第54話 修羅の刃
いってきます。
最後に言ったのは、嶺華への想いに気づいたあの日。
それから泥に塗れた逃亡劇を乗り越えて、ようやくここまで戻ってきた。
ただいま。
声に出すことはできない。
玄関の前で息を殺す唯は、10センチメートルほど開いたドアの隙間から中を覗き込む。
自分の家なのに、敵地に潜入するスパイのような気分だ。
…………。
いきなり自動小銃がお出迎え、なんてことは無かった。
壁際に置かれた観葉植物。
並べられた自分と妹の靴。
毎日の帰宅時に見る光景と照らし合わせて、違和感は無い。
「……」
唯は嶺華に目配せし、そろりと足を踏み入れる。
いつでも逃げられるように、靴は脱がないのがベスト。
だが、土足のまま我が家のフローリングに上がるのは躊躇われた。
少し迷った後、普通にスニーカーを脱いでエントリー。
嶺華も片腕だけで器用に厚底ブーツを脱いでいる。
彼女が玄関ドアを閉めたのを確認すると、唯は背中の長剣を素早く下ろした。
左手で鞘を、右手で柄を握り、いつでも抜剣できる構えを取る。
「(玄関……廊下…………クリア)」
重装備の伏兵がいきなり飛び出してくるかもしれない。
そんな想像を巡らせながら廊下を歩いていれば、トイレが、浴室が、2階へ続く階段が、全ての死角が恐ろしく思えてくる。
衣服や日用品を回収する前に、唯は家中の安全を確認しないと気が済まなかった。
「(次はリビング)」
神代家の中で最も広い部屋。
誰かが待ち伏せている可能性が一番高い。
唾をごくりと飲み込み、リビングのドアを開け放つ。
「おかえりなさい!」
「ぴぃッッッ!!!!」
断末魔のような悲鳴の発生元は、己の声帯。
反射的に長剣を引き抜こうとした手を辛うじて留まらせる。
代わりに、廊下で盛大に尻もちをついた。
冗談抜きで、一瞬だけ心肺が止まった気がする。
爆ぜる心臓を宥めつつ、唯はリビングにいた人物を認識した。
「梓!?」
「お姉ちゃん!! 本当に生きてる? 生きてるんだよね!???」
「うん、生きてる……………………ただいま」
「おかえりなさい! おかえりなさい!!」
涙ぐみながら駆け寄ってきたのは、愛する妹・梓である。
「会いたかった!! 本当に心配したんだから!!」
「ごめん、心配かけて」
ラフな私服姿の梓は、唯の胸へダイブするや否や両腕でがっちりとホールド。
プロレス技でもかけられるかと思った。
「怪我はない!? 今までどこへ行ってたん…………ッ!」
姉の背中をペタペタと触診し始めた梓だったが、顔を上げた所で一時停止。
背後からやってきたもう一人の存在に気付いたのだ。
「お、おまえは」
「ごきげんよう。またお会いしましたわねぇ」
スカートの端を左手でつまみ、以前と同じようにお辞儀をする嶺華。
心なしか棘のある呼び方に対しても、余裕の笑みを崩さない。
一方の梓は、彼女の視線からぷいと目を逸らしただけだ。
「ちょっと、わたくしが挨拶したのですから……」
「お姉ちゃん、なんでカミナリ装者がここにいるの?」
嶺華を無視し、姉妹だけの会話を続けようとする梓。
無礼な態度にツッコミたくなるが、唯としてはまず確認しておきたいことがあった。
「この家には梓しかいない……で、合ってるよね?」
「うん、家にはわたし一人」
「私が今ここに来たことは、AMFに伝わってる?」
「いや、わたしから連絡しない限り伝わらないと思う」
「良かった…………」
梓が頷いたのを見て、唯はずっと握りしめていた長剣を床に置いた。
お忍び帰宅の目撃者は、今のところ梓のみ。
家に入ってしまえばAMFに見つかる可能性は低いだろう。
追手から逃げ切った気分になり、文字通り実家のような安心感に包まれる。
「それよりお姉ちゃん、今まで何してたの? 体は平気なの? お姉ちゃんの大事な体に傷とかついてないよね!?」
蒼白な顔をした梓は痴漢まがいの触診を再開。
妙に強い腕力で唯の上着を剥ぎ取り、素肌にかすり傷がないかを丹念にチェックしてくる。
このまま身を任せたら全裸にされてしまいそうな勢いだった。
「大丈夫、怪我とかは無い。話せば長くなるんだけど…………
ちょっと今は、休憩させてほしいかな」
「そ、そうだよね! お姉ちゃんは疲れてるんだもん。わたしがお茶入れてくるから、座ってて!」
そう言うと梓は、唯の体から飛び退き、キッチンへと走った。
落ち着きは無いが気の利く妹だ。
「嶺華さんの分もお願いねー!」
「はーい」
返事をしてくれたあたり、嶺華の存在を一応は認識しているようである。
「ささ、嶺華さんはこちらにお座りください」
「どうもですの」
妹の気遣いに甘えさせてもらい、並んでソファーに腰掛ける二人。
地下施設のふかふかソファーとは比べ物にならない安物だが、嶺華は座り心地に文句一つ言わなかった。
「ふぅ…………やっぱ自分の家は落ち着く」
スベスベしたソファーに背中を預けると、ドッと疲労が押し寄せてきた。
一日を振り返れば、朝のデートに始まり結構な距離を歩いた気がする。
特に神代家へ向かう道中は警戒態勢のまま走ってきたおかげで、心身共に高い負荷をかけてしまった。
今の今まで疲労を自覚していなかったのは、嶺華と一緒に過ごす時間が夢のようだったからか。
「おまたせー!」
お盆を抱えた梓が戻ってきた。
カップの数は3つ。
ちゃんと嶺華の分も用意している。
「ありがとう、梓」
「いーのいーの。わたしだってお茶くらい入れられるんだから」
「へぇ、初めて見たわ」
妹の成長か、ただの気まぐれか。
どちらにしろ、少しは家事ができるようになって欲しいものだが。
梓が椅子に腰掛けた所で、唯は街の違和感について聞いてみた。
「今日は外を出歩いている人が全然いなかったんだけど、何かあったの?」
「お姉ちゃんこそニュース見てないの? 関東第三支部周辺の避難指示はまだ解除されてない。AMF関係者以外は全員シェルターの中だよ」
「そういうことか」
街に人の気配がなかった理由は、考えてみれば当然だ。
デリートとスラクトリームはAMF関東第三支部の基地を真っ先に襲撃。
さらに、唯に倒されるまで基地周辺の市街地を破壊して回っていた。
神代家は被害を免れたものの、大通りの方に出れば瓦礫の山が築かれているのだろう。
「行方不明者の捜索と瓦礫の撤去は進んでるけど、倒壊しそうな建物がそこらじゅうにある。二次災害の危険が無くなるまでは、避難指示は解除しないんだって」
「なるほど。AMFの皆さんは総出でフル出勤してるのね…………って、梓も予備隊の任務があるんじゃないの?」
械獣との直接戦闘が無い任務であれば、予備隊も正規隊員と同じ重要な人手だ。
そして、今のAMFは猫の手も借りたいほどに人手不足。
予備隊の全員に招集がかかるはずだが、その一員である梓はなぜ家にいたのだろう。
「もちろん招集はあったよ。でも断った。
お姉ちゃんが帰ってくるかもしれないから。
わたし、ずっと家で待ってたんだよ」
「そっか………………本当に、連絡できなくてごめんなさい」
改めて頭を下げる唯。
梓は3日以上、ひたすら唯の帰りを待っていてくれたのだ。
唯が逆の立場なら、胃に穴が開くほど心配で夜も眠れない。
連絡しなかったのは、携帯端末を使用することで居場所を探知されるのを避けるため。
だから仕方なかったとはいえ、唯は申し訳ない気持ちで一杯だった。
「もういいの。こうしてお姉ちゃんが無事に帰ってきてくれたなら、わたしは十分だよ」
「梓……ありがとう」
通話履歴をカンストさせる量の不在着信。
どんな剣幕で怒鳴られるのかと身構えていたが、杞憂だったようだ。
優しい梓の言葉に、唯はほっと胸を撫で下ろす。
「このお茶は何ですの?」
梓に敵意が無いと判断したのか、嶺華も温かいティーカップを手に取った。
「先程のものとは別物ですの…………いい香りですわ」
「先程?」
「ああ、いや、何でもないの。いただきます」
実はさっきも紅茶飲んだ、とは口が裂けても言えない。
妹に余計な詮索をさせないためにも、嶺華との茶会については黙っておこう。
喫茶店デートの思い出を心の中へ仕舞いつつ、唯は自分のティーカップに口をつけた。
乾いた舌を潤す爽やかな果実の香り。
午前の紅茶とは対照的な甘さ。
疲労した唯の体がまさに求めていた飲み物だ。
「美味しい……!」
「アールグレイ、とは違いますの」
「うん。これも紅茶の一種だけど、レモンティーっていうの」
「紅茶にも色々な種類がありますのね。いつか飲み比べしてみたいですわ」
嶺華は興味津々といった様子で、初めてのレモンティーを味わっていた。
「ティーバックでも充分美味しいですからね」
「そのお茶はティーバッグじゃなくて、わたしのオリジナルブレンドだよ!」
得意げに胸を張る梓。
「まさか自分で調合したの? あんた、そんなに紅茶好きだったっけ?」
「色々試したくって。最近はお料理にも挑戦してるんだから!」
「料理!?」
唯は自分の耳を疑った。
いつもの梓なら、お湯を注ぐだけで完結するインスタント食品しか作らない。
というか、作れないはず。
にんじんの皮も剥けないような人間が、料理と言ったのか。
「…………ちょっと確認します」
唯は一抹の不安を覚えて立ち上がった。
神代家の料理番、唯の聖域とも言える場所・キッチンを覗き込む。
「な…………!!」
視界に飛び込んできたのは、真っ黒焦げの鍋。
汚れたまま流し台に放置されたお皿のタワー。
唯の聖域はボロボロに荒らされていた。
妹は『料理に挑戦』と言ったが、『料理に成功』とは言っていない。
「ちょっと梓」
惨状について説明を求めるため、リビングに戻ろうとした時。
パリン、と食器が割れる音がした。
「嶺華さん!? どうしました?」
床に散らばったティーカップの破片。
嶺華が落としたようだが、その本人の様子がおかしい。
「唯さん……わたくし…………なんだか……眠く…………ぅ………………」
消え入るような声で呟くと、少女はパタリと倒れ伏してしまった。
「嶺華さん……? 嶺華さん!!」
肩を揺さぶってみるが、起きる気配は全く無い。
完全に意識が途絶えてしまっている。
また過労で気絶したのかとも思ったが、彼女はさっきまで元気に歩いていた。
病に冒されている訳でもない。
それが何故いきなり、ソファーをベッド代わりに熟睡してしまっているのか。
唯が困惑していると、突然大きな声が鼓膜を叩いた。
「動かないで!!!」
振り向くと、携帯端末を手にした梓が仁王立ちしていた。
さっきまでの優しい笑顔は消え失せている。
「これ、なんだか分かる?」
鬼気迫る表情の梓は、端末の画面を突きつけてきた。
表示されているのは通話アプリ。
入力済の数字は、見覚えのある連絡先。
AMF関東第三支部の外線番号である。
「お姉ちゃんが見つかったら通報してって言われてるの。
このボタンを押したら、基地から大勢の隊員が駆けつけるから」
彼女の話に誇張は無いだろう。
AMF関東第三支部の基地から神代家までの距離は、わずか1.5キロメートル。
梓がAMF基地に発信してから、装甲車に乗った隊員たちが駆けつけるまでに5分もかからない。
「梓…………嶺華さんに一体何をしたの!?」
「ただの睡眠薬だよ。猛獣用のとびきり強力なやつだけどね」
「ッ! なんてことを…………!!」
真っ青になった唯は、慌てて嶺華の首元に指を当てた。
とくん、とくん。
心臓の鼓動は正常に体内を駆け巡っている。
睡眠薬の過剰摂取によるショック症状などは起きていないようだ。
「どうして、こんな」
「まあ座ってよ」
携帯端末の角で指図する梓。
唯は彼女を刺激しないよう、言われるがままソファーに腰掛ける。
威圧的に姉を見下ろす妹は、唯でも聞いたことがないような低い声を絞り出した。
「お姉ちゃん。わたし、あれから何回も電話したよね。なんで出なかったの?」
「それは……携帯端末のバッテリーが切れてて」
「美鈴さんには掛け直したのに?」
「うっ」
不在着信をスルーしたことがバレている。
「(やっぱり怒ってるじゃん!)」
さっきまでの態度は作り笑い。
唯の直感通り、梓の怒りは最初から煮え滾っていた。
「この3日間、わたしがどれだけお姉ちゃんのことを心配したか分かってる?」
「それはもちろん……」
「分かってない!!!!」
耳を劈く怒声。
気圧される唯に対し、梓はヒステリックに喚き散らす。
「わたしは…………わたしは! お姉ちゃんがいないと生きていけないの!
お姉ちゃんがいなくなったら、ご飯は食べれないし、夜は眠れないし、何より愛が足りなくて死んじゃうんだよ!!」
「そんな大げさな」
「大げさ? わたしの中じゃ当たり前のことだよ。
わたしはお姉ちゃんが好き! でも、お姉ちゃんはわたしのことが嫌いなの?」
「そんなことない! 私も梓のことは大好き!」
捻くれた言い方にムカっとし、反論する唯。
すると、梓の頬が少しだけ緩んだ。
「…………ほんとに?」
「本当に」
「ほんとのほんとに?」
「本当だってば。私はあんたが生まれた時からずっと一緒にいるのよ。今更嫌いになる訳ないじゃない」
「……………………そっかぁ」
くどいほど確認してきた梓は、一度だけ深呼吸して。
「お姉ちゃあぁぁぁぁん!! 寂しかったよおぉぉぉぉ!!!!」
携帯端末をテーブルに放り捨て、唯に向かって急降下。
本日二度目の力強い抱擁である。
「あんたねぇ…………」
情緒不安定な妹に、唯は苦笑いするしかない。
「今日からまた、お姉ちゃんと一緒にいられるんだよね!」
「梓…………」
「わたしもうコンビニ弁当は飽きちゃった。料理もうまくできなかったし、お姉ちゃんのご飯が食べたかったよぉ」
仲睦まじい姉妹の日常が戻ってくる。
胸の中で満面の笑みを浮かべる妹は、そう信じて疑わない。
「違うの、聞いて、梓」
唯は心苦しいながらも、今後の生活について告げた。
「わたしはもう、この家には……この街にはいられない」
「どうして? またAMFに戻ればいいじゃん。次の械獣がいつ現れるか分からないんだし」
「私はAMFから逃げた。あいつらのやり方が許せなかったから」
「もしかして懲罰のことを気にしてるの?
それなら大丈夫! 司令も、美鈴さんも、きっと許してくれるよ。
だって今の関東第三支部の戦力を見れば、お姉ちゃんは絶対必要だもん」
「そういうことじゃなくて」
「わたしも一緒に謝ってあげる。だって、わたしたち結婚するんだもん。辛い時はいつも一緒だよ」
結婚。
その言葉を聞いた唯は、伝えることを決心した。
今まで梓に言おうと思っていたけど、言えてなかったことを。
「ごめん。はっきり言う。
私は、梓のことが好きだよ。
でもそれは、妹として。
恋人とか、お嫁さんとか、梓のことをそういうふうには見れない」
「え…………?」
顔を上げた梓の表情が曇る。
「私はこれから嶺華さんと暮らすの。今日は着替えとかを取りに来ただけ。
この家に帰るのは今日で最後だし、戻るつもりはないから」
「嘘だ…………」
「嘘じゃない。梓だって、いつまでも私に甘えていられないでしょ。
もうすぐ高校卒業なんだし、自立できるようにならなくちゃ」
梓の目から光が消えた。
『お姉ちゃんと結婚する』――愛する妹が、昔から口癖のように言ってきた台詞。
梓にとって、結婚は本気だったのかもしれない。
でも唯は、その想いには応えられない。
ならば、いつかは現実を認識してもらわなくてはならなかった。
しかし強情な妹は、一歩も引く気はないようだ。
「嘘だ!!! その女に脅されてるんでしょ!?
お姉ちゃんの弱みを握って、お姉ちゃんを洗脳しようとしてるんだ!
そうに決まってる!!!」
「嶺華さんはそんなことしない!!!!」
唯は、妹に負けじと声を荒らげた。
自分のことはいくら罵られても構わない。
けれど、嶺華のことを悪く言われるのは許せなかった。
「お姉ちゃん…………分かったよ。それならッ!!」
唯を突き飛ばし、キッチンへ駆け込む梓。
5秒もかからず戻ってくる。
その手に、包丁を握って。
「わたしがその女を殺してやるッッ!!!!」
「梓!? 何考えてんの!?」
凶器を手にした梓は、眠る少女の元へ一直線に近寄ろうとする。
妹のぶっ飛んだ行動に唖然としつつも、唯は進路上に立ち塞がった。
「お姉ちゃん! そこをどいて! 睡眠薬の効果が切れるまで、あと数時間は目覚めない。今なら確実に殺せるでしょ!」
「なんで!? 嶺華さんがあんたに何をしたっていうの!?」
「わたしからお姉ちゃんを奪おうとしてる! だから殺すの!!」
「どうして……どうしてそんな考えになるのよ…………ッ!」
唯は、今の状況がさっぱり理解できなかった。
梓も嶺華も、唯にとっては大切な存在。
立場や境遇は違えど、仲良くして欲しい。
それなのに何故、梓は排除することしか考えないのだろう。
「お姉ちゃんはじっとしてて! わたしがこの女を消してあげるから。
そうすれば、お姉ちゃんの洗脳が解ける! 自由になれる!!」
「違う!」
「違わない!!」
甲高い声で叫んだ梓は、唯のガードを強行突破すべく床を蹴った。
「この疫病神め…………わたしが今、葬ってやる!」
妹の暴走を止めなくては。
問答無用で振り上げられる包丁を見て、唯は咄嗟に長剣を拾い上げた。
「ッ…………!!」
剣の柄に触れた瞬間。
脳裏に蘇る、破壊の記憶。
敵を切り裂けと叫ぶ、甘い誘惑。
痺れる思考に飲まれかけた時、一欠片の理性が待ったをかける。
赤黒の剣を抜いたら、大好きな家族を斬ってしまう。
紅蓮の鎧を纏ったら、大好きな妹を殴ってしまう。
梓を、確実に殺してしまう。
「(駄目ッ!)」
剣を抜くことは、できない。
一瞬の迷いが隙を生む。
「死ねッッッ!!!!!!」
動きを止めた唯の前で、梓は殺意の籠もった刃を振り下ろした。
「(このバカ!)」
逡巡をねじ伏せ、コンマ1秒の決断を下す。
唯は鞘に収まったままの長剣を力いっぱい振り回した。
交錯。
刃がなくとも質量は十分。
分厚い鞘は梓の手の甲に直撃し、握られていた包丁を真横に弾き飛ばす。
「くっ!」
よろけた梓を突き飛ばし、返す刀で剣先を机上の携帯端末に叩きつける。
「はぁッ!!」
液晶がバキバキに砕け散り、通報一歩前の画面が暗転した。
「っ…………」
「…………はぁ、はぁ…………」
壁に突き刺さった包丁を横目に、肩で息をする姉妹。
刹那の攻防を制した唯の背中からは緊張の汗が吹き出した。
辛うじて最悪の結果は回避。
誰の血も流れず、龍の少女は引き続き寝息を立てている。
しかし、愛する妹の憎悪は消えていない。
「……………………お姉ちゃん。そんなにわたしを独りにしたいんだ。
わたしのことが、嫌いだから」
唯を睨みつけたまま、嗚咽を噛み殺すような声を漏らす梓。
「だから違うって」
「だったらなんで出ていくの!? わたしたちは家族でしょ!
なんでわたしじゃなくて、その女を優先するの!?」
「それは…………」
嶺華を孤独から救い上げるために、唯は彼女と共に歩むことを決めた。
しかし、そのために梓を孤独に突き落としたい訳ではない。
ここでふと、唯の頭にアイデアが浮かんだ。
「あ、そうだ! 梓も嶺華さんの家に来ない? 3人で暮らすの。
それなら、これからも私達は一緒にいられるし」
我ながら名案。
荷物だけでなく梓本人も連れ帰ってしまえば、一石二鳥。
嶺華を支えつつ、梓に寂しい思いをさせずに済む。
そう思ったのだが。
「無理。その女と同じ屋根の下とか、絶対ありえないから」
唯の提案は即座に蹴られてしまう。
代わりに、梓の口から悪夢のような二択が示された。
「今すぐ選んでよ。その女とわたし、どっちかしか選べないなら、どっちを選ぶの!?」
「選べない! 梓は私の家族だし、大切な人。でも、嶺華さんも私の家族だから」
「は? どういう意味?」
肉親である梓には、正直に言うしかないだろう。
「私は嶺華さんと結婚する」
唯のカミングアウト。
それは、梓の思い描いていた未来を真っ向から否定するものだ。
「……………………」
時が止まったかのように、静寂に包まれるリビング。
梓は目を見開いて凍りついている。
「私が自分の意志で決めたことなの。嶺華さんには、私達の家族になってもらうから」
唯は『私達』と明言した。
一生嶺華と添い遂げたい。
梓との絆も維持したい。
二人の家族と共に生きていくのが唯の理想だった。
その願いが本人に拒絶されるとは、考えもせず。
「………………………………いやだ」
梓はそれだけ言うと、ふらふらとリビングを出ていった。
「梓っ! 待ちなさ……」
バタンと閉じるドアの音。
去り際に見えた妹の目尻には、悲壮の雫が湛えられていた。