第3話 命の価値
べアルゴンを撃破した唯は、視界の端をちらりと見た。
『網膜プロジェクター』――式守影狼の頭部に備わる機能で、視野の中に文字や画像情報を合成して表示することができる。
例えば、次元障壁の残量は90%と表示されている。
「ちょっと危なかったけど、なんとかなったのでよし!」
唯は戦闘結果を報告すべく、女性オペレーターとの通話を再開した。
「こちら神代、械獣のコアユニットを破壊」
『こちら司令室、状況確認しました。念のため、空裂が消失していることも確かめてください』
「了解」
械獣が開けた空裂は、械獣のコアユニットによって制御されている。
コアユニットを破壊することで、彼らが開けた空裂も閉じるという訳だ。
唯は女性オペレーターの道案内に従い、アームズを纏ったまま繁華街を歩く。
『神代隊員から向かって右のビル裏側、喫茶店の前が空裂の目撃ポイントです』
唯がいる辺りは、道路に沿って様々な小売店が立ち並んでいる。
古風な喫茶店、奇抜な髪型のモデルを掲げる理髪店、流行を押さえたアパレルショップ。
普段は平日でも大勢の人が歩いているはずだが、今はひっそりと静まりかえっていた。
道端には靴やハンカチといった小物がいくつか落ちている。
歩いている人はいない。
混乱はあったようだが、人々は無事に地下シェルターに避難できたようだ。
もし逃げ遅れた人がいたとしても、械獣は倒してしまったので心配ない。
「今日も被害最小でなにより……っと、この辺りかな?」
喫茶店の前に到着。
周囲を見回すが、4メートルの巨体が出入りできるような大穴は見当たらない。
「空裂確認できず。消滅したものと思われます」
『了解、状況終了です。お疲れ様でした』
女性オペレーターの声を聞き、唯の緊張が解ける。
これにて唯の仕事は終了だ。
「(梓は遅くなるって話だし、帰ったらゆっくりお風呂入ろ)」
アームズを解除するため、唯が短刀を鞘に収めようとした時だった。
「え?」
微かな音が聞こえた。
唯は、自分の耳を疑った。
もしくはインカムの故障であって欲しいと願った。
『新たな空裂反応です! 場所はべアルゴンとの戦闘エリア付近!』
「なッ!?」
短刀を握りしめたまま、来た道を走って戻る。
ビルの角を曲がり、つい先程戦闘を繰り広げた現場へ。
倒したべアルゴンの残骸、その真上。
蜘蛛の巣のように広がる亀裂。
バキパキと音を響かせながら、空間の裂け目はどんどん広がっていく。
3メートル、4メートル、5メートル、6メートル……
新たに発生した空裂を見て、唯は呆然と立ち尽くした。
「嘘でしょ……大きすぎる……」
空裂はべアルゴンの全長を遥かに上回っていた。
地面から浮いている分を除いても、直径は10メートルを超えている。
ビルとビルの間に浮かぶ巨大な大穴。
その奥から、何かが近づいてくる。
まず目についたのは、腕だった。
肩から上腕にかけて猛々しく盛り上がる筋繊維。
人間と同じように5本の指を握りしめた拳。
銀色の体躯が顕になっていく。
ずんぐりと丸まった臀部から生える、巨樹の如き後ろ足。
人間の上半身と虎の下半身を無理やり繋げたような、不気味な造形。
何よりも恐るべきはその大きさだ。
四足歩行でありながら、頭蓋の位置は3階建てのビルをも上回る。
10メートルは超えているだろうか。
鋼の摩天楼が、市街地の真ん中にそびえ立った。
「は……」
唯はあまりの巨体に放心した。
今まで戦ったことがある械獣を思い返しても、5メートルが限度だった。
それが、四つん這いの体勢で高さ10メートルだと?
脳が理解を拒みそうになる。
械獣の頭蓋を見上げると、人相を貼り付けたような厳しい顔面と目が合った。
埋め込まれたカメラのレンズがじっと唯を見つめている。
本能が、胃をキリキリと締め上げながら告げる。
逃げろ。
逃げなきゃ。
唯が一歩下がった瞬間。
械獣が、跳んだ。
唯の頭上を、タンカーのような巨体が飛び越えていく。
空中で器用に体を捻り、反転しつつ着地する械獣。
圧倒的な質量の衝撃に路面は耐えきれず、粉々になったアスファルトの破片が飛散した。
械獣は右拳を握りしめると、不意を突かれた唯に向かって鉄槌を振り下ろす。
「うわッ!!?」
唯は咄嗟に真横に飛び、挽き肉になることを回避した。
しかし、間髪入れずに左腕のアッパーカットが飛んでくる。
立ち上がる間もなく、大質量の拳が唯に直撃した。
金属同士がぶつかる甲高い音。
10メートル以上水平に吹き飛ばされた唯の体は、雑居ビルの窓ガラスを突き破り、室内の壁に叩きつけられた。
「がッ……ぐ…………!」
電車に撥ねられたような衝撃。
圧迫感に呼吸が止まる。
ぼやける視界に目を凝らすと、網膜プロジェクターに映し出された次元障壁は残り40%。
一撃で、半分持っていかれた。
『こちら司令室! あの械獣は……識別名「ドルゲドス」! 5年前に一度、交戦報告があります』
耳元のインカムに切羽詰まった声が入る。
『当時は撃破までに6名の装者を投入。1名が死亡、2名が再起不能の重症を負っています』
「なッ……!」
通常、装者は1つの地区に1人だけ配置される。
装者になれるのは適性があるごく一部の人間だけであり、その総数はアジア全体を足し合わせても数百人。
貴重な装者を同時に6人も投入するとは、壮絶な戦いだったに違いない。
そんな相手に1人で立ち向かったらどうなるか。
確実に殺される。
『司令から撤退の指示が出ました。急いで離脱してください』
「もちろんそうさせてもらうわ!」
胸をなでおろした唯は、乱暴に放り込まれた部屋を見回した。
色とりどりの衣服が掛けられたハンガーの列。
どうやらここはアパレルショップの店内らしい。
幸いにもドルゲドスの視界から逃れたためか、追撃はまだ来ない。
しかし、ビルを1棟1棟潰して回られたら、どこへ隠れても無駄だ。
おまけにあの瞬発力。
次に見つかったら、もう逃げられないだろう。
今が最初で最後のチャンス。
このままビルの影に隠れながら少しずつ離脱しよう、と唯が勘案し始めた時。
「……うぅ……うっ、お母さん…………」
薄暗いアパレルショップの店内で、か細い子供の声が聞こえた。
「え……」
唯は物音を立てないように室内を見て回る。
レジカウンターの下を覗き込むと、小さな女の子が蹲っていた。
背丈は小学生くらい。
親とはぐれ、逃げ遅れたのだろう。
「ねぇ、大丈夫? 怪我はない?」
「……うぅ……お母さん…………助けて…………」
女の子は不安と恐怖でパニックになっているのか、唯の存在を認識できていないようだった。
目元を真っ赤に泣き腫らし、ぶつぶつと助けを求める呟きを繰り返している。
「(とにかく、この子を逃さないと)」
だが外には巨大な械獣が闊歩している。
子供を連れたまま、械獣に見つからずにこの場を離脱するのは難しい。
唯はインカムの向こうに助けを求めた。
「こちら神代、逃げ遅れた子供を発見。指示を求む」
『……』
「司令室、応答してください」
『……』
沈黙する通話口。
女性オペレーターの声は聞こえない。
「そうだ、無人戦闘機でドルゲドスの注意を引けない? その隙にこの子を連れて逃げられるかもしれない」
唯の提案に対し、低い声の男が通話を代わった。
『無人機は出せない。今すぐその場を離脱しろ』
「司令! このままでは私もこの子も逃げられません!」
男の名は佐原邦昭。
唯が所属するAMF関東第三支部の司令だ。
そして司令が直々に通話に出る時は、大抵嫌なことを言われる。
『無人機の運用にいくらかかると思ってる。こんな負け戦に、高価な燃料と弾薬を使う訳にはいかん』
佐原はコストを重視する男だ。
唯に撤退の指示を出したのも、唯を心配したのではなく、アームズの修理費用を抑えるためだろう。
『ドルゲドスに発見された場合でも、式守影狼の全速力ならば逃げ切れる可能性がある』
式守影狼の特徴の一つは、その俊敏性。
アームズによって強化された膂力を振り絞れば、最高時速は60キロメートルにまで達する。
荷物を抱えた状態では難しいが。
「しかし、それでは子供が」
『捨て置け』
「…………っ」
佐原の言葉が、一瞬理解できなかった。
『子供を抱えたままではドルゲドスから逃げ切れない。お前単独で離脱しろ』
「アームズのために子供を見殺しにしろと?」
『毎年、械獣のせいで何人が死んでると思ってるんだ。一人くらい誤差だろう』
人命を軽視する佐原の態度に、唯は唖然とするしかない。
『いいから早く離脱しろ。ここで式守影狼を失う訳にはいかん』
「嫌です」
唯は静かに声を荒らげた。
「私が囮になってドルゲドスの注意を引きます。奴を引き離したらまた隠れて、この子を連れて離脱します」
『待て、勝手な行動は』
通信を強制終了。
女の子の肩を掴み、無理やり目線を合わせて言い聞かせる唯。
「いい? 私が戻ってくるまでここにいて。絶対外に出たらだめだからね」
緊迫した唯の声色に正気を取り戻した少女はこくこくと頷いた。
立ち上がった唯は、一度深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
自分の作戦が困難なのは百も承知。
それでも、女の子と唯が生きて帰るにはやるしかない。
覚悟を決めて雑居ビルの外に飛び出す。
曇天の下、開ける視界。
目の前の光景を見た唯は、人生最大の絶望を覚えた。
ビルの合間に広がる大空裂。その脇に佇む銀色の巨体。
10メートルを超える体躯を見間違うはずがない。
それが、いち、に、さん。
ドルゲドスが、3体に増えていた。
「は……?」
出鼻をくじかれるとかいうレベルじゃない。
意味が分からない。
3対のギラギラと発光する瞳が一斉に唯を見つめてくる。
「ひっ」
恐怖に竦む体に鞭打ち、唯は全力でドルゲドスたちの反対方向へ走る。
しかし、ドルゲドスの機動力は無慈悲だった。
筋骨隆々の四肢をしならせ、アスファルトの路面を踏み砕きながら猛追。
四足走行に最適化された滑らかなフォームは、圧倒的歩幅と瞬発力を持って時速80キロメートルもの速度を実現する。
式守影狼の全速力でも逃げ切れない。
たちまち唯に追いついたドルゲドスから、激走の勢いをふんだんに乗せた蹴りが放たれた。
唯の背中に訪れる衝撃。
トラックに撥ねられる人の気持ちが分かった。
分かりたくはなかったが。
錐揉み回転しながら地面を何度もバウンドする唯。
うつ伏せの姿勢でやっと停止した直後、喉の奥からせり上がる吐き気。
「ぐッ……がッッ…………ゲホッ、ゲホッッ……!!」
吐き捨てた胃液には赤い血が混じっていた。
次元障壁、残り20%。
械獣の追撃は止まらない。
振り返ったドルゲドスは両前足の拳を重ねて握ると、上半身をしならせながらハンマーの如く振り下ろす。
唯は腕に残った力を振り絞り、身を捻った。
直撃は避けたものの、飛び散ったアスファルトの破片が全身を叩く。
痛みを堪えながら体を起こそうとする唯だったが、すぐさま2体目のドルゲドスの突進蹴りが強襲する。
「ごあッッッ……!!!」
今度こそ、回避できなかった。
無理やり滞空させられた唯は、頭から街路樹に激突し、力なく地面に落下。
脳をシェイクされ朦朧とする意識の中、唯は視界の端に映る網膜プロジェクターを見た。
次元障壁、0%。
『コアユニットオーバーヒート』
式守影狼の背部装甲が自動で開き、バチバチと火花を散らす物体が外気に晒される。
放熱のため、コアユニットが強制的に排出されたのだ。
アームズの動力源であるコアユニット。
それがオーバーヒートしたということは、すなわち、アームズの機能停止および次元障壁の喪失を意味する。
青い装甲を支えていた膂力が失われ、鋼の重量がダイレクトにのしかかった。
コアユニットが無ければ、唯はアームズの自重を受け止めることすらできない。
拘束具と化した装甲が唯の体を地面に縫い付ける。
「う……ぐ…………」
口の中に広がる鉄錆を味わいながら、唯はうつ伏せのまま動きを止めた。