第88話 絆縛の楔
首筋に肌寒さを感じて目を覚ます。
「う、ん…………けほっ」
喉の痛みとべたつく瞼。
どうやら泣いているうちに眠ってしまったようだ。
眠りは浅く、唯の意識はすぐにはっきりと浮上してくる。
星空を覗かせていた窓はいつの間にかシャッターによって塞がれており、プライベートルームの照明はオレンジ色の常夜灯に切り替わっていた。
薄暗い室内に響くのは、微かなエアコンの風音のみ。
唯の肩から上はひんやりとした空気に晒されているが、肩甲骨のあたりまでは毛布がかけられている。
それに加え、体の前面はぽかぽかとした温もりで満たされていた。
「お目覚めでしたら、そろそろ離してくださいまし」
「わぁっ!? すみませんっ!!」
耳元で囁かれた少女の声に慌てて飛び退く唯。
お腹が寒くないのは、白いネグリジェを着た少女を抱き枕にしていたからだった。
窓のシャッターを下ろしてくれたのも、毛布をかけてくれたのも、彼女の気遣いだろう。
唯という拘束具を外された嶺華は嫌な顔一つせず、慈母の如き微笑みを向けてくる。
「少しは落ち着きましたの?」
「あ……はい」
唯は冷静に返事をした自分に驚いた。
ついさっきまで悲しみと自己嫌悪から正気を保っていられぬほど泣きじゃくっていたはずなのに。
人間というのは思いっきり泣けばストレスが低減すると聞いたことがあるが、本当らしい。
脳内をぐるぐると駆け巡っていた負の思考は鳴りを潜め、胸のつかえが取れた気分。
熱もピークより下がった気がする。
「今何時……って、夜中の2時!?」
枕元のデジタル時計は丑三つ時を示していた。
嶺華がプライベートルームを訪れたのは日付が変わる前だったはず。
となると彼女は数時間に渡り、唯の抱き枕を務めていたことになる。
高熱で人間湯たんぽ状態の唯が覆いかぶさっていたのだから、当然嶺華も暑かっただろう。
彼女の白いネグリジェは二人の汗でぐっしょりと湿っていた。
「私、嶺華さんになんてことを……! すぐにタオルを用意します!」
「気にしませんわ。この後シャワーを浴び直そうと思っていた所ですし」
嶺華は素肌に張り付いた胸元の生地をつまんでパタパタと仰いだ。
見えてはいけない隙間が見えそうになり、唯は咄嗟に目を逸らす。
「っと、それより、その……ありがとうございます。梓のことで、怒らないでいてくれて」
「言ったでしょう。家族を想う気持ちは何も間違ってなどいないと。妹さんが心配というだけで、わたくしが唯さんを嫌いになると思いましたの?」
「だって、付き合っている相手がいるのに、他の女のことを眠れなくなるまで考え続けているんですよ。もし私だったら、もやもやするというか、少なくとも良い気はしませんから」
「なるほど…………ふふふっ」
唯が正直な意見を述べると、嶺華は大笑いしたいのを堪えるかのように、口元に手を当てて目を細めた。
彼女のお淑やかな笑い声に首をかしげる唯。
「私、何かおかしいですかね」
「いえいえ。ただ、血の繫がった姉妹というのはやはり似るのだと、感心しただけですわ」
「今なんと?」
「唯さんと梓さんはそっくりだと言いましたの」
「私たちのどこが!?」
妹と似ているだなんて、今まで誰にも言われたことがない。
顔立ちも似てないし、性格も全然違う。
唯の中ではそう認識していたのだが、嶺華はばっさりと断言する。
「思考パターンが同じなのですわ。愛する人を一人決めたら、他の人を愛してはいけないと考えるところ。ワガママな梓さんに手を焼いているようでしたけれど、唯さんだって、妹さんに負けないくらい強い独占欲をお持ちではありませんの」
「うっ……否定できない」
全く思ってもみなかった共通点を指摘され、唯は頬を引きつらせる。
客観的に見れば、姉妹揃ってだいぶ陰湿な思考回路なのかもしれない。
なんだか遠回しに器が小さいと言われているようで、ちょっと凹む。
「嶺華さんには余計な面倒かけちゃいましたね。ごめんなさ」
唯は後ろめたさを誤魔化すように謝罪を口にしようとして、
「お黙りシャラップ!」
ビシッと突きつけられた嶺華の人差し指によって唇を封じられた。
「もう唯さんの『ごめんなさい』は禁止としますわ! 今度謝ったら、本当に唯さんのことを嫌いになりますわよ!!」
「ひゃい!」
怒気をはらんだ眼光に睨まれ、唯はこくこくと頷くしかない。
言われてみればその通りで、謝罪の言葉を口癖のように呟いていた。
あまり連発していると安っぽく聞こえてしまうだろう。
気軽に頭を下げるのは控えよう、そう心に留める唯であった。
それが視線で伝わったのか、嶺華の瞳が温和なものに戻る。
「それで、これからどうするつもりですの?」
「これから……」
「先ほど唯さんの本音を聞きましたわ。妹さんに会いたいと」
「それは……会いたいですよ。でも、梓は、もう……」
改めて問いただされ、唯は顔を曇らせた。
械獣に連れ去られる瞬間の梓の表情が脳裏にフラッシュバックする。
妹を失った。
胸が切り裂かれるような悲痛はそう簡単に癒えるものではない。
陰鬱に項垂れる唯に対し、嶺華は意外にも鼓舞するように諭した。
「諦めるのが早すぎませんこと? まだ梓さんが死んだと決まった訳ではありませんわ」
「だって梓は空裂の中に連れ去られて……」
「確かに、デンゼルスペースに入った後の梓さんの反応は掴めていませんわ。けれど、希望はまだ残っていますの」
「どういうことですか!?」
何か考えがあるらしき嶺華の言い方に、唯は顔を上げて食いついた。
「聞いたでしょう。あのニードルとかいうコード付きの戯言を。奴らは地球生物のデータを求めていた。人間だって例外ではありませんわ」
「それは結局ブラフで、あいつの本当の目的は、敷城市に械獣を集結させて街を制圧することだったんじゃ」
「本日の主目的は、そうかもしれませんわね。ですが、そもそもニードルが操る械獣はこの星の生物を真似たものでしたの。データを収集しているというのは、あながち間違いではないのでは?」
昼間に邂逅した械獣の姿を思い返す。
カニ型械獣のキャントガムドに、ハチ型械獣のソルム・ビーナとクィム・ビーナ。
いずれも外見は地球生物を模倣したとしか思えないものだった。
彼らを前にした時は単に悪趣味としか思わなかったが、本当にそれだけだろうか。
否、ニードルが地球生物に対して殺戮以外の関心を持っているのは明らかだ。
でなければ、わざわざ下等生物と断じた人間の言葉を操ってコミュニケーションを試みる必要などないはず。
「でも、今さらヒトのデータを欲しがりますかね? 人類は100年も前から械獣と戦ってますし、今日だって他のAMF隊員はバンバン殺されてましたし」
「単なる人間のデータは既に分析済なのでしょう。しかし梓さんはアームズを纏うことができる、いわば特異な個体。バラルの連中にとっては貴重な生体サンプルになり得ますわ。わざわざ生きたまま梓さんを連行したのが何よりの証拠ですの」
梓は、キャントガムドにもソルム・ビーナにも太刀打ちできなかった。
械獣たちにとっての脅威度は極めて低いと判定されているだろう。
しかし、いつでも殺せたはずの梓を、その場で殺さずに生け捕りにした。
敵が生きた人間をじっくり痛めつけるのが大好きな変態集団でない限り、処刑のために連れ去られたとは考えにくい。
「つまり、梓はまだ生きている……!」
「少なくとも、すぐに殺される可能性は低いですわね」
嶺華の言葉は、絶望しかけていた唯の心に一筋の光を差し込ませた。
まだ、終わっていない。
一縷の望みが唯に活力を与える。
自分がこれから何をしたいか、なんて考えるまでもない。
「私、梓を助けに行きます」
唯はきっぱりと言いきった。
嶺華に反対されることを承知の上でだ。
案の定、彼女は冷たい視線を向けてくる。
「そうなると、敵の空裂を通ってニードルの本拠地に乗り込むことになりますわね」
「分かってます」
「向こうもわたくしたちと同じように超次元母艦を持っているに違いありませんわ。械獣の大群を連れてきたのですから、マリザヴェールとは比べものにならない巨大な艦でしょう」
「分かってます」
「本当に分かってますの? ニードル本人の戦闘能力も未知数で、ハチ型以外にどんな戦力を携えているのかも不明。謎だらけの敵地に単身で挑むなど、業炎怒鬼をもってしても自殺行為ですわね」
「分かってます!! それでも!」
手のひらに爪を食い込ませながら訴える唯。
「梓は、世界でたった一人しかいない私の妹なんです。
梓にとって『お姉ちゃん』は私しかいないんです。
だから! 梓は私が助けに行かなきゃいけないんです!!」
家族を、愛する妹を助けたい。
危険だからといって、妹を見捨てる姉など家族ではない。
妹の救出は、姉に課せられた使命だ。
「生きて帰って来られる保証もなし。マリザヴェールの支援も受けられない。
焚き付けておいて何ですけれど、勝算は極めて低いですわ。
唯さんが自ら死地に赴くのを、わたくしが許すとお思いで?」
マルルの話では、ニードルの母艦は強力な障壁で覆われているらしい。
同じデンゼルスペース内に浮かぶマリザヴェールであっても、直接突撃することは叶わない。
よって、行きも帰りも敵の空裂を通る必要がある。
AMF基地上空に開いた、ハチ型械獣の大群が居座る大穴を、である。
ハチ型械獣は単体だけでも唯の業炎怒鬼に傷を負わせるほどの戦闘能力を持っているのだ。
真正面から突っ込めば袋叩きにされるだけだろう。
少女の言う通り、生きて空裂をくぐることすら至難の業だ。
「嶺華さんには、またまた心配をかけちゃいますね。悪いとは思ってます。
けど、行かせてください。
ほんの僅かでも梓を助けられる可能性があるなら、私はその望みに賭ける」
唯は絶対に折れないつもりだった。
嶺華にいくら引き止められようが、なんとしてでも梓を助けに行く。
覚悟の決まった唯の目つきを見て、嶺華はやれやれといった顔で肩をすくめた。
「はぁ……わたくしが聞きたいのは、そんなくだらない決意表明などではありませんわ」
「嶺華さんに反対されても、私は」
「まだ分かりませんの!?」
嶺華は唯の胸ぐらを掴むような勢いで迫った。
「そこは、『一緒に行ってください』と言いなさいな!!」
「へ!?」
突きつけられたのは、少女の思いもよらぬ言葉。
どうやって嶺華を言いくるめようか考えていた唯にとって、冷や水を浴びせられたかのようだった。
「わたくしの望みは、唯さんと一緒にいること。そして唯さんを守ることですわ!
そのために、唯さんが行く所ならどこへでもついて行きますの。
嫌と言われてもついて行きますわ。
唯さんを一人で行かせるなんて、もうわたくしには耐えられませんの!」
「それってつまり、嶺華さんと一緒なら、梓を助けに行っても良いってことですか!?」
「唯さんがそう決めたのでしたら、止めはしません。
けれど、わたくしを置いて行くのは許しませんの。
唯さんはわたくしの伴侶として一生添い遂げるのでしょう?
であれば運命共同体。地獄の底まで一緒ですわ。
今さら逃げようとしたって、わたくしは絶対逃がしませんわよ!!」
唖然。
口をぽかんと開けたまま固まる唯。
彼女のマシンガントークのような剣幕は、唯のプロポーズに対する回答のようなものだった。
嶺華から向けられた愛に、唯の目頭がじーんと熱くなる。
先ほどまで流していた悲痛の涙ではない。
恋い焦がれた彼女との絆を確信して滲んだ、嬉し涙である。
「………………っ」
小さく息を吸って、目を閉じる唯。
彼女の言葉を心の中で反芻し、余韻に浸り、そして再び目を開ける。
陰鬱にふさぎ込む女はもういない。
そこにいたのは、自信に満ちた凛々しい笑みを浮かべる女であった。
唯は少女の瞳をまっすぐに見据え、穏やかな口調で言葉を紡いだ。
「嶺華さん。私はこれから、私のもう一人の家族を助けに行きます。
私一人じゃ、命がいくつあっても足りない。
だから、嶺華さんの力を貸してください。
その命を私に預けてください。
私と一緒に、死地へデートに行きませんか?」
まるで、姫をエスコートする騎士のように。
ただの懇願ではなく、誘い文句を謳って左手を差し出す唯。
嶺華は頬を緩ませながらその手を取った。
「よく言えました。わたくしの答えはもちろん、イエスですの」
固く握られる二人の左手。
離れたくない、という少女の意思がやや強すぎる握力で伝わってくる。
痛いくらいの感触を心地良いとさえ感じながら、唯は繋いだ手をぎゅっと握り返した。
手のひらで温もりを分かち合う。
たとえ行く先が死地であろうと、その温もりだけは決して手放さないと誓う。
唯の体は高熱に冒されていることさえも忘れてしまったかのように昂った。
「安心してくださいまし。わたくしが一緒に行くのですから、唯さんを死なせることなどあり得ませんわ!」
「嶺華さん……ありがとうございます」
「もうすぐ駆雷龍機の修理が終わりますの。それまでに唯さんの体調も万全にしていただいて。準備が整い次第、ニードルの所へカチコミに行きますわよ!!」
「はい!!」
黄金色の少女の眩しすぎる笑顔に、唯も満面の笑みで応えた。
◇◇◇◇◇◇
「さて、わたくしは大浴場でひとっ風呂浴びてから寝ますわね。ふぁあ……どうせ唯さんも起きてこないでしょうし、明日は寝て曜日にしますの」
ベッドから降り、欠伸をしながらモコモコのスリッパに爪先を通す嶺華。
そういえば今日(日付が変わったので正確には昨日)は朝から唯の出撃に付き合ってもらったので、相当眠いはずだ。
「この部屋にもタオルくらいありますし、今晩は汗だけ拭いて早くおやすみになってはどうですか?」
唯の提案に対し、嶺華はひらひらと手を振った。
「遠慮しておきますわ。今は熱いお湯でさっぱりしたい気分ですの。誰かさんのせいで、下着まで濡れてしまいましたし」
他意は無いのだろうが、唯の耳には妙に色っぽく聞こえてしまう。
常夜灯の薄暗さによって、彼女の妖艶さが増長されているのかも。
「あはは……そうですよねー、ごっ……」
ごめんなさい、と思わず言いかけたので、吐く息を止めて踏みとどまる。
一応セーフだ。
しかし嶺華はジトッとした疑いの目を向けてくる。
「ご……なんですの?」
追及をかわすため、唯は咄嗟に言い換えた。
「ご一緒させてください! お背中お流しします!」
笑顔で冷や汗を流す唯。
「……」
「……」
見つめ合う一瞬、謎の空白時間が生まれた。
そして。
「わー! やっぱり冗談ですぅ!」
唯は沈黙に耐えかねて発言を撤回しようとした。
同性であろうと恥じらいはある。
過去に一度だけ嶺華と同じ湯船に浸かったこともあるが、あれは成り行き上仕方なかった例外ケースだ。
これから風呂に入るという時について行きたいなどと、普通なら気持ち悪がられると思った。
「変なこと言ってすみ……」
「すみ?」
「何でもありません! ちょっと言い間違えただけです!」
「では本当は何を言おうと?」
「それは、えっと……とにかく! 私には決して邪な気持ちがある訳じゃありませんから!」
「……ふふっ」
支離滅裂に慌てふためく唯を見て、破顔する嶺華。
いつもの調子でごめんなさい、とか、すみません、などと言えないのがもどかしすぎる。
というか、彼女はそれを完全に見透かした上で、面白がっている。
唯は恥ずかしさで茹でダコのように真っ赤になった。
「そんなにかしこまらなくても、好きにすれば良いですわ」
「えっ」
「わたくしが唯さんについて行くと言いましたものね。唯さんがついてくるのは、断れませんもの……くすくす」
少女の言葉の意味を理解するにつれ、脳の処理性能が著しく低下していく。
そうして唯が呆けている間に、嶺華は笑いながら部屋を出ていってしまう。
「ま、待ってくださいーー!!」
裸足のまま部屋を飛び出し、全力で彼女を追いかける唯。
体のだるさは、脳が麻痺してしまったかのように感じなかった。
この後、熱々の風呂に入った唯は当然ながら盛大にのぼせてしまうのだが、その話は割愛する。