第三十五話 初めて見る涙と照れ隠し
「おお……こいつはすごい……」
遠目からでも二頭の馬が発するオーラのようなものがわかる。一頭は見事な四白流星の黒鹿毛、もう一頭はため息が漏れそうなほど美しい白馬。纏っている空気が違う。これまで見てきた名馬と比較してもまったく遜色がないどころか、むしろ初めて本物を見たという衝撃すら感じる。
「そうか……お前たちはご主人が大好きだったんだな」
ふと零したその言葉を理解したわけでもあるまいが、二頭の馬は耳をこちらに向けて尻尾を高く持ち上げこちらを凝視しているように見える。ひどく興奮しているようにも見えるが、気のせいだろうか。
「マリア、触ってみてもいいかな?」
「無理だと思いますが……ファーガソン様でしたら蹴られたり噛まれても問題ないでしょうからどうぞ」
それは買い被りだぞマリア。いくら俺でも、さすがに少しは痛い。
近づいても驚く様子も威嚇してくるわけでもない。興奮しているのは確かなんだが、警戒しているというより、これは……
ふんふんふん
「おわっ、くすぐったいぞお前たち」
ふんふんふん
鼻を押し付け、めちゃくちゃ匂いを嗅いでくる二頭の馬。
なんだろう? まさかケルピーの卵のせいじゃないよな? そんな話聞いたこともないが。
まあでも……せっかくだから触らせてもらおう。
「可哀そうに……良く見れば体中傷だらけじゃないか……」
遠目では気付かなかったが、全身に痛々しい傷がある。虐待されたものなのか、戦地で付いた傷なのかはわからない。
「……信じられないわ。あの子たちがまさか自分から触られに行くなんて……獣医が治療をしようと思っても出来なかったのですわよ?」
これだけ賢い馬が、理由もなく人間を拒むとは思えない。きっと心を閉ざさざるを得ないような経験をしてきたのだろう。物言わぬ彼らに尋ねることは出来ないが、それでも出来ることはきっとある。
「なあマリア、この子たち、俺に譲ってくれないかな?」
なぜ俺に心を許してくれているのかわからないが、もう他の馬のことは考えられなくなった。こいつらと旅がしたい。素直にそう思ったんだ。
「ええ、もちろん構いませんが……どのみちここに居ても可哀そうなだけでしたし」
とても嬉しそうなマリア。本当に馬が好きなんだな。
なあ……お前たち、もし彼女がいなければ今頃お前たちはこの世にいなかったかもしれないんだぞ?
もちろんお前たちは助けてくれなんて思っていなかったかもしれないな。
余計なことしやがって、なんて思っているのかもしれない。
酷い連中のせいで人間そのものに絶望して憎んでいるのかもしれない。
でもさ――――
お前たちの大好きなご主人はきっと素敵な人だったんだろ?
人間もさ、悪い奴らばかりじゃないんだ。
俺はきっと良い奴じゃないが、マリアは違う。みんなの幸せを心から願っている人なんだ。それは俺が保証する。
「だからさ――――いつかその傷が癒えたら、マリアにも優しくしてやってくれ。頼むよ」
ぶるるるる……
まるで俺の言ったことがわかったかのように、小さく鼻を鳴らす二頭。
ふんふんふん
「え……? あなたたち……そう……ありがとう。本当に優しい子ね。ごめんなさいね……何も出来なくて。ですがファーガソン様はとても強くて素敵なお方ですから……どうか幸せになってくださいませ。私は側に居られませんから……だから……私の分まであの方を守って……助けてあげてくださいね」
身を寄せてマリアの髪を甘噛みする二頭。初めて見るマリアの涙に心が震える。
「マリア……俺は――――」
「良いのですよファーガソン様。一人の女として貴方に付いて行くことを選ばなかったのは私自身なのですから。今は振り向いてはなりません。貴方の力を必要としている人々が大勢います。私にはそれが見えるのです」
ああ……本当に勝てないな。
「マリア……わかった。きっとまた戻って来る。この街には愛すべきものがたくさん出来たからな」
「あら、その中に私は入っているのかしら?」
「ああ、わりと最初の方に」
「そこは一番最初と言って欲しかったですわ」
「すまん、そこは照れ隠しだ」
◇◇◇
「なあ……お前たち、一体いつまで俺の匂いを嗅いでいるんだ? 歩きにくいんだが」
ふんふんふん
いくら言っても、止める様子はない……仕方ない。飽きるまで好きにさせておくか。
二頭を引いて一旦白亜亭に向かう。皆、そろそろ起きている頃だろうから、フランドル商会へ馬車を受け取りに行くのは合流してからで良いだろう。
「お、おい、どうしたんだ、そんなに興奮して?」
おかしい。宿に近づくほどに馬たちの興奮が高まっているような気がする。明らかに走り出そうとする二頭を制御しながら、ようやく宿に到着した。
「「ヒヒィーン!!!」」
居ても立っても居られない様子でいななく二頭。その声に驚いて女将のサラやハンナ、遅れてチハヤたちも何事かと降りてくる。
「ナイト!! スノー!!」
飛ぶように――――実際飛んでいたのだろう。リエンが二頭の馬に抱き着く。
ふるふるふるっ……
嬉しそうに声を震わせて喜ぶ二頭の馬。尻尾は千切れんばかりに高く振られ、全身で喜びを表現している。
「お前たち……どうして……無事だったんだな……本当に……本当に良かった……」
泣きながら寄り添う彼らはまるで本当の家族――――いや、家族なんだろう。
そうか……ナイト、スノー、お前たちは信じていたんだな。
リエン、いやフレイヤが生きていることを。
そして俺の身体に残っていたかすかな彼女の匂いを嗅ぎ分けて、俺に付いてきたのだろう。その蜘蛛の糸のような可能性に賭けて。
もし馬が不足していなければ、いや……そもそも俺がリエンと出会っていなければ……
禍福は糾える縄の如し、か。
人の運命をもてあそぶと云われる運命の女神トレース。
もしかすると……俺は厄介な女神に好かれてしまっているのかもしれないな。