第55話 方舟
その夜。
嶺華との初デートを終えた唯は、地下施設のセンタールームまで戻ってきていた。
お出かけの目的は十分に達成できたのに、神代家での一幕のせいで胸中もやもやだ。
「梓………………はあ」
無事の再会を喜ぶはずが、愛する妹が突きつけたのは憎悪の切っ先。
彼女の刺々しい敵意を思い出す度、ため息が漏れる。
結局、唯が荷物を回収している間も梓は戻ってこなかった。
後味の悪すぎる別れ。
あれが梓との最後の会話だなんて考えたくない。
もう一度会って話したい所だが、しばらくは時間を空けるべきだろう。
唯が憂鬱を持て余していると、微かな吐息が鼓膜を揺らした。
「う……」
ふかふかソファーの上で、眠っていた少女が目を覚ます。
「嶺華さん!」
「唯さん…………ぐっ……」
意識を取り戻した途端、嶺華は不快そうに顔をしかめた。
「だ、大丈夫ですか?」
「頭いたいですの…………」
「もしかして薬の後遺症!?」
嶺華が飲まされた睡眠薬入りのレモンティー。
激情に駆られた梓は他にも何か隠し味を入れていないか。
いかに頑丈な龍の少女であっても、体内から蝕む毒には為す術もない。
唯の胸が心配で張り裂けそうになった時、天井から優しい女性の声が響いた。
『マスターの体をスキャンしましたが、有害物質の存在は確認できません。頭痛も一時的なものと推定されます』
「すぐ治るってこと?」
『はい。およそ2時間後には頭痛も収まり、健康そのものとなるでしょう』
命に別状がないと分かり、胸をなでおろす唯。
梓の言う通り、レモンティーに盛られたのは睡眠薬だけだったようだ。
いや、盛られた時点で大問題なのだが。
「確か、唯さんのお家に行って…………妹さんにお会いして……………………うっ、その後の記憶がありませんの」
「ごめんなさい!!!」
嶺華の口から妹の話が出た瞬間、唯は反射的に頭を下げていた。
勢い余ってソファーの背もたれに額をぶつけたが気にしない。
90度直角に折り曲げた腰を維持しながら、謝罪の言葉を床に撒く。
「梓があんなに敵意を持ってるなんて想像もしなくて…………嶺華さんを危ない目に遭わせてしまって、ごめんなさい!」
「……」
「荷物を取りに行くだけなら、最初から私一人で行けばこんなことにはならなかったのに」
現在、地球上に嶺華の味方はいない。
だが敵は至る所にいる。
そんな危険な場所に丸腰の彼女を連れて行ったらどうなるか。
己の浅はかさを悔いる唯。
「過ぎたことはいいですわ」
気怠げに聞いていた嶺華はひらひらと手を振ると、唯の頭をぽんぽんと撫でた。
「無傷で帰ってこれたのですから、許しますの」
「でも」
「わたくしは唯さんと一緒にお散歩できて楽しかったですわ。
鮮やかな景色を見たり、甘いケーキを頂いたり。
わたくしを素敵なデートに連れ出してくれてありがとう、ですの」
「うう…………嶺華さん!!」
その寛容な微笑みに、唯の瞳は潤みまくり。
嶺華は責める訳でも悪態をつく訳でもなく、唯とのデートを褒めてくれた。
一難あったものの、彼女がそう言ってくれるなら初デートは成功といえるだろう。
「ところで唯さん、先程から不思議な香りがしているのですけれど」
少女の鼻がくんくんと、センタールームに漂う匂いを嗅ぎつける。
出処は、つい先ほどまで唯が立っていた場所だ。
「嶺華さんが寝ている間に、夕ごはんを作ったんです」
「唯さんの手料理ですの?」
「約束してましたからね。でも体調が優れないなら明日にします?」
「いえ、今は胃に何か入れて代謝を回したい気分ですわ。それにせっかく唯さんが用意してくださったのですから、無下にするなど有り得ませんの」
嶺華は舌なめずりでもしそうな程乗り気だった。
彼女に手料理を食べてもらえることになり、唯の表情はぱあっと明るくなる。
「では! すぐにお持ちしますね!」
キッチンスペースへ風のように駆ける唯。
炊飯器の保温を解除し、よそった米に用意していたブツをかける。
手際よく仕上げを完了させると、二つの丼を手に舞い戻る。
ダイニングテーブルに移動した嶺華は、唯の手中にあるものを見て首をかしげた。
「あら、それは…………何かの書物で見たような…………」
「こちらは神代特製『親子丼』でございます!」
唯が最初の夕飯に選んだメニュー。
それは、卵黄と鶏もも肉が絡み合うザ・定番家庭料理であった。
理由は単純に仕込みの手間が少なく、万人受けする味だから。
あと、しばらくご無沙汰だったお米が恋しかったというのもある。
必要な調理器具は揃っていた。
新品同然の炊飯器を見た時は不安だったが、ちゃんと電源も入ったし、ふっくらご飯を炊き上げるという使命を見事に果たしてみせた。
キッチンスペースの設備は神代家よりも遥かに充実していたのだ。
「はい、お箸です! 温かいうちに召し上がれ!」
湯気立ち上る丼と共に、スーパーマーケットで買った割り箸を配膳。
割り箸なのは洗い物が面倒だからではなく、嶺華のものと思われる箸がどこにも無かったためだ。
ダイニングテーブルの食器入れの中も見たが、スプーンしか入ってなかったし。
「では、いただきますわ」
ここで、唯は予想外の光景を目にすることになる。
「んぐ……ぐッ? …………かひゃい」
唯から天然竹製の箸を受け取った少女は、あろうことか歯で噛みちぎろうとしたのだ。
「嶺華さん??? 何してるんですか……?」
「え? こちらは食べ物ではないんですの?」
「まさかお箸をご存知ない!?」
思わず裏返った声を出してしまった。
唾液にまみれた割り箸(割れてない)をまじまじと見つめる少女は、本当に使い方を知らないらしい。
唯は自分の割り箸をパキっと分け、普段通りに先端を開閉させてみせた。
「えーっと、お箸はご飯を口に運ぶための道具で。こんな感じで掴むんです」
「こんな棒で食べ物を? …………ああっ!」
食器というより武器のように箸を掴んだ嶺華。
唯の見よう見まねで構えようとするが、力の加減ができず呆気なく床に落としてしまった。
「…………申し訳ありませんの」
「謝らなくて大丈夫です! スプーンで食べればいいんですから。
ていうか、お箸を使えないくらいで謝らないで下さい」
ダイニングテーブルの食器入れからスプーンを渡しながら、唯はふと気づいた。
覚束ない嶺華の左手。
乳幼児のような食器の持ち方。
「(もしかして、嶺華さんは右利きだったのかな)」
彼女はまだ、身体の制約に慣れていないのだ。
同じく右利きの唯だって、左手で箸を持てと言われたら上手く動かせない。
腕一本、丸ごと失った弊害は生活の至る所に潜んでいる。
「やっぱ私もスプーンで食べよっと」
唯は嶺華と同じく、銀のスプーンを手に取った。
「気を遣わなくてもいいですわよ」
「親子丼はお箸よりスプーンの方が食べやすいんですよ」
「そうですの?」
当面はスプーンを使うことにする。
万が一にでも、嶺華が不自由を感じないように。
「では、いただきますわ」
脂と卵黄の光沢に包まれた鶏肉が、白米と共に少女の口へと運ばれる。
その様子を凝視する唯は、彼女の反応を待った。
「…………」
手料理を振る舞うという約束。
果たした今、少女の反応はいかに。
「………………………………お」
「お?」
「美味しすぎますのおおおおおおおお!!!!」
嶺華は上品さとはかけ離れた動きで親子丼をかきこんでいった。
ガツガツにがっつく様は、腹を空かせた犬のよう。
「落ち着いて食べて下さいね!?」
「落ち着いてなどいられませんわぁ!! 何ですのこれは!!? 口の中の多幸感が危険レベル突破ですの!?」
昼間のケーキに続き、親子丼も初体験。
テンション上がりすぎて言動までおかしくなっている。
唯が呆気にとられている間に、嶺華は丼に盛られた全てを平らげてしまった。
「おかわりを要求しますわ!!!」
「どうぞどうぞ」
彼女の勢いに押され、自分の器を献上する唯。
目を輝かせた嶺華は間髪入れずにスプーンを突き立てる。
二杯目だと言うのに、嶺華の食べるペースは衰えない。
あっという間に二つの丼が空になった。
「いくらでも食べられますの………………でも、これでは唯さんの分のご飯がなくなってしまいますわ」
「大丈夫です。冷凍しようと思って、多めに作っておきましたから」
「本当ですの!? では、もっとおかわりも……」
「ありますよ」
「お願いしますわぁ!!」
想像以上の反応に、唯のニヤケも止まらない。
二つの丼を再び米と肉で満たしてくると、嶺華は嬉々として飛びついた。
「これが唯さんのお料理…………素晴らしい、素晴らしいですわッ!!」
「えへへ、今日のは簡単なレシピですけどね」
がっつく少女を眺めながら、ようやく自分の親子丼を頬張る唯。
シンプルだが、美味い。
脂っこい食事が久しぶりというのも舌を喜ばせる一因だろう。
唯が白米の甘みを味わっていると、眼前の少女は高らかに告げた。
「唯さん…………合格ですわ!」
「へ?」
「こんなに美味な料理を作り出せる才能、わたくしの片腕にふさわしいですの!」
「それって……」
「これから毎日、わたくしの食事は唯さんに作っていただきたいですわ!」
「なッッ!!!!?」
あまりの衝撃に耳を疑い、その次に脳を疑った。
少女の口から放たれた言葉は、古来より伝わる求婚の台詞に酷似していたからだ。
「どうしましたの?」
一時的にフリーズしかけた唯に対し、嶺華は何食わぬ顔で首を傾げる。
「(そういう意味、じゃないよね……?)」
故意ではない。
本当のプロポーズではないと分かっていても、心臓がどきどき高鳴ってしまう。
「もしかして、毎日は嫌でしたの……」
「いえいえいえ!! 喜んで作らせていただきます!!」
悲しそうな視線を受け、唯は慌てて首を縦に振った。
「しばらくはお日様の届かない地下暮らしなんですから。食事のバリエーションは豊かにしたいですよね」
「地下暮らし?」
「あっ、ごめんなさい。嶺華さんの生活を馬鹿にするつもりはなくて」
少女を不快にさせたかと思い、唯はまたしても謝った。
外界から隔絶された閉鎖空間で、味気ないペースト状の食事ばかり口にしていたという嶺華。
けっして陽気な生活ではないが、日が当たらないなんて面と向かって言われたら気を悪くしてしまうかも。
しかし、少女の反応は唯の想像とは異なっていた。
「唯さん。こちらへ来た時から、ずっと勘違いをしているようですわね」
くすりと笑う嶺華。
「わたくしは土竜ではありませんわ。地下で暮らしたりはしませんの」
「へ? だってここは、山奥の地中深くなんですよね?」
初めてこの地下施設に入った夜を思い出す。
市街地から遠く離れた山中、巧妙に隠蔽された入り口。
分厚いエアロック扉と厳重なセキュリティに守られたこの場所は、緊急時以外は空裂を通って出入りする前提の立地である。
地中に引きこもる暮らしは確かに安全だが、引き換えに陽光の恩恵は得られない。
そう思っていたが、少女の話と噛み合わない。
「ふふふ。確かに太陽はありませんけれど…………光なら、窓から取り込めばいいのですわ」
「窓?」
今度は、唯が首を傾げる番だった。
ここが単なる地下施設なら、窓などあるはずがない。
「そういえば、シャッターを下ろしたままでしたわね。マルル!」
『承知しました。防護シャッターを格納します』
天井から声が響いた直後、部屋全体に変化が起こった。
唯たちがいるセンタールームの壁が、ゆっくりとせり上がっていく。
映画の銀幕が上がるように。
「は…………!?」
壁の向こう側に現れた景色を見て、唯は息を呑んだ。
満天の星。
薄っぺらいスクリーンに映し出された偽物ではなく、奥行きのある光の世界。
空の端から端まで、数多の煌めきが乱れ咲いていた。
大パノラマを前に唖然とする唯だったが、見覚えがあることに気付いて声を上げる。
「まさか、ここは……………………空裂の中!?」
AMF基地で空裂投射装置を使う時。
赤黒剣で光の道を描く時。
そして、アームズを纏う時。
装者であれば、必ず目にする極彩色の空。
その圧倒的な光景が、センタールームの壁一面に広がっている。
唯の反応を見て楽しそうに微笑む嶺華は、得意げに自宅の秘密を披露した。
「『超次元母艦マリザヴェール』。それが、わたくしの家の名前ですわ」
機械の獣と鋼鉄の鎧だけが通ることを許された世界。
軍事利用を繰り返しながらも、未だに人類が解明できていない世界。
地球上のどこを探しても存在しない星空に、龍姫の艦は悠然と浮かぶ。