25.愛しい君のためなら僕はなんだってする……
「とても美味しいわ。はい、ドミナスもどうぞ?」
……レンが手ずから食べさせてくれたのは、今日が初めてだった。
ありふれた赤い果実は、天上の甘露かと錯覚するぐらい、とても甘美な味わいになる。
果汁の一滴も無駄にすまいとレンの指先まで舐め回し、しゃぶり尽くした。
苺の味は消えても、白い指を口に含んでいるだけで多幸感を覚える。
正直、こんなに違うのかと驚いたよ。
レンに食べさせた桜桃の、残った種すら美味しいのでは? 後で試してみよう。
「本宮で食べた時より、ずっと甘くて美味しいなぁ。レンが食べさせてくれたからかな? それとも……」
「それはきっと、水神様の水のおかげよ。花を長持ちさせるだけじゃなくて、素材の味まで引き立てるの」
僕を介してアレにだって水は渡し続けている。
量の違いかなぁ? レンは文字通り浴びるほどの水を使っている訳だし。
「なるほど。毎日その水で身を清めてるから、レンは指先まで美味しいのか」
「……そうなの。水神様の加護は偉大でしょう。……でも、私が貴方の妻になって一年が経つわ。そろそろ水神様と契約の更新をしたいのだけれど、ダメかしら?」
折角、天にも昇る心地だったのに。
余韻に浸る間もなく、叩き落とされた気分だよ、まったく。
まさか離宮から出るつもりかと探りを入れたら、それはきっぱり否定された。
「それでね、どうせなら更新の時に契約者を私からドミナスとその血族に替えて、水の器を池全体に指定することで、私一人が水を独占するのではなく、たくさんの水を末永く、分け隔てなく皆で使えるようにしたいと考えてるの。水の使用はドミナスの裁量になるし、複雑で大がかりな儀式になるから、ちゃんと許可を取ろうと思って。ほら、以前指切りで約束したでしょう?」
レンは積極的に契約を更新した場合の利を説いてくる。……怪しいねぇ。
「なんだか話がうますぎる。なにか裏があるんじゃない?」
一年に近い月日の間、レンは誠実な行動で信用を稼いではいるが、未だに僕への恐怖は消えないままだ。
何か企んでいないと断定は出来ないので、今まで通りで構わないだろうと突っぱねようとしたのだけれど。
「そんなことない。リアン様のお体のためにも、ずっと考えていたことだったの」
レンは上目遣いに僕を見る。……この目に弱いんだよね。
「出来れば産湯にも使ってほしいけど、産み月はまだまだ先でしょう。無事に産まれてくれるかも心配で……。母子ともに健康でいてほしいと心から願っているの。本当よ」
ここ最近はレンとの逢瀬を優先していたため、アレとは久しぶりに顔を合わせたけど、腹部は大きく膨らんで、成長した胎児の魂の色まではっきり認識出来るようになっていた。
火花のように弾ける光は小さいながらに目を引くものがあり、アレの炎めいた輝きにも、僕の雷にも似ていた。
でも、それだけ。すくすく育っていようが、別に愛着は湧かなかったな。
「ふぅん。アレのためか。どうしてそこまで肩入れするのかなぁ?」
もう終わった関係なのにね。
「そんなの、リアン様とは立場が違うけど、貴方を支える妻同士だからよ。それにリアン様だけじゃないわ。ドミナスの子のためでもある」
夜が終わって朝を迎えるように。
四季が移り変わるように。
霧が晴れるように。
自然な経過でレンの様子が変わっていく。
冴え冴えとした冷たい恐怖の光が、春の木漏れ日もかくやの暖かさと眩しさへと変貌を遂げる。
慈愛を湛えた満面の笑みは、かつてあの男に向けられていたもの……。
僕が焦がれてやまなかった、未来の君と今の姿が重なった。
「……私ね、リアン様のご懐妊を知った時は寂しくて悲しくて悔しくて、仕方なかった。貴方の胸で泣きじゃくったのを覚えてる? だけどね、ドミナスの子どもが出来たと知って、不思議と心が温かくなった。私達の関係は複雑で、今まで色々あったけど、どうしようもなく愛おしいと──あなたを愛してるんだって、気付けたの」
……嘘みたいだ。夢じゃ、ないよね?
待ち望んでいたものが、レンの愛が、心からの笑顔が、この僕に向けられているなんて!!
「遅くなってごめんなさい。ようやく言えるわ……愛してる」
真っ直ぐ告げられた愛の言葉に、全身に衝撃が走る。
最大出力の雷が、頭の天辺から足先まで通り抜けて行ったのかと思った。
レンの心がこもった『愛してる』は、その血を味わった時よりも甘く酔い痴れる、最高の福音となった。
昂る感情のままに涙がこぼれる。
「……レン。僕のレン。ようやく君の心からの笑顔が、輝きが見られた……。ずっと、愛してると言ってくれるのを待っていたよ。僕は君に、ただ愛されたかっただけなんだ!!」
楽園が完成した。否、ここが極楽かな?
愛の言葉は、僕の疑念や憎しみを綺麗さっぱり溶かして流してくれた。
愛おしさと慈しむ気持ちが溢れ出して止まらなくて、壊れ物を扱うようにレンの体を抱き締める。
愛する人に愛を返されるって、こんなにも心が満たされるんだね……。
激情を反映してか、レンの魂の煌めきは強くなり、キラキラと水飛沫が舞う中、常に虹のかかる瀑布と化したようで、今にも飲みこまれてしまいそうだ。
「……ドミナス」
レンが僕の名前を呼んでくれた。
左手が力任せに僕の首のクラバットを摑み、引き寄せられて──唇と唇が重なった。
甘酸っぱくも爽やかな果物の味が広がる。
僕が唇を奪う時は興奮状態に陥っていることが多く、血の味が付き物だったから、すごく新鮮。
初々しくも情熱的な口づけに、身も心も蕩けるほどの強烈な恍惚に、足腰が砕けそうだ。
このまま溶けて混ざり合い、一つになれたら最高なのに……。
永遠に続くかと思った時間は終わり、柔らかな唇が離れるのを惜しんでいると、吐息を感じる至近距離でレンが囁いた。
「ここで儀式をしてもいいわよね?」
「うん……レンの望みのままに」
強気なレンも素敵だね。
新たな魅力に、より深くのめり込んでしまうよ……。
「儀式は睡蓮が咲き次第執り行うつもりよ。そうだ。水の使用期限を取り払うために、奉納品を、対価も提供して貰うけどいい?」
「……対価って?」
レンが婉然たる微笑みを浮かべる。
「大したものじゃないの。金品や酒、生物なんて腥いものは水が穢れるだけ。捧げるのは睡蓮よ。睡蓮は水神様のお気に入りなの。対価としてこれ以上ふさわしいものはないわ」
「それくらいなら、いいよ」
何だかとても重要なことを言われた気がするけど、視界はチカチカと点滅するし、脳味噌は麻痺してまともに思考が働かない。
「嬉しいわ、ドミナス。貴方って最高の伴侶ね!」
……でもいいや。君が喜んでいる、それに勝るものなんてないのだから。
「愛しい君のためなら僕はなんだってする……」
「ありがとう。私も同じ気持ちよ」
僕の首にしなやかな腕を回して、強く抱き締めてくれた。
密着した胸から煩いほどの心臓の鼓動が伝わって、愛されているのだと実感する。
やり直した甲斐があった。今回こそ僕の恋は報われたんだ!
……もう罰は必要ない。
初めて僕は、レンと身も心も繋がる最高の夜を迎えることが出来た。
△△△△△
「あなたを愛しているわ」
「僕も君を愛しているよ」
それからのレンは、率先して愛を語ってくれるようになった。
幸甚の至り、僕は凛として強気なレンに尽くす歓びにも目覚めた。
ただただ君を甘やかしたい。
欲しい物があるなら何でも与えてあげたい。
……恋は盲目とはよく言ったものだ。
「儀式のために身を清める必要があるの。お肉もお酒も甘い物も、何もいらないわ。私の分はドミナスに食べさせてあげるね」
「ありがとうレン。君はいつでも優しいね」
レンが進んで食べさせてくれるから、どんな食べ物でも飛躍的に美味しくなる。
おかげで、柘榴を食べなくてもレンの血や体の一部を欲することはなくなった。
精進潔斎の一環で、夜でも手を繋いで眠るだけになったけど。
「今日も歌ってくれるのかな?」
「もちろんよ。愛するあなたのための歌だから。──可愛い御子よ、お眠り、お眠り……」
素直に愛を語り、心のこもった子守唄を歌ってくれるレンに電撃を浴びせるなんて、とんでもない。
火傷も電紋も少しずつ薄くなっていたが、最早気にもならなくて。
僕が求めていたのは肉欲ではなく、純粋な愛だから。
満たされて完全無欠な僕に、所有の証は必要ないとすら思っていたよ。
レンに愛されていると信じ切っていた愚かな僕には、間違いなく生涯で一番幸福な一時だったさ。
ある日のこと。
贈る必要のなくなった薔薇の代わりか、レンは一輪の睡蓮の蕾を持ち込んで水瓶に浮かべた。
固く閉じた蕾は、離宮に来たばかりのレンを彷彿させる。
だけど時間をかけて心を開いたように、徐々に膨らむ蕾に何時しか愛着を覚えていた。
「早く咲くといいね」
「ええ。開花が待ち遠しいわ」
僕は呑気にも、この夢のような日々が終わることなく続いていくと思っていたんだ……。
純白の睡蓮が咲いた日の朝。
僕は幸福の絶頂から、他ならぬレンの手によって、絶望のどん底に……地獄に叩き落とされる。




