甲斐もあって、水は豊かになったのに河川の氾濫などで被害が出ることもなくなった。
伝承によると、神との契約は違えることを赦されない。
例えばなりふり構わず無辜の民を虐殺し、心優しいレンを炙り出したとして、僕の元に帰ったというだけでも、神々の審判次第で彼女は呆気なく命を落としかねない。
その魂は神の物となり、二度と手に入れることは出来なくなってしまう。
入水自殺と早合点した時を思い出して、心臓が凍りそうになった……。
レンを本当の意味で取り戻すためには、まだまだ準備と対価が必要だ。──僕は絶対に彼女を諦めない。
いつかまた相まみえる日まで、この左腕のみを妻として耐え抜いてやるさ。
▲▲▲▲▲
────アレが、リアンフアレが、死んだ。
「リアン様が御逝去されました……産褥死です」
「……そうか」
弱い弱いとは思っていたが、やはり出産に耐え切れなかったか……。
水を渡さなかったのだから、ある意味当然の帰結だろう。僕は何とも言えない気持ちになって、レンの手の甲を握り締めた。
「お産まれになったのは、その、女の子……御息女でした」
「なんだって?」
アレとの婚姻は何から何まで間違っていたと言われたようで、思わず顔を顰める。
「神代から伝わる水晶玉が預言を外すなんてあり得ない。アシオー、王都に出向き、王を問い詰めてこい」
「……王家がそう簡単に口を割るとは思いませんが」
アシオーは乗り気ではないようで、露骨に眉をひそめている。だからお前は顔に出過ぎなんだよ。
「ふむ。それもそうだな」
水花王家にも鏡は送りつけてある。
レンの左腕を抱き、指輪の縁を辿って鏡の位置を検索すると、雷を落とすのに都合のいい位置を計算した。そのまま人差し指を立てて、王都の方角へ振り下ろす。
「脅しとしてはこれで充分だろう。さっさと行け」
「仰せのままに」
釈然としないままアシオーは離宮を後にする。
向こうに到着する頃には、発生した雷が王城の目前へと落ちているはずだ。
……その隙に僕は、最後だからと言い訳してアレの元へと赴いた。
──本宮の正室の部屋。安置された棺の中。
何種類もの白い花に埋もれるように、アレが横たわっている。
死化粧の施された顔は安らかで美しい。
ただそこに揺らめく炎の煌めきはない……。
アレの魂はもうここにはいないのだと思うと、若干の喪失感を感じた。
「ドミナス様」
遺体の傍に控えた三人の侍女達から、桃色の鬼が代表して進み出る。
その腕の中には、大切そうに赤子が抱えられていた。
「こちらは御息女のニンファエア様です。リアン様は最期に名付けて逝かれました。どうか我々を、この方のお傍に置いてくださいませ」
僕は娘や侍女には目もくれずに片膝をつくと、アレの整えられた髪を撫でてやる。
「ニンファエア、愛称はエアだね。良い名前を付けてくれた。娘を産んでくれてありがとう」
物言わぬアレに語りかければ、侍女達の息を飲む音がする。
アレは預言の姫ではなかったのに、世継ぎですらない娘に仕える覚悟を決めたなんて、見上げた忠誠心だ。
「エアには乳母を付ける。お前達は世話係に任命しよう。娘が清く正しく健やかに育つように、励んでもらうよ」
「はい。この命に替えましても!」
侍女達は感極まったのか泣いていた。
──世継ぎなんて、今更どうでもいい。
アレは最期に良い仕事をしてくれたねぇ。
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真っ青な顔でアシオーが戻って来た。
王の語った因習、アシオーなりの解釈によるアレとレンの関係がつらつらと語られる。
「……い、以上で報告を終わります」
白鬼なだけあって、やはり頭は回るようだ。
僕と同じ結論に行き着いたからか、あからさまに挙動不審な報告には、逆に笑いがこみ上げてくる。
「絶対に男児をスイレンに産んでもらわないとなぁ……見つけ出した暁には、僕の子を何人だって孕ませてやる」
見出した時は新雪のように純白だったアシオーの魂は、弟が死んだ辺りから、踏み固められた古雪の如く濁り始めている。
魂の輝きそのまま、曇りきった顔でアシオーは逃げるように去り、誰もいなくなった離宮には、僕の哄笑が地響きの如く轟いた。
……水神の選んだ神子にして、レンこそが預言の姫だったなんてねぇ?
名実ともに、僕の運命の人は彼女だったんじゃないか!!
ふざけやがって、この僕を惑わして虚仮にしているのか?
かつて二人で天にも昇る心地で歩んだ回廊を荒々しく駆け抜けて宝物庫に向かう。
……レンに愛されていなかった事実をこんな形で再び突き付けられて、怒りが収まらない。
僕は恭しく祀られた水晶玉を床に叩きつけた。
水晶は腹立たしいほど澄んだ音を立てて砕け散り、飛び散った破片が最後の足掻きのように淡い光を放った。
──水玉の月……終わり、水花王家に最も……清らかな姫が、誕生……る。尊き姫……男児を産み、その子は、国が荒される時に……父親を凌駕する力を発揮して……罪深き者を討ち、英雄となるだろう──
──罪深き者を討ち、英雄となる……罪深き者……──
壊れたせいか、忌々しい預言を繰り返す大きな欠片を容赦なく踏み砕いた。
罪深き者を強調しやがって、まるで僕が責められているみたいで気分が悪くなる。
……そういえば水盤を使った時も声が聞こえたっけ。
“──正しい歴史を変えるのは禁忌。お前は大罪者となり、肉体に、魂に、歪みを抱えるだろう──”
……レンが去ったあの日、水神と思しき声も言っていたよねぇ?
“──救いようのない、罪深き者よ。私の愛しい御子は返して貰います──”
なるほど? 僕が預言の“罪深き者”だったという訳か。
愛しい女を手に入れるためにこんなに努力している僕を罪人扱いするなんて、神とはなんて傲慢な存在なんだろう。
まあいい。預言なんてどうでもいいから、僕は自力で血路を開いてやる。
何を引き換えにしても、必ずレンを取り戻す。
「そのためなら、罪深き者でも、大罪者にでもなってやるさ」
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アシオーのツテで呼び寄せた画家に、僕と左腕の、夫婦の肖像画を描かせた。
離宮のレンの部屋を背景に、金の煌めきを纏う透き通る肌に口を寄せる僕の姿からは、一途な愛が伝わってくるだろう。
画家はアシオーの親族らしく常に顔色が悪く、よく口元を引き攣らせていたが腕は確かだった。
中々の傑作が出来たので、今後も贔屓にしておこう。
──大量の水を新鮮なまま保管する特殊な容器、水の器と契約者を無理に引き離せば、水は涸れてしまう。
思い返せば、水神信仰に詳しいアレの言葉に真実の鏡が赤く染まることはなかった。
そしてレンは池を水の器に、僕を契約者にするとも言っていた。
何処までが許容されるか未知数の現状、池のある離宮から極力離れたくない。
防犯システムは導入しているけれど、何とか突破して水を得ようとする愚か者がいないとは断言出来ないから、僕は抑止力としても離宮から離れるつもりはないんだ。
側近衆を手足のように使い、徐々に占領地を広げ、思い出の百本の薔薇で飾った肖像画と鏡を送り、水源の工事を指示するだけの単調な日々を繰り返す。
アシオーがレンを探すという名目で若い女……特に美しい銀髪の少女……を集め出した時は、浅ましい思惑が透けて見えて眉をひそめた。
銀髪や、銀に近しい灰色基調の髪まで含めると、人族だけでも対象はごまんといるが、僕を魅了するほど美しい輝きの魂の持ち主は、もうレン以外いないのに。
愚かな奴だと呆れてしまうが、あえて止めなかったのは、どんな相手でも今度こそ靡かないで僕の愛を証明する良い機会だと思ったから。
それに、何処かに隠れている彼女に精神的圧迫を与えられるかも知れないしねぇ?
……レンを見つけ出した暁には、豊かな髪を刈り取り、顔を焼き、目玉を抉り出し、残った手足を切り落として、以前なら寛大に赦していた水神の信仰も捨てさせてやる。
僕はもう、彼女を食べようとは思わない。
腹は満ちても、心の飢えがおさまることはないから。
どんな姿でもいい、生きたレンが傍に居てくれればいいんだ……。
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──時は満ちた。
娘は、エアは少しだけ体が弱いけど、細心の注意を払い、危ない物や危険な行為から遠ざけて大切に育てさせた。
定期的に報告を受ける限りでは、母は居なくても侍女達に寄り添われ、客観的にも健全で真っ当な少女になった、と思う。
十五年以上も待たされた甲斐があったよ。
元々アレとレンは雰囲気が似ていたからねぇ?
手間と金を費やし、徹底して管理した結果、髪や肌の色は僕に似たものの、背格好や体型は限りなくレンに近付けることに成功した。
残念ながら魂の輝きや顔立ちこそ母親似だけれど、澄んだ瞳の色はレンと同じ色。これだけでも及第点をあげていい。
そう、僕がレンの居ない離宮で、孤独や渇望に気が狂いそうになりながらも耐えられたのは、彼女を絶対に取り戻す算段があったから。
初めて娘と対面した瞬間、足りない欠片が埋まったと確信したんだ!
以降は睡蓮の蕾の如く、すくすく成長する娘を見守ることで、何とか心の平静を保っていたよ。
ニンファエアとは古い言葉で『睡蓮』のこと。
……アレが何を考えていたか、定かではない。もうわかりようがない。でも本当に良い名前を付けてくれた。
水面に咲く清らかな花の名を冠する姫であり、何百年に渡って水神に生贄を捧げてきた水花王家の直系にして、僕の血を分けた実の娘。
水神に差し出す対価として、これ以上ない逸材だ。
アレは僕のことを心から愛していた。
娘が役に立つなら、さぞや満足するだろうさ。
──仕上げは上々。さあ、エアを迎えに行こうか。
僕は最後の布石である、指輪に紐付けた鏡を全て起動して、次いで工事の際に仕込んでいた鎮め物を一斉に起爆する。……これで後戻りは出来ない。
レン。地位や富や名声──全てを手放す代わりに、君には残りの一生を僕と添い遂げてもらうから。
「エア様もお年頃、ついにお披露目をなさるのですね」
衣装を持たせた執事を先触れに出すと、長年仕えた侍女達は張り切ってエアを飾り立ててくれた。
最もアレを慕っていた侍女なんて、今にも泣き出しそうだ。
デビュタントが決まったとでも思っているのかな?
華々しい舞台という意味では、あながち間違ってはいないけどね。
久しぶりに直に対面したエアは、真っ直ぐな髪を結い上げ、薄く化粧を施し、僕が在りし日のアレに贈ったパリュールを身に付けて、控えめに微笑んでいた。
「美しく、清らかに育ってくれた。──上等だよ」
想像以上の仕上がりに、目を眇める。
「お前はアレの命と引き換えに産まれてきた癖に弱々しくて、ちゃんと育つかも不安だった。愚鈍……いささかのんびり屋で、角が生えるのに十年もかかったし、あの頃のスイレンと同じ体格に育つまでに、追加で五年も待たなくてはならなかった」
「お父様……?」
不穏な気配を感じたのか、エアは表情を曇らせ、侍女達は何かを察したように娘の前に進み出る。
角からは放電し、わざと威圧しているのに、侍女達は一人として退かなかった。
元食事係なんかとは、比較にもならない忠誠心。誇り高い鬼族として、かく在るべき姿に胸が震えた。
エアを育てた功績もあるし、褒美に命までは取らないであげよう。
「エア様っ!!」
僕は雷を両手に収束させ、威力を調整して解き放つ。
「きゃあああっ!!」
雷鳴と娘の耳障りな甲高い悲鳴が響き渡った。
──エアの悲壮な泣き顔がレンに似ていることに気付いて、僕は無性に恋しくなる。
愛おしいレン、早く君に逢いたい。
いつだって、僕の胸には睡蓮の花が咲いているよ。




