第77話 観測不能地帯 II
一歩踏み出した途端、視覚を奪われた。
より正確に言えば、目を凝らしても何も見えないほど、霧の壁が濃密であった。
唯の体を包むのは単なる目隠しだけではない。
腋と太腿、そして首筋にひんやりとした感覚が駆け抜ける。
いずれも紅蓮の鬼が素肌を露出させている部位だ。
網膜プロジェクターの表示によると、霧の中は晴れた外と比べてマイナス5℃も涼しくなっている。
業炎怒鬼は纏っているだけで熱いアームズだ。
常に発熱する装甲に炙られる装者の体は、脳波刺激と相まって内外ともに温められる。
だから少しでも体温を下げるため、太い血管付近は軒並み外気に触れているのだ。
それだけに、唯にとって気温が低い環境はむしろ歓迎。
直射日光に晒されてきた道中よりも快適である。
全身を霧の海に潜らせた後、唯はもう一度ヘッドギア内のインカムに話しかけた。
「どうですか? 通信は繋がってます?」
『ばっちりですの。唯さんの視点映像にも乱れはありませんわ』
『ダイレクトコア通信は健在です』
霧の奥へと数歩進んでみても、嶺華の声は明瞭に聞こえていた。
最初の課題をクリアし、唯はひとまず安堵する。
「良かったぁー」
『ですがやはり、偵察機と同じ無線通信は使用できなくなっています』
マルルは実験のために他の通信手段も試しているらしい。
嶺華と共にジャミングの挙動について分析を進めている。
『帯域を変えても同じですの?』
『はい。帯域の異なるチャネルに切り替えた所、数秒間通信が復旧した後に切断されました』
『最初から通じない訳ではありませんのね』
『霧の中で行われた通信を解析し、それをピンポイントに打ち消すような妨害システムが展開されているようです』
「なんじゃそりゃ……」
つまりこの空間内ではどんな周波数帯の通信も遮断されてしまう。
AMFが何種類もの無線機を用意したとしても、敵の技術力の前にはいずれも無意味だっただろう。
当初の想定通り、マリザヴェールの無人機による索敵支援にも期待できなさそうだ。
『ダイレクトコア通信が生きているならば、作戦続行に支障はありませんわね。唯さんは先へ進んでくださいまし』
「了解です!」
耳元で響く甘いASMR、もとい彼女の加護を感じながら、唯は真っ白な闇の中へと歩き出す。
「ってこれ、本当にまっすぐ進めてますか!?」
歩きながら何度か瞬きしただけで、唯はもう方向感覚が狂ってしまった。
とにかく視界が狭すぎるのだ。
前方に剣を突き出してみれば先端が霞んで見えるほど。
物体の輪郭がはっきりと認識できる距離はせいぜい1メートル程度だ。
視線を下に移すと、地面に転がる小石すらぼやけていた。
『業炎怒鬼の各種姿勢制御センサのデータを確認。神代唯の進行方向は侵入時から7.8度右にずれています』
『姿勢を低くして進むことをおすすめしますわ』
「そうするしかないですね……」
唯はその場でしゃがみ込み、膝を曲げたままゆっくりと歩き始める。
路面に引かれた白線や凹凸を目印にすることで、辛うじて進行方向を維持できる。
だが野球のキャッチャーのような姿勢では、軽快に走ることは難しい。
このままずっと低い姿勢でいたら腰が痛くなりそう。
しかし体の痛みよりも、のしかかる不気味な沈黙の方が苦痛であった。
「(予想はしてたけど、やっぱりノーヒントだとキツイなぁ……)」
進めど進めど、得られる情報は固い地面の感触のみ。
空の太陽も見えなければ、風の音も聞こえない。
静謐な白の世界。
目に見えぬ枷や檻で戒められているかのような閉塞感。
霧に包まれた空間が無限に続いていて、このまま一生出られないのでは。
そんなネガティブな錯覚に陥る。
霧の発生範囲が有限であることは承知の上だが、あまりにも先の見えない散歩は唯の精神を確実に蝕み始めていた。
「(っ! いけない、気を緩めちゃだめだ……)」
こちらからは何も見えずとも、霧の中が敵の手中であることは間違いない。
背後か、頭上か、はたまた正面からか。
敵からすればいつでも奇襲が可能な状況である。
唯は不意打ちに備え、常に剣の柄に手を添えておく。
涼しい体感に反して、手のひらに汗が滲むのが分かった。
黒いアスファルトの表面をなぞりながら、ノロノロと進むこと約20分。
突如、唯の眼前に巨大な物体が現れた。
「おわあッッ!!」
直ちにその場から飛び退き、腰の長剣を抜き放つ唯。
下を向いていたからか、頭がぶつかりそうになるまで全く気付かなかった。
もっと反応が遅れていれば手痛い一撃をもらっていたかもしれず、冷や汗が背中を伝う。
ついに械獣と接敵した。
そう思った唯は、どんな攻撃が来ても迎撃できるように剣を構える。
「…………」
巨大な物体は、唯を前にしても微動だにしない。
仕掛けて来ないのは、業炎怒鬼の力を推し測ろうとしているのか、はたまた油断を誘うためか。
唯は警戒心をマックスに引き上げたまま、注意深く敵を観察する。
唾を飲み込むゴクリという音がやけに大きく聞こえた。
「…………」
尚も相手は動かない。
しびれを切らした唯は、長剣を構えながら一歩踏み込む。
車道端の縁石を跨ぎ、柔らかい土の地面を踏みしめる。
歩道には硬いブロックが敷き詰められていたが、一部はくり抜かれたように土が剥き出しになっていた。
械獣が路面を抉ったのかもしれない。
敵と思わしき物体の至近距離で長剣を振り上げると、ぼやけていた輪郭がようやく浮かび上がる。
「……あ」
間抜けな声が漏れた。
それもそのはず。
唯が長剣を向けていたのは、ただの街路樹だった。
木が植えられているのだから地面が土なのは当たり前。
茶色い木の幹が一瞬だけ械獣の体表に見えたのだが、唯の勘違いであった。
濃霧の中とはいえ、何の変哲もない木を械獣と見間違えた自分が信じられない。
「ふぅ…………無駄に疲れた」
長い息を吐き出しつつ、腰の鞘に剣を収める唯。
緊張感の乱高下のせいで心臓がバクバクと暴れている。
ただの木でここまで神経をすり減らされてはたまったものではない。
肩を落とした唯の耳元で、全く動じていない少女が囁く。
『唯さん。気の張り詰めすぎはかえって隙を生みますわよ』
「す、すみません」
『紅茶でも飲んでリラックスしてはいかがですの?』
「そうしたいのは山々ですけど、この辺の喫茶店は全部閉まってるみたいです」
『あら、それは残念ですわね。ではわたくしが代わりに飲んでおきますわ』
「何故に!?」
思わず声を上げてツッコむと、インカムの向こうからカチャリというティーカップの触れる音が聞こえてきた。
『いい香りですわぁ~』
「本当に飲んでるし!」
『唯さんが買ってきてくださった紅茶を頂いてますわ。美味しいですわねぇ』
「いいなー! 私も飲みたいです!」
『帰ったら一緒に飲みましょう。今は雰囲気だけでもお裾分けですわ』
「あはは……」
気の抜けた嶺華の紅茶レビューを聞いて唯の頬が緩む。
そのおかげで余計な緊張も解けていく。
『神代唯。移動速度を上げるため、街路樹や建物の壁に沿って進むことを推奨します』
「確かにそれなら立って歩けますね」
マルルの提案に頷く唯。
敵やAMF隊員たちがどこにいるか分からない以上、できるだけ広範囲を探索しなければならない。
そのためには、ちんたらしゃがみ歩きでは埒が明かないと感じていた所だ。
暗い洞窟で迷った時、壁伝いに進んで出口を探すように。
まずは現在進行中の道路を一直線に進み、霧の外まで通り抜けてみよう。
唯は今しがた械獣と見間違えた街路樹に手をつき、隣の木に向かう。
すると。
「ん?」
ぐにょりとした感触が、足の裏から伝わった。
土でも植物でもない何かを踏みつけたようだ。
その場でしゃがみ込み、足元を確認する唯。
木の根元をよく見ると、グレーの布切れに包まれた、ぶよぶよとした筒状の物体が転がっていた。
「何だろう、これ」
違和感を覚えつつ、ソレを掴んで持ち上げてみる。
物体を包んでいた布がずれ動く。
その端から、ポタポタと何かが滴った。
歩道を汚していく斑点の色は、黒ずんだ赤。
さらにグレーの布の隙間から見えたのは、ひどく汚れた肌色の……。
「きゃあああッッ!!!!」
甲高い悲鳴を上げた唯は、手にした物体を放り投げた。
その場で尻もちをつき、驚きのあまり腰を抜かしてしまう。
炎鬼の鎧を纏っているにも関わらず、だ。
「まさか……いやいや、そんなはずは…………」
『人体の一部のようです』
「はっきり言わないでよマルルさん!!」
械獣の重火器攻撃とは毛色の異なる衝撃だった。
何故こんな道端に、あんなおぞましいモノが落ちているのだろう。
気味が悪くなった唯は、力の抜けた下半身を引きずって後ずさる。
すると今度は尻に何かが当たった。
見てはいけない気がしたが、自制叶わず目を向けてしまう。
アスファルトの上、無造作に転がっている塊。
ズタボロに引き裂かれたグレーの布。
そのデザインには見覚えがあった。
少し前まで勤めていた職場の制服に似ているような。
回りくどい言い方をしなければ、それはつまり、AMF隊員の亡骸だった。
「ひぃっ!?」
唯は慌てて遺体の側から離れ、四つん這いのまま付近を駆けずり回った。
グレーの制服に包まれた塊は一つや二つではなかった。
気付けばそこら中に、死が転がっていた。
「これ、は…………うっ」
間近で嗅いでしまった濃厚な死の香り。
唯の意思とは関係なく、胃の内容物がせり上がって来る。
物言わぬ肉塊と化した彼らと同じように、地面に横たわる妹の姿が脳裏をよぎった。
「梓は!? まさか、間に合わなかった……?」
『死体の劣化状態から見て、彼らは昨日以前に全滅した部隊と推測されます。本日出撃した神代梓が所属する隊とは別の部隊でしょう』
アームズの視点映像を分析したマルルのおかげで、唯の恐ろしい想像は一旦振り払われる。
しかし、ここで多くの隊員たちが命を落としたという事実は変わらない。
霧の中で発見した最初の手がかりが、こんな生々しい現場だなんて。
唯は吐き気をこらえつつ、遺体に向かって手を合わせる。
『唯さん。人間の死体を見るのは初めてですの?』
「いえ…………AMFにいた時も、作戦中に命を落とした人は何度か見てきました。でも、慣れるものじゃ、ないです」
隊員は人間だ。
いくらでも作り直せる、消耗品の無人兵器とは違う。
彼ら一人ひとりには家族や友人がいる。
命を落とすということは、大切な人たちに二度と会えなくなるということだ。
残された人々の悲しみを想像すると胸が苦しくなる。
『この先も同じような惨状と出会うかもしれませんわ。それでも、唯さんは進みますの?』
唯のメンタルを心配してか、真剣な声音で問いかける嶺華。
確かに人間の死体なんて見たくない。
だがそんな理由で逃げ出すほど、唯の覚悟は脆くない。
「……進みます。これ以上犠牲者を増やさないためにも、急いで械獣を見つけないと」
『分かりましたわ。ならばわたくしは、引き続き唯さんをサポートするだけですの』
「ありがとう、嶺華さん」
寄り添ってくれる少女に感謝しつつ、立ち上がる唯。
梓を救うために必要なのは、この惨状を作り出した械獣を追うことだ。
『神代唯。遺体をもう少し詳しく調査してはいかがでしょう。損壊部分を解析すれば、敵の攻撃手段が特定できるかもしれません』
「それは…………了解」
視界の隅に転がる塊を見つめながら、ぎこちなく頷いた唯。
隊員の遺体に触れるのにはものすごく抵抗があるのだが、今は敵の形状も特性も何も分からない状況である。
械獣を逃さず確実に殲滅するためには、少しでも情報が欲しい。
唯は恐る恐る、倒れ伏す隊員の遺体に手を伸ばす。
その時だった。
静寂に包まれていた白の世界に、生暖かい風が吹いた。