幕間 もう一人の家族
『おかけになった端末は、現在電源が入っておりません』
もう何度聞いたメッセージだろう。
冷たいフォントで表示された『不在着信』の文字に、一人の少女がため息をつく。
「はぁ………………お姉ちゃん、どこ行ったの…………」
神代梓は、バッテリーの切れかけた携帯端末を呆然と見つめていた。
2階建ての一軒家。
大切な人と同じ時を過ごせる、心安らぐ愛の巣。
けれど今は、肝心の家主の姿が見当たらない。
シミ一つ無い純白の壁紙が、より一層寂しさを引き立てている。
『いってきます』
そう言って家を飛び出した姉は、それきり戻ってこなかった。
一昨日も、昨日も、今日も。
姉からは何の連絡もなく。
神代家に残された梓は、愛する人の帰りをひたすら待っていた。
だが、姉は帰って来ない。
「お願い……出てよ」
もう一度、祈るように携帯端末のコールボタンを押す。
……、……。
規則的な発信音は鼓膜に染み付いてしまった。
……、……。
1回、2回、3回、4回とコール音を数える。
胸が張り裂けそうな時間。
『おかけになった端末は』
聞き飽きた電子音声をぶつ切りキャンセル。
「はぁ…………」
赤い受話器マークに指をめり込ませる勢いで端末を黙らせ、再び深いため息をつく梓。
「早くお姉ちゃんのご飯が食べたいよう」
ホーム画面に戻った携帯端末の液晶が、立ち上る湯気で白く曇る。
梓が立っているのは、キッチンの電磁コンロの前。
本来なら、ここには姉が立っているはずだ。
神代家のおさんどん係はただ一人。
料理上手な姉と違って、梓は料理など全くしない。
今日だって、軍用レーションのパサパサした食感に飽きたから仕方なく鍋を取り出したのだ。
姉がいつも行く無人青果店を初めて訪ね、右も左も分からないまま野菜を買ってきた。
選んだラインナップは人参、大根、玉ねぎ、ジャガイモ。
完全にカレーの顔ぶれだが、肝心のルーは手元にない。
野菜の調理方法なんて知らない梓は、いきなり生食を試みた。
結果はお察し。
生の玉ねぎは辛すぎて、未だに舌がピリピリ痺れている。
そんな訳で、料理未就学児の少女は初めてコンロの前に立った。
水を張った鍋に全ての野菜が突っ込まれ、グツグツと沸き立つ水泡に揉まれている。
「ほんとうにこれでいいのかな……?」
梓は熱湯で踊る野菜たちを横目に、またまた携帯端末の画面に視線を落とした。
着信通知がポップアップする幻想を思い浮かべるが、端末の画面は先程から変化なし。
バッテリー残量低下の赤い通知が固定表示されているだけだ。
「お姉ちゃん……」
携帯端末の画面を切った梓は、何日も会えていない姉に思いを馳せる。
物心つく前に両親と死別してから、梓の肉親は唯だけだった。
幼い頃は365日、布団からトイレまでいつも一緒。
義務教育が始まってからは、会えない時間が耐え難い苦痛だった。
授業が終わればまっすぐ家に帰り、唯の帰りを待つ日々。
寂しさが極まった時は、唯の学校まで迎えに行ったことも。
そして昼間会えない反動で、夜はべったりと甘えるようになったのだ。
『身内』、『姉』、『家族』。
そんな単純な言葉では表しきれない。
平凡な関係では足りない。
婚姻の契りを結び、墓場まで一生付き添いたい。
梓にとって、唯は全てだった。
愛している。
依存している。
離れ離れになるなんて、絶対にありえない。
はずなのに。
「私を一人にしないでよ…………」
消え入りそうな呟きは、吹きこぼれた水の音でかき消される。
窓は閉めきっているため、彼女の声が外に漏れることはないだろう。
というか、鍋料理なのに換気扇を回していない。
キッチンは充満する湯気と湿気で浴室のような有様だ。
その時、少女の鼻孔を不思議な匂いが突っついた。
良く言えば香ばしい、悪く言えば焦げ臭い。
「わーー! なにこれ!?」
慌てて電磁コンロの電源を切る梓。
もわもわと立ち上る黄色い湯気は、お湯が全て蒸発したことを示している。
「できたのかなぁ?」
黒く変色したジャガイモの塊をパスタ用のトングで掴んだ梓は、勇敢にも直接齧り付いた。
「不味っ!」
カレーのルーどころか、調味料を一切入れていない茹で野菜。
炭化した焦げ味だけが口内に広がり、舌の上で苦虫が這い回る。
「お姉ちゃん……早く帰ってきてよ…………」
梓は無口な携帯端末を握りしめながら、無惨な野菜の成れ果てを飲み込んだ。