第37話 出立
深まる夜の、廃ビル内。
「嶺華さん、休まなくて大丈夫ですか?」
「ええ。むしろ今は、休んだ方が危険な気がしますの」
解熱剤が効いたのか、唯の告白が効いたのか。
嶺華の体調は、立ち上がれるほどにまで回復していた。
だが、予断を許さぬ状況には変わらない。
嶺華の体内に侵入した疑似ウイルス兵器は、今も彼女の体を蝕み続けている。
解熱剤による誤魔化しがいつまで続くのかは分からなかった。
「これからどうするつもりですの?」
「関東第三支部には戻れない。本当は別の支部に駆け込むつもりだったんだけど……」
「別の支部?」
「徒歩だと厳しい、かな」
嶺華を狙うデリートは、市民全員を人質にとったらしい。
このままでは、デリートと械獣による大量殺戮が起こる。
一方、嶺華の身柄を差し出すことで事態の解決を図らんとするAMF。
彼らは今頃、血眼になって二人を探しているだろう。
夜が明ければ捜索網が一気に広がるはずだ。
駆雷龍機を奪われた嶺華と、式守影狼を封じられた唯。
アームズが使えなければ、山一つ越える前に捕まってしまう。
かといって、身を隠し続けるだけでは嶺華の体が保たない。
「う、うーん…………困ったね」
「わたくしを守るとか大口叩いておいて、いきなりノープランですの!?」
「すみません……」
呆れたようなツッコミに、唯はうなだれるしかない。
「はぁ、仕方ありませんわね。ちょっと下がっていてくださいまし」
「?」
言われるがままに三歩離れると、嶺華は大きく息を吸い込んだ。
「来なさい、龍之逆鱗!」
嶺華が左手を力強くかざすと、心臓の位置に淡い光が灯る。
「うぅっ…………!!」
苦しそうな表情で歯を食いしばる嶺華。
唯が息を呑んで見守っていると、彼女の胸の前に小さな亀裂が生じた。
裂け目からインクが滲むように、どろりと湧き出す黒い液体。
タールのように粘性のある液体には、無数の結晶がころころと浮いている。
「ふっ……」
嶺華は迷わず左手を突っ込んだ。
手が汚れることも厭わず、ごそごそと液体の中を漁る。
やがて何かを掴み、引き抜いた。
「ぷはっ……!」
嶺華が短く息を吐くと、黒い結晶を含む液体はたちまち霧散。
小さな空裂はぴたりと閉じた。
「だ、大丈夫ですか!」
「ぜぇ……ぜぇ……このくらい、何でも、ないですわ」
息を荒らげる嶺華の手には、白い骨のような短剣が握られている。
「その剣は……?」
「マルル! ここから一番近いポータルはどこにありますの?」
唯の彼女は、いきなり剣に話しかけた。
「???」
もちろん、この部屋に唯以外の人間はいない。
返事など聞こえなかった。
しかし、嶺華はうんうんと頷くように首を振っている。
「あら、意外と近いですのね」
呆気にとられる唯の前で、嶺華は確かに誰かと会話しているようだ。
耳を澄ますが、やはり唯には何も聞こえない。
「唯さん。ここから北へ向かって1.7キロメートルほどの位置に『ポータル』があるそうですわ。そこまでわたくしを連れて行ってくださいまし」
「ぽーたる???」
嶺華の言葉の意味が分からず、首をかしげる唯。
「ああ、唯さんは『ダイレクトコア通信』も知らないのですわね」
「だいれくとこあ…………なんですかそれ?」
「コアユニット同士の通信手段ですの。メッセージは全て『デンゼルスペース』経由ですから、物理的にも電子的にも盗聴される心配がないんですのよ」
「は、はぁ…………????」
初耳単語のオンパレード。
唯には正直、嶺華の説明がさっぱり分からなかった。
でも、彼女を理解するためには、少しずつ勉強していく必要があるのだろう。
「詳しい説明は後ですわ。いつまでわたくしの体が保つか分かりませんし、今すぐ『ポータル』に向かいたいのですけれど」
嶺華の言う通り、動ける時間は限られている。
『ポータル』が何かは知らないが、この状況で嶺華が無意味な寄り道を提案するはずがない。
彼女が望むなら、唯は叶えるだけだ。
「……分かりました。嶺華さんを信じます」
「決断が早くて助かりますわ。急いで出発しましょう」
そう言うと、嶺華は覚束ない足取りのまま廃ビルの出口へと歩いていく。
「ちょっと待ってください。せめてなにか履く物を」
裸足のまま外へ飛び出そうとした嶺華を止め、玄関周りを物色する唯。
ダメ元で靴箱の戸を開けると、一足のスニーカーが見つかった。
履き潰されて埃を被っているものの、まだ原型は留めている。
ぽんぽん叩いて埃を払い、つま先を綺麗に揃え置く。
「どうぞお嬢様……って、微妙なお召し物でしょうか」
「ふふ、ありがとうですの」
嶺華は上品に腰を下ろすと、サイズの合わないスニーカーに足を通した。
靴下も履かせてあげたい所だが、唯のびしょびしょに汚れたやつを渡すのは憚られた。
無いものは仕方がない。
脱げてしまわないように、よれよれにほつれた靴紐をギュッと縛る。
「では唯さん、エスコートを頼みますわ」
「了解です!」
唯は彼女の手を取ると、暗闇の中へと踏み出した。
庭に佇む勤勉なガーデンライトに見守られ、誓いの廃墟を後にする。
◇◇◇◇◇◇
雑木林の奥へ進むと、傾斜のついた地面はいよいよ山道であった。
雨は止んだものの、ぬかるんだ土の上は歩きづらい。
少しでもバランスを崩せば、足を取られて転びかねなかった。
既にかなりの体力を消耗している唯と嶺華だったが、二人で肩を支え合うようにして悪路を進む。
付き合って初めてのデートがこんなサドンデス二人三脚登山というのは、いくらなんでも勘弁願いたい。
後日ちゃんとしたデートをセッティングしようと心に留める唯だった。
「はぁっ、はぁっ、こっちで合ってます?」
「ええ。この方向で大丈夫ですの」
どうやら嶺華の手に握られた短剣が道案内をしているらしい。
月が出ているとはいえ、2、3メートル先はもう真っ暗。
目印も何もない山道では、白い短剣の導きだけが頼りだ。
「どっちかと言えば嶺華さんにエスコートされてるような……」
「唯さんはわたくしの体を支えてくださるだけで十分ですわ」
松葉杖となった唯は、ふと嶺華が現れた時のことを思い出した。
「そうえいば、嶺華さんっていつも空裂を出入りしてましたよね。今はできないんですか?」
デリートから梓を守ってくれた時も、ジルガッタを倒した後も、嶺華は空裂を通って移動していた。
空裂の向こうがどんな道なのかは知らないが、急勾配の悪路を進むよりかは楽に歩けそうである。
「ええ、この『龍之逆鱗』があれば空裂を開けますわ」
「じゃあ最初から空裂で目的地に行けばよかったのでは?」
「唯さんがやって欲しいのであれば。まあ、途中でわたくしが力尽きるのが先ですけれど」
「やっぱだめ!!!」
唯は剣を構えようとした少女を慌てて止めた。
「冗談ですわ。『龍之逆鱗』はわたくしのインナーコア、生命力に直結していますの。残念ながら今は、この剣を取り出すのが精一杯ですわね」
「そういうもんなんですね…………」
コアユニットと文字通り一心同体になっている嶺華。
兵器として見れば理想的だが、人として日常生活を送る上では何かと不自由があるのかもしれない。
「(これからは、私が嶺華さんの負担を取り除いてあげないと)」
といっても、唯はコアユニットの扱いなど一塵も分からなかった。
コアユニットの原理や製法は、AMFの中でも最重要機密。
アームズがなぜ重機をも越えるパワーを生み出せるのか、身に纏っていた唯にも知らされていない。
嶺華の体を理解するには、まだまだ高い壁が立ちはだかっている。
「というわけで、わたくしたちは『ポータル』に行かなければなりませんの」
「その『ポータル』って何なんですか?」
とりあえず、知らないことを一つ一つ聞いてみる。
聞くは一時の恥、どんどん質問していこうの精神である。
「順を追って説明いたしますわ。まず空裂というのは……」
その時、唯の耳に聞き覚えのある音が飛び込んできた。
バタバタと規則的な騒音は、回転翼の羽音。
「まずいッ! 伏せて!!!」
「きゃっ」
嶺華を押し倒すようにして木陰へ飛び込む唯。
直後、頭上をAMFのヘリコプターが通り抜けた。
夜間装備を展開した機体は、可視光ではなく赤外線を用いた暗視装置で地上を舐め回しているのだろう。
針葉樹の根本に隠れ、湿った土に身を伏せる。
「っ…………!」
胃がぎゅっと締め付けられるような感覚に、意味がないと分かっていながらも息を止めてしまう。
唯の下敷きになった嶺華も指一本動かさず、気配を殺していた。
……………………。
木々と同化する数秒間。
ここで見つかったら終わりだ。
体の震えを押し留め、追跡者の通過を祈る。
……………。
幸いにも、ヘリコプターの進路は変わらなかった。
耳障りな音が徐々に遠ざかっていく。
唯たちの発見には至らなかったようだ。
「…………ぷはっ!」
完全に音が聞こえなくなった頃、唯はやっと呼吸を再開した。
少女の上から体を退けるや否や、全力謝罪。
「ごめんなさい嶺華さん! こんな汚い所に……」
嶺華に肩を貸しつつ、一緒に立ち上がる唯。
地面に埋まる勢いで伏せていたため、二人とも泥だらけだ。
「別に、今更気になりませんわ。迷彩みたいで丁度よいではありませんの」
「あー、ポジティブですね……」
苦笑いを浮かべた二人は、再びもたれ合いながら歩き出す。