9.この子のためなら私はなんだってしてみせる
最近は日増しに暑くなり、水の冷たさが心地よくなりました。
少しだけ心に余裕が出来たからでしょうか?
いつものように水を浴び、纏わり付いた穢れを払った途端、違和感に気付いて思わず腹部を押さえます。
これでも水を司る水神様に仕える身、私は自身の血液の循環、体内の変化に人一倍敏感なつもりです。
だから、極々小さな命が胎内に結実していたこと、少しずつ成長していることが、悪阻の症状すら出ていない今の段階でわかりました。
「……嘘でしょう?」──どうしよう。……やっと会える。嬉しい。
頻度は減ったとはいえ、日常的に電撃を浴びている環境で、よくぞ育ったものだと感心さえしてしまいます。
いえ、あれだけ雷に打たれ続けたのです。
もしかしたら、私ですら気付くことなく流れた命もあったのかもしれませんが……。
今までは、こんな環境で子どもが出来ることを恐れ、あんな男との間に、と考えただけで身の毛がよだち、吐き気すらしていました。
なのにいざ宿ってみれば、凌辱の結果出来た命が、ドミナスの血を引く子が、こんなにも愛おしいなんて……奇跡です。
私は、はっと口を塞ぎます。
もしも妊娠したことがドミナスにバレたら?
すでに預言の姫であるリアンが妊娠しているのです。
もしこの子が男児なら、世継ぎの予備として鬼族から比べられ、軽んじられるのは目に見えています。
仮に娘だったとしても、かつてのドミナスの発言を思い返せば、母子ともに囲われる最悪の未来しか思い浮かびません。
「私、すっかり痩せてしまったわ」
とっさに頭に浮かんだ言葉で口を濁しました。
ストレスのせいで痩せたのは事実なので、疑問は持たれないはず。
ドミナスに全てが筒抜けな環境で、この子を守り抜くのは大変ですが、睡蓮が咲くまであと少し、きっと隠し通してみせましょう。
隠さなければならないのに、歓喜の笑みが浮かびそうになり、慌てて気を引き締めました。
……子どもが宿ったとわかった時、リアンもこんな気持ちだったのでしょうか?
新しい命がお腹にいると思うだけで、水神様の水がなくても力が湧いてくるようでした。
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「今日は薔薇だけじゃなくて、果物の盛り合わせも持って来たよ。確かに痩せたけど、僕としてはもっと肉感的な方が好みだからねぇ」
夜になって訪問して来たドミナスの手にはいつもの花束と、緑の薔薇に映える赤い果実を盛った籠がありました。
監視している事実を、この男は最早隠しもしませんよ……。
「美味しそうな果物ね。ありがとう」
内心の呆れをおくびにも出さず、私は花束と籠を受け取りました。
薔薇を花瓶に移し替えている際にふと思い立ち、預かった果物を水神様の水に浸し、しっかり水切りしてから皿に盛って提供したところ。
「ほら、レン。口を開けて?」
強引に腰を抱き寄せられ、艶々した桜桃を口に押しこまれました。
ドミナスは時折こういった求愛給餌の真似事をするのです。
その時だけは上質なものを食べさせて貰えますが、いつも恐怖で味なんかわかりません。さらに今回は緊張も加わって、砂を噛むようです……でも。
「とても美味しいわ。はい、ドミナスもどうぞ?」
今日の私は一味違いますよ。
お返しとばかりに真っ赤な苺を一粒ドミナスに差し出すと、彼は一瞬だけ固まって、おもむろに大きな口で私の指ごと苺に齧りつきました。激しい勢いに、しゃらんと鎖が鳴ります。
器用に苺だけ咀嚼して飲み下し、私の指先の果汁までしっかり舐め取って、ドミナスは非常に満足げです。……ついに食べられるかと、冷や汗ものでしたが……。
「本宮で食べた時より、ずっと甘くて美味しいなぁ。レンが食べさせてくれたからかな? それとも……」
「それはきっと、水神様の水のおかげよ。花を長持ちさせるだけじゃなくて、素材の味まで引き立てるの」
気持ちの悪いことを言われそうな気がして、私は喰い気味に返答します。
「なるほど。毎日その水で身を清めてるから、レンは指先まで美味しいのか」
「……」
結局、気持ち悪さが倍増して返って来て、全身に鳥肌が立ちましたが、ここで怯む訳にはいきません。
「そうなの。水神様の加護は偉大でしょう。……でも、私が貴方の妻になって一年が経つわ。そろそろ水神様と契約の更新をしたいのだけれど、ダメかしら?」
ドミナスが真顔になりました。
空気がピリピリと震え始めます。
「……離宮を出て、あの地底湖に行きたいってことかなぁ?」
「え? なんでわざわざ出て行く必要があるの?」
そんなこと考えてもいませんよ、とばかりに私はキョトンとした表情を作りました。……さあ、ここからが正念場です。
「だって、契約を更新したいんでしょ?」
「そうだけど、別にあの地底湖じゃなくてもいいもの。地底湖は二人の思い出の地だし、水巫女の場合、儀式を行える場所は限定されているけれど、離宮の池だって『辺境の地にある水場』に該当するのよ? ここを離れる必要はないわ」
「……人工の池でいいんだ?」
「水神様は寛容だから。充分な広さがあって、清い水で満ちていることが重要なのよ」
指切りした日から欠かさず水瓶の水を注ぐことで、水質も著しく向上させてあります。
コンディションはばっちり、現在進行形でただの池ではなく聖なる池へと進化している最中です。
「それでね、どうせなら更新の時に契約者を私からドミナスとその血族に替えて、水の器を池全体に指定することで、私一人が水を独占するのではなく、たくさんの水を末永く、分け隔てなく皆で使えるようにしたいと考えてるの。水の使用はドミナスの裁量になるし、複雑で大がかりな儀式になるから、ちゃんと許可を取ろうと思って。ほら、以前指切りで約束したでしょう?」
肝心のドミナスの表情は、未だに無のままでした。目には明らかな疑念が籠もっています。
「なんだか話がうますぎる。なにか裏があるんじゃない?」
「そんなことない。リアン様のお体のためにも、ずっと考えていたことだったの」
リアンはお腹もだいぶ目立つ頃合いでしょうか。
最後の日を思い出して寂しくも切なくなりますが、せめて水は残してあげたい、というのも本心です。
「出来れば産湯にも使ってほしいけど、産み月はまだまだ先でしょう。無事に産まれてくれるかも心配で……。母子ともに健康でいてほしいと心から願っているの。本当よ」
私の切なる願いに、むしろドミナスは不快そうに眉をひそめました。妻子の安全に関わることなのに。
「ふぅん。アレのためか。どうしてそこまで肩入れするのかなぁ?」
「そんなの、リアン様とは立場が違うけど、貴方を支える妻同士だからよ。それにリアン様だけじゃないわ。ドミナスの子のためでもある」
リアンとの子だけではなく、私の子も含めて。
ここでお腹の子のことを思い浮かべれば、ドミナスを前にしても恐怖に負けず、心から微笑むことが出来ました。
別れた時のリアンと一緒、きっと今の私は慈愛に満ちた笑顔になっているはず。ドミナスは眩しそうに目を眇めています。
「……私ね、リアン様のご懐妊を知った時は寂しくて悲しくて悔しくて、仕方なかった。貴方の胸で泣きじゃくったのを覚えてる? だけどね、ドミナスの子どもが出来たと知って、不思議と心が温かくなった。私達の関係は複雑で、今まで色々あったけど、どうしようもなく愛おしいと──あなたを愛してるんだって、気付けたの」
あなた、とはドミナスではありません。お腹の子のことですよ?
私は生まれる前からこの子のことを愛しています。守りたくて、愛おしくて、仕方がない。
「遅くなってごめんなさい。ようやく言えるわ……愛してる」
ここで私はドミナスの目を真っ直ぐ見据えて、愛を騙りました。
愛してると嘘を吐くのは簡単です。
もっと早く告げていれば、喜びの電撃はともかく、お仕置きや罰はなくなって待遇も改善されたかもしれません。
でも、どうしてもドミナスに愛してるとは言えなかった。初対面から嘘吐き扱いされたのも悔しくて、極力嘘を吐きたくなかった。それが私の最後の一線でした。
せめてここぞの時にだけと、決めていたのですが。
黙って聞いていたドミナスの翡翠の瞳から、透明な涙が一粒こぼれ落ちました。
「……レン。僕のレン。ようやく君の心からの笑顔が、輝きが見られた……。ずっと、愛してると言ってくれるのを待っていたよ。僕は君に、ただ愛されたかっただけなんだ!!」
────は? この男はなに戯言をほざいているの?
愛の言葉が琴線に触れたようで、ドミナスはかつてないくらい優しい手付きで、壊れ物を扱うように私の体を抱き締めます。
覚悟はしていましたが、いつまで経っても電撃が放たれることもなく──私の心を、身を焼き尽くすほどの怒りが、憎しみが支配しました。
……何を今更、どの口が言っているのか、と。
あれほどの仕打ちをしておいて、私に愛されたかっただけ、なんて……ふざけるなよ!!
私は忘れない。打ち据えられた雷の苦痛を。悶えるような熱さを。全身が痺れて動けない中で体を弄ばれる恐怖と気持ち悪さを。常に左腕を蝕む火傷の痛みを。最初から私の意志など無視したくせに!!
尊厳を犯され辱められ、罰を回避するため、食べられないために嘘を吐かざるを得ず、薄氷を踏むような苦しい生活を強いられた。いっそ死んでしまいたいと何度思ったことか。その度に必死に耐えてきたのに。
ずっとスィ達に、引き離された家族に会いたくてたまらなかった。
リアンとは出会えたけれど、ドミナスが仕組んだ決別は身を裂かれるように辛くて。
常に監視されて気が休まる暇は一時もなく、弱音も吐けず、他の鬼族には侮蔑の目で見られ、どうでもいい者として扱われる、離宮での日々は地獄でしかなかった!!
……赦さない。赦してたまるものか。
体は穢され踏み躙られても、せめて心だけは清くあろうと思っていたのに。
そんな決意を、内心の敬語……誰に対しても誠実でありたいという願いをかなぐり捨てるぐらい、私はこの男の身勝手に怒りを覚えていた。
「……ドミナス」
轟々と荒れ狂う心の濁流を覆い隠して、私はドミナスの首の気取った布を引っ摑んで顔を寄せると、荒々しく唇を重ねてやる。
初めてこちらから交わすキスは、血の味ではない、微かな果物の味がした。
時間にしてほんの数秒。唇を離すと、ふうと気怠げに息を吐く。
「ここで儀式をしてもいいわよね?」
「うん……レンの望みのままに」
陶然と、夢見心地なドミナスに私は宣告する。
「儀式は睡蓮が咲き次第執り行うつもりよ。そうだ。水の使用期限を取り払うために、奉納品を、対価も提供して貰うけどいい?」
「……対価って?」
「大したものじゃないの。金品や酒、生物なんて腥いものは水が穢れるだけ。捧げるのは睡蓮よ。睡蓮は水神様のお気に入りなの。対価としてこれ以上ふさわしいものはないわ」
「それくらいなら、いいよ」
お願い、と上目遣いで微笑めば、ドミナスは一も二もなく引き受けてくれた。
「嬉しいわ、ドミナス。貴方って最高の伴侶ね!」
「愛しい君のためなら僕はなんだってする……」
「ありがとう。私も同じ気持ちよ」
私は熱に浮かされたようなドミナスの首に手を回す。
ドミナスの体は燃えるように熱いけれど、やはり静電気程度の雷さえ流れなかった。……お腹の子の安全のためには、都合が良い。
──この子のためなら私はなんだってしてみせる。
積極的に愛を騙ったおかげか、それから私は一度も雷に打たれず、無体な真似もされず、むしろ慈しまれ、大切にされた。これまでの苦痛、怒りは帳消しにはならないけれど、僥倖だった。
贈られなくなった薔薇の代わりに、私は池からまだ固い蕾の睡蓮を一つを摘んで、水瓶に浮かべる。
この蕾が花開き、穢れ一つない無垢な純白の花を咲かせる頃、水神様は目を覚ますでしょう。
……大丈夫よ。穢され、変わってしまった私でも、本当に慈悲深い水神様ならきっと助けてくださるわ。
あと少しでこの地獄から、ドミナスから離れられる。
そう考えると、残りの時間も耐えることが出来た。




