第39話 スリープ・スウィート・初バスタイム
脱衣所で汚れた衣服を全パージした唯は、ドアを開けるなり度肝を抜いた。
「わぁ…………!!」
そこは、地下とは思えないほど広々とした浴室だった。
まず目についたのは三種の湯船。
一つは乳白色の湯。
なんとなく疲れが取れそう。
一つは透明な湯。
浴槽の底に埋め込まれたライトがキラキラと水面を輝かせる。
最後の一つは、ごうごうと泡を噴き出すジェットバス。
酷使した腰をもみほぐしてくれるだろう。
壁際にずらりと並ぶシャワー席に加え、奥の部屋はサウナだろうか。
おまけに、唯たち以外の人間はいなかった。
旅館の大浴場並みの設備が貸し切り状態となれば、思わず気分が高揚してしまう。
「……っと、はしゃいでる場合じゃない。嶺華さんを綺麗にしてあげなくちゃ」
唯にはやらなければならないことがあった。
気絶したままの少女をシャワーの前に下ろし、ボロ雑巾のような手術衣に手をかける。
衣服の形を保っていた紐を解き、そのままゆっくりと布をはだけさせた。
初めてできた恋人の、一糸まとわぬ姿が露わになる。
「嶺華さんごめん…………」
意識の無い女性の服を剥ぎ取るなど、一歩間違えれば暴漢と変わりない。
一方的に脱がせることになってしまい、唯は申し訳無い気持ちで一杯だった。
だがしかし、汚れた体を清めるにはこうするしかないのだ。
「ごめんですけど! 洗っていきますねっ」
銀色のレバーを手前に引くと、シャワーからすぐにお湯が出た。
冷たい雨に打たれ続けた体に、温かい抱擁が染み渡る。
手の平でシャワーの勢いを確かめ、意を決して少女の肌に触れる。
水流が顔にかからないよう注意しつつ、こびりついた泥を丁寧に落としていく。
「髪から失礼します」
唯は小さな椅子に腰掛けると、ぐったりしたままの嶺華を膝枕した。
少女の長髪を濡らしながら、整頓された石鹸棚に手を伸ばす。
シャンプーもコンディショナーも残量は半分くらい。
新品ではないようだ。
普段嶺華が使っているものと同じかどうかは分からないが、一日くらい違っていても大丈夫だろう。
雨で傷んだ髪の毛を丁寧に梳き、シャンプーを泡立てる。
頭皮を軽くマッサージしてみたが、嶺華は目を覚ます気配が無い。
泡が目に入らないように気を付けながらシャンプーを洗い流す。
コンディショナーを馴染ませると、黄金色の髪は美しい艶を取り戻した。
「嶺華さんの髪、本当に綺麗だよね……」
思わず手を止め、しばし見惚れてしまう唯。
水平線から昇る朝日のような輝きをずっと眺めていたい。
「あーだめだめ。早く体も洗わなきゃ」
鑑賞するのは汚れを落としてから。
気を取り直し、次はボディソープを手に取った。
柔らかいスポンジに水と泡を含ませ、白い肌を優しく拭いていく。
悲しいことに、少女の体は美しさよりも痛々しさが勝っていた。
破れかけたお腹の包帯を捲ると、脇腹から背中まで貫かれた裂創が顔を出す。
傷口は縫われていたものの、安いぬいぐるみのように不均一な縫い糸が見えている。
施術したのは医師の資格を持つAMF隊員のはずだが、まるで素人のような縫合跡だ。
「医療班の奴ら、わざと雑に縫ったんじゃないだろうな…………」
陰湿な手口に腹が立つ。
だがそれ以上に胸が締め付けられるのは、やはり切り落とされた右腕だ。
断面に巻かれた包帯は赤黒く変色し、半ば癒着してしまっている。
雑菌が繁殖していそうな包帯は今すぐ剥がしてあげたかったが、傷口が開いて出血したら大変だ。
仕方なく包帯の上に泡を乗せ、気持ち程度に塗り込んでから洗い流す。
シャワーが傷口に触れた瞬間、嶺華の体がビクッと跳ねた。
「あ、ごめんなさい!」
「……」
意識は戻っていない。
痛覚刺激による体の反射反応だろう。
唯はなるべく傷口を刺激しないよう、自分の手の平に溜めた水で泡を流していく。
「これでよし、と」
肌に泡が残っていないことを確認し、少女の洗浄は一通り完了した。
眠り続ける彼女を壁にもたれさせ、そそくさと自分の体を洗う唯。
髪の間に絡まった砂利を取り除くと、半日ぶりに清潔感が戻ってくる。
自身を洗い終えた唯は、嶺華を抱きかかえていざ浴槽へ。
二人の体は芯まで疲れきっている。
さらに唯の場合、嶺華を背負って雨の中を全力疾走した挙げ句、泥濘んだ山道を登りきったのだ。
全身の筋肉がズキズキと悲鳴を上げていた。
ジェットバスで疲労感をほぐそうとも考えた唯だったが、すぐに思いとどまる。
傷だらけの嶺華が一緒なのだ。
背中に穴が開いた人間を気泡噴射の前に座らせるなど拷問でしかない。
残る選択肢の一つ、乳白色の湯船は温泉のようで、いかにも疲労回復に効果がありそうだ。
しかし、生傷には刺激が強すぎるかも。
唯は消去法でキラキラ光る湯船を選択すると、彼女をお姫様抱っこしながら浴槽へと運んだ。
「ふああああぁぁ~~~っ」
湯船に足をつけると同時に、温かい感動が駆け上がる。
抗えない湯気の誘惑に負け、すぐさま腰を下ろした。
即座に始まる足腰ほぐし。
極楽とはまさにこのこと。
唯が恍惚とした表情を浮かべていると、湯船の縁にある龍の彫刻と目が合った。
刺々しい角や歯の造形はやけに精巧だ。
首の下は給湯器に繋がっているのか、龍の口からは湯けむりと共に温水が吐き出されている。
ドラゴンブレスによって調整された水温は体感44度。
疲れた肉体には、少し熱いくらいが丁度いい。
自分だけでなく、腕の中の少女も温めなければ。
半身浴までなら大丈夫だろうと判断した唯は、太ももの上に嶺華を座らせる。
腕にかかっていた負荷が消えると、ようやく唯の緊張が解けた。
「ふぅ…………気持ちいい」
誰もいない大浴場に、唯の息と水音だけが響く。
お湯の温もりと、人肌の温もり。
ここには、二人を排斥しようとする敵はいない。
唯は久しぶりに心を落ち着けた。
腕の中で眠る嶺華を見つめていると、今日あった出来事に実感が湧いてくる。
「告白、しちゃったなぁ」
好きになった少女は、望み通り自分の彼女になった。
だが本当に、自分は嶺華の家族になれるのだろうか。
物理的な距離はゼロまで縮まったのに、彼女の心はどこか遠くに感じる。
この建造物は何なのか。
天井から聞こえた声は何者なのか。
今までの唯の人生と、嶺華の人生。
文明レベルの溝はどれほど深いのだろう。
この手を離したら、嶺華は今にもいなくなってしまいそうだった。
「…………怖気づいたらだめだ。私が嶺華さんを守れるようにならなきゃ」
唯は少女を繋ぎ止めようと、華奢な体を抱きしめる。
目を閉じれば、わずかに収縮する肺の動きも感じ取れた。
「私は、私にできることを、一つずつやるしかない」
今日はまだスタート地点。
分からない時は、正直に聞けばいい。
困った時は、頼ればいい。
助け合いを積み重ねていけば、信頼関係を築けるはずだ。
いつか本当に、嶺華の心も感じ取れる日が来ると信じて。
◇◇◇◇◇◇
しばらく全裸二人羽織を続けていると、少女の口から声が漏れた。
「ぅ…………」
「嶺華さん、起きました? 良かった…………」
眠り姫の意識が戻り、ひとまず安堵する唯。
「唯さん……わたくし、は…………??」
気怠げに半目を開けた嶺華は、不思議そうに首をかしげた。
そりゃ、目覚めていきなり風呂に入ってたら混乱するだろう。
唯は嶺華をリラックスさせようと、小声で優しく囁いた。
「急に倒れたからびっくりしましたよ。疲れが取れるまで、ゆっくり温まりましょうね」
「え…………?」
寝ぼけ眼で下を見る嶺華。
己の座っている場所、己の格好を認識した、直後。
「きゃあああああああああああああッッッ!!!!」
瀕死とは思えないほどの絶叫で、唯の膝から飛び退いた。
「な、ななな、なんでわたくし裸なんですの!!???」
「え」
左腕で胸元を押さえながら赤面する嶺華は、呆ける唯を睨みつける。
「唯さん!? まさか寝ているわたくしの服を剥ぎ取って??? 勝手にわたくしの裸を??????」
「違います!! いや、違わないけど、これはその、やむを得ずというか。汚れたままの嶺華さんを放置する訳にはいかないですし」
服を脱がせたのは事実なので、嶺華の誹りを真っ向から否定できない。
「下心は断じてありません!」
「本当ですの…………?」
尚も訝しげな視線を向けてくる嶺華に対し、唯は話題を逸らした。
「そ、それより、さっきの女の人は誰なんですか? 嶺華さんのこと『マスター』って」
「……あの声はマルルですわ」
「マルルさんって、短剣の?」
先程、嶺華にしか聞こえない通信で山道をナビゲートしてくれた人だ。
廃ビルの中にいた時、嶺華が短剣に向かって『マルル』と呼びかけていたのを思い出す。
てっきり外国の方だと思っていたが、天井の声は流暢な日本語だった。
「マルルはここの管理AIですの。わたくしの育ての親でもありますのよ」
「ええ!? 嶺華さんってAIから生まれたんですか!??」
「育ての親と言いましたの。生みの親は名前すら知りませんわ」
「そうだったんですか……」
いきなり重要なカミングアウト。
なんとなく普通のご家庭で育った感じではないと思っていたが、まさかのAI育ちだったとは。
学校に行ったことがない、という話が現実味を帯びてきた。
「けど、AIとはいえ嶺華さんにも家族がいたんじゃないですか」
唯は独りぼっちの嶺華を救いたい。
彼女の家族として、彼女の心を温めてあげたい。
あわよくば、彼女の一番になりたかった。
しかし先客がいたとは聞いていない。
「何を言ってますの。マルルの対話インターフェースは所詮機械。溜め込まれた学習データを駆使して、違和感のない受け答えをするだけですの。プログラムに従った会話に心などありませんわ…………絶対に」
嶺華は迷わずきっぱりと言い切った。
まるで、何度も期待を裏切られてきたかのように。
「だったら、私が家族一号ってことですよね?」
唯は不謹慎と思いつつも、心の中で少しだけほっとした。
肉親に会うこともなく、機械で満足することもなく、今までずっと孤独に囚われてきた嶺華。
裏を返せば、彼女の隣は空席のままだ。
唯が入り込む余地がある。
「それはどうでしょう。勝手にわたくしの服を脱がせた唯さんは変態さんですの。変態さんとは家族になれないかもしれませんわ」
喜ぶのも束の間。
唯は絶望した。
「ごめんなさい! 何でもするので許してください!!!」
水面に額を叩きつける勢いで頭を下げる。
フローティング土下座だ。
「仕方ありませんわねぇ…………」
嶺華は不貞腐れつつも、再び唯の太ももの上にちょこんと腰掛けた。
「ん」
唯の方を振り返り、目配せ。
濡れた髪の隙間から白いうなじが覗く。
「?」
「ですから……」
物分かりの悪い唯に、嶺華がずいっと顔を近づける。
彼女は先程のお返しとばかりに、耳元で甘く囁いてきた。
「もう一度、わたくしをぎゅっとしてくれたら許しますの」
今度は唯が赤面する番だった。
「嶺華さん!???」
彼女から、初めて甘えてもらった。
唯は嬉しすぎて舞い上がりそうになりながら、少女の体をがっちりとホールドした。
あまりにも早すぎて、傍から見れば水辺で獲物に飛びかかるワニに見えたかもしれない。
嶺華が怪我していることすら忘れ、強く強く抱きしめる。
「私、嶺華さんのこと好きですから! いつでも私に甘えてください!」
「ちょっと! 苦しいですの!」
「離しません! これからは私が、嶺華さんの家族になってみせますから…………」
「分かった、分かりましたわ!!」
お湯よりも熱い唯の抱擁に、か弱い彼女の抵抗は無意味である。
やがて諦め、唯に体を預けてくる少女。
その唇は、安心したように笑っていた。
◇◇◇◇◇◇
かれこれ30分以上抱き合っていた二人は、ようやく浴室から出てきた。
凝り固まった唯の筋肉はいい感じにほぐれている。
「いい湯だった~」
「そう、ですわね…………」
嶺華は少しのぼせたようで、ふらふらと唯にもたれかかってきた。
半身浴とはいえ、長居しすぎたかも。
唯は抱擁の余韻に浸りつつ、彼女が転ばないよう肩を貸す。
脱衣所スペースの床を見ると、泥だらけの這いずり跡は消えていた。
誰がいつの間に掃除したのだろうか。
棚には大きなバスタオルと綺麗に畳まれたルームウェア一式が用意済。
通気性のよさそうな合成繊維のスウェットは寝間着にピッタリ。
至れり尽くせりである。
「あれ、一人分だけ?」
バスタオルは2枚あるのに対し、ルームウェアは1着のみ。
唯が首をかしげつつ体を拭いていると、天井から再び声が響いた。
『お客様の衣服を用意いたしました。マスターにはこれから回復処置を行いますので、そのままメンテナンスルームにお越しください』
「ええ、わかり……ましたの…………」
濡れたまま廊下へ歩いていこうとする嶺華。
疲労と湯あたりでぼーっとしているようだ。
「待って待って、今拭いてあげますから」
唯は乾いたバスタオルで水滴る少女を捕まえた。
髪を優しくタオルで包み、丁寧に水気を取ってやる。
「う……助かりますわ…………」
大人しく施しを受ける嶺華は、今にも眠りに落ちてしまいそう。
唯は自分の着替えと並行して、少女の体を拭いていった。
「ほら、私の肩に掴まってください」
「はいですの……」
スウェットに着替えた唯は、バスタオルを巻いただけの嶺華を連れて脱衣所を出た。
『メンテナンスルームは左手側、廊下の突き当りの部屋です』
これまた綺麗に清掃された絨毯の上を歩き、天井の声が案内する部屋へと向かう。
道中、眠そうな少女に聞いてみた。
「『メンテナンスルーム』ってなんですか?」
「わたくしと駆雷龍機を整備する部屋ですわ」
「整備?」
唯はAMF基地のアームズ整備スペースを思い浮かべた。
様々な工具や重機が並んだ油まみれの部屋だ。
想像が正しければ、機械を直すための設備しかないはず。
嶺華の治療ができるのかは疑問だった。
不安げな唯が部屋の前に立つと、スライド式のドアが自動で開く。
「ここが……」
いざ中に入ってみると、思っていたのとは全く違う部屋だった。
透明感のある白い壁。
部屋の真ん中に鎮座する大きな手術台。
それを取り囲むように、大小様々なロボットアームが針山のように生えている。
『マスターを載せてください』
唯は天井の声に従って嶺華の体を抱き上げ、手術台の上に運ぶ。
「お手数おかけしますわ」
「いえいえ。早く治してもらってください」
「……すぅ」
嶺華は目を閉じるや否や、タイムラグなしに寝息を立て始めた。
あまりの早さに唯は笑ってしまう。
『それでは、処置を開始します』
マルルの声が響くと、手術台を囲むロボットアームが次々と動き始めた。
各アーム先端の形状は多種多様。
メスや針のような医療器具もあれば、ノコギリやドリルのような工作機械に似たものもある。
『危険ですので、お客様は退室してください』
入り口のドアが出て行けと言わんばかりに開く。
嶺華の体が治っていく様子を見届けたかったが、医療の素人が傍にいても邪魔なだけだろう。
今は天井の声、マルルを信じることにする。
「分かりました。嶺華さんを頼みます」
唯は嶺華の復活を願いつつ、メンテナンスルームを出た。
…………ところでぶっ倒れた。
「あ…………寝……………………」
思考が強制停止。
唯の体もとっくに活動限界。
嶺華に負けず劣らず、唯も驚くべき早さで就寝した。