第90話 接続実験 II
「オマエだ」
合成音声による回答を聞いた瞬間、梓の思考は白紙になった。
見開かれた瞳に降り注ぐ虹色の光が一層眩しく感じられる。
大粒の汗が少女の首筋にじっとりと浮かんだ。
加速していく心音は、檻の中の獣たちにも聞こえているに違いない。
広大な空間には無数の生物がひしめいているというのに、空間の主たる人型械獣が興味を示している命はたった一つだけだった。
「デンゼル粒子を活性化させる力を持つ、選ばれし人間の条件。オレは遺伝子に秘密があると仮説を立てていたガ、あの二本角の地球人とオマエが姉妹でアルと知り、その仮説は確定に近づいタ。だからオレは、オマエの体を隅々マデ調べ、秘密を解き明かしタイ」
「まさか……わたしを解剖するの!?」
梓は理科の教科書に載っていた、カエルを使った悪趣味な実験を思い出す。
はらわたを抜かれても尚ピクピクと足を動かす様子は、見ているだけでゾッとする。
そんな実験の人間版が行われることになって、あまつさえ自分がその対象に選ばれてしまった。
高度な話術など最初から持ち合わせていない梓は、交渉や取引なんて諦め、蒼白な顔で命を乞う。
「こ、殺さないで! 何でもするって言ったけど、殺すのは違うじゃん!!」
「殺す? 貴重なサンプルをそう簡単に処分したりしナイ」
「じゃあ、どうしろっていうの!?」
ヒトならざる械獣は、非力な人間の少女に対して、感情の籠っていない合成音声で告げた。
「オレの家族になれ」
今度こそ、ニードルの発言の意図が分からなかった。
のっぺらぼうの異形から発せられたのは、恋愛モノでよくあるテンプレの告白セリフだ。
想像力もとい妄想力豊かな梓は、黒ずんだ黄色の人型械獣が布団の中で自分と添い寝しているおぞましい光景を思い浮かべ、絶叫する。
「冗談じゃない! わたしの純潔はお姉ちゃんに捧げるって決めてるの。あなたみたいなマネキン野郎と交わるなんて死んでも嫌よ!!」
「ン? オカシイ、理解できないぞ。地球人の言語体系は全テ学習済のつもりだったが、まだ未解析の構文があったカ」
高い知能を誇る人型械獣でも、複雑な乙女心までは解析できていないらしい。
ニードルは困惑したような素振りを見せたものの、すぐに言葉を変えて言い直す。
「オレたちの同胞として迎えてやる、と言っている。我らは皆、マザーの子。マザーの元で、我らは一ニシテ全。その素晴らしき円環にオマエを入れてやるということだ。伝わったカ?」
次は梓がぽかんと呆ける番だった。
ニードルの言葉ははっきりと聞き取れているのに、何一つ理解できない。
素晴らしき円環とか言われてもちんぷんかんぷんだ。
だが、ニードルは「家族」という表現を使った。
それについては梓にも譲れないものがあり、ニードルの提案を受け入れてはならないと確信を持てた。
「わたしの家族はお姉ちゃん一人だけ。わたしには、お姉ちゃんさえいればいいの。あなたたちの家族になんてならない!」
「その『お姉ちゃん』とやらは、オマエのことを大切にしてくれるのカ?」
「当たり前でしょ!」
キッと睨みつける梓に対し、ニードルは矢継ぎ早に問いかける。
「何故、そう言い切れル? オマエと『お姉ちゃん』は常に心が通ジ合っテいるのカ? 本心を確認シタのカ? オマエのことを騙シたりしないという確固タル証拠があるのカ?」
「それは…………」
唯は、梓のことを大切にしてくれる。
そうに決まっている。
そうでなければおかしい。
だってお姉ちゃんにとっても、わたしは唯一無二の肉親だもん。
だから、いつだってお姉ちゃんはわたしの味方なの。
梓はそう言いたかった。
しかし。
あの女と出会ってから、唯は変わってしまった。
梓よりもあの女を優先して、梓を置き去りにした。
梓がアームズの力を手にしても、姉の背中は遠ざかるばかりだ。
果たして唯は、今でも梓のことを大切に思ってくれているのだろうか。
姉が何を考えているのか、確かめる方法なんて無い。
「オマエが求めているのは、本当の家族だろう?」
本当の家族、ってなんだろう。
信じていた姉がいなくなってから、家族の定義なんてまるで分からなくなった。
答えに窮する梓の胸に、甘い蜜のようなニードルの言葉が浸透していく。
「オレたちの中では、嘘も偽りもない。同胞は皆、真の意味で心が一つになった『家族』だからだ。ネットワークに加われば、オマエも常に『家族』と共に過ごすことができる」
嘘偽りのない世界。
唯に裏切られ、唯を奪われ、唯に捨てられた梓にとって、渇望していた世界だ。
「お姉ちゃんと、心が通じ合う……?」
「ああ、そうだ」
「そうしたら……お姉ちゃんと、仲直りできる?」
「もちろんだ」
「お姉ちゃんと、また一緒に暮らせるようになる?」
「約束しよう」
心地よい言葉を囁く合成音声。
ニードルに手を貸せば、AMFの隊員たちはもちろん、大勢の無関係な市民に危害が及ぶかもしれない。
けれど、地球とか人類の存亡とか、梓にとってはどうでも良かった。
ただ、大好きな姉と一緒にいたいだけ。
その願いを叶えるためなら、悪魔に魂でも売ってやる。
梓は人型械獣を見上げて言った。
「分かった。あなたに力を貸すよ」
「素晴らしい。ネットワークと繋がルことで、オレたちはオマエの体と心を完全に理解できるだろウ」
目も鼻も口も無い、のっぺらぼうの顔なのに、ニードルは確かに微笑んだような気がした。
「早速、オマエを我々のネットワークに迎え入れよウ」
「なっ!? がッ!?」
直後、左右から音もなく現れた鋼鉄のアームによって、梓の頭が挟まれた。
硬い突起が両側の耳の中に突っ込まれ、頭蓋骨が万力の如き力で締め付けられる。
横を向けないどころか、首を一ミリも動かせないほどがっちりと固定されてしまった。
梓は突然のことに目を白黒させる。
すると、強制的に見つめざるを得ない真上から、新たなアームが降下してきた。
梓の頭を押さえつけているのとは形状が異なり、五本のナイフを束ねたような鉤爪が付いている。
鋭利な先端が眩い光を受けてギラリと輝くと、麻痺していた恐怖が一気に蘇る。
「なんで!? 殺さないって言った!」
「落チ着ケ。ネットワークへの接続ハ生命活動を維持したままだ。殺しはしナイ」
「そう、なの?」
「ただし下等生物の肉体のままでは膨大な情報量ヲ処理しきれナイのでネ。それが可能となるよう、オマエの体を改造スル」
ネットワークへの接続に耐えうる肉体。
その実例は、梓のすぐ隣に立っていた。
鋼鉄の異形。
ニードルは、梓を械獣のような姿へと作り変えようとしていた。
人間としての肉体が得体のしれない技術によって弄られ、ヒトならざるモノに近づく。
これから自分の体に施される行為を理解した途端、梓は生理的嫌悪感によって吐き気を催した。
「待ってよ、そんなの、頼んでない……」
「オレの家族として迎エルからには、相応シイ戦闘能力も必要ダ。オマエが所持していたデンゼル粒子解放兵装を参考に、とびきり強力な得物も新造してアゲヨウ」
「放して! やっぱ止める! あなたの家族なんてやだ!!」
懇願する梓の声は獣の鳴き声としか認識されていないのか、ニードルは全く会話を続けてくれなくなった。
カシャン、カシャンと軽快な足音を響かせながら、淡々と手術の準備を進める人型械獣。
梓が横たわる机の周りに何らかの機材を並べていく。
全ての準備が整う前にこの部屋から脱出できなければ、普通の人間としての人生を続けられない予感がした。
「ふーっ、ふーっ!」
梓は歯を食いしばり、全身を弓なりに反らして銀色の枷を引き千切ろうとした。
本能的に危険を感じ取った人体がアドレナリンを放出してリミッターを外す。
腕の筋肉が張り裂けるんじゃないかと思うくらいの力が発揮された。
しかしいくら力を込めても、机と一体化した枷は外れそうになかった。
華奢な手足の末端が赤黒くうっ血しただけに終わる。
「ベース生体が弱すぎて光学刺激式デハ即戦力にならナイな……フム、やはりここは神経直結型にしてしまおウ。頭部に増設スルならこのあたりカ」
ニードルはまるで食材の鮮度を確かめる料理人のように、硬い指先で梓の顔に触れる。
精密作業もできそうなほど滑らかに動く械獣の手には、外科手術で使うようなメスが握られていた。
梓が恐怖で気を失うよりも先に、機械的な執刀が始まった。
「ぎゃああああああああああ!!!!」
右目の瞼の上あたりにメスがサクッと突き立てられた瞬間、梓のあらゆる感情が決壊した。
皮膚を裂かれたという事実に、生命の危機を文字通り痛感する。
どろりとした液体が頬を伝う感触だけで、未熟な少女の心をへし折るには十分だった。
「いやあああああああ!! やだ、やだあああああああ!!」
瞳から大粒の涙を溢れさせて泣き喚く梓。
メスが眼窩の深くへと沈み込むにつれ、カッと熱くなるような痛みが増していく。
逃れられない連続的な苦痛が押し寄せ、梓はパニックに陥っていた。
「いたい! いだい! もうやだ! 帰る! 出して! おうち帰してください!! 本当に痛いの!!」
「オット、痛覚のケアを忘れてイタ。下等生物とはいえ脳はそれなりに発達してイルのだし、刺激が大きければ致命傷でなくともショック死しかねん。生体捕獲用の麻酔薬を使わなけれバ」
元々ほとんど動かせない二の腕がものすごい力で掴まれたと思ったら、チクリと何かを刺される感覚。
氷を押し当てられたような冷たさが血管を通って体内に広がっていく。
体の芯から徐々に凍りついていくような気持ち悪さがあった。
「以前捕獲した個体は、投与量が多すぎて生命活動が停止シテしまったからナ。今回は慎重に量を調整スルので…………アア、つまり、死ぬな」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………助けて……お姉ちゃん、助けてっ」
上手く息が吸い込めなくなり、海で溺れているかのように浅く短い呼吸を繰り返す梓。
息継ぎの合間に口走っていたのは、やはり唯のことだった。
「どおじで、お姉ちゃん! たすけにぎてよ! かぞぐなんでしょ、わだじを捨でないでよぉッ!!!!」
梓は泣きながら、半狂乱に唯のことを呼び続けた。
基地の通信設備にも、姉の携帯端末にも繋がっていない、ただの空気の振動。
それでも少女は喉を震わせ、ひたすらに叫び続ける。
周囲の動物たちも、ただならぬヒトの嗚咽に息を呑んだだろう。
「安心シロ。その『お姉ちゃん』にはスグ会える。生マレ変わったオマエの力を存分ニ披露シテやれ。それと……新シイ……を付けテやらネバ……」
もはや合成音声が何を言っているのか聞き取れない。
生体捕獲用の麻酔薬とやらが効いてきたのだろうか、力の抜けた背中が硬い机にペタンと落ちる。
赤く染まった視界がぼんやりと霞んでいく。
「…………っ、…………」
広い部屋に木霊していた誰かの声が途切れた。
梓はもう、自らが叫ぶのを止めたことすら認識できていない。
鋭利な鉤爪の付いたアームが少女の頭に狙いを定め、柔肌を引き裂いていく。
既に痛みも恐怖も感じなかった。
作業台の上で横たわっているモノは、血の通っていない人形だと思えた。
降り積もる雪に埋もれるように、梓を梓たらしめていたナニカが、塗りつぶされていく。
これは悪い夢なのだろう。
次に目を覚ましたら、住み慣れた自宅の、温かいベッドの上だ。
階段を降りて、リビングの扉を開ければきっと、大好きな姉が朝食を用意して待っているはずだ。
そんな幸せな毎日に戻れると、信じたい。
「(また、お姉ちゃんと、会えますように…………)」
梓は唯一の望みを思い浮かべながら、最後の意識を手放した。