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6 永遠に辿り着くその日まで

八津(やつ)が俺の元を物理的に去ってから、俺は少しずつ気持ちの整理をつけようとインターネットの世界の片隅で、日記のような書き込みを始めた。仕事は相変わらずで忙しい時もあれば、そうでない時もあった。この部屋からは引っ越す事もなく、あの時のまま俺は留まっている。家族は実家に戻れとか、せめて部屋を引っ越せとか、無神経にではなく心配をして言ってくれたりもした。それでも大切な愛する人が最後の時を迎えたこの場所は俺が引き払った瞬間に事故物件になる。八津(やつ)の存在はその他大勢の自殺他殺と一緒になってしまう。側から見ればそうかもしれない。いや、そうだろう。実際冷静な見方をすると、同性カップルの片方の成人男性が心を病んでいて、手持ちの処方薬を大量服薬し自殺した。それは感情抜きの事実だ。自殺すると魂はそこに留まるとも言うし、何の関係もない人からしたら気味が悪くて当然だ。俺だって自分ごとでなければ、確実に見方は違っただろう。だから俺は最後の瞬間まで、この場所で過ごすと決めた。


*****


一周忌を迎えるまでは本当のところ、受け入れられていなかった。だから引っ越さなかった。隣で死んでいた事を今もありありと覚えているのに、それでもまたフラッとその玄関からヘラヘラっと帰ってくるような、そんな絶望的な希望をまだ抱えていた。人前で笑えるようにはなってきていたものの、食事が摂れない日も多かった。眠るともう死んでしまった八津(やつ)がまた死んでしまう気がして、それは流石に無理だとちゃんと考えれば分かるのに、寝落ちる瞬間が怖くてたまらなかった。眠れずに仕事をすると捗ったりもして、生活が乱れて、心が乱れて、ある日スーパーで食パンを買おうとした所でばったりと倒れた。目を開けると、またいつかの知らない天井で、また俺は何かとんでもない過ちを犯してしまったのかと恐ろしさに震えた。その時、シャーッとベッドを仕切るカーテンが開き、女の子と女性が入ってきた。どこかで見かけた事があるような・・・。


「一度お会いした事はあるんですけれど、改めまして祠堂家にお仕えしております山崎の娘の山崎真央と申します。私も祠堂家でメイドとして働いております。こちらは美海(みみ)、一人娘です。お加減はいかがですか?」

「どっか痛い?お兄さん、大丈夫?」

「大丈夫だよ、ありがとう。えっと・・・何故祠堂家のメイドさんがこちらに・・・?」

「それは」

「それは私が心配したからよ。まなと。痩せたんじゃないの?あなたまで私より先に逝くのは絶対に許さないからね!」

「松さん・・・。お元気そうで何よりです。」

「お元気そうで、じゃないわよ!栄養失調と睡眠不足で倒れるなんて、この現代社会で何やってるのよ。」

「・・・言葉もありません・・・。」

「大奥様、まなとさん目が覚めたばっかりですので・・・」

「全く!ちゃんと休みなさい。美海、おばあちゃんと一緒にジュース買いに行こう。真央、説明しておいて。」

「かしこまりました。美海、わがまま言っちゃダメよ。」


かつて忌み嫌っていた松さんはやはりいつ見ても八津(やつ)にどこか似ていて、不器用で愛が深くて猪突猛進だ。怒っても笑っても、その目元には少し懐かしささえ感じてしまう。美海ちゃんを連れて出て行くその姿は初めて会った時からしたら随分と棘が抜けた。どんなに元気でも少しずつ歳を重ねている事を実感してしまう。


「お騒がせいたしました。大奥様はまなとさんの事を聞いて心配して飛んできたんですよ。お友達と女子会をされていたホテルからタクシーに飛び乗って。」

「えぇ?何でまた・・・。それもそうですけど、何で俺が倒れた事を知ってるんですか・・・?」

「あぁ、お気づきではなかったようですね。こちらの病院は祠堂家が経営しております。あの時もこちらだったんですが、それどころではなかったですよね・・・。今回は当時病棟にいた看護師が救急におりまして気がつきました。そこですぐに家の者に連絡が入り、学童のお迎えで外に出ていた私が急遽駆けつけた次第です。私から父にすぐ連絡を入れまして、父から大奥様に、そして今です。ちなみに私はこの間もちゃんとお給料が出ますので、全く気になさる必要はありませんからね。」

「え、意識がない間にそんなに大ごとに・・・。ご迷惑をおかけしました。」

「いいんですよ。今や、いや今更、とも言えるかもしれませんね。祠堂家にとってまなとさんは大切なお方です。何かあればお助けしたい、そう思ってはいるのですが、その根拠がない。ご迷惑になってもいけないし、難しいなと感じていました。だからある意味、弱ったまなとさんの弱みにつけ込んでいるんです。ここはもう大船に乗った気分でどうか我々に甘えてください!」

「弱みって・・・。本当に祠堂家って強引ですよね・・・。でも何だろ、嬉しいです。何か懐かしい。ご心配いただきありがとうございます。」

「やっと笑っていただけた。良かったです。一度ゆっくり休まれてください。また主治医がご説明にあがりますが、一旦一週間程度入院のご予定です。お仕事で何か緊急で必要なもの等ございましたらお持ちしますので言ってくださいね。インターネットを使えるだけでも違うかと思いまして、基本的操作なら可能なPCはご用意いたしました。こちらの個室はWi-Fi完備ですので、動画等もご覧いただけます。ただ、今回は休養を優先ください。ご家族にも連絡を入れさせていただきました。後ほどいらっしゃるそうです。」

「何から何までありがとうございます。ではお言葉に甘えてPC使わせていただきます。とりあえず一旦仕事のメールを片付けておきたいので。」

「はい。わかりました。それでは大奥様にはまなとさんはお休みになられたと伝えておきます。また寄らせていただきますね。それでは。」


トンっと引き戸を静かに閉めて山崎さんが出ていくと、部屋に一人になった。そうか、あの時も祠堂家の病院だったのか。よく考えたら、あの時病院名なんて見てもいなかったし、覚えてもいなかった。それでもやはり俺たちが搬送されたその朝は騒動だっただろう。あの日について無知だった事を今更知る。それにしても不思議な縁だ。俺が倒れたのは自宅の近くのスーパーで、そこに居合わせた人が救急車を呼んでくれたのだろう。それでも数多とある救急病院から敢えて祠堂家のものに当たるなんて。八津(やつ)が導いてくれたのかな、多分偶然である事には気がついているけれど、それでもやはりそこに八津(やつ)を感じるような気がして少し心が温かくなった。街中で倒れておいて不謹慎な事は重々承知だが、それでもまた八津(やつ)を感じられた、そんな気配は何よりも嬉しかった。


*****


三回忌がやってきた頃、俺はようやく普通に生活が送れるようになっていた。倒れた一件以降、妹の美香が半年くらい一緒に住んでくれていたものの、いつしかあっさり彼氏の元に行ってしまった。祠堂家の面々は相変わらずで、それぞれが唐突にたづねてきては俺を驚かせた。家族とも友達とも違う不思議な関係だったが、ふと覗かせる不器用さが俺は放って置けなくて、そして温かさをもらっていた。


少しずつ皆が歳を重ね、そして各々突然に消えた八津(やつ)を少しずつ受け入れ始めていた。俺も笑顔で思い出を語れるようになってきていて、思い出の場所にもう一度行けるようにもなってきた。全てを乗り越えるつもりもないし、それは無理だろうけど、俺は今のままで、八津(やつ)を俺の一部として、生きていこうとそんな覚悟はできるようになっていた。


*****


七回忌の法要の時、あの松さんが車椅子に乗っていた。半年前にはなってしまうが、それでもその時だって杖をつきながらではあったが、うちに押しかけてきたばかりだったのに。


「松さん!どうしたんですか?」

「あぁ、まなと。ちょっと転んじゃったんだよ。大丈夫。すぐに治るわよ。」

「お大事にしてくださいね。」

「ありがとう、八津(やつ)・・・。」

「・・・はい。」


八津(やつ)・・・?

最初はまなとって言ったのに。何だかもやっとしていると、お姉さんに肩を叩かれた。


「まなとくん、ちょっといい?」


本堂の脇に腰掛けると、お姉さんは少し躊躇いながら口を開いた。松さんは三ヶ月前に家の階段から落ちて、大腿骨を骨折。すぐに手術をしてそれ自体は成功したものの、歩く事ができなくなってしまった。もう少し若ければリハビリで十分に回復が見込めたが、年齢的なもの、性格的なものもあって、イマイチうまく進んでいないらしい。歩き回れなくなると次第に行動範囲が狭まって、そのうち部屋に篭る日が出てきてしまった。段々と体が弱り、伴って心も弱り始めた。そこで極初期ではあるものの痴呆の症状が出る時があるのだそうだ。年齢的にはまだまだ元気で旅行三昧の人たちもいるだろうが、やはり足をやってしまうとなかなか戻りにくいのが壮年世代のようで、あんなに元気だった松さんもすっかり弱ってしまったのだ。


「あの、もしよければですが・・・。俺が週一とかで松さんに会いに行ってはダメでしょうか?出会いは最悪でしたけど、それでも縁あってここにいますし。仕事は倒れた後に人員を増やして、今は俺がいなくなっても回るように整備できたんです。なので、今は精神的にも金銭的にも余裕があります。とは言っても祠堂家の余裕には到底及びませんが・・・。」

「おばあさまはあなたに結構な事をしてきたのにね。そんな事言って貰えるなんて、本当に。なんていい子なのかしら。と言うかもうお人よしの域ね。でも良ければその話、乗らせていただけないかな。私も兄も忙しくてなかなか会いに行く事ができなくて。」

「確かに強烈な人ですよ。八津(やつ)は愛が深すぎて明々後日の方向に突っ走ってしまうタイプでしたけど、それは松さん譲りだったんだなって今となってはわかります。とんでもない男を愛したついでです。じゃあ山崎さんに連絡をして伺うようにしますね。」

「本当にいい奴!弟の相手だってわかっちゃいるけど、惚れたのわかるわあ。全くねえ。」

「お気持ちは嬉しいですが、俺は八津(やつ)一筋なので。この世からいなくなったくらいでは離してやらないんです。」

「はは、夫がいるのに振られちゃったわ!重い重いその愛が傍目には羨ましいけど、ちゃんと今も生きるのよ。」

「はい。最近はやっと落ち着きました。何やかんや祠堂家の皆さんにも可愛がっていただいてますし、会社のメンバーもいます。うちの両親や妹との関係だって良好です。俺は八津(やつ)の分まで生きてるつもりです。だから松さんのとこにも行きたいんです。多分八津(やつ)ならそうする。だから俺もそうしたい。俺の自己満足かもしれないですけど。」

「自己満足でも何でもそれが相手にとってどうなのか、それは相手次第よ。おばあさまの件に関しては自己満足だなんてとんでもない。週一とか決めなくていいわ。手が空いた時に山崎さんに電話して予定を合わせてくれれば。それでいいの。本当にありがとう。八津(やつ)は身代わりを置いて行ったのねえ。ちゃっかりしてるわ、本当に。」


秋晴れの今日はまだ夏の匂いをどこかに漂わせながらも、風が吹けば肌寒くもある。朝晩は気温はグッと下がっていき、季節と季節の境目のようで、空は青く高く澄み渡っていた。遠い遠い雲を見上げながら、八津(やつ)はあの雲の上にでもいるのだろうかと考えて、クスッと笑えたから、俺はもうそろそろ大丈夫なのかもしれない。


*****


十三回忌が来る頃、俺はブログが発端となって繋がった縁で同性婚できなかった当事者として話をする機会が増えていた。八津(やつ)と過ごしていた頃からしたら世界は変わった。その世界の中で子どもだった人たちが大人になり、社会は引き継がれている。人が人の世を後に残そうと思えば、今の技術では男女の縁を持つより他無い。だからこそ、同性婚に対しての反対論や慎重論は何年経っても平行線だった。俺自身は元々男が好きだったのか、そうではなかったのかもはやわからない。だから、性自認が違って悩んでいる人や、元々同性のみを恋愛対象とわかった上で恋愛に悩む人の気持ちにはなれない。それでも、俺が生涯をかけて愛した、愛している人は八津(やつ)一人で、八津(やつ)は男だった。男同士だったから社会に認めてもらえなかった。身近な人たちにさえ、本当の意味では受け入れてもらえなかった。単体の個人としては愛されていたにも関わらず、その間で肩を寄せ合うしかなかった。そのやるせなさと社会的責任と後ろめたさに立ち向かう術を見出せず、心を病んでしまった八津(やつ)はどの世界線なら今も笑顔で生きていけたのか。それはわからない。今手の内にあるものは全て結果で、それを以てして話した所でそれは結果ありきの話なのだ。そんな事はわかっているけれど、もしかしたらどこかの誰かの苦しい気持ちに寄り添う事くらいなら今の俺にだってできるかもしれない。悲しさも辛さも楽しさも嬉しさもそれぞれ。人それぞれの尺度で、その時々の世情で、皆そぞろ流れて行く。それに流されたり、無関心に見過ごしたり、それでもその中で溺れて今にも沈みそうな人がいるのなら、それがもし俺の話で救われる要素が一ミリでもあるのなら、俺が俺の話をする事に意味があると思った。


どこかの誰かを愛して、社会には受け入れてもらえなかった、だから相手は死んでしまった。そんな悲劇には終わらせたくなかった。確かに悲劇的側面は大いに持ち合わせているし、どうにでも感情的に語る事はできる。それでもそれを劇的にして仕舞えば、それこそ俺自身が大事な人たちを無意識に傷つけてしまう可能性があったから。良かれと思って、が裏目に出るのはよくある話で、その責任まで取れる事は往々にして少ない。そんなつもりじゃなかったと言えばそれで話が終わってしまうような、そんな簡単な話では決してない。マイナスになった感情をグッと飲み込んで、気がつかないフリをして、知らず知らずに自分の心に見えないかすり傷を溜めていく。その傷は人によって深さが違うから、何がどれが正解とは誰も言う事ができない。誰かにお話しする時はあくまで俺の愛した人としか言わない。詳細を出した方がより共感は得られるかもしれないが、俺は感動して欲しいんじゃない、悲しんで欲しいんじゃない。それでもやはり、誰かにそれは間違っていなかったと言って欲しいだけなのかもしれないと自分自身に猜疑心(さいぎしん)を向けながら、それでも一人残されたこの世界でまだ何かできる事があるのでは無いかと、何か意味があるのでは無いかと探さずにはいられなかった。


色々な人に声をかけてもらうようになり、本業の傍らで人に会う事も増えた。ここ数年はもう大勢で集まるような法要はないから、今でも時折祠堂の家族と会って近況報告は行っていた。お兄さんは病院を継ぎ、お姉さんは自身の医院を切り盛りしている。松さんは相変わらず元気にしていて、先月もハワイに行ったとお土産を持ってきたのだ。一時心配したものの、まだまだやりたい事が沢山ある!と言って死ぬ気で励んだリハビリが功を奏し、何なら怪我の前よりも元気になっている節さえある。それぞれが少しずつ歳を取って、それでも今も彼らの表情に八津(やつ)の面影を見る。同じように歳を重ねたらこのようだったのかと、やはりほんの少しの切なさを感じながらも、それでもまだその気配を感じられる機会に感謝があるのも確かだった。俺が同性婚についての活動をしている事は祠堂の人間にも話している。俺だけの正義で残した家族に負担をかける訳にはいかないし、それは本意ではない。


活動を始めて数年が経った頃。その界隈での知り合いが増えてきた事で同性婚を切り札としたい議員から勉強会で話す事を依頼される機会があった。実際、どんなに当事者であっても、この国に住まう国民であっても、法律を変えようと思えばそのテーブルにつける権限が必要だった。どうしてもその手の話になると、怪しい誘いも増えてくる。選挙の票集めに分かりやすく利用しようとしたり、その問題の向こう側に宗教的な何かが潜んでいたり、妙に攻撃的になったり。だからできる限り、依頼は慎重に内容を確認するようにして、それでも信用できそうだと踏めばお話を受けるようにしていた。ただし、真剣に向き合う程に反対派の動きもそれなりで、分かりやすく嫌がらせを受ける事もあった。法制化はされていないにしても、多くの自治体や会社で同性カップルをパートナーとして認める動きはあって、既に実績も年数も重ねている。それでもやはり、それぞれの正義があって、それぞれの生きてきた世界がある。そこを壊して同じ思いになってくれとは思わない。一緒に共存してくれたらそれでいい。誰にだって理解できない事はある。俺にだって沢山ある。それでもその全てを俺の尺度に合わせろとは思わないし、思ったってできない。それでもそうでないとダメだと思う人は必ずいて、折れない俺のような人種は忌み嫌う対象となり得るのだ。それは同じ活動をしている仲間であってもそう。自分たちを認めてくれない世界なんてあり得ないと思えば、反対派はひとでなしになってしまう。だからこそ、反対派の感情は推して図るべしだ。それでも誰かの想いは誰かがどうこうできるものでもなく、どこかのタイミングが合えば、もしかしたら分かり合えるチャンスがあるかもしれない、実際はそのくらいの確率なのだろう。


*****


八津(やつ)が死んで二十年。月命日には必ず来ているこの墓もだいぶ年数が経ってきたように思う。お前も歳を取ったな、そう呟きながら好きだった赤ワインを墓前に供えると、プラカップの中にぱあっと波紋が広がった。空を見上げるも、そこに雲はなく、雨が落ちる要素はなさそうだった。


そっか、八津(やつ)が飲んでんのか。


スッキリと晴れ上がった青空は今日も高く高く、高高度を飛ぶ飛行機がそれを彩っていく。いつもは昼過ぎに来るのだが、今日はこの後月末の地方選の応援で講演会に参加する予定だったから、朝の通勤ラッシュが終わった頃にいそいそと電車に乗り、この海が見える八津(やつ)の墓に来たのだった。


もう二十年。毎月一回は必ず来ていたから、十二回掛ける二十年。二百四十回はここに来ている。もっと頻繁に来ている月もあるから、三百回はゆうに超えている事だろう。本来であれば、ベランダから同じ景色を見る人生が普通だったかもしれないが、ここで八津(やつ)と海を見るのも嫌いじゃなかった。


どんな季節も、どんな天気も、ここで一緒に感じられた。遠いけれど、近い気もした。そして今さっきみたいに、気まぐれにワインを飲みに来たりする。


行ってきます。


俺の話で今日も誰かの心がほんの少しでも軽くなるといいな。八津(やつ)、今日も見守っててくれよな。


いつものように墓標を撫でると、ふわっと風が頬を撫でた。そこには八津(やつ)の香りが混ざっていたような気がして、思わず笑顔になる。生きながらえたこの命を自らどうこうしようとは思わないけれど、それでも俺はお前と早く一緒になりたいよ。神様もそう思う事くらいは許してくれるか、と無神論者のはずの俺は軽く笑いながら、未だ叶わぬ願いを胸に墓地を後にした。


*****


昼からの約束で、少し前に会場入りしていた俺は時間を持て余して、会場外のベンチでコーヒーを飲んでいた。段々と関係者が会場入りし、支援者が集まってくる中に混ざる異質に気がつける者はいなかった。


「近藤まなとさんですか?」

「・・・はい、そうですが。先生の事務所の方ですか?」

「いえ。」


はて?と思ったその瞬間、ドスっと重い感触が腹にあった。ぶつかってきた、と言う事はなさそうだ。今までも軽い嫌がらせはあったものの、選挙前だから過激化しているのだろうか。それでもこれはちょっとまずいかもしれない。ドクドクと脈を打つ感覚が明らかに心臓のそれとは違い、それを認知した頃に目に映るのは地面のアスファルトと誰かの靴、そして叫び声が遠く響いていたような気がする。少しずつ意識が遠のいていく。異様な未知の感覚は重く腹に感じるものの、それはそれで何だか気持ちのいいもので、意識はほぼ無くなる中でそんな事に感心していた。そしてこの冷たくなっていく感覚に、この生が遠のいていく静けさに懐かしさを覚えた。


やっと、追いついた。


もう一度、八津(やつ)に会いたい。例えそれが地獄の釜の中だったとしても、それから先ずっと針に刺され続けるとしても、身体中を切り刻まれ続けるとしても、八津(やつ)と一緒ならそれで構わない。


遠のく意識と感覚は世界と隔絶されていて、それでやっと、やっと心の底から切望した二人の永遠にたどり着けた。その久方ぶりの笑顔に安堵して、ただその胸に飛び込む。もう何にも未練はない。



「二十年は長かった。でも俺は頑張ったよ。また会えて、よかった。」



・・・救急車!誰か!早く!近藤さん!近藤さん!返事して!救急車まだなの!どうしよう!息していない!血が止まらない!誰かタオル!早く・・・


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