第72話 重なる二つの想い
プライベートスペースとして与えられた寝室で、パジャマに着替えた唯は力なくベッドに倒れ込んだ。
枕元の時計にちらりと目をやると、デジタル数字が示す時刻は夜の11時30分を過ぎたところ。
体を包み込む疲労感と瞼を重くする眠気が一日の終わりを実感させる。
唯が就寝態勢に入ったことを検知したのか、部屋の照明が自動で常夜灯に切り替わった。
肌触りの良い羽毛布団を頭から被り、今日のことを振り返る。
アームズを纏った梓、内蔵コアを暴走させた嶺華。
そして巨大龍よりもたらされた、新たな敵が来訪したという恐るべき知らせ。
一度に浴びた情報量が脳のキャパを超え、この部屋に戻ってくるまでずっとうわの空だった。
「はぁ……」
鬱屈なため息の理由は他にもある。
嶺華に作ってあげると宣言したハンバーグのことだ。
あの後キッチンの冷蔵庫を確認すると、材料が足りなくて作れないことが判明。
よって明日の朝食は味気ないペースト状の艦内食で決まりである。
そのことを告げた時の、がっかりしたような嶺華の顔が脳裏に浮かぶ。
昼間の衝突のせいで買い出しに行けなかったことが原因なのだが、結果的に彼女の期待を裏切ってしまった。
早急に彼女が喜ぶ手料理を作って、埋め合わせをしなければならないだろう。
「明日こそは買い物行ってこないと……でも指名手配されてるしなぁ…………」
枕に愚痴を押し付ける唯。
異次元空間で暮らす主婦は買い物に行くのも一苦労である。
ともあれ悩むのは明日にしよう。
低反発のマットレスに身を委ね、意識を手放そうとする。
その時、寝室の自動ドアが開く音がした。
布団をずらして顔を上げると、薄暗い室内でもはっきりと輝く黄金色の長髪が目に入る。
「唯さん、もう寝てしまいまして?」
「嶺華さん?」
「良かった、起きてますのね」
唯の返事を確認するや否や、壁の照明スイッチを押す嶺華。
機械が気を利かせて点けた常夜灯が強制的に全灯に変わり、眩しい光が戻ってくる。
暗闇に慣れかけた唯の目は、光量の急変に驚き涙を滲ませた。
先ほどおやすみを言い合ったばかりの少女の登場に戸惑いながらも、入眠をキャンセルして身を起こす唯。
「どうしたんですか?」
白いネグリジェ姿の嶺華はまっすぐベッドまで歩いてくると、唯の隣にちょこんと腰を下ろした。
「伝え忘れていたことがありましたので」
「もしかして、『コード付き』のこと?」
浮かない表情の少女は、欠けた右肩を左手でぎゅっと押さえながら頷く。
「奴らはわたくしと同じく体内にコアを持ち、高い思考能力を持つ存在。AMFが普段相手しているような雑魚械獣とは比べ物にならないほど危険ですわ」
実際にデリートに斬られたことがある嶺華の言葉は重い。
「唯さんは確かにデリートを倒しましたわ。ですが、次も同じように上手くいくとは限りませんの」
敵が一筋縄ではいかないことは唯もよく理解している。
だからこそ、唯は過酷な特訓を乗り越えてきたのだ。
身も心も捧げると誓った、目の前の少女を守るために。
「大丈夫です。今の私は、デリートを倒した時の私よりもずっと強くなってる。次の『コード付き』がどんな奴かは知りませんけど、必ずこの手で倒してみせます!」
「唯さんの力を信じていない訳ではありません。けれど…………」
嶺華は少しだけ言い淀んだ後、俯きがちに打ち明けた。
「実は今日、唯さんが業炎怒鬼を纏ってからずっと、マルルの偵察機で唯さんの様子をモニターしていましたの」
「だから私がピンチだって、すぐ分かったんですね」
「覗きなんて趣味が悪いと思われまして?」
「いやいや! 全然気にしませんよ!」
後ろめたそうに聞いてくる少女に対し、唯はぶんぶんと手を振った。
「むしろ、嶺華さんが来てくれたおかげで助かったんですから。感謝してます」
「本当ですの?」
「はい! 今後もどんどん私を見てください」
AMFにいた頃から、誰かに監視されながら戦うことには慣れている。
唯一人では冷静な判断が難しい時でも、現場の状況を把握してバックアップしてくれる人がいれば心強い。
孤独に戦うよりも遥かに勝率が高くなるだろう。
「でしたら…………いえ、やはりわたくしは…………唯さんの戦いを見たくないのかもしれませんわ」
「なんで!? 私の戦いが下手だから?」
「そうではありませんの」
唯の冗談交じりの邪推を否定しつつ、尚も暗い面持ちの嶺華。
「今日の戦いの最中、思ったのです。斬られる唯さん、倒れる唯さん、怪我を負った唯さん…………それは、見ていて気持ちの良いものではありませんでしたわ」
「情けない姿をお見せしてすみません」
「ですから、そういうことを言いたいのではありませんの!」
「おふっ」
嶺華は拗ねたような声を上げ、唯のお腹に軽いジャブを入れる。
痛みは無い。
寝室に戻る前に外傷修復処置を受けることができたため、大きく腫れていた火傷は跡形もなく治っている。
ただしムズムズとした違和感は残っており、これがどうにもこそばゆい。
思わず破顔しそうになった唯を、凛とした声が黙らせる。
「はっきり申し上げますわ。唯さんが傷つくのを見ていると、わたくしは不快な気分になりましたの」
「それって……!」
唯の四肢に電流のような衝撃が走る。
嶺華は、唯のことを心配してくれた。
アームズの修復が不完全な状態でも、唯のために無理を押して駆けつけてくれた。
貴重な戦力を失うとか、機密情報が漏れるとか、AMFのように機械的で戦術的な理由ではなく。
彼女はただ、唯のことを想って行動してくれた。
「唯さんは、わたくしを守ると言ってくださいました。
今日もこうして助けていただきましたし。
わたくしだって唯さんには感謝していますわ。
ですが……」
華奢な少女は、片方しかない腕を唯の背中に回して抱きついた。
たとえ機械の炉心が埋め込まれていたとしても、少女の肌から伝わる体温は人間そのもの。
「守られるだけではダメなのです!
わたくしも唯さんを守りたい。唯さんを支えたい。
唯さんを失いたくないのです!!
それが、わたくしの今の気持ちなのですわ!」
叫ぶ少女の手は震えていた。
雷龍の威厳もプライドも投げ捨てて、しがみつく力を増してくる。
そんな彼女に対して、唯は。
「…………ありがとう、ございます」
涙ぐむ声を絞り出しながら、抱擁を返した。
一方通行の愛ではなく。
嶺華の方から唯を求めてくれた。
唯に依存してくれた。
唯を大切だと思ってくれた。
出会ってからずっと唯が注ぎ続けてきた想いに、応えてくれた。
唯は、それがめちゃくちゃのはちゃめちゃに嬉しくて、感極まっていた。
「唯さんの決意を、台無しにしてしまうかもしれませんが」
「ううん、そんなことない」
謙遜する少女を優しく包み込むように抱き寄せた唯は、思い描く未来を耳元で囁く。
「私は嶺華さんを守る。
けど、嶺華さんも私を守ってください。
お互い支え合って、弱点を補って、一緒に進んでゆく。
それが、私が嶺華さんとなりたい『家族』ですから」
「わたくしも、そうありたいと思いますわ」
かつて最強を誇った嶺華を、地に這いつくばらせた『コード付き』。
最強の力を手にした唯を、精神面から切り崩した藍虎。
二人の前に立ちはだかる困難は、これから先も山のように待っているだろう。
だが、一人では力及ばない相手でも、二人一緒なら。
どんな壁であろうと、必ず乗り越えてゆける。
心通じ合った二人は、互いを抱きしめる腕に力を込めた。
「ああ、それと」
ふと呟いた嶺華が顔を上げる。
つられて唯が振り向く、その間際。
柔らかな感触が頬に触れた。
「っ!?」
少女の不意打ち。
あまりにも早すぎて、顔が離れるまで何も反応できなかった。
「昼間のお返し、ですの」
嶺華はにやりと口角を上げ、いたずらっぽく微笑んだ。
鏡を見なくても、唯は自分の頬が真っ赤になっているのが分かる。
「…………流石です、嶺華さん」
急上昇した心拍数を取り繕うことはできず、上ずった声で降伏するしかない。
唯は己の幸運をつくづく実感し、淡い感動を噛み締めた。
「さて、そろそろわたくしは自分の部屋に戻りますわ」
何事も無かったようにすくっと立ち上がる嶺華。
普段の彼女ならとっくに寝ている時間だ。
唯は胸に残る熱に名残惜しさを感じながら、ドアの方へ向かう背中を送り出す。
「こんな夜遅くに、ありがとうございました」
「こちらこそ、ですわ」
「おやすみなさい。また明日」
嶺華は唯に背を向けたまま、ひらひらと手を振った。
そのまま部屋を出ていく、かのように思われたが。
「…………ふーん、唯さんは、それでいいんですの」
「え?」
ドアの前で立ち止まり、くるりと振り返る少女。
白いネグリジェの裾がふわりと舞う。
「わざわざこんな夜遅くに、唯さんの彼女が寝室にまで足を運んでいますのに、ねぇ…………」
少女は人差し指を瑞々しい唇に当て、まるで子供をからかうようにほくそ笑む。
唯との距離は約1.5メートル。
黄金色の美髪が艶やかに誘う。
「わたくしを引き止めてくださるなら、続きをしても良いのですけれど」
呼吸が止まる。
バクバクと爆ぜる心臓の音が体内でエンドレスビートを刻んでゆく。
龍の少女の妖艶な視線に射抜かれた瞬間、今度こそ唯の思考は真っ白になった。