第46話 罪と夏
医療機器がびっしりと並ぶバンの中。
ストレッチャーに横たわる嶺華は気怠げに目を開いた。
「わたくし…………また寝て……」
車内には嶺華一人だけ。
周囲はしんと静まりかえっている。
先程まで一緒にいた美鈴の姿は、いつの間にか消えていた。
点滴の針は抜かれ、拘束ベルトも解かれている。
「唯さんが勝ったのでしょうか…………わたくしを素直に見逃してくれるなんて、あの方も悪い人ではないようですわね」
仰向けのまま、自分の体を確かめる嶺華。
脳がかち割れるような頭痛は収まっている。
しかし体を起こそうとした所でストップ。
腰に力が入らず、自力で立ち上がることができない。
空になった点滴バッグを眺め、嶺華は深いため息を吐いた。
「はぁ…………待つしかありませんわね」
再び目を閉じると、微かな風の音や鳥の囀りが聞こえてくる。
住宅地とは少し離れた公園とだけあって、喧騒とは隔絶された音色が心地よい。
「唯さん、早く帰ってきてくださいな」
◇◇◇◇◇◇
嶺華がしばらく微睡んでいると、がちゃりという音と共にドアのロックが開いた。
「おかえりなさい唯さ……」
笑顔で迎え入れようとする嶺華。
しかし、後部ドアから乱暴に乗り込んできた人影を見て、嶺華の顔がひきつった。
「ターゲットのカミナリ装者を発見! 車内に他の人間は確認できず」
『ターゲット発見! 繰り返す! ターゲット発見!!』
黒いヘルメットを被り、自動小銃を携えた完全武装の男。
やってきたのは唯ではなく、嶺華を拘束していたAMF隊員だった。
男が無線機とやり取りを続けるにつれ、複数の足音がバンを取り囲む。
「暴れたら撃つ。脅しじゃないぞ」
銃口を突きつけられたまま、ストレッチャーが後部ドアから引きずり出された。
太陽の光と共に、大勢の隊員達の視線が突き刺さる。
「よう、昨日ぶりだな。ずいぶん顔色が良くなったじゃないか」
聞き覚えのある声に、嶺華の体が強張った。
隊員達の中から陽気に歩いてきたのは、嶺華に疑似ウイルス兵器を打ち込んだ男・岡田である。
「我々が命の危険に晒されていたというのに、君はこんな所でお昼寝かい?」
「あらあら。お元気そうで残念ですわ」
余裕ぶる嶺華だが、声の震えを隠せていない。
「君が脱走したせいで、こちとら危うく首が飛ぶところだったぜ。もうすぐ司令の座に手が届くって時によぉ……」
岡田は嶺華の長髪を掴むと、力まかせに持ち上げた。
「触るな……!」
「もし私のキャリアに泥が付いたら、どう責任とってくれるんだッ!」
「知りませんわよ……痛ッ!!」
口答えした嶺華が気に入らなかったのか、頬に平手打ちが飛んだ。
「我々に接する態度はよく考えたほうがいい。1秒でも長生きしたければな」
「くッ…………」
少女を屈服させ、満足げに笑う岡田。
「ようし。幸運なことに、暴れていた械獣達はいなくなった。今度はゆっくり『お話』できるな」
「ッ!」
ひりひり痛む感覚と『お話』という単語に、嶺華は地下で受けた仕打ちを思い出した。
殺風景な部屋。
硬いベルトと鎖。
そして、あの注射。
フラッシュバックする苦痛で目眩を覚える。
「嫌……」
「ん? なんか言ったか?」
嶺華は弱々しい力を振り絞って藻搔いたものの、毛深い岡田の腕を振り払うことはできなかった。
「実はお前の殺処分は決定事項なんだが……我々に誠意を見せるなら、命だけは助けてやらんこともない。抵抗できないよう、手足は切り落とさせてもらうがな」
岡田が目配せすると、自動小銃を突きつけていた男が逃走防止用の道具を取り出す。
彼が持っていたのは、犬猫用のリード付き首輪だった。
嶺華のことを人間として扱う気なんて、端から無い。
「今日から我々のペットとして、人類に貢献すると誓え」
「…………」
嶺華が唇を噛みながら首輪の装着を受け入れそうになった、その時。
岡田の背後から、炎の塊が突っ込んできた。
「どわぁッ!!」
岡田とその部下が仲良く転倒する。
塊の正体は、炎に包まれた隊員の一人。
「あぢッ! あぢッ!」
隊員は火を燻ぶらせる防弾チョッキを慌てて脱ぎ捨て、辛うじて焼死を免れる。
「一体何が……」
ふらふらと立ち上がる岡田の顔が、瞬く間に驚愕で固まった。
「神代……なのか…………?」
反り返った二本の剛角。
黒い装甲に刻まれた真紅の焔模様。
荒々しい造形を体現するかのような、殺意を湛える怒りの眼光。
少女を取り囲む隊員達の背後に、一匹の鬼が立っていた。
◇◇◇◇◇◇
銀色の機械大剣と赤黒い長剣を背負った唯は、修羅の形相で隊員達を睨みつける。
怒りは頂点に達していた。
「お前達も……絶対許さない…………!!!」
右手の手甲から火柱が吹き出す。
すぐ傍にいた隊員の胸ぐらを掴み、火炙りの刑を執行。
AMFの制服がどろりと溶けた。
「うわああああああッ!!」
悲鳴を上げる隊員を放り捨て、次の獲物に殴りかかる唯。
「ごッ!」
「ぐはぁッ!!」
重装備の隊員に容赦なく拳を叩き込み、屈強な男を一撃で沈める。
雨でぬかるんだ土を焼き固めながら火の粉を振り撒く様は、隊員達を震え上がらせた。
「どけッ!」
唯は腰を抜かした隊員を踏みつけると、サッカーボールのように蹴飛ばした。
美しい放物線を描いた隊員は濁った水溜りに落下し、そのまま動かなくなる。
「何をボケっとしている! そいつは裏切り者だ! 射殺して構わん!!」
岡田の上ずった叫び声。
我に返った隊員達は横並びの陣形を組み、一斉に自動小銃の引き金を引いた。
銃声の壁に怯むことなく、背中の長剣を掴む唯。
網膜プロジェクターの視線操作でコマンドを打ち込めば、業炎怒鬼の長剣から多彩な攻撃を繰り出せる。
範囲攻撃の炎技を選択し、柄のトリガーを押し込んだ。
『プロミネンスラッシュ』
赤黒い長剣を横薙ぎに振るう。
太刀筋は灼熱の輝きを纏い、炎の壁となって隊員達に襲いかかった。
「「「ぎゃあああああ!!!」」」
扇状に広がる炎は、生身の人間には回避不可能。
装備に引火し、火だるまになった隊員達は、火を消そうと必死にのたうち回った。
烈火照覧、阿鼻叫喚。
完全武装の隊員達を僅か数十秒で制圧。
火傷の激痛の中、殺気立った唯に抵抗しようなどという愚か者は一人もいなかった。
「…………」
唯はゆっくりと歩いていく。
彼女を傷つけた男の元へ。
「なんで一番にお前を斬らなかったか、分かる?」
尻もちをついたまま固まる岡田の喉元に、長剣の切っ先を突きつける。
「お前の汚い血が、嶺華さんにかからないようにするためだよッ!!」
「お、落ち着け神代! 分かった分かった! 今度カミナリ装者を尋問する時は、V-105の投与量を減らす! 中和剤もちゃんと使う! だから……」
「…………」
唯はゴミを見るような目を向けると、無言で長剣を振るった。
赤い飛沫が、鬼の鎧に散る。
「ぐあああああああああああああああ!!!」
右足首から下が消失し、パニックになった岡田が絶叫した。
「はははははッッ!!! 痛いか? もっと鳴けよ! 嶺華さんが受けた苦痛には及ばないけどね!!!!」
唯は、いきなり即死させる斬り方は選ばなかった。
時間をかけて、じっくりと苦しみを味わわせてから殺す。
そこに立っていたのは、残忍な思考を巡らせる鬼だった。
「うふふ……次はどこを斬ってやろう、か、な………………」
笑いながら長剣を振り上げる唯。
その時、ピタリと動きが止まった。
「あ……れ……?」
強烈な違和感が、振り下ろそうとした手を引き止める。
「え……?」
網膜プロジェクターを確認。
視界に映る各種数値は正常だ。
生身の肉体も、痛みは一切感じない。
しかし、何かがおかしい。
喉の奥に飴玉が詰まったかのように息苦しい。
呼吸を整えようとした時、唯は気づいた。
違和感の正体は、鼻孔に充満した『匂い』だ。
息を吸い込む度、肺の中に入ってくる匂い。
生臭い鉄錆の匂い。
この匂いは。
「人間……血…………?」
脳内を埋め尽くしていた快楽が消失した。
冷水を掛けられたかのように、冷静な思考が戻ってくる。
自分は今、何をしてるんだっけ?
「人を……殺す……? 私が…………??」
戸惑い、嫌悪。
数秒前までの己の言動が、全く信じられない。
周りを見回せば、血を流しながら這いつくばる隊員と目が合った。
唯に向けられていた視線は、純粋な恐怖。
赤黒の手甲に付着した血痕が視界に入ると、柄を握る手から力が抜けた。
取り落とした長剣が地面に転がる。
拾い上げることは、できない。
「ふぐッ…………撤退ッ! 撤退しろぉ!!!」
うめき声のような岡田の号令を聞き、倒れていた隊員達は脱兎の如く逃げ出した。
岡田自身も側近に引きずられ、唯から遠ざかっていく。
唯は追いかけない。
隊員達には目もくれず、自分の掌を見てわなわなと震えていた。
◇◇◇◇◇◇
殺人は悪だ。
人を殺してはいけない。
そんなこと、小さな子供でも分かっている。
一方で、唯の身近な所には、容赦なく人を殺す存在があった。
愛する人を奪う悪夢。
暖かい家庭を引き裂く邪悪。
人々の営みを蹂躙する害悪。
人はそれを『械獣』と呼んだ。
「あ………………」
一歩、二歩、後ずさる。
隊員達に無差別な暴力を振るった唯は、械獣と一緒ではないか。
「私……なんで…………?」
今まで必死で戦ってきた敵と、同じ場所に立ってしまった。
それを認識した途端、昏い絶望感に呑まれそうになる。
「唯さん!」
真っ白になりかけた思考に、凛とした声が割り込んだ。
振り返ると、心配そうな顔で見つめてくる少女がいた。
「嶺華さん…………」
「唯さん。どうしてそんなに辛そうな顔をしてますの?」
「それは嶺華さんだって」
ストレッチャーの上で体を起こした嶺華は、今にも倒れてしまいそうなほどふらふらだった。
足腰の筋力が低下しているのか、左手で支えていないと姿勢が安定しない。
それでも、彼女ははっきりとした口調で言った。
「わたくしはもう大丈夫ですの。寧ろ、唯さんの方が落ち込んでいるように見えますわ」
嶺華に指摘され、唯はますます肩を落とした。
よりにもよって、彼女の目の前でキレてしまったのだ。
頭に血が上ったらすぐに手が出るDV女だと思われたかもしれない。
罪悪感と後悔にいたたまれなくなり、思わず謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい。私、人を……斬っちゃった」
「別にいいではありませんの。殺してはいないのでしょう?
わたくしを辱めた悪党共には、当然の報いを受けていただきませんと」
「そうですけど、でも、こんな暴力女、嫌ですよね……」
「お待ちなさい」
嶺華は、縮こまる唯をピシャリと叱った。
「唯さんは、これからずっと、わたくしを守ってくださるのではなくて?」
「あ…………」
思い出した。
唯の目的は人を殺めることではない。
ましてや、他の誰かを助けることでもない。
たった一人の、大切な人を守ること。
そのために剣を取ったのだ。
「唯さんのおかげで、わたくしは生き延びることができましたわ。感謝いたしますの」
「嶺華さん…………ありがとう」
デリートを倒し、機械大剣を取り戻し、嶺華の元に帰ってくる。
目的は果たせたのだ。
沈みかけた唯の心は、すんでの所で踏みとどまった。
今は彼女を守れたことを素直に喜ぼう。
「では唯さん、ちょっとこちらへ。耳を貸してくださいまし」
「はい?」
ストレッチャーに腰掛け、悪戯っぽく笑う嶺華。
言われるがまま顔を近づけると、唯の首筋に彼女の左腕が回された。
そのままぐいっと引き寄せられる。
「わたくしのために戦う唯さん、格好良かったですわよ」
耳元にかかる彼女の吐息。
顔が火照るのは、真夏の暑さのせいじゃない。
「流石わたくしの恋人ですわね」
唯の唇は、柔らかな感触に塞がれた。
遥か青空の下。
二人だけの世界。
目を閉じて、共に溺れる白昼夢。
ファーストキスの味は、とろけるほどに甘かった。