3 二人の出会い
「すみません。その席俺の席です。」
思い立って開演時間間近に当日券を買って滑り込んだクラシックのコンサートで二階の端の安い席に座っているとそう声をかけられた。ポケットにねじ込んでいたチケットを慌てて見返すと隣の席に座っていたようだ。
「あ、ごめんなさい。俺の席隣でした。椅子あったまっちゃって申し訳ない。もしよければ俺の椅子に座っていただいても…」
「いえ、もし良ければあったまった椅子をお譲りいただいても?その席からだとコンマスがよく見えるんです。面倒くさいやつですみません。」
「とんでもない!どうぞどうぞ。間違っててすみませんでした。」
「お気になさらず。」
焦って席をスライドすると、その人はニコリと笑って席についた。
俺はこの時二十歳、八津は二十二歳。これが二人の出会いだった。
程なくして開演の鐘が鳴り、場内が暗くなる。その席からはオーケストラの全景は見えない。だからこそ安いのだ。一般的にはやはり指揮者の背中を真正面に見る一階席で見るのが正攻法なのだろう。ただ彼の言う通り、この辺りの席からならコンマスことコンサートマスター率いる第一ヴァイオリンがちょうど正面に見える。あまり気にした事はなかったが、そう言う見方をすれば聞こえて来る音も違うような気がした。
クラシックコンサートは一時間程で一幕が終わり休憩に入ると二十分程で二幕が始まる。構成によって多少の違いはもちろんあるだろうが、特別公演だとかにはあまり行く事がないから大体まあいつもこのような流れだ。
今回の目的はバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタを聴く事。俺はこの中でも第四楽章Prestoが大好きで、朝起きたら無性に聴きたくなったから普段なら休みは寝て過ごすのに、演目と学生限定割引に惹かれて出て来たのだ。今日あるコンサートを検索して好みの演目が見つかって、しかも当日券販売があるなんてそうそうない。ヴァイオリン協奏曲もいいが、やはり無伴奏ヴァイオリンを聴く機会は限られる。しかもオーケストラがいるのに、あえての無伴奏だし、今日は本当に運が良かった。
しんとした空気から始まり、ホールに響く速弾きのPrestoは脳天に響くようで心地よい。その後も長めの協奏曲が次々とホールを埋め、最後の演目が終わると拍手喝采、しばらくは拍手が鳴り続ける。何度か指揮者や奏者が入っては出ての挨拶をし、それが終わるとゾロゾロと観客が帰り始める。人混みが苦手な俺はとりあえず待てるところまで待って出ようと思っていた。隣の彼が立ち上がり、前を通るならと足を引くとまたニコリと笑顔を向け、話しかけて来た。
「Prestoお好きですか?」
「え?あ、はい。もちろんAdagioもそのほかも好きなんですけど、何だかこの旋律が体に響くんですよね。前に聞いたら病みつきになっちゃって。」
「何か分かります。俺も好きなんですよ。忙しないから好きじゃないって人もいますけど、いいですよね。」
「そうなんです。今日もガツンと響いてストレスが溶かされましたね。」
「それはよかったですね。それでは、お先に。」
彼はスマホが鳴っていたようで、その後足早に立ち去っていった。これまでにも何度か一人でフラッとコンサートには来ていたが、誰かと話したのは初めてで、彼の去った後も新鮮な余韻がその場に残った。無伴奏ヴァイオリンのPrestoが好きだと言って分かる友達や知り合いがいなかったから、その出会いはすごく特別で、連絡先を聞いておけば良かったと思ったのは後にも先にもこの時だけ。思えばあの時既にそれだけではないものを感じていたのかもしれない。
連絡先聞いてみれば良かったな…って俺は何て言って聞くつもりなんだ。もっとお話ししませんかって?それだと何だかナンパみたいになっちゃう…いや、男同士だからそうは取られない…?いや、それはわからないよな…。危ない、危ない。変な気を起こさなくてよかった。
それにしても背が高くて、表情が柔らかくて、男の俺から見てもかっこいい人だった。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、を地で行く男性がいるとは思いもしなかった。今まであんまり誰かが気になる事はなく、興味が持てなかったのにその彼はふとした瞬間にその後も脳裏に浮かんで物珍しかった。
*****
「おい!聞いてんのか?どうしたんだ?先週からおかしいぞ。ぼーっとして。」
大学の学食でカレーをトレーに落として、空のスプーンを食べようとする俺を同じゼミの加藤が心配している。確かに変だ。
「え?いや、別に。」
「ねえ、カレー落としてますけど?スプーンだけ舐めてたら昼飯終わんねーわ!別にな訳ないじゃん。何だ?恋でもしたか?誰だ?紹介しろ。」
「あぁ、本当だ…。いや、恋なんてしてないよ。ただちょっと気になる人がいるだけで。」
その瞬間、少し離れた窓際の席でカレーを食べる彼を見つけて思わず立ち上がる。勢いよく立ち上がったせいで椅子がガタンっと音を立て、加藤が支えてくれていなければカレーをトレーごとひっくり返している所だった。
「おぉいぃ…何だよ、何なんだよ…。俺の反射神経試してんの?やめてよ…」
「なぁお前、あの人知ってる?あの窓の柱のとこのカレー食べてる人。」
「えぇ?え、何だよ、ん?って、男じゃん。あいつ見た事あるような気がするなぁ…どっかで教室一緒だったかも…。でも名前までわからん。てか、お前も一緒だよ、ほら古文かな、プログラミングかな…」
「ええ?雑だな…」
「聞いたのお前なのにひどくない?でもまた一緒になる時あると思うぞ。まあ確かに綺麗だけどあいつが気になる人なの…?あ、お前ってどっちもいける感じ?」
「いや、そう言うのじゃなくて。この前ヴァイオリン聞きに行った時にたまたま隣の席で好きな曲が一緒だったんだよ。あんまりそんな人今までいなかったから珍しくて気になったの。」
「あー趣味友になりたいと。だったら普通にあのコンサートで会いませんでした?って聞いてみたらいいじゃん。まあナンパである事は変わんないけど。頑張れっ!じゃ、俺午後ないから帰るわ。」
そう言い残して加藤はさっさと帰って行き、俺はほんの少しだけ目処のついたこの胸のつかえを取る糸口が掴めた事で、冷めかけのカレーを改めて食べ始める。
まさか同じ大学で、しかも同じ授業取ってるなんて。友達になれたらいいけど、あの綺麗な雰囲気にする気後れがどうにもあと一歩を踏み出せない。じーっと見つめながらカレーを食べていると、かなり離れていたにも関わらず視線を感じさせてしまったようで、ふっとこちらを向いた。同性を気が付かれるほどに見つめていたなんて洒落にならないので、慌てて視線を落としてカレーをかき込むと飲み込むのもそこそこに食堂を後にした。ぼーっとしたり、落としたりしていたから、目立ちにくいとは言え飛び散っているカレーのシミをお気に入りのネイビーのパーカーに見つけ落ち込む。
何やってんだ、俺は…。
何とか気を取り直し、午後のコマをこなした。いつもよりもどっと疲れた感じがして、帰る前に構内のベンチで一息ついてスマホを見ていると今晩のコンサートの当日券販売情報が投稿サイトに掲載されているのを見つけた。
オーケストラの定期演奏会、学生なら二千円か…よし!
少しもやもやしていたから気分転換にちょうどいいと、大学から三十分程の音楽ホールへ足早に向かった。まだ少しあるからとこの先の公演予定を確認していると、足元に小銭が転げてきて、靴に当たって止まった。拾い上げて顔を上げるとまさかの彼だった。
「あの、もしかして…」
「やっぱり!この前のコンサートのPrestoの人で今日のカレーの人ですよね!」
「あ…はい…。この小銭って。」
「あ、俺のです。ありがとうございます。でもまたコンサートで会えるなんて!あ、十九時からのコンサートですよね?」
「そうです。あなたも?」
「はい。あ、俺情報学科の二年で祠堂八津って言います。」
「近藤まなと・・・です。俺も情報の二年です。」
「そっか!同じだったんだ!じゃあ敬語なしで、よろしくね、まなとくん。」
「え?あ、よろしく・・・。」
「今日の席はどこですか?俺は二階のB列真ん中辺りかな。」
「あえ・・・?!俺もB列真ん中辺り・・・。」
「嘘!すごい偶然。こんな事ってあるんだ。驚き。良かった!また会えたらいいなって思ってたから。」
実は何となくまたここで会えたら、この人と話せるかもしれないと思って、当日券を買う時にコンマスが見える位置を確認して席を指定した。よく言えば運命的だが、好意がない相手ならはっきり言って気持ち悪い。だからこそ、功を奏したこの計画もいざ叶うと何だか後ろめたくて、素直に喜べなかった。でもそれを察したかのように、また会いたかったと言ってもらえた事に安堵して、ほんの少し破顔してしまっていた事がバレていなければいいのにと狭いエスカレーターに乗りながらその背中を見つめていた。
その日から大学でも気づけば一緒にいる事が増えて、一人で何の気なしに行っていたコンサートも二人で予定を合わせて行く事が増えた。それでも一人で行く事もあったが、既に物足りなさを感じるようになっていて、自分でも驚くほどだった。あんなにも一人が気楽だったのに、好きなものを好きなように話せる開放感と理解してもらえる安堵にどんどんハマっていった。話す内容が二人にしかわからない事だったりもするから、自然とその他の友達は遠巻きになっていき、どんどん二人だけの世界が作られていく。一人暮らしの俺の部屋に八津が遊びに来る事も増え、泊まっていく事も普通になっていった。ほとんど同じ値段だったからと学生の一人暮らしにしては奮発して買ったセミダブルのベッドが窮屈になる日が来るとは思いもしなかったが、現実そうなった。それまでもスキンシップは多い方だったが、一緒にいる時間が長くなればなるほど、二人だけの距離感で二人だけの世界がこの部屋を中心に出来上がっていく。
その日は冬らしい寒さで、二人で鍋をした後に何となくつけていたテレビを見ながら、それぞれ片付けをしていた。
・・・クリスマスに向けた恋人づくり!皆さんはクリスマスを一緒に過ごす彼氏や彼女はいらっしゃいますか?いないなら作っちゃお〜!・・・
騒がしいタレント衆がクリスマスに相手を作るにはとか、過去のエピソードなんかを披露している。そう言えば今まで誰かとクリスマスを過ごすなんて考えた事もなかった。バイトをしていれば、その時期はシフトが薄くなったから入れば重宝されたし、まあ後は家族でケーキを食べるくらいなものか。サンタが来なくなったクリスマスにはあまり用がなかったのが現実だ。でも八津はどうなんだろう。こんなに俺とばっかり遊んでいて、クリスマスはどうするんだろう。普段は俺といても、クリスマスは別の相手と過ごすのかな。今まで気にした事がなかったのに、一度気になってしまうと止まらなくて、どうなるかわからないのに聞いてみたくて、確認したくなってしまった。多分八津に彼女はいない。それでも俺が知らないだけで、もしかしたら誰かいるのかもしれない。
知りたくない気もするのに、何故かどうしても知りたい。
「なあ八津。お前、クリスマスは彼女と過ごすの?」
「どうしたの突然。俺彼女いるの?」
「何で俺に聞くんだよ。知らないよ。いや、今テレビでクリスマス彼女とって言ってたから、お前どうするのかなって。」
「ふうん。ほとんど毎日まなとと一緒にいるのに、何で突然別な人とクリスマス過ごすのさ。まなとは俺と過ごさないの?」
「いや、俺はお前の彼女じゃないし。」
「じゃあ彼女になる?」
「は?何言ってんの。俺は・・・、んっ!」
瞬間、口に柔らかい感触があって、八津の匂いがした。さっき食べたトマト鍋のスープの香りと味がして、何が起こっているか本当はわかっているのに、それでもわからないフリをしたい自分もいて、だからこそそのままその感触を感じ続ける事になる。どうしたのか、どうしたらいいのか、ここで拒否して八津に嫌われたくない。でもだからって軽いやつだとも思われたくない。そもそもこの後の展開が何となくしかわからない。わからない事を考えるのは怖い。その時、八津の舌が唇を舐めて正気に戻った。突き放す訳ではなく、やんわりと肩を押す。辞めたい訳ではない。八津との仲を拗らせたい訳ではない。別に気持ち悪くもない。実際加藤とは無理だ。つまり八津となら実際なくもないのだろう。だから、拒否じゃない。ただ情報と状況を整理したい。
「・・・ちょ待て・・・。八津、待て!お座り!」
「何で?」
「何で?じゃないわ。子犬みたいな表情すれば何もかも許されると思ったか?そこは勢いでしていい事じゃないぞ。わかってんのか?」
「じゃあ勢いじゃないならいいの?」
「いやいやいや。そもそもなんだけど、俺らは友達なんだよね。そう言うの込みの友達になるの?八津はどう言う感情で今こうしてる訳?あー、何だよ!何で俺がめんどくさい女みたいになってんだよ。おかしいだろ・・・!」
「あ!わかった!まなとくん、好きです。彼女にしてください!」
「お前さ、今ここで好きって言っとけばヤレるとか思ってないよね?しかも彼女って何だよ。俺もお前も男なんだよ!言うなら彼氏じゃねえのか!」
「ふぅん・・・。じゃあ、彼氏にしてください!俺と付き合ってください!大好きです!」
「えぇえ・・・?!何でいきなりそうなった?」
「大切にします!」
「えぇええええええ・・・あっ!おいっ・・・!」
嫌なの?と聞かれてすぐに嫌と言えない俺に突然押しが強くなった八津はここぞとばかりに付け込んでくる。さっきのキスはまだ少し遠慮があったのに、この会話の最中からグイグイと俺に迫ってきて、体は既にジリジリとベッド際に追い詰められている。普段天然で好き放題やっているかのように見えて、これは確実に計算ずくの行動だ。
いつからなんだ。もしかしてずっとこの機を狙っていたのか?
虎視眈々と言うやつだったのに、俺は一切気が付かずに何なら自分で撒き餌を撒いて食い付かせたのだろうか・・・?ずっと一緒に寝ていたのに、たまに風呂だって一緒に入っていたのに、その時は何もそんな素振り見せていなかったのに、全部隠していたのだろうか?それともたった今、あ!俺まなと好き!ってなったのか・・・?それなら俺の方が先に気になっていたとも言えそうな・・・って俺は気になっていたのか?八津の事が?
ふっとあの日を思い出した。
・・・Prestoお好きですか?・・・
あぁ、そっか。そうだった。
その日から俺は八津が気になって、ストーカー紛いに学内でも目で追いまくって、他の誰かと遊ばないように先のコンサートの予定を立てたり、週末も家で飲んで居心地良くさせていたのか。無意識のうちに。
そうこう考えているとベッドに押し倒され、改めてキスをされる。キスをしてキスをして、頭を撫でられて、それが気持ち良くなって、今何でこう言う事になっているのか段々考えられなくなって、どうでも良くなってくる。せめてのせめてで、さっき八津は俺の事を好きだと言っていた。だから欲だけでこんな事になっている訳ではない・・・はずだ。それならまだ未来の自分にも言い訳が立つ。そして二回目のキスまでしてしまった以上、もう何もしなかった友達には戻れないだろう。相手が自分を好きだとわかってしまったら、今まで無意識に触ったり、言ったりしてきた事は無神経すぎて出来ない。それならいっその事この先まで行けるか試してみるのも手だ。可能性があるかもしれないなら、それを試しもせずにふいにするのは何だか勿体無い気がして、流れに身を任せた。今まで見た事のない八津の上気した顔に、昂った目に継ぐ言葉を奪われる。その目はまるで獲物を狙う蛇のそれのようで、まっすぐと目を見据えられた俺は身動きが取れない。改めて覆い被さってきてされたキスは乱暴に脳を揺さぶる。段々と妙な温度の色気が八津を包み、じっとりとそれを体に纏わせて、いつの間にやら熱に当てられた俺はもう力が抜けてしまった。譫言のように名前を呼ばれ、肌と肌が当たる音は汗でその音を濁し、部屋に低く静かに響く。ふらっと途絶えた視界がブワッと戻って、抑えられない声と共に止められずに痙攣する度、だらしなく乱れたシーツを汚す。その度に全身の神経が極限になって解放されると共に極度の疲労が体を蝕む。そろそろもうダメかもしれない、そう思ったが最後、虫の息になった俺は気を失って、冷たいシミのあるシーツにどさっと倒れ込んだ。遠くで八津の声がした気がしたが、もう相槌の短音を出す力さえ残っているはずもなく、その目を開けている事さえ敵わなかった。
温かい・・・。
まずい、俺まさかおねしょでもしてるんじゃ・・・!
ハッとして目を開けると、視界に映ったのは入浴剤で緑に色づいたお湯で、足が四本見える。俺の足と・・・。
「まなと、目が覚めた?大丈夫?体洗って、今お風呂であっためてるところ。痛いところとかない?」
「腰がだるいけど、まああれだけやれば・・・。え、ここまで俺を運んで体洗ったの?!」
「うん。まなと気を失っちゃったけど、体もベッドも綺麗にしないと寝られないし。大丈夫?」
「大丈夫って・・・お前は大丈夫なの?重かっただろ、しかも意識ない状態とか普段の倍は重く感じるぞ。」
「まなとが少し小さくて、あんまり筋肉もなくて助かった。俺は大丈夫。それどころかすごく満たされてる。幸せ。ずっとこうしたかった。それに今の今まで力抜けてたのに、突然しっかり話し始めるのも可愛い・・・」
「可愛いとか言うな!」
「ねえ、まなと。大好きだよ。好き。大好き。」
「わかってるよ。好きでもなきゃ、ここまで普通できないだろ・・・」
「大好き、まなと。」
「俺も・・・好き、だよ。」
風呂に一瞬でビンッと響くような大声で八津が驚くものだから、俺まで驚いてしまって、湯船のお湯がザブンと溢れ出る。俺がいくら少し小さいとは言え、大学生の男二人で入って余裕がある程、大きい風呂ではないから、溢れ出たお湯がドアにバシャンと当たるとハッとしてそっと湯船に入り直す。それでももうお湯は半分くらいになっていて、冷静になるとやっぱり狭い風呂に今度は笑いが込み上げてきて、湯冷めをする前に出ようと八津が耳打ちする。抱き抱えられるように俺が前にいたから、先に立ちあがろうとすると腰に力が入らない。すると八津が後ろから頭にキスをすると先に出て、タオルを持って戻ってきた。本当に優しく、大切なものを壊れないように扱うように、体を、髪を拭いてくれる。一人自分が置かれている状況について考え込むも、八津はいつも通りニコニコとしている。何もなかったのかとも思えるが、当たり前かのように後ろからぎゅっと抱きしめられたり、明らかな倦怠感に圧倒的事後を認めざるを得ない。この距離感は今日が初めてのはずなのに、なぜだかずっとそうだったような、そんな気さえしている。無意識にその腕に頭を擦り付けてしまっている自分にも驚き、そしてその体温にざわめく気持ちが落ち着く。元々ここに収まるべきだったかのように、その腕や胸はしっくりときて、これより他はこの先もないだろうと何故か確信してしまう。漠然といつか誰かと結婚して子供ができて、そんな人生だと思っていた。それでもここでしっくりきてしまった以上、それは俺の人生ではなかったのかもしれない。こんな選択肢があるとは予想だにもせず、未だこの先をどうしたらいいのかはわからないけれど、俺を心から好きだと言ってくれて、抱きしめて愛を示してくれる八津が今は何よりも愛おしいと思ってしまった。八津が一歩踏み出してくれなかったら、俺はどうしていたのだろう。ちゃんと想いに気がつく事もなく、もしかすると無神経に普通に誰かと付き合い、それを紹介したりしたのかもしれない。反対だってあったのかもしれない。埒が空かないと諦められた可能性もあったかもしれない。
たった一言、好きだと言ってくれた事で気がつけた事実が嬉しくも恐ろしくもあった。
この愛を自覚するにはまだ俺たちはとても幼くて、だからこそわかる事もあった。当然わからない事もある。知りたくない未来がその先に待ち受けていたとしても、俺はこの今を選んだだろう。もしそれが本当の意味で誰かを生涯をかけて愛する事の痛みや苦しみを知る事になったとしても。この先平穏な何もない人生を強弱のない感情の中で過ごすならば、その大きな波に叩きつけられようとも、沈められようとも、それでも八津の手を離さないそんな人生を選ぶ事に生涯悔いはなかった。もちろんたらればはいくらでもある。それでも死ぬ思いで血を流して、息を絶え絶えにしながらも、誰かを心の底から思えるのだとしたら、代償が何であってもそれは比べるまでもない。俺たちの恋や愛は始まりから既に手に負えるような代物ではなくて、それは既に拗れていて、絶対に解ける事はなかった。それを二人が心の底から望む以上、絡まって、絡まって、落ちるところまで落ちるのだ。そしてその底で変わらずお互いを愛し続ける。深く深く深く二人でその底に潜って。