4 来訪者とあの日々
八津が死んでいなくなっても、俺の生活は変わる事を許されていなくて、それは無常にも、それでもそれは時に救いとなりながらも、一日一日をただ茫然としながらも、生きて過ごす事を強要した。
俺はフリーランスで、大学時代の伝手やホームページ経由の依頼などを自宅作業で完結させている。会社員であれば、多少なりとも休みを取ったりする事もできただろう。実際貯金がない訳ではない。いっそどこか遠くの外国にでも引っ越してしまおうかとも考えた。それでも、最後の時まで過ごしたこの部屋を捨てきれず、俺は八津がいなくなった後もここで生きる屍の様な生活をしている。生活をするためには、貯金はあれど金は必要で、フリーランスは仕事を断れば明日がない。葬式の翌日、俺は普段なら祝杯をあげるレベルの大型案件の打診を受けて、それからひと月は昼夜問わずかかりっきりだった。時折俺を心配しておとづれる両親や妹が食べ物を持って来てくれたり、デリバリーを頼んでくれたりして、何とか生きながらえている。
そろそろ四十九日か・・・。
悲しみに暮れる暇も無く、ここまで来てしまった。
もうこの日を越えたら、お前は彼方へ行ってしまうんだろうな。自分で命を絶ったりしたから、どんなに人懐っこいお前でも多分地獄行きだよ。
俺は今日も机の上に置いたお前に話しかける。
・・・ピンポーン、ピンポン、ピンポン、ピンポン・・・
誰だよ?と悪態を吐きながらインターホンに向かうと、その画面に映っていたのは八津の祖母、松の姿だった。
何でまたこの人が・・・?八津が死んだのはお前のせいだと詰りにでも来たのだろうか。確かに俺のせいかもしれない。俺を好きになりすぎて、抱えきれなくなった想いを間違った方向にぶつけてしまった、そんな風に思うように仕向けられていた。これは俺がお前を好きになったから故の咎なのか。一生抜けない棘なのか。どちらにしても八津の思惑通り、俺はもう二度とお前を忘れる事はできないだろう。
それはいいとして、この押しが強く、ずっと俺にも辛く当たり続けてきた祖母の松は明らかにいい思い出ではない。もう関わらないで欲しいのに。とは言え、インターホンを鳴らされ続けるのはごめんだ。四十九日の法要も近い。ここは無難に対応して、さっさと帰ってもらうより他ない。
ガチャリ・・・
「こんにちわ。どうされましたか?」
「あなた今から時間ある?ちょっと付き合って欲しいの。」
「え、いや、今日は・・・。」
「暇なのね。山崎、お連れして。」
執事の山崎さんはお手伝いさんのような生活の手助けから、秘書業務、冠婚葬祭のあれこれまで全てを把握して、主人の気分を害す事がないよう、最善のルートをいつも選択している。松さんは良くも悪くも八津と似たような特性で、猪突猛進で後先考えない。だからこそ、今までも何度か事後に山崎さんがたづねてきたりもしていた。あちこちでこのような役目を行っているのだろう。
今日だってそうだ。自殺した孫のパートナーの家に行くだなんて、もう明らかに嫌な予感しかしないだろう。でも松さんはこうと決めたら絶対に引かない。何かあればまた自分が後で菓子折りを持って謝罪に・・・と腹を決めてきたに違いない。本来俺がそんな事を気にする必要はないのかもしれないが、これだって縁だ。そして気が付いてしまったら放っておく事もできない。奇しくも暴君松さんの読み通り今日は暇だった。もしかすると事前に調べがついていたのかもしれないが・・・。
「・・・で!俺はどこに連れて行かれてるんですか?」
「まずは、服ね。それじゃダメだわ。山崎、適当なとこに行って。」
「かしこまりました。」
「いやいやいや、何なんですか。確かに今日は暇ですけども!」
「近藤様、申し訳ありません。悪いようにはいたしませんので、今日一日おつきあい願えませんでしょうか。」
「・・・もう、わかりましたよ。今日だけですからね!」
「ありがとうございます。主人も大層喜びます。」
「山崎!下手な口を叩くんじゃないわよ。黙って運転してなさい。」
そう言う松さんの言葉はいつも通り酷いものだったけれど、その表情が何か、どこか違っていて、少し柔らかく、そして微笑んでいるようにも見えた。とうとうこの暴君も年貢の納め時か、と思ってしまった俺はどれだけ疎ましく思っていたのかと内心苦笑いしてしまう始末だった。
その後行ったデパートでは満面の笑みの外商担当が待ち構えていて、俺のサイズのスーツ一式と靴が全て用意されていた。あれよあれよと着替えさせられた所で簡単に髪までセットされ、気がついたらまた車に乗せられていた。まるで七五三のガキンチョの気分だ。自分では絶対に立ち入る事のない空間に、買う事のない高級スーツを着た俺は、これまた高級車でまたどこかへ引き続き拉致されていた。
「あの・・・いい加減どこに行くか教えてもらっても・・・・?」
「もう到着します。車寄せにお停めするので、少々お待ちください。」
ここって・・・
八津と初めて会った音楽ホールだった。八津が死んでからそれどころではなくて、もはや存在が頭に無かった。と言うよりも、社会人になれば学生の頃よりも時間の自由がないから、なかなか元より行きにくくはなっていたのだ。でもなぜここに。
「今日はね。ヴァイオリンのリサイタルがあるの。同伴して頂戴。」
「・・・ヴァイオリン・・・。」
「ええ。」
少し悲しげな表情を浮かべた松さんはいつもの威勢が削げ落ちていて、歳相応に見えた。ついさっきうちの玄関でチャイムを押しまくっていた人とはとても思えない。この人だって孫を亡くしたんだ。やはり、いつもいつでもいつも通り、ではまだいられないだろう。孫に先立たれるなんて思ってもみなかっただろうから。それにしても何で俺を連れてきたんだろう。だって誰よりも俺を嫌っているのかと思っていたから。
同伴と言うからエスコートでもしろと言う事なのかと思ったのに、松さんはズンズンと先に歩いて行くから、ついて行くのに必死になるくらいだった。チケットも用意されていたようで、松さんが二枚差し出し、俺を指差す。受付の人はニコリと笑うとプログラムを手渡しし、二階席はそちらのエスカレーターでお上りくださいとテンプレートに案内をしてくれる。
お金はいくらでもあるだろうに、二階席・・・。やっぱり八津の婆ちゃんだから変わってるのかもな。もしくは同じようにこだわりがあるのかもしれない。あいつだってお金には困っていなかったはずだ。
久しぶりに来たホールは何も変わっていなくて、初めて会ったあの日から何年も経っていても、そのままの、あの日と同じたたづまいだった。そんなものなのかもしれない。俺の人生では色々な事があったから、数年がとてもとても長く感じたけれど、八津が現れない人生だったならば、気がつけば十年などやはり経っていたのかもしれない。
・・・Prestoはお好きですか?・・・
その言葉に耳を疑った。けれどそれは八津ではなくて、当然ながら八津はその場にはいない。あいつは骨になった。つうっと頬を伝う涙に気が付かないまま、松さんも俺も一階のステージを見下ろす。
開演の鐘が鳴り、着飾ったソリストがステージ中央に立つ。静寂を切り裂くかのように、会場にソナタがただしんしんと響く。細く力強く、空間を思いのままに操るその姿に見惚れ、耳に入るその音は他の音を全て拒絶するかのようにただただ高く、低く鳴り響いた。
バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタを軸に一時間のリサイタルが終わった会場は帰途に着く観客でざわつき始める。クラシックは歌詞が無い分、余計にその人自身の解釈でその曲が残る。確かに作られた当初の作曲家の思いはあるが、それを一緒に理解して聞いている観客はそうそういないだろう。それぞれが持つバックグラウンドに、一音一音が響き、光を当て、時に心を軋ませる。ヴァイオリンの物悲しい響きに、曲の持つそれぞれの個性に、今のこの俺が感情的にならずにはいられなくて、もしかすると八津が死んで初めてちゃんと泣いたのかもしれない。病室で、葬式で流した悔し涙とは違う、何とも言えないどう呼称すべきかわからないこの感情に沿って流れる涙を、まさか松さんと一緒に流すとは思わなかった。それにしてもあの言葉。俺は八津にしか言われた事がなかったが、そう言う知り合いがいなかっただけだったのだろうか。
地下の車寄せでは山崎さんがいつもの柔和な表情で待ち構えていた。そのまままた車に乗り込むと夜景になじみながら車はどこかへと向かう。
「あなた、一人じゃどうせろくなもの食べちゃいないんでしょう?夕飯まで付き合いなさい。」
「わかりました・・・。」
よろしい、そう言うと松さんは黙って外の流れゆく景色に目を向けていたが、やがてポツリとまたあの言葉を呟いた。
「Prestoはお好きですか?」
「あの、松さん。その言葉って。」
「あぁ。これは亡くなった夫が初めて会った日に私にかけてきた言葉よ。」
「え・・・?」
「もういつになるかしらね。ずっとずっと前。まだ私だって若くて、何も諦めてなんかいなくて、決められたレールの上を走る事にただ反抗していた頃。子どもの頃から習っていたから、聞きに行くのも好きだったのよ。ヴァイオリン。そんなに上手くはならなかったけど、幸いお金には困っていなかったから、学生の時分でも好きにコンサートに行けたの。たまたまその日は一人でね。いつもは真正面の席だったんだけど、この日は色々と偶然が重なって。突然行ったコンサートだったから、二階席しか取れなかったの。バルコニー席みたいで悪く無いわね、と思ってたら席を間違えててね。その間違えた席のチケットを持ってたのが亡き夫だったの。じゃあこのチケットをどうぞって言っても譲らなくてね。隣の席なのに。だから渋々代わって、その後すぐに開演したから。私はすっかりそんな事忘れていつも通り楽しんでた。一時間ちょっとでコンサートは終わって帰ろうとすると言われたのがさっきのよ。十曲近く演奏されただろうに何故その間にある曲なのか、と気になってね。すると、あなたが身を乗り出して聞いていたのはその曲だったから、とか言うの。まともに私だけを見てくれる人ってなかなか会った事がなかったウブなお嬢様は一瞬で恋に落ちたと言うわけよ。」
「まさか、そんな事って・・・あるものなんですね。」
「そうなのよ。」
「いえ、そうではなくて。俺と八津の出会いがそのままだったんです。俺はお嬢様ではなかったですけど。」
深くため息をついた松さんに出会いを話すと、どちらともなく涙が溢れて、それぞれの会えなくなった大切な人に会いたくて会いたくて、それでもそれは叶わなくて、ただ今残されている二人は涙を流す事しかできなかった。その出会いなんてなかった方が良かったとは決して思わない。けれど、それでも考えられない程のその痛みはこれまでもこれからもその身をやつす。それはまるで呪いのようで、乗り越えるだなんてそんな言葉でどうにかなるような代物ではなかった。
八津の祖父、逸郎さんは一般的な家庭で育ち、祠堂家のような環境はフィクションの世界の話だった。偶然行ったコンサートでたまたま松さんと出会い、あまりに楽しそうに聴くその姿に一目惚れした。逸郎と結婚できないなら死んでやると今と同じように激情型だった松さんは、父母を脅迫した。命だけはと折れた父に許嫁を解消してもらい、逸郎さんは長男であったけれど家を捨て、祠堂の家に婿入りしたそうだ。温和でいつもニコニコとしていた逸郎さんは一族には疎まれた。何処の馬の骨ともわからないこの優男にお嬢様が、と一時は使用人にすら軽視される程に。それでも元々逸郎さんが医学部生だったから、医師になった後は祠堂病院を継ぐ事ができ、結果オーライではあったのだそう。そしてその後の代も医師となり、病院を継いでいる。八津は逸郎さんに誰よりも懐いていて、いつもその後をついてまわる程だったらしい。歳が離れていて、兄姉と遊べなかったり、父母が忙しかったりした時に一線を離れた祖父はいい遊び相手だったのだ。恐らく松さんとの出会いの話もしていたのだろう。その言葉もまた受け継がれた。
食事を終えたところで、松さんがコトンとティーカップを置くと、テーブルに頭がつく程に深く頭を下げた。逸郎さんの苦労を知っていた松さんはまた、逸郎さんを好きになる事で自分に向けられた視線や言葉を知っていた。それは時に耐え難く、そして誰かに打ち明ける事もできなかった。自分にとっては普通の出来事も、逸郎さんにとってはそうではない。常識が食い違う事は生活に度々支障を来した。それでも何とか助け合って、生涯を共にしたが、それは何をどう以ってしても、決して平坦な道ではなかった。男女で、跡取りを産んでもそれだ。ましてや、同性だなんて。それはどう考えても受け入れられなかった。普通に許嫁と結婚しても苦労はする。それなのに、その何倍も何十倍も何百倍も苦労するそんな未来を可愛い孫には、とてもじゃないけれど認める事ができなかったのだ。ただ、その孫の未来を憂う愛がまさかこんな結果を生むだなんてもちろん想定していなかった。
ただあなたが好き。それだけでは世界はうまく行かない。
それでも叶わない恋をして、誰かを愛して、時にその手から何もかもが零れ落ちる。ただ、それに他人が介在する事で、愛だとその手を振りかざす事で、消えてしまう灯火もあって、多分そこに答えが見つかる事はない。それでも生き残ったならば、その身がこの世にある限り、その憂いを咎を愛という形でこの体に刻んでいく他ない。それでも生きるしかない。
泣いて詫びる松さんに駆け寄り、その背中をさする。気が強く、迫力が凄まじいこの人だって人の子で、体のメンテナンスは同年代の人よりしていてもそれでもやはり不老不死ではないのだ。誰が何を言おうが、松さんがあの時自分が八津を許していればと思う事と、八津を好きにならなければこんな事にはならなかったのではと思う事は一生癒えない傷だ。深く深い傷を負って、足を引きづりながら、でもその全ては自己完結して、自分勝手で、それでもその思いに勝手に苛まれる。ただ、プラスであろうが、マイナスであろうが、浸れる間はそれに触れられる気がして、だから乗り越える事を望まない。松さんは八津が生きていれば最大の敵で、八津が死んだ今となっては想定外の最大の理解者なのだと気がつくにはそう時間は掛からなかった。
この日を境に松さんは俺を気にかけるようになり、俺も松さんを気にかけるようになった。突然お茶に誘われたり、時に松さんのヴァイオリンを聴く事もあった。そしてまた涙を流し、それぞれが思いをあふれさせる。何も変わらないけれど、それを無理に解決しようとも思わない存在は貴重だった。こうした日々を積み重ねて、想いは遺跡のように古び、その躯体には蔦が絡んでいく。
*****
そう言えば松さんと山崎さんとの初めての出会いは八津と付き合い始めて間もない頃だったかと思う。あの頃はまだ俺も若くて、八津ももちろん若くて、お互いが好きで、それだけで世界は全て丸く収まると、本気でそう思っていた。
俺は大学三年で、八津は同い年だけれど、留学していたから歳は二歳上だった。長男でしっかりしている俺と、甘えん坊の末っ子でボンボンだった八津はそのお互いの特性が足りないところをうまく補っていた。一人暮らしをしていた俺の家に八津は入り浸り、ひと月ふた月と過ぎるごとに部屋の中は唯一無二の二人だけの空間になっていった。大学は同じだから、日中だってそんなに離れる事はなかったのに、ただの一瞬でも離れがたくて、八津の祖母に引き離されるその瞬間まで、世界にはただ二人しかいない、そんな風に若い二人は恋に溺れていた。
八津の家は古くから続く名家。そして歳の離れた姉と兄がいた。彼らはそれぞれが親の決めた許嫁と結婚し、それぞれ事業を継いでいた。もちろん同様の未来を八津にも当たり前に用意していたものの、上の兄とは十も歳が離れている。姉は十二も上だ。そうなるとこの二人も両親も祖母も八津が可愛くてたまらなくて、ただひたすらに甘やかしていた。何をしても文句を言わなかったし、元気でいてさえくれたらいいと思う程だった。八津とて、甘やかされる環境が性に合っていたから、何かある度に甘えていたし、それが普通だった。その八津が突然家に帰ってこなくなれば、それはもう家中で不協和音が鳴り響き、大騒ぎになる大事件だった。最初のうちは見守っていた家族も段々と不安が募り、ある日一番に我慢ならなくなったのが祖母だった。そこで事件が起こる。事件前夜、依頼していた探偵が調査報告書を持って屋敷をおとづれて、二人の関係は明るみになった。誰かいい人ができたのだろうとは誰もが思っていた、可愛い末っ子と言えど、八津とてもう二十三歳。それなりに誰か気になったりもするだろう。ただ、八津にも許嫁はいる。遊びなら構わないが、本気になられるのは困る。そう言う訳でともすると軽い気持ちでつけた探偵が晒した現実は一同に重くのしかかった。
同性婚が合法であるならば、まだ印象は違ったのかもしれない。そして、何もその肩に、その背に載っていないのならば良かったのかもしれない。それでも八津はそうではなかった。その大きくはなってもまだ幼いその背中には代々引き継いできた家業や、その家族や、許嫁が大きく大きくのしかかっている。それは彼のせいではない。決してそうでない事は誰もが理解はするが、それでもそう言う運命の元に生まれた以上はそれから逃れる事はできないし、許されない。それが例え、猫可愛がりしている末っ子であっても。
翌朝、まるでそれは警察のガサ入れのように二人の世界をぶち壊しにやってきた。そう、今日のようにけたたましくインターホンを鳴らして、朝の静寂をつんざいて、終わりが始まった。寝ぼけ眼でドアを開けた俺を一人が抑え、高齢の女性と二人の男性が失礼しますと言って部屋の中に入っていく。あまりの事態に呆気に取られて、何が起こったのかまるで理解できなかった。騒ぎに気がついて起き出してきた八津はギョッとした後に、玄関に押さえつけられている俺に気がついて激昂した。それを見越していたかのように、執事と思われる二人が組み伏せると女性が八津に厳しい面持ちで声をかけている。すると、八津は静かになった。黙って身支度をし、玄関に近づいてくる。そして言った。
「まなと、楽しかった。ありがとう。さようなら。」
その言葉の重みと表情と雰囲気と今その場を包み込む全てで、ダンっと二人の関係が断ち切られた事を本能的に悟った。俺たちの溺れた欲深い生活が一旦幕を閉じた。
黒い目になった八津を連れて一行が去っていく。マンションの廊下を遠ざかっていく音が聞こえる。何だか魂を抜かれたようなそんな気分になって玄関にへたり込んでいると、まだ残っていた一人が優しく抱き抱えてそっと座らせてくれた。
「申し遅れました。私は祠堂家にお仕えしております、執事の山崎と申します。本日はお騒がせして大変申し訳ありません。また改めてお詫びに伺わせていただきます。こちらは気持ちばかりのものですのでお納めください。」
何が何だかわからないけれど、それでも俺の全てだった八津がさようならと言って行った事実が受け入れられなくて、それでも自分が渦中にいる事はわかって、混乱していた。その中で優しく声をかけたこの人もその世界を壊した人の仲間でどうにも恨めしいのに、今は言葉が出てこない。放心状態の俺に気遣ってか、下で待つ主人を待たせる訳にはいかないからか、そのどちらもなのか、手に持った分厚い封筒はそっと俺の側に置かれ、失礼しますと小さく言った後、全ての嵐は去っていった。パタンと閉められたドアは確実に二人を隔絶し、もう二度と近づく事がないようにと封印でもされたかのように思えた。たった、ほんの数分前まで隣で寝ていたのに、今はもう何も残されていなかった。何が起こったのか理解できないまま、気がつけば数時間そこでへたり込んでいた。それでも現実は変わっていなくて、その瞬間も静まり返った部屋に八津の気配はなく、ただ俺の吐く息の音と時計が時間を刻む音だけが乾ききって響くだけだった。
翌日大学に行くと、そこに八津の姿はなかった。そんな気はしていたが、次の日も、その次の日ももう大学で姿を見る事はなかった。八津のゼミの教授に聞くと、大学は退学してどうやらどこかに留学したらしいぞ、と気もそぞろに教えてくれた。分かってはいたものの、他人から突きつけられる事実は家に残された八津の服やバッグや靴よりもキツくて、受け入れるまでに随分と時間がかかった。他人からの情報はそこに事実しかなくて、もしかしたらとか実は間違いなんじゃないかとか、そう言う希望的観測は皆無なのだ。日に日に薄まっていく八津の香りに、どんなに辛くてもまだ大好きでもそれでもそんな日常に慣れていく自分に辟易して、無心で何とか大学生活を生き抜いた。
就職が決まって引っ越そうかとも考えた。全てだった八津と突然別れてから一年。流石に卒業する頃にはもう部屋の中の八津の荷物はひとまとめにしてクローゼットに仕舞い込む事ができる程には落ち着いていた。あの日から携帯も通じなくなって、メールをしても返信はない。大学にもいない。留学した先はわからない。家は大体目星がついたものの、あんな踏み込み方をしてくるような家に乗り込むようなそんな勇気は持ち合わせていないヘタレだった。女なら、妊娠でもできたなら、なし崩しにでもその家族に切り込むことが出来たかもしれない。でも俺は生物学的にその選択肢を持たない。何をどうしてもその家に俺がプラスの可能性を持ち込めない事が分かっていたから、何よりもその事を今更詳らかにされてこれ以上傷つきたくなかったから、何も行動は起こせなかった。そんなどうしようもない未練たらたらな俺が唯一できる事はここに住み続ける事しかない。もしかしたらあいつがまたふらっと帰ってくるかもしれない。今日の夜帰ったら、また何もなかったかのようにおかえりって言って飛びついてくるかもしれない。俺だけがあの日のまま時間を止めていればまた戻れるかもしれない。そう思ってはそうならない夜に性懲りも無く涙を流しては枯らす、そんな意味のない日々を過ごしていつの間にか社会人になっていた。
無常にも日々は過ぎ、それでも俺は引っ越す勇気もなく、誰かと新しく関係を始める事もできず、こんなにも沢山の人が蠢いている世界で、たったひとりぼっちで、もう流す涙も残ってはいなかった。
ある日の帰り道、いつものように残業をして疲れきっていた俺は電車の中で眠りこけていた。そして懐かしい夢を見た。
・・・まなといっつも電車で寝てるね。いつか財布すられるよ。
・・・大丈夫だよ。ここは日本だぞ。それに俺の財布に金なんて入ってねえ。
・・・じゃあイタズラはされちゃうかもな。まなと隙だらけだから。
・・・何だそれ。そんな物好き、お前くらいしかいないよ。八津。
懐かしい匂い。
懐かしい柔らかさ。
懐かしい髪。
懐かしい声。
知っている、忘れるはずがない、心の底から求めていた、何よりも欲しかった、誰よりも近くにいたかった・・・
「八津・・・!」
「シーーーっ、声大きいよ。」
「お前・・・!今までどこに・・・!何で今更・・・!」
「ほら、まなと。そんなに泣いたら周りの人たちびっくりしちゃうよ。落ち着いて。俺はここにいるから。一旦落ち着こう。」
そう言って俺の背中をさすりながら、カバンから出したタオルでゴシゴシっと顔を拭かれる。その仕草は変わらなくて、そしてあんなにも泣いた涙をよそに一瞬で馴染んでしまう自分の現金さにも驚いて、ただただ魂が抜けたようなそんな腑抜けになってしまった。
気がつくと家に着いていて、当たり前かのようにくつろぐ八津にとうとう俺は過労死してしまったんだと思ってしまった。
「俺、死んだんだな。過労死か、嫌だな・・・。」
「え?いや、まなと、何言ってんの?」
「死ぬ前にお前に会いたかったんだな。そりゃ心残りだわ。あんな最後だったもん。これ触れるのかな。あ、触れる。じゃあ抱きついとこ。あったかい。よくできてんな。走馬灯の一環なのか、これ。」
「いやいやいや、まなと!しっかりして!生きてるから、まなと生きてるよ!俺も生きてる!」
「え・・・?」
そう聞くと途端に恥ずかしくなって、そっと体を離して、ずさささっと後づさりする。もう二年、二年も何の音沙汰もなかったのに、何で今更・・・。
「まなと・・・。俺の事、もう好きじゃない・・・?」
「いや、え?何で?何で二年も何もなかったのに!何で・・・、何で今更!」
「ねえ、もう嫌いになっちゃった?まなと。」
そっと頬に触れられて、何よりも嬉しかったのに、何よりも待ち望んでいたのに、それでも同じくらいにそれは憎悪のような感情にも似ていて、手を払いのけてしまった。
「さ、わんな・・・」
「本当に?」
「・・・だって、何で?何なの、本当に。お前さようならって何なの。俺ってそんなもんだった?お前にとってそんなもんだったの?俺には全てだったのに!俺にはお前しかなかったのに!」
一度溢れ出した涙はもう止まらなくて、悔しくて悔しくて、殴り続ける八津の胸はあの頃より少し逞しくなっていて、全てを受け入れて抱きしめる優しさは昔のままで、決して俺だけが辛い思いをしていた訳ではない事くらい分かっていた。それでもそんなどうしようもない俺も今は受け入れて欲しかった。またドロドロに混ざり合って、取り返しがつかなくなってもいいと思ってしまった。
涙と鼻水でぐちょぐちょになった俺に優しく八津がキスをする。
「しょっぱ。まなと泣き過ぎ。」
「だってぇ・・・。もう、二度と会えないかと思った・・・」
「そんな訳・・・。でもごめん。本当にごめん。ごめんなさい。」
「俺が女だったら、お前の家族にも受け入れてもらえたのかって、俺が何かできるようなすごいやつなら良かったのかって。でも何をどうしてもお前を探す理由にできるものがなくて。でもどうしても寂しかった。本当に寂しかった。」
「本当にごめん。俺は俺でケリを付けてきたから。待たせてごめんね。」
「待ってたなんて言ってないだろ・・・。」
「嘘だ。」
「何なんだよ。そうだよ、嘘だよ!お前が帰ってくるかもしれないと思って引っ越せなかった。会社に近い場所だって借りられるのに、できなかった。」
「ありがとう。」
たった五文字のありがとうの言葉が胸にこれでもかと染みて、痛いほどだった。それでも目の前にいる八津は本物で、温かくて、俺への気持ちはその腕から十分に伝わった。キスをしてキスをして、それでもまた消えてしまうような、そんな気に囚われて、ひたすらに抱きつく俺をただひたすらに優しく抱きしめて、大丈夫だよと囁き続ける。もっともっと触りたくて、キスをしていたら、いつの間にかその腕の中で寝落ちてしまった。久しぶりに温かくて、いつぶりか分からないくらいに熟睡した。朝のアラームで起きた時、その隣に八津の長いまつ毛が見えた。何度も何度も夢に見た、見たかったその光景にまた涙が溢れた。
「まなと・・・また泣いてるの?」
「ごめん、まだ実感が湧かなくて。本当に俺、お前の事が今でも好きだから。」
「わかったよ。ありがとう。俺は、愛してる。まなとを愛してる。」
ただ今この瞬間を一緒に、一秒でも長く、二人だけでいたかった。キスをされる場所が熱くなって、吐息が漏れて、もっともっとお互いに触れていたくて、ただただキスを重ねる。胸をなぞる指が、指を絡めた手のひらが、じっとりと汗ばみながらもそれでも止まる事はできずに、ただその端々から溢れ落ちて溢れる。
愛してる、愛してる、愛してる・・・
ただその言葉だけを切れ切れに、お互いに囁き続け、離れていた二年間をただ一心に埋めようとしていた。
八津はその二年間で一体何があったのか、詳細を教えてくれる事はなかった。ただ、実は許嫁がいて、それを解消する条件を満たす為にした留学だったらしい。実際はその数年で頭が冷える事をもちろん家族は期待していただろうが、そうはならなかった。俺が同じ場所で時を止めて、ただ惰性のように就職してゾンビのような顔をしていた頃、八津は家の提示した条件をこなそうとたった一人で必死に頑張っていたのだった。隣で支えられれば良かったと思ったけれど、意思も弱い俺はきっと足しか引っ張らなかっただろうと悲しくなった。八津はそんな事ないと優しく微笑んだけれど、確実にそうだ。俺はお前なしでは何もできなかった。ただ生きて、ここで待つ事くらいしかできなかった。
「それが俺にはできない事なんだよ。まなとだからできる事。俺を好きでいてくれてありがとう。」
そう言われた意味がイマイチ飲み込めない気がしたけれど、それでも褒められている事はわかったから、その時はそれで良かった。ただ、八津がまたこの距離にいてくれる事が何よりも重要だったから。
ただ今となっては恐らくあの再会が終わりの始まりだったのだろう。俺の知らない事情があって、それを隠して、その上で俺の元に戻ってきた。八津は嘘がつけないから、語らない事を選んだんだろう。だからこそ、その重みに耐えきれず押しつぶされてしまった。俺はその荷物を一緒に持ってやる事ができなかった。誰よりも愛していたけれど、八津も俺を愛していたけれど、その荷物を渡してもらう事はできなかった。俺が受け取れなかったのかもしれない。八津がそれだけは触れさせたくなかったのかもしれない。一般家庭に育った俺にはわからないどうにもならないしがらみもあったのだろう。想像はしても、それが身に降りかかるとどうなるのか、それは当事者になってみないとわからない。気持ちがわかるとかそんな事を言ってはいけないのだ。絶対にわからないのだから。
俺が在宅で仕事をするようになると、八津は一緒に過ごせる時間が増えると喜んでいた。けれども時折何かひどく思い詰めたような表情をする事があって、その理由は今となってもわからない。向こうの家族と交流するようになって、事情がほんの少しでもわかるようになると、八津の感情の振り幅はより目に見えて大きくなっていった。仕事を調整しながら、支えようとしていたが、ある日八津の姉さんに発作を見られて、精神的にどうこうと言うフェーズを超えていた事がわかった。もう二人の世界だけでは完結できない域に達してしまっていたのだ。投薬をしながら、祠堂家の別荘で療養を始め、八津の病状は少しずつ改善しているかのように見えていた。笑顔を見せる事も増えていたし、前よりも感情の幅を狭くコントロールできていた。
落ち着いていたある日、来年のカレンダーの話をしたら、久しぶりに発作が出て焦った事がある。何か区切りでもあったのだろうか。翌年に何か逃れられない恐怖でもあったのだろうか。発作の原因であろう事実を詳しく聞き出す訳にもいかず、向こうから話してくれるのであれば受け入れるつもりだったが、その翌年に自ら命を絶つまで、その話を八津がする事はなかった。
俺の仕事の都合で別荘を引き払う事になる少し前。遠出した海辺のレストランで奇妙な約束をさせられた。八津が俺の元に戻ってきて以来、ほとんど強く何かを求める事はなかったのに、その時だけは俺がうんと言うまで引き下がらなかった。死んだ日に夢枕で言った言葉は多分この事だろう。後にも先にも八津から言い出した約束はこれだけだった。
死んだら俺を喰ってくれ。まなとの一部になりたい。
俺たちは狂っていた。それでもこれはある種の極みだろう。人の骨を食べるだなんて、大体あれは噛めるのか?砕いてからなのか?と言うか、火葬場から持って帰る事はできるのか?
そもそもお前は俺を置いていくつもりなのか・・・?
一番聞きたかった言葉は聞けなかった。八津が本当に死んでしまうまで、一人で出かけるたびに、先に寝てしまうたびに、もしかしたら置いていかれるのではないのかと疑心暗鬼になった。あの時、仕事を断って別荘に留まっていれば置いていかれる事はなかったのか、それでもどの道を選んでも俺は置いていかれる運命だったのか。それをずっとずっと考え続けた。考えても考えてもわからない、お前に答え合わせをしてもらう事もできない。それでも一人になるとその問答から逃れられた日はなかった。そんなある日、たまたまネットの掲示板であの約束に似た書き込みを見つけたのだ。
”第一の契約は生きている時に相手に遺骨を食べると約束させる。第二の契約は死んだ後に残された相手が骨を食べる事で成立する。二人は死後融合して、その後永遠に離れる事ができなくなる。”
恐らくこれらは各地に古より伝わる冥婚だったり、ほねかみだったり、そう言う民俗学的な話があちこちに伝わるうちに形を変えたりしたのだろう。もしくは誰かが本当にあちらの世界で聞いた話なのかもしれない。その噂は誰ともしれず、ネットや人々の間を渡り歩き、時代によって柔軟にその姿を変えているのだろう。
八津。俺たちにはタイムリミットがあったんだな。俺に負担をかけまいと、一人で抱え込んだ結果、一縷の望みに賭けてしまったか。バカだよ、お前は本当に。俺はお前となら、どこまででも地の果てでも行ってやったのに。でもそれが分かっていたから、こんな無謀な賭けをしていったのか。俺が絶対に乗ると分かって。自惚れ野郎め。限られた今よりも、俺と永遠を過ごしたいと、お前はそう思ったのか。
俺は今すぐお前の元に行く事はできないけれど、それでも、俺もお前との永遠の時を、お前と同じように望む。
だから、俺はお前を喰ってやる。