第73話 濃霧注意報
どこまでも、見渡す限りの白だった。
雲の中に飛び込んだかのような、あるいは煙幕を焚きすぎたような。
前後左右上下、全方向が白い目隠しに覆われている。
地上は真っ白な闇の中だった。
空に昇る太陽の光は悉く弱まり、辺りは昼間なのに薄暗い。
そんな白の世界を一台の大きな車が進んでゆく。
ヘッドライトをハイビームにしても、光が届くのは僅か1メートル先まで。
等間隔に白線を流す路面だけが辛うじて照らし出されている。
歪なブレーキ音を鳴らしながら、八つの太いタイヤが回転を止めた。
民間の乗用車よりも二回りほど大きいその車両は、分厚い防弾フレームに覆われた装甲車だった。
二車線道路の中央線を堂々とはみ出して停車した車内から、男たちの声が響く。
「こちら偵察隊フォックス1、目標ポイントに到着。これより機体の捜索を開始する』
『フォックス2も到着。今のところ通信は良好です』
『こちら司令室了解。偵察用ドローンのロストポイントは、フォックス1、フォックス2の現在地からそれぞれ300メートル以内と推測される。周囲に十分注意されたし』
「了解」
車体に刻まれたエンブレムを見れば、彼らの所属は明らかだ。
対械獣防衛軍(Anti-MetalBeast-Force)――通称AMF。
世界中で発生する械獣災害に備え、あるいは立ち向かい、日々平和を守るために活動する組織である。
生存のために一致団結して国境を廃した人類だったが、AMFの管轄地域はかつての国、地方単位に分かれていた。
AMF関東第三支部は、かつて日本と呼ばれていた島国の、関東地方南部の一区画を担当している。
装甲車の背面、観音開きのドアが開いた。
ドスンという音を立てて降りてきたのは防塵防護服を着込んだ三人の男たち。
バケツを被ったような形状の防護マスクは、顔の正面だけが透明な強化ガラスになっている。
防護マスクの中は大気から完全に切り離されており、呼吸は背負った酸素ボンベ頼みだ。
まるで放射能汚染された場所に赴くような格好だが、ここは原子力施設などではない。
敷城市北西部、閑静な住宅街の一角である。
といっても、彼らは目の前にある民家の輪郭さえ認識できなかったが。
「やはり肉眼では何も見えませんね」
「ああ、赤外線カメラもダメだ。何も映らん」
週末の正午だというのに、街並みはひっそりと静まり返っている。
喧騒の代わりに街を包んでいるのは、煙幕のように立ち込める白い霧だった。
視界はほぼゼロ。
隣に立つ隊員の姿が霞んで見えるほどだ。
一人の隊員が棒状のデバイスを周囲に向けた。
空気中の滞留物の構成を1分以内に測定できる大気検査装置である。
家庭のガス漏れから化学兵器によるテロ事件まで、幅広い現場で利用されている。
きっかり1分で測定を終えた装置は「無臭無毒」を示す緑色のLEDを点灯させた。
「大気成分の初期検査完了。人体に有害な成分は検出されず」
測定結果を信じるなら外の空気を吸っても問題ないはずだが、隊員たちは慎重を期す。
「防護マスクはまだ外すな。検査装置が対応していない毒が浮遊している可能性もある」
「消えない霧を発生させた原因は、未知の物質のせいだとお考えで?」
「まだ分からん。それを探るのが我々偵察隊の任務だ」
そう言うと、フォックス1のリーダーを任された隊員は眼前に広がる不気味な霧の壁を睨みつけた。
季節は真夏を通り過ぎ、街路樹の葉が少しずつ赤茶色に色付き始めた所。
それでもまだ十分に暑さを感じる気候だ。
今日だって外気温は28度を超え、上空では太陽が元気に輝いている。
そんな快晴の日にこれほどの濃霧が発生するのは、単なる異常気象という言葉では説明しきれない。
「うわっ! この霧、吹き飛ばしても元の場所に戻ってきます!」
ハンディタイプの送風機を掲げた隊員は防護マスクの下で驚きに目を見開いた。
彼の言う通り、送風機のスイッチを入れると空中に漂う白っぽい気体は風の流れに従って発散、手の周りのもやだけが一時的に晴れる。
しかしスイッチを切った途端、時間が巻き戻るかのように霧が復活するのだ。
「微粒子レベルの物体が、自分の浮遊位置を記憶してるみたいな動きだな」
「遠隔操作のナノマシンという可能性もあります。どこかで電波を飛ばしている親機がいるのかもしれません」
風が吹こうと、雨が降ろうと、微動だにしない霧。
その発生エリアの半径は僅か5キロメートル。
車であれば20分もかからず横断できてしまう。
極めて狭い範囲内にのみ立ち込める濃霧は、当然ながら地球の自然現象では有り得ない。
AMF関東第三支部は、異常な霧が発生し始めたその日から械獣との関連を疑い、何度も調査を試みてきた。
人口衛星による観測、航空機による上空からの撮影、偵察用ドローンによる直接侵入。
磁気や赤外線など、いくつもの高精度センサーが投入された。
だが、それらの策では何の成果も得られなかった。
霧が発生した地域だけ、ぽっかりと穴が空いたように観測データが欠落してしまうのだ。
最後の手段として、有人偵察が決行されることになった。
危険度不明の任に就いたのは戦闘班第一小隊から選抜された精鋭隊員たち。
彼らは三名ずつのチームに分かれ、偵察用ドローンが最後に位置情報を送信した座標へと複数の方角から向かっている。
現地の状況が一切不明なため、当該座標までは慎重に徒歩で移動しながら調査を行う手筈となっていた。
「フォックス1から司令室へ。これより霧のサンプル採取作業にかかる。念のため検査装置のログを送信するから、解析に回してくれ」
手持ちの装備だけでは微粒子レベルの調査は不可能。
霧の正体を突き止めるには、持ち帰ったサンプルを基地にあるバカ高い解析機器に食わせる必要があるだろう。
それでもダメなら、どこかの研究所に調査を依頼することになりそうだ。
大気のサンプルを採取する密閉容器の蓋を開きながら、フォックス1の隊員たちは司令室からの応答を待った。
しかし。
『…………ックス1か? データを…………受信エラーが………………ザザ……』
「おい、どうした?」
『……に……を…………ザザザ……』
検査装置のログデータを送信しようとした彼らに対し、基地のオペレーターから返ってきたのは酷いノイズ混じりの音声だった。
そのまま無線機はうんともすんとも言わなくなってしまう。
「司令室との通信が切れた」
「サブチャネルに切り替えろ」
『…………ザザ…………』
「駄目です、繋がりません!」
「携帯端末のショートメッセージは?」
「圏外になってます!」
「他に使える道具は無いのか!?」
持参した通信機器を片っ端から路肩に並べる隊員たち。
基地局のアンテナと通信する携帯端末から、後衛部隊と直接通信できる近距離無線機まで、そのどれもが口を封じられていた。
彼らをあざ笑うかのように、腕に括り付けた方位磁石がくるくると回っている。
「磁場もめちゃくちゃだ」
「チャフの類か」
「デリート事件の時と同じ、広範囲ジャミングが展開されているようです」
「電波障害どころか、端末自体が壊れているぞ」
アンテナが一本も立っていない携帯端末の液晶は、水没させてしまったかのようにおかしな発色になっていた。
防護服の手袋越しに触れると反応はするものの、画面は全体的にぼやけていて何が表示されているのかよく分からない。
霧に含まれる微粒子が精密機器の内部に不具合を生じさせたのだろうか。
「せっかく色々な装備品をかき集めて来たのに、ほとんどが文鎮になっちまったな」
アナログな道具から最新の機器まで、今まで人類が開発した便利なアイテムは全て使用不可。
ここから先は自分たちの目と耳だけが頼りだ。
もっとも、そんなお粗末な装備だけで未知の怪現象に挑むなど、無謀に等しい行為だ。
「ロストポイントの方角も分からなくなってしまいました。一度引き返しますか?」
「ここまで来て、手ぶらで帰るわけにはいかないでしょう。偵察用ドローンを見つけられずとも、霧の内部をもう少し探索すべきでは?」
リスクが高い。
けれど、それを承知の上でAMFは有人偵察を決行した。
多少の危険を冒してでも、今は何よりも霧の情報が欲しい。
「ご丁寧に霧の制御装置が置いてあるとは思えませんが、せめて発生源に関する手がかりだけでも」
「ううむ、そうだな……」
基地に戻るか、調査続行か。
リーダーの男が判断を迷っていた、その時。
彼らの議論は、乾いた音によって一時停止を余儀なくされた。
銃声である。
「フォックス2か!?」
「何かと応戦している? まさか械獣が!?」
「我々も戦闘態勢を取れ! 周囲を警戒しろ!」
防護服の下で、男たちの筋肉が電気ショックを浴びたように緊張する。
ライフル銃の安全装置を外し、背中合わせで四方を見回す三人。
パン、パパンという断続的な銃声。
建物に反響しているのか、霧の目隠しとも相まって発砲位置は全く分からない。
引きつった隊員の顔に、強化ガラス越しでも分かるほど大粒の脂汗が浮かぶ。
械獣との戦闘経験豊富なリーダーの男でさえ恐怖を感じていた。
「(何も来るな……何も来るな………)」
ライフル銃のグリップを握りしめて念ずること、およそ30秒後。
銃声が止んだ。
三人揃ってマスクの下でぷはぁっと息を吐く。
「フォックス2はどうなったんだ?」
「もし械獣の襲撃なら、すぐに撤退すべきです! 我々の装備では応戦しようがない!」
「まずはフォックス2と合流しましょう。彼らの安否を確認しなければ」
「待て、この霧と電波障害ではフォックス2の居場所が分からん。無論帰り道もだ」
360度、濃密な霧の壁。
衛星を利用した位置情報も取得できない現状は、雪山で遭難しているのと相違ない。
「我々は一体どうすれば!?」
「近距離無線すら使えないのでは、身動きが取れません!」
取り乱す二人の隊員と比べ、リーダーの男は冷静だった。
「案ずるな。霧の半径はたったの5キロメートルだ。適当に歩くだけですぐ範囲外に出られる。そうすれば通信も回復するだろう。その後は、一度司令室に連絡を取って判断を仰ごう」
「「了解」」
男たちは行軍を再開した。
不気味なほど静かな霧の海へ。
ライフル銃をお守りのように抱えたまま、敵に遭遇しないことを祈りながら。
そもそも、生身で霧の中に足を踏み入れたこと自体が、取り返しのつかない失敗だとも知らずに。
静寂はすぐに破られた。
「…………ん? 止まれ!」
「聞こえるか?」
「ああ、聞こえる」
謎の音が、どこからともなく聞こえてきた。
鼓膜を嬲られるような不快な音色。
普通の人間なら誰しも耳にしたことがある、身近な音である。
「虫の、羽音……?」
最初は蝿でも飛んでいるかのような、微かな音だった。
しかし音が大きくなっていくにつれ、スケールが違うことが分かる。
回転翼機のローター音を数倍速にしたような、ブーンという重低音。
その音はさらに大きく、というより、音源が隊員たちに近づいてくる。
リーダーの男は携帯端末側面のボタンを押し、カメラアプリを起動した。
磁気異常のせいか、アプリの画面には砂嵐のようなノイズが咲き乱れていた。
サイケアートのように歪んだ液晶画面でまともに操作できるかは怪しかったが、くぐもった電子音が録画開始を伝えてくる。
カメラが生きていることを信じ、男は端末を真正面に向けた。
ほんの少しでも敵の情報を持ち帰るために。
「(何が来やがるんだ……?)」
不気味な気配に怯えながら息を潜める時間。
得体のしれない敵が、いつ襲いかかってきてもおかしくない。
張り詰めた空気の中で銃口を迷わせる彼らにとっては、僅か数十秒の時間でさえ、とてもとても長く感じられただろう。
しかしどれだけ体感時間が延びようとも。
変化が訪れるのは突然。
「あっ」
気づいた時にはもう手遅れ。
リーダーの男は宙を舞っていた。
強化繊維製の防護服はボロ雑巾のように引き裂かれ、穴の空いた酸素ボンベがどこかへ飛んでいく。
口から噴き出した飛沫が防護マスクを内側から朱に染めた。
体を貫かれても尚。
血で汚れた防護マスクの中で、彼の瞳はひたすらに見開かれていた。
最期の意識が途絶えるその瞬間まで、彼は撮影中の携帯端末と共に周囲を見回し続けた。
だが、敵の姿を捉えることはできなかった。
男の手から携帯端末が落下する。
地面に転がった端末の画面は、録画終了を告げる暇もなく暗転。
電源が入ることは二度と無い。