第76話 観測不能地帯 I
住宅街を二分する幹線道路。
西に傾きつつある太陽が、道沿いの家々の影を路面に描く。
残暑の日差しに灼かれたアスファルトからは生暖かい熱気が立ち上る。
しかし、舗装された地面を走るエンジン音は聞こえてこない。
普段ならば人や車が絶えず往来する交差点には、生き物の気配が一切無かった。
住人たちは全員地下のシェルターに避難しているのだろう。
それにしたって、鳥の一羽すら見当たらない光景は不気味であった。
見知った敷城市の街並みは、時が止まったかのように静まり返っている。
神代唯は、誰もいない車道のど真ん中を堂々と歩いていた。
カメラも狙撃も恐れない理由は、その姿が既に紅蓮の鬼と化しているからである。
敵がどこに潜んでいるか分からないため、唯は予めアームズを纏っていた。
三日月のように反った二対の角が禍々しい影を地面に伸ばしている。
赤黒い長剣を腰に提げた臨戦態勢の装者は、まっすぐに目的地へと向かう。
遠くからでもよく見えていたおかげで、ナビは不要だった。
「霧っていうか、壁?」
手を伸ばせば触れられるほどの至近距離まで近づいた唯は、その異常性を再認識する。
二車線道路を断ち切るようにそびえ立つ、不透明な白き壁。
風に吹かれても、表面がカーテンのように揺らめくのみ。
壁面に顔を近づけても、その奥は全く見通せない。
0か100か。
快晴な空の下、ある境界を超えた先が突然濃霧に包まれている。
眼前に広がる不自然現象はとにかく気味が悪い。
アームズを纏った唯でさえ、壁の中に足を踏み入れることには躊躇を覚えた。
『到着したようですわね。わたくしの声は聞こえてますの?』
業炎怒鬼のヘッドギアに内蔵されたインカムから、凛とした少女の声が響いた。
すぐさま唯の心に活力が漲る。
「嶺華さん! 美しいお声が私の耳にバッチリ届いてます!」
『それは良かったですわ。こちらも唯さんの視点映像を受信できてますの。本日はわたくしもできる限り、唯さんをサポートしますわよ』
相棒もとい愛剣の修理が終わっていない嶺華はマリザヴェールでお留守番。
だが少しでも唯の役に立とうと、オペレーター役を買って出てくれたのだ。
「ありがとうございます! ていうか、嶺華さんの声を聞いてるだけで多幸感がやばいです! 贅沢すぎます!」
『冗談を言えるくらいには、体の方は大丈夫のようですわね』
「嶺華さんが一緒なら何時間でも耐えられる気がします!」
相変わらず鬼の装甲は脳内に刺激を送り続けており、装者の破壊衝動を引き出さんと常に誘惑してくる。
しかし、唯の方も慣れたもの。
首筋でチリチリと燻る熱には屈することなく、理性を保つことができていた。
『突入する前に、改めて状況を整理いたします』
インカムの向こうにいるもう一人の有能なオペレーター・マルルは、親しみのある女性の声で説明してくれる。
『本日の目的は二つあります。一つ目は霧の発生原因の特定。これには械獣が関与している可能性が高いです』
「まあ、十中八九いるでしょうね」
械獣の体から直接霧を散布しているのか、霧を発生させる装置が別にあるのか。
いずれにしろ、械獣を排除しなければ霧を消すことはできないだろう。
問題は、その械獣についての情報が皆無であることだ。
『敵の大きさ、能力、位置はいずれも不明。霧の中はマリザヴェールの観測設備および偵察機によるスキャンが及ばないため、業炎怒鬼の各種センサー情報のみが頼りです』
『あと、唯さんの五感もですわ。何か気づいたことがあれば、すぐに言ってくださいまし』
「了解です」
要するに、唯が見聞きしたことを実況中継すれば、マルルと嶺華が的確なアドバイスをくれるということだ。
AMFで戦っていた頃と似た体制だが、お互いの信頼関係には天と地ほどの差がある。
その理由はひとえに彼女たちが、唯のことを兵器ではなく一人の人間として扱ってくれるからだった。
『二つ目は神代唯の妹・神代梓と械獣の接触阻止。特に「コード付き」と神代梓が接触した場合、彼女の生存は絶望的です。そうなる前に神代梓を保護するか、敵を殲滅する必要があります』
『ですが本当に「コード付き」が出てきた場合は、逃げることも視野に入れてくださいまし。業炎怒鬼の装甲を崩す術を持っていないとも限りません。唯さんの命に万一のことがあれば、妹さんを助けるどころではなくなってしまいますの』
「うん。嶺華さんを一人にするようなこと、絶対しないから」
嶺華の声音からは、本気で唯を心配していることが伝わってきた。
唯は改めて、自らの命は嶺華のために捧げると誓う。
だが内心では、きっと妹を見捨てることはできないだろうとも考えていた。
命の使いどころを天秤にかけるような事態には、ならないことを祈るしかない。
『本艦が式守景虎のコアユニット反応を検知できたことから、神代梓も予めアームズを装動した状態で霧の中に突入したはずです』
「梓の今の状況は?」
『傍受したAMF無線によると、装者を擁した偵察部隊とは連絡が取れなくなっている模様です』
「っ! 私も急がないと!」
梓は既にこの霧の世界へと足を踏み入れてしまっている。
彼女を助けるには、彼女よりも先に械獣を見つけて排除するしかない。
ここからは時間との戦いでもあった。
唯が白い壁に向かって飛び込む覚悟を決めた時、耳元のインカムがもう一つ補足説明を付け足した。
『霧の中では通常の無線通信が困難と推定されるため、ここからはダイレクトコア通信に切り替えます』
ダイレクトコア通信とは、コアユニットを持つ者同士でのみ行うことができるコミュニケーション手段である。
コアユニットを持たない無人偵察機では不可能だが、唯の纏うアームズならばこの方法でマリザヴェール側と通信ができる。
異次元空間を経由して通信を行うため、地上の通信妨害の影響を受けないらしい。
唯は詳しい仕組みを理解していなかったが、使えるものは積極的に活用すべきだろう。
『そのダイレクトコア通信も不通ならば迷わず引き返すこと。いいですわね?』
「いや、もしそうなったら私一人でも頑張りますよ。多少の通信トラブルくらい……」
『それではダメなのですわ!』
「え、でも」
ここまで来て、械獣や梓を放って帰ることなどできない。
今まさに妹が械獣に襲われているかもしれないのだから、ここで立ち止まっている時間すら惜しい。
見えない騎手に尻を叩かれて走り出そうとする唯。
そんな落ち着きのない唯を、嶺華は早口で説き伏せる。
『確かに業炎怒鬼の戦闘能力は一級品ですわ。けれど索敵能力に秀でた機体ではありませんの。出発前に言った通り、唯さんが霧の中を彷徨うだけでは妹さんを助けられませんわよ』
正論を突きつけられ、唯の体にブレーキがかかる。
彼女の言葉に頷く以外の選択肢は思いつかなかった。
「…………やっぱり、そうですよね」
『急いては事を仕損じる。一度深呼吸なさい』
唯は彼女の言う通り、大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐き出した。
腹筋に力を入れて肺の中の空気を絞り出すと、全身を駆り立てる焦燥感が和らいでゆく。
増えすぎた二酸化炭素に代わって冷静な思考が戻ってくる。
マリザヴェールと通信できない状態で、直径20キロ以上の広大な範囲をくまなく探索するなど無謀である。
当てずっぽうに歩いてみて、たまたま械獣や梓のもとに辿り着ける確率のなんと低いことか。
唯を見守る母艦からのバックアップがなければ今回のミッションは遂行不可能なのだ。
そびえ立つ未知の現象に怯え、無意識下で炎鬼の暴力に縋ろうとしていたのかもしれない。
闇雲に爆炎をまき散らしたところで、訓練にもなりやしないだろう。
剣を振り回す腕力よりも、複数の知恵を合わせた力の方が強い場面もあるはずだ。
「…………ごめんなさい。敵の姿も分からないのに、梓がピンチかもしれないって思ったら、焦っちゃいました」
『お困り事があれば何でも口に出してくださいな。わたくしが一緒に考えて差し上げますわ。マルルもいますし。ですから一人で突っ走るのだけは、どうか避けてくださいまし』
「ありがとう嶺華さん。頼りにさせてもらいます」
唯は通話越しでは見えないのを承知で、ペコリと頭を下げた。
もう孤軍奮闘の必要はない。
今の唯には信頼できる味方が、嶺華がついている。
それだけで、どんな状況も乗り切れる気がした。
「では改めて。常に退路を意識しながら、急ぎつつも慎重に……突入します!」
唯は赤黒剣の柄を固く握りしめながら、白き世界へと歩みを進めた。