第87話 不完全燃焼
異次元空間にポツンと浮かぶ艦の中。
無数にある部屋のうち、唯に割り当てられたプライベートルームはビジネスホテルの一室のようだった。
家具はベッドと小さな机、あとはスカスカのクローゼットくらい。
趣味の品などは特に無かった。
ただ寝て起きるためだけのつまらない部屋だ。
ベッドの上に横たわる唯は、窓から覗く偽りの星空をぼんやりと見つめていた。
その彼方に連れ去られた妹を想って。
「…………ちくしょう」
かすれた声で呟くも、布団から起き上がる元気は無かった。
病衣のような地味パジャマ。
汗でぐっしょりと濡れた枕。
紫がかったショートヘアーはだらしなくボサボサにはねている。
「喉乾いた…………うぅ」
机の上に置いたコップに手を伸ばそうとして、あまりの気怠さに断念。
お腹にかけたタオルケットをくしゃくしゃに抱き寄せながら、もう何度目かも分からない、息苦しい寝返りを打つ。
械獣の巣窟と化した敷城市から撤退した手負いの唯は、空裂の中をふらふらと気力だけで歩き通し、なんとかマリザヴェールまで帰還できたらしい。
らしいというのは、艦に到着した時の記憶があやふやだからだ。
廊下の赤い絨毯を踏んだ所までは覚えているのだが、その後の記憶はぷっつり途切れている。
気がついたらこの自室で寝ていた。
おそらく、艦まで辿り着いたと頭が認識した途端に気が緩み、疲労と貧血でぶっ倒れたのだろう。
過酷な連戦で心身ともにズタボロの状態。
もしかすると呼吸が止まっていたかもしれない。
それでも今の唯が正常に心肺を稼働できているということは、嶺華とマルルが介抱してくれたということだ。
血を滴らせていた脇腹の傷は既に塞がっている。
唯が気を失っている間に外傷修復も施してくれたようだ。
体を蝕むような鈍い痛みはもう感じない。
その代わりに、猛烈な倦怠感が全身に重くのしかかっている。
ひどい風邪をひいた時のような熱っぽさもあり、とにかく辛かった。
「熱い……焼け死ぬ…………」
背中や手足の関節が痛む。
体温は40度を超えている気がする。体感だけど。
発熱の原因は、唯自身が一番よく分かっている。
業炎怒鬼の強化能力を使用したことによるバックファイアだ。
脳波刺激と薬剤注入によって限界を何段もすっ飛ばしたため、肉体が悲鳴を上げている。
こうなったらもう、体力が回復しきるまで休むしかない。
だが、眠れない。
脳が睡眠モードに移行できないのは、先ほどから頭の中をぐるぐると回っている思考のせいだ。
妹を救えなかった。
あと10センチで届いたはずの手が、届かなかった。
空から落ちる間際に見た、彼女の恐怖に歪んだ表情が脳裏に焼き付いている。
「梓……情けないお姉ちゃんで、ごめん…………」
息をするように懺悔が漏れる。
カニ型械獣を倒した後、あと一分早く梓と合流していれば、結果は違ったかもしれない。
梓がハチ型械獣に襲われていた時も、あともう一歩前に踏み込んでいれば、身を挺してでも彼女を庇えたかもしれない。
頭の中で無意味なシミュレーションを何度繰り返しても、時間は前に戻らない。
後悔と無力感で押しつぶされそうだった。
唯が布団の中で弱々しく拳を握っていると、プライベートルームのドアが静かに開いた。
「失礼いたしますわ」
黄金色の髪をなびかせる少女が優雅に入ってくる。
足元を彩るのはモコモコの可愛らしいスリッパ。
レース付きの白いネグリジェを着用した格好は、今まさに寝る直前といった様相である。
手入れされた美髪が星灯りに照らされ輝いて見えた。
髪色は星空と同じく造り物であるが、その美しさは本物である。
「れいかさん…………わぷっ」
唯がしわがれた声を上げるや否や、嶺華は机の上に置いてあったコップを掴んで唯の口に押し付けてきた。
ぬるくなった水が喉を潤す。
「んぐ……ごく……ぷはっ、ありがとう、ございます」
あっという間にコップは空になった。
唯の体は思ったよりも水分を求めていたらしい。
彼女が来なければ、そのうち脱水症になっていたかも。
瀕死女への水やりを終えた嶺華はコップを机に戻し、ベッドの縁に腰を下ろす。
「唯さん、ご機嫌いかがですの?」
「…………あえて言うなら、最悪です」
「ふふっ、そうですの」
高熱で頭の回らない唯の素直な返事を聞いて、嶺華はくすりと笑った。
「今日も随分と無茶をしたことですし、お体はまともに動かないのではなくて?」
「ええ、まあ、ご覧の通りです」
布団の上で脱力しながら苦笑いの唯。
腕を上げようとしても、肘がシーツから離れない。
唯が電池の切れかけたロボットのように動けませんアピールをしていると、嶺華はモコモコのスリッパを脱いでベッドに上がってきた。
「それなら都合が良いですわねぇ」
「嶺華さん?」
タオルケットが剥ぎ取られる。
直後、唯の耳元に風圧。
勢いよくベッドを叩いたのは、少女の左手。
壁ドンならぬ床ドンだった。
唯に覆いかぶさるような格好になった嶺華は、こちらの目をじっと見つめながら囁く。
「唯さん。実はわたくし、夜這いに来たんですわよ」
「ふえ??」
唯の脳は一瞬、何を言われたのか理解しかねた。
熱のせいでおかしな夢でも見ているのかとも思ったが、夢にしては間近の息遣いがリアルすぎる。
「今の唯さんなら、襲われても抵抗できませんわよねぇ」
妖艶に三日月を描く唇。
垂れ下がる黄金色の毛先が唯のパジャマを撫でる。
「待っ…………」
「待ちませんわ」
人形のように整った顔が近づいてくる。
愛する彼女が、唯のことを求めてくる。
間違いなく今までの人生で一番幸福な瞬間だろう。
嶺華の誘惑に身を委ねれば、陰鬱な気分も晴れるかもしれない。
悲しい別れの記憶なんて、肉欲で上書きしてしまえばいい。
柔らかな唇が唯の火照った頬に触れそうになった所で、
「ごめんなさい!」
唯は顔を逸らしてキスを拒んだ。
「あっ、いや、嶺華さんが嫌という訳じゃなくて!」
慌てて取り繕う唯。
これでは誘ってくれた嶺華に恥をかかせてしまう。
そうは思いつつも、こんな時に甘美なムードで彼女と体を重ねるという選択肢はあり得なかった。
「その…………嬉しいですけど、ごめんなさい。今はそんな気分になれないんです」
梓のことしか考えてませんでした、とは口に出さなかった。
そんな身勝手な想いが露見すれば嶺華を怒らせてしまうに違いない。
唯は真横を向いて目を瞑った。
恐ろしくて彼女の顔を見れない。
彼女にどんな蔑んだ言葉を吐き捨てられるのかと身構えていると、
「くすくす、冗談ですわ」
軽すぎる声音に思わず目を開ける唯。
嶺華は悪戯っぽい表情で笑っていた。
「わたくし、無抵抗の相手をいたぶる趣味はありませんの」
あっさりと唯の上から退く嶺華。
本当にからかっただけのようだ。
「良かった……嶺華さんに無理やりされるかと思いました……」
「今の唯さんを抱いても、反応が薄いから面白くありませんわ」
「(え? そういう問題?)」
唯の体調が万全だったらどうなっていたのかは考えないでおく。
朱く染まった唯の顔をニヤニヤと見つめながら、枕の隣に座り込む嶺華。
「妹さんのことで思い詰めているのでしょう」
心臓がドキリと跳ねる。
図星だ。
なんと答えようか迷ったが、熱に冒される頭では上手い言い訳も思いつかず。
ごまかしたりすることなどできなかった。
「はい…………ごめんなさい」
「なぜ謝るんですの?」
「それは、だって……」
唯は声を絞り出し、今日の自分の愚行を詫びた。
鬼の力を解放したこと。
破壊衝動に呑まれかけ、嶺華の声が耳に入らなくなったこと。
自らの命を顧みぬ戦いをしたこと。
それらは全て梓のために振るった力だ。
嶺華から託された力を、嶺華以外のために使った。
唯の中では、嶺華に対する不貞行為にも等しいと考えていた。
「無茶な戦いはしないって、約束したばっかりなのに。私はまた、嶺華さんを一人にしてしまうかもしれなかった……!」
「そうですわね。わたくしもすごく心配しましたわ」
「ごめんなさい! 私は、嶺華さんの彼女だから、嶺華さんのこと以外考えちゃだめなのに……本当に、ごめんなさい……!!」
唯は錆びついた体を無理やり叩き起こすと、ベッドの上で膝をついて頭を垂れた。
押し寄せる高熱の波のせいで、頭がぐらつきそうになるのをぐっと堪える。
腕の筋肉はひきつけを起こしたように震えている。
それでも、我慢した。
彼女の許しを得られるまでは、正座の体勢を維持しようとした。
「はぁ…………」
嶺華はため息を一つ。
彼女の左手が唯に向かって伸ばされる。
一発ぶん殴られるかと思い、体を縮こまらせる唯。
だが実際に嶺華がくれたのは、抱擁の温もりだった。
「唯さんのどこが悪いのです? 梓さんは、唯さんの大事な家族なのでしょう?」
「でも、梓は嶺華さんを傷つけたんですよ……」
「関係ありませんわ。家族を心配するのは当然のこと。唯さんは何もおかしくないですの!」
唯の背中に手を回しながら、嶺華はぴしゃりと諭した。
「わたくしに血の繫がった家族はいませんわ。
けれど、家族を想う気持ちは痛いほど分かりますの。
だってわたくしには唯さんがいますもの。
わたくしを家族と認めてくれた貴方が。
唯さんがいなくなるかもしれないと考えただけで、今日は胸が締め付けられるほど苦しかったですわ」
彼女の華奢な体つきからは想像できないほどの強い力で抱き寄せられる。
「ですから、唯さんも素直になってくださいまし。
妹さんが大好き。それで良いではありませんの。謝罪なんて必要ありませんわ」
嶺華は、唯が嶺華以外の人間を愛すことを認めてくれた。
唯の彼女は、なんて器の大きい女性なのだろう。
いや、唯の器が小さすぎるのか。
梓の話題を出せば嶺華の機嫌が悪くなる、などと邪推していた自分が恥ずかしい。
「わたくしは、唯さんが生きて帰ってきただけで十分ですの。改めて言わせてくださいまし…………おかえりなさい、と」
その言葉を聞いた瞬間、唯はひどく懐かしい気持ちになった。
AMFに所属していた頃。
過酷な訓練のせいで、何時に帰れるか分からない日々。
帰宅が夜遅くになることもあった。
しかし、どんなに遅い時間でも、梓は待っていてくれた。
唯のことを、いつも笑顔で迎えてくれた。
そんな梓の笑顔に、唯はいつも救われていた。
だが。
その笑顔は、もう見ることができない。
「う……ぅ…………」
白いネグリジェの生地に、熱を帯びた雫が染み込んでいく。
もう限界だった。
嶺華の前だから、嶺華の彼女だから、常に嶺華第一に振る舞わなくてはならないのに。
そんなことを気にする余裕が消えていた。
二度と梓に会えないかもしれない。
今日が永遠の別れの日かもしれない。
空で見たあの絶望の表情が、本当に最後だったのかもしれない。
そう考えただけで、とても正気を保てなかった。
「うぐ……ひぐっ…………」
唯はついに、嶺華の胸に顔を埋めて泣きだしてしまった。
「梓に会いたい…………梓と一緒にいたい…………お別れなんてやだあぁぁ…………!」
喉奥をぎゅっと詰まらせながら、胸に秘めた想いを吐露する。
嶺華が好き。
嶺華のために一生を捧げると誓った。
だけど、唯は。
梓と過ごした十数年の時間を綺麗さっぱり捨てることなど、絶対にできなかった。
「……それが唯さんの本音ですのね」
「あ、あぁ…………ごめんなさい……ごめん…………うぅっ…………」
最低の最低の最低だ。
梓のことを考えながら、梓のために流した涙を、嶺華の胸に吸わせている。
隻腕の少女の体にしがみつきながら、唯は自己嫌悪で吐きそうだった。
「私は……嶺華さんを、梓の代わりにしたい訳じゃないのに…………最低で、最悪な女です…………!」
「…………唯さんは、優しすぎるのですわ」
嶺華は、子どものように泣きつく成人女性の頭を、よしよしと安心させるように撫でてくれた。
いっそ梓に嫉妬してくれたほうが、こちらの本音も隠せたのに。
そうしたら嶺華を選ぶだけで良かったのに。
唯がいくら自分を貶めても、嶺華は怒ってくれなかった。
梓のことは忘れろ、だなんて言ってくれなかった。
ただ、泣きじゃくる唯に胸を貸してくれた。
「いつもはわたくしが甘える側なのですから、今日くらいは唯さんが甘えても良いのではなくて?」
あまりの包容力に、唯の中でギリギリ踏みとどまっていた最後のダムも決壊した。
「うああぁぁぁああああああ………………!」
聞くに耐えない嗚咽を叫ぶ。
唯一人では抱えきれない不安と悲しみ。
その痛みを誰かにぶつけたかった。
嶺華の右腕としてのプライドをかなぐり捨て、欠けた肢体に遠慮の欠片もなく縋りついた。
かつて号泣する嶺華を宥めたことがあったが、あの時とは立場が完全に逆転してしまった。
黄金色の少女の温もりに、心身ともに溺れていく。