第96話 冷別告グ、抜剣
流れ落ちる滝の音。
水しぶきに揺れる鮮やかな青葉。
苔むした岩場の合間を流れる小川の水面はキラキラと輝いている。
豊かな渓流であった。
全方位からの眩い光に串刺され、唯は暗闇に慣れた目をぎゅっと瞑った。
暗いトンネルからの光量差が大きすぎて幻覚でも見てしまったのかと、唯は己が目を疑う。
されど全身に押し寄せる命の匂いが、これは現実だと訴えてくる。
薄目を開け、飛び込んできた光景を見て、唯は困惑に立ち尽くした。
生い茂る草木の緑と、清らかに澄んだ流水。
地球の野山を切り出してきたかのような、美しい自然が広がっていた。
「ニードル母艦にこんな場所が……!」
天井の高い部屋である。
自然光に近い温かな照明が見下ろす部屋は、壁一面が苔むした岩に覆われていた。
その隙間から絶えず湧き出す水が滝となって岩肌を伝い落ちる。
流水を受け止めるのは、段々畑のように何層にも重なった岩棚だ。
各層に堆積した土砂の上には背の高い水草が青々と茂っていた。
微かに波打つ水面をよく見てみれば、大小様々な魚がゆったりと泳いでいるのが分かる。
高低差のある岩棚を複雑に経由して形作られた小川は壁際から部屋の中央へ向かい、唯のいるトンネル出入口付近の水路へと流れ込む。
唯の足元にも石が網目のように敷き詰められ、その隙間には透き通った水が張り巡らされている。
まるで植物園かビオトープのような、美しき水の芸術。
異次元世界に浮かぶ鋼鉄の艦の中とは思えない、生命に満ち溢れた空間であった。
あまりに不自然すぎる自然に出迎えられ唖然とする唯だったが、すぐに気を取り直す。
水の広間の中央に佇む一人の少女。
彼女の傍らには、銀色の直方体が地面に突き刺さるように屹立していた。
人工的に形を整えられた直方体は周囲の美しい景観から弾き出されんばかりに浮いている。隣に並ぶ少女も同じだ。
銀色の直方体に手を添えながら、少女が口を開いた。
「来てくれたんだね、お姉ちゃん」
「ッ……!!」
少女の顔を見た唯は、息を呑んだ。
唯が必死に探し回っていた妹が目の前にいる。
ほんの数秒前まで、会いたくてたまらなかった。
それなのに今は、直視することができない。したくない。
強烈な拒絶反応が唯の全身を駆け巡る。
「ふふ……やっとお姉ちゃんと会えた。もう一度お姉ちゃんの顔が見られて、嬉しいよ」
肩口で切り揃えられ、ピンクのメッシュが入った髪。
ボロボロにほつれ、所々破れたグレーの制服。
平和を守るAMFの制服をこうもダメージングに着崩していると、かえって人々に不安を与えてしまうだろう。
いや、唯が目を奪われたのは、妹のちょっぴりパンクな格好ではない。
彼女の右目。
眼窩を覆い隠す灰色の物体。
少女の頭には、血の通っていない機械装置が埋め込まれていた。
頭蓋骨の重心を歪めてしまうほどの、人間の握りこぶしよりも大きいゴツゴツとした物体である。
何かのセンサーやレンズが駆動しているのか、曇ったゴーグル状のカバーの下では通信機器のアクセスランプのような青い光が明滅している。
軍用ドローンのカメラモジュールを無理やり人体に移植すれば、こんな不気味な顔立ちになるのだろうか。
機械化した右目と、とろんと酩酊したような左目に見つめられ、唯は言葉を失った。
「どうしたの? そんなにまじまじ見つめられたら恥ずかしいな」
「あず……さ…………あんた、その、目……」
「これ? いいでしょ」
梓は恍惚とした表情を浮かべながら、右目に根ざす鋼鉄の塊を愛おしそうに撫でた。
埋め込まれた機械と素肌の境目、瞼のあたりにはまだ新しい切創がかさぶたを作っており、その周りも赤く腫れ上がっている。
目を逸らしたくなるような痛々しい手術痕の見た目に反して、梓本人は全く苦しんでいる様子が無い。
未成熟な少女には不釣り合いな異物を、既に自分の体の一部として受け入れているようだった。
加えて、その口から紡がれた言葉に唯は愕然とする。
「ご主人サマが付けてくれたの!」
鼓膜を震わせた音を、言葉として理解するまでに時間がかかった。
あの梓が、姉以外の誰にも心を開いていなかった少女が、他の誰かを主人と呼んだ。
従業員にコスプレ衣装を着用させる高級喫茶店のアルバイトでもなければ、いたいけな女子高生が口にする敬称ではない。
猛烈に嫌な予感を内心に湛えながら、唯は恐る恐る聞いた。
「…………ご主人サマって、誰よ」
唯は自分で発した声が震えていることにも気づかなかった。
動悸が激しく悶え、喉が急速に乾いていく。
梓の口が開くまでの一瞬が、スローモーションのように長く感じられた。
聞きたくないと思っても、もう遅い。
「ご主人サマはご主人サマだよ。お姉ちゃんに分かるように言うなら……『ニードル』かな?」
胸の中一杯に毒を注ぎ込まれたような気分だった。
「どういう、こと」
「わたしね……ご主人サマと家族になったの!」
「………………は?」
炎鬼の口から間抜けな声が漏れた。
我が妹は今、何を口走った?
ニードルは梓を攫った械獣だ。『コード付き』と呼ばれ、械獣たちの中でも破壊と殺戮を率いる上位存在。ハチ型械獣を介して忌まわしき声を届けにきた唯の敵。
そのニードルが、家族だと?
「そういう意味じゃ、お姉ちゃんはもうお姉ちゃんじゃないのかもね。うーん……でも、わたしにとってお姉ちゃんはお姉ちゃんだから、これからもお姉ちゃんって呼ぶね」
「さっきからあんたが何言ってるのか、全然分からない! とにかく、私はあんたを助けに来たのよ!」
自分に言い聞かせるようにして叫ぶ唯。
気を動転させる姉に対して、機械の右目と虚ろな左目がそれぞれ冷めた視線を向けてくる。
「分からない? …………そうだよね。お姉ちゃんは、わたしの気持ちなんて分からないよね」
梓の声に棘が立つ。
静かだが、その言葉には、長い年月をかけて蓄積されてきたような重みがあった。
唯も頭ごなしに否定はできない。
今まで梓とは何度も喧嘩したし、気持ちを汲んであげられないことも多々あった。
そりゃそうだ、血の繋がった妹とはいえ、頭の中なんて覗きようがないし、相手の考えていることを100%知ることなんてできない。
直近数ヶ月で、心の溝はより一層深まった気もするし。
唯は妹に対する負い目を感じつつも、姉らしく強引に説き伏せようとする。
「……いいから、帰るわよ。話なら帰った後でゆっくり聞くから」
「その必要は無いよ。お姉ちゃん」
梓は歩み寄ろうとした唯を手のひらで制すると、傍らにあった銀色の直方体を地面から引き抜き、軽々と持ち上げた。
「お姉ちゃんと違ってね。わたしとご主人サマは心のずっと奥深くで通じ合ってるの。だって本当の家族だから。今からそれを教えてあげるね」
にこっと口角を上げ、満面の笑みを作る梓。
手にした銀色の直方体に指を這わせると、両端から何かが伸びた。
奇妙な形状の突出部は、まるでバイクのハンドルのよう。
よく見ると、持ち手にはどちらも引き金のようなボタンが付いている。
それぞれの突出部をがっしりと掴んだ梓は、両手の人差し指でボタンを弾いた。
ガシャっという音と共に、銀色の外装が両側の持ち手にスライドしながら収縮する。
直方体の内側に収められていたモノが顕になる。
『ブレードモード』
くぐもった電子音声を響かせながら、知恵の輪が外れるようにして分離した鋼鉄の物体。
美しい水と緑に反射した光が照らし出したのは、二振りの剣であった。
「っ!? それ、まさか、新しいアームズ……!?」
冷たい輝きを放つ刀身を間近で見せつけられ、唯は目を見開いた。
梓がAMFで手にした式守景虎は、刃渡り30センチメートル程度の短剣だったはず。
しかし今、少女が両の手に掴んだ剣は、どちらも刀身の長さが1メートル以上はあった。
先ほどまで直方体の形で剣を隠していた鞘はコンパクトに変形し、剣の持ち手を追加装甲のように覆っている。
そんな独特な形状の武器、唯はAMF在籍時を含め見たことも聞いたこともなかった。
AMFが配備したアームズではないというのならば、その製造運用者は。
「うん、うん。やっぱり、ご主人サマはわたしのことを理解してくれる…………承知しました!」
立ちすくむ唯ではなく、虚空を見上げて元気に頷く少女。
交信を終え、ゆらりと振り返った梓は妖しげな笑みを浮かべた。
「お姉ちゃんを超える。それがわたしと、ご主人サマの願いだよ」
二本の剣を握りしめ、腕を大きく広げる梓。
水面に映る銀色の双刃は、輝く翼のようであった。
そのまま頭上まで剣を掲げてから、胸の前で腕を交差させる。
梓は、唯の愛する妹は、唯のよく知るにこやかな表情のまま、唯の知らない名前を冷たく言い放った。
「震冥凍騎……装動」
手首を切り返しながらもう一度トリガーボタンを押し込み、胸の前で交差させた刃がバツを描く。
少女の眼前の空間がX字に斬り裂かれる。
虚空に現れ、広がっていく歪な亀裂。
ここは既に異次元空間の中であるが、空裂の向こうはさらに別座標の空間へと繋がったようだ。
その裂け目から噴出したのは、吹雪のように冷たい風。
雪山で山小屋の扉を一気に開け放ったかのように、突風が四方八方に吹き爆ぜた。
不意の風圧によろめいた唯は慌てて後退すると、地面にしがみつくように蹲る。
熱い炎のアームズを着込んでいるのにも関わらず、装甲の隙間からねじ込まれた冷気が唯の肌に針を刺すような痛みを植え付けていく。
凍える風は一気に強まり、水の芸術にも容赦なく襲いかかった。
表面からパキパキと凍っていく水たまり。
壁際から流れ落ちる滝は氷柱となり、小川の流れは水草と共に時を止めた。
生命に満ち溢れていた水の広間は、あっという間に冷凍庫のような空間へと変貌した。
氷の礫が吹き荒れる最中。
愛しい妹の姿が変わってゆく。
亀裂の中から白銀の装甲が次々と顔を出し、少女の未成熟な体へと殺到する。
唯は襲い来る氷雪を顔の前に翳した腕で防ぎながらも目をこじ開け、吹雪の根源に立つ異形の人影を見た。
首から足先まで、少女の体を隙間なく包む濃い青色のインナー。
その上から、騎士の甲冑の如き白銀の装甲が合身する。
無骨に切り出された氷塊のようなマスクが少女の顔をすっぽりと覆い隠し、機械化した右目だけが外気に触れる。
少女の素肌など、一片も露出していない。
血の通っていないアンドロイドのような兵器がそこにいた。
その姿をAMFの隊員が見たならば、こう呼ぶだろう。
人型械獣、と。
二本の剣からくぐもった電子音声が鳴り響き、氷結の騎士の名を告げる。
『ブリザード・ドレイク』