第80話 街下の隠し道
白の世界に静けさが戻る。
不快な合成音声はもう聞こえない。
だがその静寂こそが、唯の不安を掻き立てた。
「早く梓の所へ行かないと……でもどうすればッ!!」
濃霧の中に潜むコード付き。
その実体がどこにいるのかは、現状全くのノーヒント。
黒い影は一片たりとも痕跡を残してくれなかった。
せっかく械獣を屠る力を手にしているのに、それを振り下ろす相手がいない。
飢えた鬼の鎧は気乗りしなさそうに吸気音をしぼませる。
『先ほど唯さんが暴れた影響で、霧の様子に何か変化はありませんでしたの?』
『はい、残念ながら。上空で待機中の偵察機は依然として霧の中をスキャンできません。電磁計測、熱源探知はいずれも無反応です』
『そうですの……業炎怒鬼ならば霧を焼き払えるかと思ったのですけれど、難しいようですわね』
インカムの向こうで落胆した声を漏らす嶺華。
爆炎の斬撃によって局所的に晴れた霧は、すぐに復活してしまった。
そしてこの霧が展開されている限り、潜伏する械獣やAMF隊員たちの居場所を特定するのは困難だ。
『唯さん。とにかく今は、地道にAMF部隊の足跡探しを続けるしかありませんわ』
「……分かりました」
何もせず突っ立っていても仕方がない。
唯は腰を折り、地面を舐めるように歩き回ってみる。
とはいえ相変わらず見通しの悪すぎる視界。
先ほど調べようとしたAMF隊員の遺体は、もはやどこにあるのか分からなくなってしまった。
路上に転がっているのは落ち葉や潰れた空き缶くらいで、梓たちの部隊に繋がる手がかりは得られそうにない。
濃霧の海を彷徨い歩き、ただ時間だけが過ぎていく。
「梓……無事でいて…………」
コード付きが妹を手にかけるまで、そう猶予は無いだろう。
もしも唯の到着が間に合わなかったら。
道を違い、刃を交えたあの日が、愛する妹と共に過ごした最後の時間だとしたら。
たった一人の肉親を失うことなど想像もしたくなかった。
唯が膨れ上がる焦燥感で窒息しそうになった時。
ズズン、という重たい音が聞こえた。
まるで大きな岩が落ちてきたような音。
「今のは!?」
足を止め、耳を澄ませて方向を確かめる。
すると再びの轟音。
音源は、前でも後ろでも、右でも左でもない。
「足下から……?」
唯はその場で這いつくばり、耳を地面に当ててみる。
地響きのような音が2回、3回と続けざまに聞こえた。
『戦闘の音ですの?』
「分かりません。でも、何かが崩れたような……」
車道から歩道へ、音源を探るべく静かに移動する唯。
傍から見れば、獲物を求めて徘徊する四足歩行の獣のようだ。
道沿いに植えられた街路樹の横を通り抜け、硬いブロックが敷き詰められた歩道をゆっくりと進む。
ほどなくして、ブロックとは色が異なる床を発見。
コンクリートで縁取りされた部分はマンホールよりも一回り大きい正方形。
表面が錆びてくすんだ茶色になった鉄板である。
間近で見つめると、その鉄板がカタカタと震えている。
雨水すら入り込めないよう隙間なく地面に埋め込まれていたようだが、今は僅かに浮き上がり、突き上げる音に合わせて小刻みに跳ねている。
唯は鉄板の縁に腕部装甲の指先を突き立てて力を込めた。
「よい…………しょ!」
メキメキという音と共に金属の蓋が歪む。
本来なら専用の工具で開ける作りのようだが、アームズの膂力があれば無理やり地面から引き剥がすことができる。
二度と元通りに嵌まらなくなった鉄板を放り投げ、口を開けた穴に首を突っ込む。
中は当然真っ暗だ。
『頭部のライトを点灯してください』
マルルに言われるがまま、視線入力で網膜プロジェクター上のインターフェースを操作する。
すると、穴の中をオレンジ色の光が照らした。
手のひらを顔の前で振ってみると、ヘッドギアの右耳の上あたりでライトが点灯しているのが分かる。
「こんな機能あったんだ」
鬼の鎧に備わる便利機能に関心しつつ、唯は改めて地下の空間を覗き込む。
まず目についたのは、何本ものケーブルと配管。
それらが空間の体積の過半数を占めていた。
終端は見えず、長い通路のような地下空間のずっと先まで延びている。
通路の道幅は縦横2メートルほどで、ケーブルと壁の間には人がギリギリ通れるほどの隙間があった。
『送電線と通信ケーブルのようです』
「なるほど、電柱の代わりか」
『過去の衛星写真を確認。電柱の無いエリアは数キロメートルに渡って続いています。それに伴い、ケーブル敷設用の地下道も整備されているようです』
マルルの分析に合点がいく唯。
思い返してみれば、ここまでの道中に街路樹はあっても電柱は無かった。
街の景観を良くするため、大通り沿いに地下道が張り巡らされているのだろう。
問題は、何故こんな狭い通路から、地上にいても聞こえるほど大きな音が発せられたのかだ。
「もう少し調べてみます」
穴に足を滑り込ませ、中に降りてみる。
アームズ頭部のライトは通路の奥、かなり遠くまでを照らし出した。
どうやら地下までは霧に侵されていないようだった。
『唯さんは、この中にコード付きが潜んでいるとお思いで?』
「いや、ちょっと械獣には狭すぎる気もするけど…………わッ!!」
嶺華との会話の最中、地下道を轟音が駆け抜けた。
コンクリートの壁に反響し、エコーがかかったような重低音が鳴り渡る。
この通路自体がまるで巨大な楽器のようだった。
「もしかして、梓とコード付きが戦ってるの?」
『地上で行われている械獣との戦闘で、地下道のどこかに穴が空いた可能性があります』
「つまり、その穴を探せば械獣か梓の所まで辿り着けるかも!」
『行ってみる価値はありますわ』
ようやく見つけた取っ掛かりを逃すまいと、唯は音がする方向へ走り出した。
通路は直線で、しばらく進んでも曲がり角は現れない。
両手を伸ばせるほどの横幅は無いものの、地上の霧の中を闇雲に進むよりよっぽど走りやすかった。
進むたび、断続的に聞こえる轟音が大きくなっていく。
音源へと確実に近づいている。
唯が前方の暗闇に目を凝らしていると、遠くに白い点のようなものが見えた。
「おーい、誰かいるのか!?」
人間の男の声だった。
恐らくは、AMF隊員。
顔は遠すぎて見えないが、懐中電灯のような小さな明かりが動いている。
向こうからも、唯のヘッドギアから灯る光だけが見えているのだろう。
「(私が神代唯だって気づいたら、撃ってくるかなぁ……)」
指名手配中の唯は返事をするかどうか迷った。
もちろん業炎怒鬼の次元障壁が銃弾ごときに貫かれる心配など皆無。
だが敵意を向けられた場合は殺さずに無力化しなければならない。
狭い地下道に隠れるような場所はなく、接触は不可避だった。
唯がなるべく穏便にやり過ごす方便を考えていると、AMF隊員の男は切羽詰まった様子で叫んだ。
「すぐに引き返せ! こっちは危険…………ぎゃッ!!」
隊員の短い悲鳴と共に、大きな破砕音が響いた。
「ッ!?」
地下道の奥で、懐中電灯の光がでたらめな方向に揺れ動く。
そのまま光は天井に吸い込まれた。
人の気配が消える。
代わりに、天井から光の筋が差し込んだ。
地上へ繋がる新しい穴が空いたようだ。
『敵襲ですの?』
「確認してきます!」
唯は隊員が消えた場所まで駆け寄った。
パラパラと礫が降り注ぐ中、辺りを見回して息を詰まらせる。
コンクリートで固められた地下道の天井や壁が、木綿豆腐のようにボロボロと崩れていた。
パワーショベルを叩きつけたかのような、とてつもない力で破壊されている。
天井に空いた大穴を見上げると、白い霧の向こうに太陽の輪郭が見えた。
「(霧が薄くなってる……?)」
ここまで地下道を移動した距離は数百メートル。
街を包む霧の範囲を出たとは考えにくい。
では、この付近のみ霧の濃度が薄くなっているのか。
だとしても、唯のいる場所が安全地帯で、この穴から隊員が無事に脱出した、というのは楽観的すぎる想像だろう。
何故なら、穴から差し込む光が照らしていたのは灰色のコンクリートだけではなかったからだ。
床や壁にべっとりと付着した、おびただしい量の鮮血。
先ほどの隊員の生死など確かめるまでもない。
唯はポタポタという水音から逃れるように、地下道を後ずさった。
『唯さん! 上に警戒してくださいまし!』
嶺華の警告とほぼ同時、唯の頭上で天井に亀裂が入った。
狭い地下道では、真横に転がることも剣を構えることもできない。
唯は絶縁被膜で覆われた送電線を咄嗟に掴むと、それをグンと引っ張った反動で飛び下がった。
その直後、轟音と共に天井が割れた。
コンクリートを粉砕しつつ、真上から何かが突き抜けてくる。
地上の光とアームズ頭部のライト、その両方に照らされた物体の形状が明らかになる。
それは、大きな大きな、鋼鉄の鋏であった。
三日月を二つ貼り合わせたような細長い刃。
内側には歯のような突起がずらりと並んでいる。
刃の切れ味ではなく、挟み込む力で対象を圧断する兵装のようだった。
巨大怪鳥の嘴の如き鋏は地下道を啄み、コンクリートをボリボリと屠っていく。
バチンという鈍い音は、束になった送電線がまとめて切断された音。
断面から火花を噴き上げつつ、千切れたケーブルたちが地下道の床をのたうち回る。
何度か開閉を繰り返した鋏は獲物を逃したことに気づいたのか、ゆっくりと引き上げられていった。
「何あれ!? まさかコード付きとは別の械獣!?」
『まだ来ますわよ!』
インカムの声に鞭打たれ、唯は足をバタつかせて後ろ向きに走った。
地下道の壁がアームズの次元障壁に擦れて削り取られるのも気にせず、一歩でも遠くへ。
目と鼻の先に大鋏が着弾した。
あと1秒足が遅れていれば直撃していたかも。
複数箇所の亀裂が繫がったのか、前方の天井が丸ごと崩落する。
次元障壁に守られた装者は瓦礫の生き埋めになっても死なないが、間違いなく足は止まってしまう。
そこへ瓦礫をも砕く大鋏が襲ってきたら回避のしようがない。
鋏の主が次元障壁を操る械獣ならば、炎鬼の装甲にダメージを与えられる可能性がある。
「相手の攻撃の方が速い! 逃げ切れない!」
『このままでは一方的に追い込まれてしまいますわ! 唯さんはすぐに地上へ出てくださいまし!』
「了解ッ!」
後ろ向きに走っていた唯は、大鋏が上に引っ込むタイミングに合わせて急停止。
走る向きを前方に切り替え、天井が崩れた場所へと戻る。
ドミノ倒しのように積み上がったコンクリートの塊を階段代わりとし、狭い地下道から脱出した。