第89話 接続実験 I
青白い光に満たされた、広い広い空間だった。
床や天井に敷き詰められた長方形の板には真珠の表面のような光沢があり、見る角度によっては虹色の輝きを放っている。
眩しさで遠近感が掴みづらいものの、天井はかなり高いし、部屋の奥行きも相当なものだ。
少なくとも、ジャンボ旅客機が余裕で収まってしまうほどの容量はありそうだ。
まるで空港の格納庫のようなスケール感だが、その部屋に置かれていたのは航空機などではなかった。
壁一面、うず高く積まれた透明なケース。
ミニチュアサイズの高層マンションの中で、無数の生物が蠢いている。
木の枝にしがみつき、羽を広げるアゲハ蝶。
ケース越しにくぐもった音色を奏でるコオロギの群れ。
餌として与えられたバッタを一心不乱に貪るカマキリ。
まるで昆虫博覧会といった様相だが、階段や梯子の類は設置されておらず、天井付近のケースを覗くには高所作業用のリフトでも持ってくる必要があるだろう。
見物客を招くことなど全く考慮されていないレイアウトである。
昆虫たちは鑑賞目的で陳列されているというよりかは、どこかの研究機関が遺伝子調査のためのサンプルを保管しているような感じだ。
それに、部屋の中には昆虫以外の生物も多数収容されていた。
床にずらりと並んでいるのは、大小様々な飼育ケージである。
檻や籠は金属のような素材で作られており、目の細い格子の中では種族別に分けられた動物たちが歩き回ったり寝転んだりしている。
犬、猫、豚、猿、さらにはライオンのような希少な大型哺乳類まで。
いたる所から湿った唸り声が発せられ、獣たちの気配と匂いが部屋中に充満している。
そんな動物園のような空間の片隅。
機械の修理を行う作業台を思わせる硬い机の上に、一人の少女が寝かされていた。
ボロボロになったグレーの制服。
淡い黒の地毛にピンク色のメッシュを入れた短髪。
まだ幼さが残る顔立ちの少女は、名を神代梓という。
寝かされていた、という表現は語弊があった。
腰と首、両手両足に装着された銀色の枷。
彼女は気をつけの姿勢のまま仰向けに固定されていた、というのが正しいだろう。
枷は囚人に付ける縄や手錠のような生易しいものではなく、まるで溶接されているかのように机と一体化している。
遠目に見れば病院の手術台に寝かされた患者。
しかし実際には、まな板の上で捌かれるのを待つ魚のような状態であった。
それまで静かに寝息を立てていた少女だったが、近くの檻の中で喧嘩を始めた犬の吠え声が覚醒を促した。
鼻腔をくすぐる糞尿混じりの獣の匂いに、たまらず目を開ける。
「んぅ…………え……な、なに? どこ!? なんでっ、わたし、動けなっ!?」
意識を取り戻してすぐ、梓は己の体が拘束されていることに気づいた。
寝返りを打つこともできない窮屈さと喉元への圧迫感が、寝ぼけている暇を与えない。
可動域が制限された首と眼球をせわしなく動かし、自分が置かれている状況を理解しようとする。
が、そこは梓にとって全く見覚えの無い部屋であった。
AMF基地の医務室ではないし、もちろん焼失する前の自宅の寝室でもない。
こちらをじっと見つめるイノシシと目が合った。
動物園の獣舎に突然迷い込んだかのような光景を見せられて、寝起きで混濁する頭がさらに大混乱に陥る。
そもそも、昨夜はどこで何をしてたんだっけ。
脳内で前日の行動を振り返るよりも先に、体のあちこちから生じる鈍痛が答えを教えてくれた。
「そうだっ、械獣! 械獣が出てきて、わたしは捕まって、それで……」
骨にヒビが入っているかのような痛みが神経網を駆ける。
昆虫のような械獣に襲われた時の記憶が実感を伴って蘇る。
そして、自分に手を伸ばした姉のことも。
「お姉ちゃん…………って、あれ!? わたし、今、生きてる!?」
ハチ型械獣の大顎に咥えられた梓は、抵抗虚しく上空へと連行されてしまった。
姉の叫び声は聞こえていたが、結局その手は届かなかった。
梓は意識を失う直前まで、敷城市の街並みがどんどん遠ざかっていくのを呆然と眺めていた。
あれが人生最後の視覚情報だと思っていたが、今こうして再び目を開くことができた。
気絶している間に解放され、AMFに救出されたのだろうか。
厳重に固定されている理由は、脊髄にダメージを受けて絶対安静だから、なのかもしれない。
持ち前のポジティブシンキングで強引に結論を導き出した梓は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「うん、きっとそうだ。わたしは助かったんだ。神さまが、わたしにもう一度チャンスをくれたんだよ。お姉ちゃんを取り戻すチャンスを。なんて幸運なんだろう、わたし!」
冷静に考えればAMFの基地内に動物園のような部屋は存在しなかったはずだが、理解できない部分からは無意識に目を背けてしまう。
都合の良いストーリーを思い描いたのも束の間。
カシャン、カシャンと、機械が駆動するような音が近づいてきた。
「治療用の機械とかを持ってきてくれたのかな? 早く怪我を治してもらわなきゃ……」
楽観的な言葉とは裏腹に、頬を引きつらせる梓。
ゆっくりと首を横に倒し、足音の主を視界に捉える。
「あっ…………」
後悔しても、もう遅い。
見てしまった。
梓の方へ二足歩行でやってくる、鋼鉄の異形を。
メタリックな光沢のある、黒ずんだ黄色の体表だった。
やや前傾姿勢の上半身と、それをバランス良く支える逆関節の足。
体の構成パーツはヒトと同様、二本の足と二本の腕、胴体と頭蓋が揃っている。
しかしその顔には目も鼻も口も無く、安いマネキンのようなのっぺらぼうであった。
額からは電波塔の先端を切り取ったような器官が生えており、見ようによっては昆虫の触角のよう。
一方、後頭部からは大量のケーブルが髪の毛のように垂れ下がっていた。
ドレッドヘアーのおじさんがフルフェイスのヘルメットを被っているだけ。
苦し紛れの勘違い説を唱えようにも、骨格や手足の形状が人間とは全然違う。
精神を守るための妄想を砕かれ硬直する梓の傍らで、悪夢のような現実が口を開く。
「ヨオ、目が覚めたか」
複数の男の声を重ね合わせたような合成音声が響くと、部屋の空気が一変した。
犬たちは示し合わせたように喧嘩を止め、コオロギの合唱もピタリと止まった。
周囲の生き物たちは息を殺して異形の一挙手一投足に耳を澄ませている。
しんと静まり返った部屋の中で、目も口も鼻も無い顔面が、鋼鉄のベッドに横たわる梓をじっと見下ろした。
「オレの名はニードル、このラボの管理者だ。対話可能な来客ヲ歓迎しよウ」
その声を聞いた梓は、衝撃と恐怖でどうにかなりそうだった。
かつて姉を襲い、敷城市に甚大な被害をもたらした人型械獣・デリート。
眼前の異形から発せられた言葉には、そのデリートと同質の高い知能と自発的な「意思」が宿っていた。
そして、不気味な雰囲気を纏う人型械獣とコンタクトしているのは、新米装者の梓たった一人だけというこの状況である。
AMF司令室に助けを求めようにも、両手を拘束されているため携帯端末を取り出すことすらできない。
仮に端末を操作できたとして、地球上なのかどうかも定かでない、この眩い光の空間からAMF基地まで通信が繋がるとは思えなかった。
孤立無援。
梓の胸中を埋め尽くしたのは、死刑宣告にも等しい絶望であった。
「そう怯えるな。トって食うつもりはない…………アア、言語を間違えていルか? 意味が通じているなら返事をシテくれ。オマエから何か話してモ良い」
ニードルと名乗った人型械獣は、青ざめる梓に発言を促してくる。
もちろん梓は、流暢な日本語で語りかけてくる合成音声の意味は理解できていた。
ヒトならざる存在と対話するのが怖すぎるだけだ。
四肢を戒められ、生殺与奪権を掌握された状態で怯えるなというのも理不尽な話である。
だが、とにかく何かしゃべらないと。
「お姉ちゃんは、どこ……」
恐慌状態の頭を必死に働かせて絞り出したのは、やはり姉のことだった。
ニードルは意思疎通ができていることを確かめるように、梓の言葉を丁寧に掬い上げる。
「『お姉ちゃん』、同じ親から生まれた個体を指す言葉ダナ」
「わたしを追いかけてきた赤黒い機体がいたはず。あれがわたしのお姉ちゃん」
「二本角の地球人のことカ。オマエが、あの二本角と血縁関係にあると……フッフッフッ、ナルホド」
何が面白いのか、怪しげな笑い声を漏らすニードル。
関東周辺で角が特徴的なアームズを纏う装者など他に聞いたことがないし、ひとまず姉についての認識は合ったようだ。
文字通り表情の読めない相手の反応に戸惑いつつ、梓は質問を続ける。
「お姉ちゃんは昨日、あなたたち械獣と戦ってた。その後お姉ちゃんがどうなったか教えて」
「関知していナイ。損害は与えたが、デンゼルスペースに逃げ込んだようダ」
「お姉ちゃんは無事なんだよね!?」
損害、つまり姉が傷を負っているという情報に心がざわついた。
デンゼルスペースという言葉に聞き覚えは無いが、そんなこと今はどうでもいい。
どのくらいの深手なのか。
逃げた後、適切な治療を受けられたのか。
命に別状は無いのか。
大前提として、唯の命を奪う資格を持つのは、肉親であり未来の妻である梓だけなのだ。
それ以外の何人たりとも、唯の命を脅かすことは許さない。
胸の底から湧き上がる信念が異形への畏れを吹き飛ばし、梓は囚われの身という立場を弁えずに叫んだ。
「生きてるかどうかちゃんと確かめてよ!」
「何故、確かめル必要がある?」
「すぐに追いかけないと、また逃げられちゃうからだよ! どこを探しても見つからない、あんな思いするのはもう嫌! あなただって、仲間を破壊した機体に興味あるでしょ!?」
「二本角の機体データは既に取得済。オレたちの脅威にならないことも把握済ダ」
「観測データだけじゃなくて、実際に捕まえた方が良いんじゃない?」
「あの機体を鹵獲したところで、結局我々と同じ原理デ動いているダケなのだ。よって、これ以上のデータ収集は不要と判断シタ」
ニードルは生意気なタメ口など全く意に介さず、唯を追わない理由をすらすらと説明した。
捕虜の質問を蔑ろにせず答えてくれるなんて、人間の軍人より親切である。
しかし姉の安否が分からないまま、はいそうですかと引き下がる梓ではない。
「ねえ、どうしたら、お姉ちゃんを見つけてくれる?」
非現実的すぎる状況のせいで、恐怖心は一周回って蛮勇に転じた。
梓は大胆にも取引を持ちかけようとしたのだ。
「わたしにできることがあれば何でもする! その代わり、もう一度わたしをお姉ちゃんに会わせてよ!」
「オレに協力シテくれるのならば、オマエの望ミも叶えてやろウ」
「本当!?」
ニードルがあっさりと提案を受け入れたことに、自分で言っておきながら驚く梓。
人間と械獣は相容れない敵同士のはずなのに、梓に向けられる合成音声からはあまり敵意を感じない。
「オレは二本角の機体には興味がナイ。オレが欲シイのは、オレたちと同じ力を使ウ人間についてのデータだ」
「装者の方に興味があるの?」
「かつては研究ノため人間を捕獲シタこともある。だが、無作為に選んだ人間に価値は無かっタ」
さらっと恐ろしいことを聞いてしまった気もするが、梓は突っ込まずに話を合わせる。
「もしかして、アームズの適合率とか、そっちの話が関係する?」
「ソノ通り。デンゼル粒子を活性化させるコトができるのは、人間の中でもゴク一部の個体だけダ。適性のアル個体とそうでナイ個体の違いは何なのカ。オレはそれが知りタイ」
「ならやっぱり、お姉ちゃんを捕まえなきゃ意味ないんじゃないの? わたしが協力できることなんて、無いかも」
梓の脳裏には一瞬、自分を人質にして唯をおびき寄せる案がよぎったものの、口には出さなかった。
ニードルを利用して唯と再会できたとして、最後には唯と二人で敷城市に帰る必要がある。
梓と入れ替わりで唯がニードルの手に落ちてしまっては意味がない。
どうすれば姉と合流しつつ、この絶望的な状況から脱出できるのか。
どんな取引を持ちかければ、人型械獣はこちらの思い通りに動いてくれるのか。
梓は懸命に思考を巡らせる。
しかし妙案が浮かぶ前に、ニードルが思いがけないことを言った。
「二本角の地球人を捕獲スル必要は無くなった」
「どうして?」
「代わりに、同ジ遺伝子を持つ生体サンプルが手に入ったからダ」
さっきからニードルが唯の捜索に消極的な理由。
梓は嫌な予感がして、恐る恐る尋ねた。
「そ、その生体サンプルって…………」
「オマエだ」